2010年6月23日水曜日

「家族」の論理(2)セックスの目的は、生殖ではなく快楽だ

【要約】
  1. 愛はセックスによって維持される。セックスだけで愛が維持されるわけではないが、人類にとってセックスは極めて重要だ。それを示唆するものとして、人類のセックスは他の霊長類のそれと異なっている点がいくつかある。
  2. 相違点1。 人間のセックスは非常に長い時間を要する。人間のセックスは妊娠可能性が低く、エネルギーの無駄の側面があるにもかかわらず、長時間のセックスを行うのは、快楽を目的としているからではないか。男女が快楽を与え合うことが、愛を維持するインセンティブとなるのだ。
  3. ちなみに、女性のオーガズムは人間に特有だと考えられている。オーガズムの存在理由としては、女性を暫くの間虚脱状態とし、射精された精子を膣内に留めておくためとの説がある。別の仮説は、人間のお産は非常に難産であるため、その埋め合わせとしてオーガズムという最高の悦楽を得た、あるいはセックスのたびにお産の予行演習をしているというものだ。
  4. 相違点2。人類のセックスは通常夜に行われることが多い。これは、おそらく精子を膣内に留めおくために女性が仰臥しなくてはならないということと関係している。
  5. 相違点3。人類は、セックスの最中にボディタッチ=愛撫を非常に多用している。人間は、群れ=社会を友好的に保つという目的では「毛づくろい」を放棄したが、特別に緊密な相手とのコミュニケーション手段として「毛づくろい」から「愛撫」を生み出した。
  6. 人間に体毛がないのは、おそらく「愛撫」による快感をより強く感じ、より緊密な交流を行うためだったのではないか。また、体毛の喪失は性淘汰の側面もあっただろう。
  7. これらの相違点を踏まえると、人類のセックスは、本来の目的である生殖の側面を薄くし、より大きく長い快楽を味わえるように進化したと考えられる。
  8. なお、他の相違点として次のようなものがある。いろいろな体位があり、特に正常位が基本になっているという点。通常、群れの他の個体からは離れた(見えない)場所で行われるという点。男性のペニスと睾丸が非常に大きいという点など。これらは、より大きな快楽を得るためということで説明しうる。
  9. ところで、人間の平均的男性は、胸やお尻など女性の体の丸っこさに性的魅力を感じるが、これはなぜか。人間以外の生物では、丸っこさは妊娠や授乳、生殖の不能を示すサインであり性的魅力にはなりえない。人間の場合、妊娠中や授乳中に男性が離れてしまうことは大きなリスクであり、これを回避することが必要だった。丸っこさが性的魅力になったのは性の美意識上の大革命だったが、これは人類はセックスを「愛」の維持に 使っているということの傍証ではないか。
  10. 「愛」を維持する仕組みとして、セックスによる快楽を極限まで高めた結果、浮気するインセンティブも大きくなってしまったのは皮肉である。
  11. 男性にとっては、生まれてきた子供が紛れもなく自分の子供であると確信する必要があったが、そのための仕組みとして、個性的な顔が生まれたのかもしれない。それくらい、浮気への警戒感は大きかったのではないだろうか。

前回、私は、「人類は、男女双方が互いの約束を信頼するためのコストを低減させるために愛という感情が生まれた」と主張した。しかし、その「愛」は具体的にはどのように維持されうるのか、明確には説明しなかった。

さて、「愛」はどうやって維持されうるか。答えは簡単で、セックスである。このように書くと、一部からは反撥があるだろう。例えば、このことから性的不能の夫婦に愛は維持できないというような主張が演繹されうるが、そうとは言い切れないのではないか、というような。

私も、性的不能の夫婦間にも愛は維持され得ると思っている。しかし、人類全体の平均で考えると、セックスのないつがいは長期的には安定的でないということが言えるだろう。ただし、セックスをすることは直接的に愛に繋がるわけではないので、私は、セックスをすれば愛が維持できるというような単純な命題を主張したいのではない。以前に述べた通り、男女が互いを愛するということは、担保のない状態で互いの約束――他の人とセックスしないという約束、資源を提供するという約束――を信じるということであるから、約束を信じるための種々の条件を満たすことが必要であり、「愛」の表現としてのセックスはその結果としてついてくるに過ぎない。

