2010年12月26日日曜日

【善と悪】道徳が直観に過ぎないことを示す2つの事例

道徳とは直観に過ぎない。我々日本人は、このように言われてもあまり違和感がないが、こういう見方は、西洋哲学の歴史からは異端的である。

西洋においては、道徳は神が与えたものであるという考え方がされてきた。だから、無神論者であると宣言することは、あたかも不道徳であることと同じように見なされてきた。最近のヨーロッパではそういった見方も少なくなってきたようだが、米国においては現在でも依然として無神論者であると宣言することは危険である。

伝統的なキリスト教徒にとって、道徳は信仰から生まれるものだった。地獄を信じなければ、悪事をしない理由はどこにもないはずだ、というわけだ。そして、キリスト教徒でなくても、道徳は人が造りあげた文化的所産であるという漠然とした思い込みがある人は多い。もし、道徳が生まれつきのものであれば、我々は学校で道徳の授業を教える必要はないのではないか? それに、違う社会には違う道徳が存在している。豚を食べることが道徳的な罪である社会もあれば、目上の人にあからさまに反論することが道徳的に許されない社会もある。そういう事例を見る限り、道徳が生来のものであるとは思えないだろう。

しかし我々は地獄や煉獄を信じていなくても、悪をなさない理由を十分に持っているし、確かに道徳規則の細かい点は文化的所産であって教育に依らなければならないけれども、その基本的な原理は生まれつきのものであると、現在では考えられている。つまり、道徳とは人間生来の機構に根ざすものであり、その意味でフライパンやデリバティブ取引や戦車と同じような人工物ではないのだ。

さて、道徳的直観という言葉を言い換えると、道徳的な「本能」とでもなるであろう。我々は、生来道徳的な生物であるということになる。本当だろうか? ここで、道徳的直観の存在を示す例を2つ提示したい。
【事例1】コントロールが効かなくなった暴走列車が線路上を走っている。このまま走ると、電車に気づいていない線路先にいるハイカー5人が死んでし まう。一方、その5人の前に線路の分岐があり、分岐した線路の先にはハイカーが1人歩いている。そのハイカーも暴走電車に気づいておらず、もし電車が分岐先に進行を変えると、このハイカーも確実に死んでしまう。あなたは、ちょうど分岐器の所にいて、電車の進行線路を変えることができる。さて、あなたは電車の進路を変えるべきだろうか。

【事例2】あなたは外科医である。今、電車事故で5人の重傷者が運び込まれた。5人は心臓や肝臓など、それぞれ違う臓器を一つずつ致命的に損傷している。 しかし、その時血液検査に来ていた5人とは無関係な男の臓器を5人に移植すれば、その男は死んでしまうが、5人を助けられることが分かった。あなたは外科医として、1人を犠牲にして5人を助けるべきかどうか。
これは倫理学の講義でよく出てくる事例なので、知っている人も多いだろう(ちなみに、この2つの事例はイギリスの倫理学者フィリッパ・フット(1920-2010)の考案によるもので、特に【事例1】は「トロッコ問題」として様々な角度から研究されている。)。多くの人の普通の反応は、【事例1】では「電車の進路を変えるべきであるとまでは言えないが、たとえ変えたとしても許されるし、場合によっては変えた方がよい」というもの。【事例2】ではは、「1人を犠牲にすることは絶対に許されない」である。どうしてこのような違いが生まれるのだろうか?

そして興味深いことに、この事例については、文化や宗教の違う様々な地域で調べてみても人々はほとんど同様の反応をとることが分かっている。さらに、仮に道徳が教育の結果であれば、この2つの判断が異なる理由を多くの人が答えられるはずだが、なぜ【事例1】と【事例2】で異なる道徳的判断になるのか、その理由を明確に答えられる人は少ない。しかも、その理由は明確ではないにもかかわらず、その判断は瞬間的かつ強力になされる。これはなぜだろうか?