しかしながら、セックスは人類にとってただのオマケではない。「愛」という、ある意味で抽象的な感情を長期的に維持していくための行動様式として、セックスは極めて重要である。その点について、人間のセックスが他の霊長類のそれと比べて著しく異なっている点を踏まえつつ考えてみたい。

まず、人間のセックスは非常に長い時間を要する。人間以外の動物のセックスにおいては、そもそも交接の時間は短ければ短いほどよい。なぜなら、交接の最中に外的に襲われる可能性もあるし、乱交的な動物の場合であれば、1回あたりの時間が短い方が、多くの相手とセックスできる。チンパンジーにおいても、一回のセックスは15~20秒ほどで済んでしまう。ボノボの場合はそもそも乱交的であるから同じくらい交尾時間は短い。

人間は、どんなに短いセックスであっても、最低5分程度はかかるだろう(ギネス記録的な意味ではもっと短くできるだろうが)。しかも、セックスの深い快楽を味わうためにはかなり長い時間が必要で、1時間程度かけて互いの快楽を深めていく必要があると言われている。

どうして、人間はセックスに長い時間を要するのであろうか。そもそも人間の場合は、セックスが排卵日に当たる可能性も小さく、受精を目的としたセックスではない。だから、人間のセックスは元来の目的である受精という観点からはほとんどエネルギーの無駄と言える。その無駄な行為にこれだけ多大なエネルギーを要する理由として考えられるのは、人間の場合、セックスすることよりも、セックスにおいて味わう快楽を目的としており、その快楽をできるだけ大量に味わうために長いセックスをしているのではないかということだ。そして、男女が互いに快楽を与え合うことが「愛」を維持するインセンティブとして働いたのではないかと考えられる。

実は、他の動物がセックスに感じる快楽よりも、人間はより大きな快楽をセックスから感じていると考えられている。例えば、人間の女性にはオーガズムという強烈な快楽の感覚があるが、他の霊長類には、オーガズムはないと言われている。そして、おそらく他の哺乳類一般において、メスのオーガズムは存在していないだろうと思われる。他の動物でオーガズムが観察されていないことはもちろんのこと、自然の中でオーガズムのような虚脱状態になることは大変な危険を伴うので、おそらくオーガズムなどというものは、人間特有のものであろう。

オーガズムがなんのために進化したのかということは、まだ解明されていない問題であるが、一つの仮説としてもっともらしいのは、精子をより膣内に留めておくためという説だ。

人間以外の哺乳類はほとんど4足歩行であり、4足歩行の場合、メスの膣は地面に平行になっているので、オスが射精した精子は簡単に膣内に留まることが出来る。しかし人間の場合、二足歩行のために膣が地面とほぼ垂直になっている。そのため、射精の後、女性がすぐに直立歩行を行うと、せっかく射精された精子が膣外に漏れ出てしまう。これは受精の観点から是非とも避けなくてはならない。その一つの解決策が、セックス後は暫く女性に横になってもらうというものであり、そのために虚脱状態としてのオーガズムが生まれたのではないかということだ。

もう一つは、人間の出産が難産であることに関係しているとする考え方だ。既に述べたとおり人間は直立歩行を実現するため、骨盤がお椀状に変化し、結果として産道が極めて狭隘になった。そのために人間の女性は大変な難産を経験することになったのだ。具体的には、普段は強固な骨盤がお産の時だけ歪んでしまうほどの変化を受ける。骨盤は3種類の骨の組み合わせ出来ているが、お産の最中にはそれらの結びつきが緩む。イメージとしては、きつく閉まったネジを緩めて、部品ごとにバラすことにより、大きな産道を確保しているようなものだ。そのため、女性の下半身は分娩の最中に非常に柔軟になっている。さらに、人間のお産にはかなりの激痛を伴なう。赤ちゃんの大きな頭が狭い産道を通らなくてはならないし、普段は縮約している膣口を出産の時には大きく拡張しなくてはならない。この痛みをどうして耐えることができるのか。
実は、出産の最中、女性の体にはβ-エンドルフィンと呼ばれる鎮痛作用の強い脳内麻薬が大量に放出されている。これが本来激痛であるはずの分娩に女性が耐えられる理由である。この脳内麻薬のおかげで、陣痛時には非常な激痛に耐える必要があるにもかかわらず、自然分娩においては、分娩時は激痛どころか痛みはほとんど感じず、多幸感すら感じる人もいるという。それは、オーガズムすら超えた最高の悦楽だということだ。