それに対する一つの答えは、この道徳的判断が本能的に下されているからだ、というものだ。もちろん、これは一つの仮説であって、道徳的な本能が存在することの「証明」にはならない。道徳的本能が存在することを明確に証明するためには、道徳的な情報を一切遮断した状態で一人の人間を育て、結果としてその人が道徳的な判断をなしうるかを調べる必要があるが、これは人権の観点から実現困難な研究である。よって、道徳を生み出す遺伝子でも発見されない限りは道徳が生得的であるかは証明できないだろうが、進化心理学においては、道徳は人類が進化的に身につけたものであるということで研究者の意見は一致している。

さて、ではこの二つの事例において、どのような道徳的直観が働いているのだろうか。これまでの研究では、人間には次のような生得的な直観があると考えられている。
【直観1】より大きな幸福をもたらすための、予見しうる相対的に小さな副作用は許される。
【直観2】仮に、より大きな幸福をもたらすためであれ、信念や欲望を持つ存在(人間や動物)を単なる「手段」として使うことは許されない
二つの事例は、おおざっぱに言えば「1人を犠牲にして5人を助けることはよいことか」という問題であるが、二つとも【直観1】を満たす一方で、【事例2】では5人を助けることは【直観2】に違反するから、「1人を犠牲にすることは絶対に許されない」のだ。

ただし、この二つの事例において、どういう倫理的原理で違った判断がなされるのかという研究が目下進行中であり、あくまで上述の説明は仮説の一つに過ぎないことも注意する必要がある(ここでは、ハーバード大学教授のマーク・ハウザー(1959-)の仮説に準拠して説明した)。

ちなみに、【直観2】はカントが同様の道徳律を主張している。すなわち、「決して自分の目的を達成するための単なる手段として人格を用いてはならない」というものだ(カントの言う「人格」とは、「理性的存在」と同じ意味である)。カントがこのように考えた理由は「理性」を根本原理としたからなのだが、その点においてはカントは間違っていた。【直観2】は「理性」を持たない動物にもある程度適用されるし、それだけでなく、「信念や欲望を持つ存在」と考えられている神や自然物にも適用されうるのだ。

2010年12月25日土曜日

【善と悪】善とは何かという伝統的な問題

善(good)とは何だろうか? どういう行動が善と呼びうるだろうか? 倫理的とはどういうことだろうか? こういうことを考えるのは、倫理学の内でも、特に「メタ倫理学」と呼ばれる。だいたい近代以前の倫理学というのは、そうは呼ばれていなかったけれどもメタ倫理学的であり、どういう行動が善であるかということの考察をしていた。

もちろん、西洋においてキリスト教が支配的な力を持ってくる中世以降の数百年は、善は神の意図にかなう行為として規定されたので、「善とは何か?」という答えは簡単だった。なぜなら、教会が神の代理人を任じており、神が人間に何を望むかを教会が決めていたからである。しかし、教会はどのように神の意図を読んだのであろうか? もちろん、民衆支配のためにご都合主義的な善悪を持ち出してきたことも多々あった。しかし、そういうご都合主義的なやり方だけでは教会という巨大なシステムは維持できなかった。端的に言えば教会は「理論武装」を必要としたのであり、それが「神学」だった。

近代西洋哲学は、神学との対決で生まれた、といっても間違いではないであろう。といっても、近代西洋哲学者が無神論者であったというわけではないし、哲学者と神学者の境界線は事実上なかった。そして、スピノザ(1632-1677)のような例外もあるが、むしろ、彼らは積極的に自分たちは無神論者ではないということを主張している。 無神論的な主張がおおっぴらに公表されるようになったのは、18世紀啓蒙思想からである。

近代西洋哲学が神学の影響を強く受けていると私が感じるのは、西洋近代思想が原理主義的なものが多い、ということである。

例えば、ここでカント(1724-1804)の正義論を簡単に考察しよう。カントの正義論は倫理学でいう「義務論(deontology)」に分類される。義務論というのは、おおざっぱに言えば「人間には道徳的に振る舞う義務があり、良心に従って行動しなくてはならない」ということである。カントのみならず、近代以前の哲学においては、倫理学の中心は義務論であった。ソクラテスの思想も義務論と見なせるであろう。しかし、義務論には一つの弱点がある。「良心はどういう原理によって、従うべき義務を導出するか」が説明できないのだ。つまり、義務論は正義や善悪という茫漠としたものを、良心という茫漠としたものに置き換えて説明しているに過ぎない。

そこでカントが考え出したのが、有名な「定言命法(categorical imperative)」というものである。定言命法とは、「あなたの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」というもので、もっと簡単な言葉に置き換えると、「みんなが同じように行動しても困らないような行動ならよい」ということである。例えば、みんなが気にくわない者を殺してしまうと、とんでもない殺し合いの世の中になってしまう。だから気にくわないというだけで殺すのはよくない、ということになる。

定言命法の批判はたくさんあるのだが、ここで紹介することはあまり意味がない。ここで私が言いたいのは、「定言命法」のような単純な原理で道徳の(全部とはいわないまでも多くが)説明されうると考えるのは、あまりに素朴過ぎるのではないかということである。しかし、こういう素朴な考えをカントならずとも西洋の哲学者の多くが犯しているように思う。私は、それは唯一神という単一の「原理」から全てを導出する神学の影響が大きいのではないかと思っているのだが、それも素朴過ぎる考えだろうか?

単一の原理から善を導出しようとした哲学者の代表は、ジェレミー・ベンサム(1748-1832) であろう。ベンサムは功利主義という考え方で正義を論じた。功利主義とは、おおざっぱにいうと、「幸福や快楽の総量を増大させるものが善だ」というものである。特にこれが政治哲学に応用される場合は、「最大多数の最大幸福の原理(the greatest happiness for the greatest number)」と呼ばれる原理となる。つまり、社会全体の「快」を最も増進するのが正しい(good)政策なのだ、ということになる。

功利主義も大変批判の多い考え方で、例として一つだけ紹介すると、一人を犠牲にして100人の快が大きく増すのであれば、一人を殺すことが善になってしまうが、それは善であるようには思えない、というものだ(ただし、ベンサム自身はそれは善とは言えないというロジックを用意している)。一方、私が感じるのは、やはりそのような単一の原理で道徳の体系を導出するのは無理があるのではないか、ということなのである。

とはいえ、ここで義務論や功利主義といった先人の成果を論うことは本旨ではない。そして、これから後の議論において、それぞれの考え方は、進化学に基づく理論の別の側面を説明したものである、という形で位置づけていく予定である。

最後に紹介するのは、イギリスの哲学者G.E.ムーア(1873-1958)が提唱した直観主義(intuitionism)である。直観主義とは、何かが善であるという倫理的判断は、実は直観的判断にすぎないとする考え方である。つまり、何かが善であるというのは、何らかの原理から導出されるわけではなく、私たちがそう考えるからそうなのであり、それ以上の説明はできない、ということである。例えば、赤いものが赤く見えるのがどうしてか? ということを問うのは無益だろう。それが赤く見えるからだ、という答え以上のものはない。それと同様に、倫理的な判断も我々の「直観」に基づくものであると考えるのが直観主義である。

しかし、直観主義は義務論と同様に、倫理的判断という茫漠としたものを、直観という茫漠としたもので説明しようとするものではないだろうか。つまり、「良心」を「直観」と言い換えただけで、ある意味義務論に先祖返りしている部分がある。特に、なぜ我々はそのように直観するのかというメカニズムを解明しなければ、人々の間で食い違う倫理的判断を調停することはできないので、実際的な思想としての価値が低い。そういうこともあって、直観主義はムーアの後を継ぐ者もおらず、すぐ廃れてしまった。

しかし、個人的に最も共感を覚えるのがこの直観主義である。そして、直観主義を体系化するという試みはまだ十分になされていないけれども、倫理学は一般的に、その判断の妥当性の吟味には直観主義が使われている。例えば、先ほど功利主義の批判として紹介した「一人を犠牲にして100人の快を増進することは善であるようには思えない」というのもそうである。「思えない」というのは、どういう原理による判断なのだろうか? 我々の多くは、これに対して「そう思うから、そう思う」以上の説明ができない。

つまり、我々の倫理的判断はほぼ直観的になされているのだ。そういう立場で考えると、冒頭の問い「善とは何か?」ということへの答えは、「善だと思われることが善だ」ということになる。しかし、これは単なるトートロジー(同語反復)のように思える。これで、何が説明できたのだろうか? 何も説明できていないのではないか。多くの哲学者はこのように、直観主義は考究しても生産的な成果を生み出さないように感じたのであろうが、私は、ここが現在の倫理学の出発点になると思っている。

つまり、倫理学と進化生物学が出会うところが、この点なのである。


【参考文献】
私自身通読したことはないが、ムーアの主著『プリンキピア・エチカ(倫理学原理)』は哲学の古典として重要である。決して読みやすい本ではなく、倫理学について勉強する人以外は読む必要のない本だが、もし英語が読めれば、ここで公開されているので一度覗いてみるのはよいだろう(それにしても、公開されている本の邦訳が6000円以上するのはどうしてだろうか)。