そして、β-エンドルフィンという物質は、オーガズムを生み出している物質でもある。そして、セックスの最中、女性の下半身は出産の時と同じように柔軟になることが知られている。出産とオーガズムは類似しているのである。ここからは論理の飛躍だけれど、とすれば、女性はオーガズムのたびに出産を疑似体験しているのかもしれない。耐え難いお産を経験しなくてはいけないということの引換にオーガズムという悦楽をも獲得するに至ったのか、あるいは、ある意味でお産の「予行演習」を行うためにオーガズムがあるということなのではないか。いずれにせよ、オーガズムとお産には深い関係があるのではないかと予見されるが、これも二足歩行による対処とつながっているのではないかということが、私には重要に思われる。

さて、オーガズムと関連して、人類のセックスが他の霊長類と異なる点は、人類のセックスは通常夜に行われることが多いということである。いつごろからこのような傾向が生じたのわからないが、おそらく精子を膣内に留めおくために女性が仰臥しなくてはならないということと関係しているのだろう。なぜなら、仰臥の姿勢を長時間とるためには睡眠中が最も効率がよい。昼間は、食料の採集活動などをしなくてはならないため、長い時間横になっていることは自然界においては効率的ではない。もちろん、現代においても効率的でないだろう。だから、人類のセックスは、就寝時に行われるという特徴を獲得するに至ったのだと考えられる。エロスが夜的なものであるのは、人類が二足歩行を始めたことを淵源とすると言えるのだ。

なお、精子を膣内に留めることが目的であれば、女性をしばらくの間仰臥させるなどという迂遠な方法を採らなくても、例えばスペルマの粘性を上げるというような対処も可能だったのではないだろうか。これは、人類以外の二足歩行的な哺乳類、例えばカンガルーなどのスペルマも調べてみなければ本当にこのような進化がありえたのかはわからないが、私はこのような対処法は、人間には不向きだったのではないかと思われる。なぜなら、そもそもセックスの快楽は男女間の精神的結びつきを強化するために発達したものであるため、セックス自体があっさりしていてはその機能を十分に果たせない。より快楽を深め、より長時間に、より忘我的になることこそ、人類のセックスの進化の方向性だったのではないだろうか。だから、私にとっては、スペルマの粘性を上げるなどという手軽な解決策よりも、快楽で虚脱状態にし、ある程度仰臥の姿勢を保つようにするという解決策の方が、より「人類的」であるような気がするのである。

人類のセックスが他の霊長類のそれと異なっている点はまだある。人類は、セックスの最中にボディタッチ=愛撫を非常に多用している。交接の前後、このように互いの体を愛撫する生物は他にはいない。なぜ愛撫が人類のセックスにおいてこんなに重要なのか、その理由は未だ解明されていないが、一つの考え方としては、以前説明したサルにおける「毛づくろい」が発展したものが人類の「愛撫」ではないかという考え方だ。

少しおさらいしておこう。サルは群れを友好的な状態に保つために、互酬的な行為として「毛づくろい」をしている。しかし、群れのサイズが大きくなると、時間のかかる「毛づくろい」は効率的でないため群れの個体全てと互酬的な関係を築くことができないし、そもそもそんなに毛の手入れが必要なわけでもない。よって、「毛づくろい」を群れの個体間関係の良好化に使うのには限界がある。人間の場合は、「毛づくろい」ではなく言語という効果的かつ簡便な手段を使って、社会を友好に保つという方法を獲得したことが、巨大な社会を構築できた一因だったのではないかということだった。