2010年12月22日水曜日

【善と悪】これから、進化と倫理について述べたい

善と悪は、人間を苦しめるしつこい「規制」の一つである。

善悪はアプリオリ(先験的)に決まっているものではない。善悪は、人の作り出したものである。その意味では、フライパンやデリバティブ取引や戦車と同じである。誰しも、人間という存在はこれらの被造物に優越すると思う。しかし、善悪の場合は、人間存在自体よりもこれが重要だ、と思う時がある。善悪のために、人は自ら死を選ぶことすらある。

ソクラテスは自ら毒杯をあおった。法に従うことが彼にとって善だったからだ。なぜ、善と悪、言い換えれば「正義」は我々を強く「規制」するのだろうか?  善悪という規制は、交通法規や金融商品取引法といった規制と何が違うのだろうか? そして、そもそも善や悪とは何なのか?

これらの疑問に対して、あなたは簡単に答えが出せると思うかも知れない。しかし、どのような行動が善であると呼びうるかは、西洋哲学が2500年以上考えてきた問題であり、今もって答えが出ていない根源的な問いである。そして、善悪という価値観が持つ「規制」としての力の源泉は、ようやく1980年代になって進化生物学の知見とゲーム理論の知見が融合して分かってきたものである。

私は、進化生物学と哲学の考え方を土台として、倫理の問題を検討してみたいと思う。これはすでに「進化倫理学」という学問が成立しつつある課題であはあるが、学術界でも支配的な学説がない状態であるので、私のような素人が大胆なことを言うことも許されるのではないかと思う。

もちろん、進化倫理学の先達の学究は十分に尊重したうえで、安易な妄想は避けるべきである。とはいえ、私は一好事家に過ぎないので、当然知っているべき研究について知らない場合も多いと思われる。そういう場合、読者諸賢からのご指摘を俟ちたいと思う。

【参考文献】
進化倫理学についての全体像を簡単につかめる手軽な本はまだ出ていないと思われる。しかし、倫理が進化的な産物であることはダーウィンが進化論を提唱した際に既に示唆していたことである。よって、「進化と倫理」という切り口の研究は割と存在している。そういう流れをまとめた本として、京都大学名誉教授の内井惣七先生の「進化論と倫理」は大変よくまとまった佳作としてお薦めできる。なお、内井先生はWEBでたくさんの論考を公開されているので、先生のWEBサイトを見るだけで、進化と倫理については十分学ぶことができる。

2010年10月8日金曜日

本ブログの内容を、PDFでまとめました

というわけで、表題の通り、本ブログの内容をPDFでまとめ、一括して読めるようにしました。


ブログはアーカイブ機能がかなり貧弱なので、本ブログのように一つの筋に沿って行う議論を参照するのには便宜が悪いと思います。そこで、全記事をPDFでまとめて公開することにしました。ついでに、表題を改め、章分けをやり直し、誤字脱字修正を行いました。



本文はこちらです。よろしくお願いします。

『必要悪としての文明―人はなぜ苦しむのか/反宗教的考察―』

2010年9月3日金曜日

結語 これからの人間の思想や宗教に向けて

【要約】
  1. これまでの議論の要点を振り返るとともに、現代社会に生きる人間にとっての示唆を考える。
  2. 人間は「文明」という檻に入れられた動物だが、人間は文明=現代社会に「適応していない」生物ではなく、むしろ図らずも「適応しすぎていた」ために繁栄した生物である。人間は世界にとって一種の外来種なのだ。
  3. 文明を存立させる上で重要だったのは、社会を安定化させようとする人間の本能である。安定化により人類は空前の繁栄を謳歌したが、安定化にも功罪の両面がある。
  4. 安定した社会は文化を洗練させる。一方で、社会が停滞し、新しい文化や価値観が生み出されなくなる。逆に不安定な社会では、社会に活力がある代わり、文化は洗練されず、刹那的、即物的なものになりがちだ。
  5. 安定はリスクでもあるため、管理できる形で不安定要素を社会に導入することが重要になるだろう。なぜなら、今世紀中に世界は「中世化」していくだろうからだ。原因は、持続的な技術革新が止まることである。それにより、世界は安定し停滞したものになる。だからこそ、技術革新に変わる不安定要素が重要になる。
  6. また、これからの社会は費用逓増的になり、拡大路線が止まる可能性がある。そして、大量で長大なものより僅少で短小なものが生産的であるような時代が来て、人間の生来の多様性に改めて光が当たるかもしれない。
  7. それにより、思想や宗教のあり方もこれまでと変わったものになっていくだろう。それは、必然である。これからの思想や宗教を形作る上で私が重要だと思うのは、①人間本性に立脚したものであるということ、②「外来種としての人間」ということを自覚したものであること、③社会の不安定要素を肯定するこ と、④人間の多様性を肯定すること、である。

これまで、人間はなぜ苦しむのかというテーマを巡り、人類史を辿りながら議論してきた。最後に、これまでの議論の要点を振り返るとともに、現代社会に生きる人間にとっての示唆を考えてまとめとしたいと思う。

まず、人間を見る重要な認識として、私は本ブログの最初の方で、人間は本来適応していた環境から引き離されて生きなくてはならなかった動物であるということを述べた。人間は、巨大な社会を構築し、コンピュータで仕事し、時には宇宙まで行くことすらあるが、未だに3万年前の狩猟採集社会に適応したままの生物なのである。普通、本来生きるべき環境から引き離された生物は、非常に強いストレスを受ける。例えば、動物園に入れられた動物は、人間顔負けの「現代病」の症状を見せる。動物園の動物と同じように、人間は「文明」という檻に入れられた動物なのだ

しかし、本当に重要な問題は、人間が本来適応していない文明的な環境で生きなくてはならないということではない。 もしそうであれば、文明などという人間本性に反するものは捨て去られていただろう。実際には、文明社会というものは、この地球上を席巻するに至った程繁栄したのだ。これはどういうことだろうか。人間は、文明に抑圧されたのではなかったのか。

この事実を考えると、私たちは、人間が文明=現代社会に「適応していない」生物であるという認識を改めなければならない。 むしろ、空前の繁栄を成し遂げた背景は、人間が本来は適応していなかったはずの文明という社会に、「適応しすぎていた」ということにあるのではないか。それを、本稿では丁寧に述べてきたつもりだ。例えば、狩猟採集社会では、群れは自然状態において十分に流動的になる要素があったため、人間は群れの構造を安定化させるように進化した。端的に言えば、人間は序列=不平等を許容するように進化した。これは、狩猟採集社会に適応して人類が身につけた性質だったが、農耕社会に移行したとき、この性質は群れをより巨大化し、中央集権化し、組織化することに役立った。これは、本来人類が適応していたはずの環境とは全く違う環境でより成功した性質なのだ

こういうことは、自然界では珍しくない現象である。一例として、外来種の問題がある。近年世界的に問題になっているが、本来の生態系には存在してなかった生物が人為的に持ち込まれることにより、その生物が繁栄しすぎて在来の固有種が絶滅してしまうといった状況がいろいろなところで生じている。日本で言えば、20世紀前半に釣りのために導入されたブラックバスは、もともと清流に棲んでいた鮎のような魚のにとって脅威になっている。本来、生物はそれが進化してきた環境に最も適応していると考えがちであるが、そんな単純なものではない。ブラックバスは、環境もよく天敵もいない日本という環境で、その原産地である北米よりも容易に繁栄することができたのである。

そう考えると、人間も一種のブラックバスのようなものではないかと思えてくる。本来人間が適応していたのは、熱帯地方の疎林やサバンナでの狩猟採集生活だったのに、文明社会という生物本来のあり方とは全く違っった環境でこそ空前の繁栄を収めたのだ。つまり、文明社会に生きる人間は、ある意味で「世界にとっての外来種」なのだ。文明社会で生きる限り、我々は外来種であることをやめることはできない。文明を捨て、本来適応していた心地良い環境に戻れば、現代的な人間の苦しみの多くはなくなるだろう。しかし、それは生物としての繁栄を捨て去ることになるだろう。我々は、本来適応していなかったはずの「文明」という外部環境に、図らずも適応しすぎていた生物なのだ。

そして、「文明」を存立させた我々の性質というものを振り返ってみた時、先程も述べたように「群れの構造の安定化」というものが大きく寄与していたということを私は述べた。人間は、動物の群れでは考えられないほど安定的で巨大な群れを作ることができる生物だったのだ。しかし、群れが安定していることは、同時にリスクであるとも述べておいた。本来、人間はやや不安定な、流動的な群れにこそ適応した生物であるからだ。もちろん私は、安定というものをことさら排撃するつもりはない。「文明」というものが手放しに礼賛すべき進歩ではないものの、それが人間に大きな利益をもたらしていることも否定しえないように、安定にも功罪の両面がある