では、人間は「毛づくろい」を完全に忘れてしまったのだろうか? 私はそうではないと思う。サル時代の「毛づくろい」は、特別親密な人とのコミュニケーションの手段として発達したのではないだろうか。サル(apes)の場合、チンパンジーにしろゴリラにしろボノボにしろ、特別に仲良くする個体があるわけではない。なぜなら、彼らの婚姻関係は常に流動的であるからだ。よって、彼らは特別に親密な個体とのコミュニケーションを発達させる必要はなかった。一方で、人間の場合は、子育てを男女が共同して行わなくてはならないという制約があったため、婚姻制の”発明”以前においても、つがいの男女間には特別な精神的紐帯が必要であり、それが「愛」という非合理的な感情であったということが私の仮説だった。であれば、愛する者同士の特別なコミュニケーション手段が発達してもおかしくないのではないか。そしてそれは、サル時代に人が多用していたに違いない、「毛づくろい」をさらに洗練させたものではなかっただろうか。要は、「毛づくろい」は一般的な友好化のための手段ではなく、愛する者同士のための特別な手段になったのである。

「毛づくろい」なのにも関わらず、人間にはほとんど毛がないではないか、との反論があるだろう。人間がなぜ体毛を失ったのかということも、未だ解明されていない課題であり、水性進化説、放熱対策説などいろいろな説が主張されている。それらのどれにも長所と短所があるが、私が最も気に入っているのが、体毛の喪失は、「毛づくろい」を特別化するための進化だったのではないかという考え方だ。つまり、「毛づくろい」である以上、コミュニケーションは自分の皮膚ではない「毛」が中心になる。より親密な交流を行うには、毛ではなく、皮膚を直接撫でたほうが効果的だ。だから、人間は愛撫するために体毛を失ったのではないかと考えられるのだ。

この考え方を裏付けるのは、体毛における男女差の存在である。なんらかの外部環境への適応として体毛の喪失が進化したとすれば、大きな男女差は生まれないはずだ。しかし実際は、明らかに女性の方が体毛が薄い。これは、体毛の喪失は外部環境の適応ではなく、性淘汰によって獲得された可能性を示唆している。性淘汰は、進化を促す上での淘汰圧として自然淘汰と同様に重要な概念であり、平たい言葉で言えば、「そっちの方がモテる」ということから生じる淘汰のことである。つまり、体毛の薄い女性の方がモテたから、人類の体毛は喪失したのではないか。

なぜ体毛の薄い女性がモテたのかというと、進化した「毛づくろい」である「愛撫」によって、より濃密なコミュニケーションを取ることができ、愛情が持続的だったからかもしれない。あるいは、愛撫によりより深い快楽、信頼、慰安を感じることができた女性は、安定的に子孫を産み育てることができ、適応度が高かったからかもしれない。いずれにせよ、「愛撫」によるコミュニケーションがより成功した個体が生き残ったということだ。ただ、不思議なことに、男性は女性よりも愛撫への感受性が鈍くできている。なぜ、男性は愛撫する側で女性は愛撫される側なのかということは、さらに研究すべき課題のように思われる。一つの考え方としては、出産は女性にとって非常に大変なイベントであるため、男性に対してより大きな信頼や愛情が必要だったのではないかということだが、どうだろうか。

さて、本論において重要な点としては、「愛撫」はセックスにより大きな快楽を与えてくれたということだ。人類以外の動物も、セックスから快楽を得ているのかもしれないが、それはあくまでも挿入/非挿入という単純なものだろう。人間の場合は、それに加えて体や性器への愛撫は、セックスにおける快楽の要素として非常に重要だ。最近流行りのスローセックスの理論に従えば、愛撫こそセックスの本当の快楽であるとも言えるそうである。

これらのことから何が言えるだろうか。私の考えでは、人類のセックスは、いかに快楽を大きく、長時間感じられるようにするかということを中心軸として進化したのではないかということだ。もっというと、本来の目的であるはずの生殖という側面を弱め、快楽自体を自己目的化するような方向に進化したのではないだろうか。そしてそのように進化した理由は、「愛」という非合理的感情を長期間に亘って継続させるために、セックスの非常な快楽というものを必要としたからであると考えられる。

なお、上で述べた以外にも、人類のセックスが他の霊長類のそれと異なる点はある。これまでの考察で、論点はかなり明確になっていると思うので、以下は簡単に触れることにする。まずは、いろいろな体位があり、特に正常位が基本になっているという点。次に、通常、群れの他の個体からは離れた(見えない)場所で行われるという点。そして、男性のペニスと睾丸が非常に大きいという点などである。これらの理由もまだ完全に解明されているわけではないが、快楽の自己目的化としてセックスを捉える見方からすると、理由は明快であろう。

多様な体位は、多様な快感を得るためだろうし、正常位が基本なのは、愛撫をしながらセックスするため、あるいは対面でその反応を確認しながらセックスを行うためだっただろう。他の個体から見えないところでセックスするのは、「群れ」の論理で動く生物であるところの人間、すなわち社会的な生物としての人間ではなく、あくまで「家族」=男女間という極めて個人・個別的な関係に没入するために必要な措置であっただろう。そして、ペニスや睾丸が大きいのは、より大きな快楽を継続的に感じるためだっただろう。

なお、睾丸の大きさは乱交性と関連しているという事実はあるが、人類の祖先は乱交性であったが、睾丸の大きさはヒトがヒトになってからは、同じ相手と繰り返しセックスするためにこそ役立ったのではないかと思われる。

さて、ここまでの考察で、人類のセックスは、生物としては例外的なほど快楽に特化しているということと、セックスこそ愛を維持するための紐帯であったということはかなり明白になったのではないかと思われるが、さらに補足としてある現象を取り上げたい。それは、人間の平均的男性は女性の体の丸っこさに性的魅力を感じるということである。

丸っこさが魅力というとちょっと奇異な言い方だが、大きく膨らんだ胸、突き出た尻などに男性は魅力を感じるのだということだ。そんなの当たり前じゃないか、と言うなかれ。これが自然界(他の哺乳類)ではかなり異端的な女性の好みなのだ。なぜなら、自然界では、人気のあるメスの特徴としては、角張っていて丸っこくない個体だからである。というのも、丸っこさは妊娠あるいは授乳中のサインであり、このような個体は生殖の対象として価値がほとんどない。妊娠中のメスと交尾しても得るところはないし、授乳中も(排卵が止まっているので)同様である。だから、霊長類も含む人間以外の哺乳類では、メスは丸っこいと人気がないのだ。

妊娠中や授乳中のメスの価値が低いというのは、人間でも当てはまる論理なはずなのに、なぜ人間の男性は丸っこい女性を好むのだろうか。ここに、人類の女性が成し遂げた、革命的な美意識の変化があると私は考える。

愛がセックスによって維持されるものだとすると、女性にとって脅威なのは、セックスの価値が著しく低下する期間である妊娠中や授乳中に男性が自分への興味をなくし、新しい女に手を出してしまうことである。こうなると、生まれてくる子供や現在抱えている赤ん坊を、男性の援助なく女で一つで育てなくてはならない。これは女性にとっては大変なリスクだ。そこで、妊娠中や授乳中も男性の自分への興味が持続するようにしなくてはならない。だが、授乳中は自然に胸が膨らむし、妊娠中は自然にお腹が丸くなる。これを隠すことはできない。どうするか。

そこで、人類の女性は、男性の美意識を根本から作り替えることに成功した。自然界では本来妊娠や授乳を表すための「丸っこい」というサインを、性的魅力(セックスしたくなる)という全く逆の価値観と結びつけた。これは、本来、男性側にはネガティブなサインだったはずのものである。想像するに、胸の大きな女性を見ると、「(妊娠中や授乳中だから)性の対象にはなりえない女だ」と考えたはずだ。それが、どういう進化的過程を辿ったのか不明だが、ネガティブだった特徴が、ポジティブな特徴になった。だから、人間の男性は胸やおしりが好きなのだ。

その結果、どういうことが起こったか。人間の男は、妊娠中や授乳中も妻に欲情することができたのである。妊娠中や授乳中は、本来は女性としてはセックスしたくない期間のはずである。流産の危険性があったり、篤い保護が必要な赤ん坊の世話が疎かになったりする。それなのに男性がセックスしたがるのは、そのための意味があるはずで、それこそが、セックスを「愛」の維持に使っているという傍証なのではないだろうか。

ちなみに、大きな胸や尻は、女性の生殖器が股の間という見えにくいところにあるため、膣が腫れ上がるといったような発情のサインを現示させにくくなり、その代替として胸や尻が膨れたのだ、という仮説もあるが、私にとってこの仮説は全く説得的でない。なぜなら、そもそも人類の性戦略の基本は、女性が発情期を隠したことにあると考えているので、発情のサインを示す必要性など全くないし、自然界ではむしろ発情と対極にある胸や尻の丸っこさというものを、なぜ発情のサインとして使ったのかという説明ができないからである。

さらに、蛇足だが、この性の美意識の革命的な変更を受けて、人間の芸術には、基本的に「丸っこいものが美しい」という感覚が導入されたのだと思われる。もしこの性の美意識の革命がなければ、角張っているものが美しいという、今とは全く別の芸術体系が生まれていたのかもしれない。

さて、論証に思わず多言を要してしまったが、これまでの議論をまとめると、私の主張は次の通りだ。
人間の男女は「愛」という非合理的感情を長期間に亘って維持する必要があった。
そして、そのためにセックスを本来の生殖という目的ではなく、快楽を与えてくれる仕組みとして進化させた。
そのため、人間は、動物としては異例ともいえる強力な快楽を与えてくれるセックスを行うことになった。
結果として、人間は男女がともに快楽を与え合うことにより「愛」を強化するという仕組みを確立することができた。

読者諸君は、「それは大変結構だ」と思うかもしれない。しかし、これが落とし穴なのである。セックスによる快楽を極限まで高めた結果、なんと、人間には浮気するインセンティブも大きくなってしまったのだ。ここまでセックスによる快楽が大きくなければ、特に生殖上有利なわけでもないその場限りの情事が横行することはなかったのではないだろうか。

本来は、継続的なつがい間の愛を強化・継続させることこそ快楽的セックスの存在意義だったはずなのに、それが浮気のインセンティブを高めることになるとは、進化の皮肉である。もちろん、浮気のインセンティブはセックスの快楽だけではない。浮気を防止する仕組みとしての嫉妬や婚姻制については後に述べるが、この論考の最後に、浮気という可能性が潜在的にあったことで進化した別の事象について付け加えよう。

さて、男性にとってつがい関係の最大のリスクは、自分の子供だと思って育てていた子供が、実は他人の子供だった、というものである。だから、つがいの女性からうまれたその子どもが、まぎれもなく自分の子供だと確信できるような仕組みを発達させる必要があった。そのために、例えば嫉妬であったり、婚姻制というような仕組みが生まれたのだ。これらについては後に説明するが、人間が発達させたのはこれだけではないだろう。おそらく、顔の多様性も、このために生まれたのではないだろうか。

人間の顔は、大変多様性に富んでいる。もちろん、動物の顔が均一だ、ということではない。社会性のある動物は個体レベルで識別することが必要だから、ある程度顔や体の個性がはっきりしている。だけど、人間の場合は(私が人間だからそう感じるだけ、という可能性もあるが)動物とはまた違ったレベルで多様な顔を持っている。なぜだろうか。もちろん、個体レベルでの識別が必須だったから、というのも有力な理由の一つだ。しかし、それと同じくらい重要な理由として、女性から生まれた子供が本当に自分の子供だと確信するための印として顔の特徴があるのではないだろうかということが考えられる。

生まれてきた子どもが自分に似ている、ということは、その子が本当に自分の子であることを直接的に証明するものだ。もちろん、似ていなかったからといって、血縁が否定されるわけではない。似ていなかったからといって、世話をするのを辞めるわけではない。しかし、自分により似ている子供には安心してより大きな投資をすることができる。実際、人間は自分に顔が似ている人ほどより簡単に信用するという研究結果がある。信用と血縁は相関関係にあるのだ。だから、個性的な男性から生まれた個性的な顔立ちの子供は、平均的な顔立ちの子供よりもより大きな保護と投資を受けただろう。その結果、人間の顔立ちはどんどん個性化する方に進化していたのではないか。

もちろんこれは、単なる仮説に過ぎない。だが、男性が持つ女性の浮気への警戒という感覚は、人類の顔を多様化させるくらい強烈だっただろうというのが、私の考えである。

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