例えば、安定した社会は文化を洗練させる。社会構造が安定していると、耐久財の期待使用年数は非常に長くなり、100年も200年も持つような文化を生み出す。封建時代において、世界的に偉大な建築物や美術作品が生み出されることは偶然ではない。支配階級に富が集積されるということはもちろんだが、その構造が非常に安定的だということが偉大な文化を生み出すインセンティブにもなるのである。

一方で、社会が安定していることは一種の停滞でもあるので、新しい文化や価値観は生み出されなくなる。文化や価値観の革新をもたらすのは、社会の不安定化であり、流動化である。日本においては、室町時代から安土桃山時代にかけて非常に社会構造が不安定になり、新しい価値観や美術が生まれたし、シナでも春秋戦国時代に諸子百家のような多様な思想が生まれたのである。

しかし、不安定な、流動的な社会では、洗練された文化は生まれにくい。明日をも知れない社会に住んでいる人は、どうしても刹那的、即物的になってしまう。100年や200年持つようなものを産み出そうとは思わない。それよりも、必要最小限のもの、実用的なもの、現世的なものを重視する。それが悪いというのではなくて、人間は自然にそうなる傾向があるということだ。

そして、人間は、安定した社会でこそ空前の繁栄を成し遂げたけれど、本当は少し不安定な、流動的な社会にも憧れている。なぜなら、元来そういう環境で進化したからだ。にもかかわらず、社会を安定化させる本能を持ってしまっているために、必要以上に安定な、頑強で画一的な社会を創り上げ、その社会が非常に成功を収めてしまった。そのために、現代社会で生きるほとんどの人間にとって、そういう強力に安定的な社会で生きる以外の選択肢はなくなってしまったのである。

また、社会が安定的であることから、戦争が生じることも既に述べた。そして、戦争が安定しすぎた社会を破壊し、人間に新しい活力を与えるという意味も持っているという考え方を示した。安定しすぎ、停滞した社会は、文明の周縁に生まれる不安定で暴力的な社会に倒される運命にあるのだ。だから、戦争を放棄するには、組織的に社会に不安定要素を導入する必要があるのではないかということも述べた。それがどういった方策によって可能なのか、人類はまだ見出していないが、管理できる形で不安定要素を社会に導入することは、これからの世界にとって非常に重要になるだろう

なぜなら、今世紀中に、世界は「中世化」していくに違いないからだ。「中世化」とは、要するに持続的な経済成長がない、停滞した世の中になるということを意味する。持続的な経済成長は、産業革命以降のたかだか2世紀に経験した、人類史的に見れば一刻の現象に過ぎない。人間は18世紀まで、生産性が一定で、一人当たりの土地面積で豊かさが決まるマルサス的世界に生きていたのである。産業革命が持続的経済成長を成し遂げたのは、たゆまぬ技術革新のお陰であったが、今世紀中には容易に到達できる科学的知見は概ね発見されてしまい、持続的に技術革新を続けていくことはどんどん困難になるだろう。つまり、人間の知性的領域が、ついに収穫逓減的になってしまうのだ

これは、人間の知性の限界に到達するということではない。収穫逓減的になるということは、次の発明・発見をするのは、それまでの発明・発見に比べてより困難になるということである。学問はこれまで、全世代の学説・知見を継承し、それに立脚することで、より多くの新しい発明・発見を可能にしてきた。ニュートンが、「私がより遠くまで見通すことができたのだとしたら、それは巨人の肩に乗っていたからだ」と述べたように、先人の業績は人間がより知的な意味で生産的になるための土台であった。すなわち、知的生産は時間軸的に見て収穫逓増的だったのだ。しかし、今世紀中には、先人の業績に新たな知見を加えることはどんどん困難になっていく。そうすると、どういうことが起きるか。

新たな技術革新が生まれないということは、旧来の秩序を脅かすものがなくなるということである。つまり、技術革新とは、社会に不安定要素をもたらすものでもあったのだ。それがなくなると、人間性来の社会安定化の指向を止めるものはないため、どんどん社会の構造が固定化する。格差や階級が固定化し、既得権益を脅かすものがなくなり、新しい文化や価値観が生まれなくなり、社会の活力がなくなってしまう。これが、社会の「中世化」である。もちろん、これも悪い部分ばかりではない。社会が中世化すれば、20世紀に生まれた文化や価値観はより洗練され、持続的な形へと発展していくだろう。そして、22世紀や23世紀に受け継がれるべき、偉大な精華が生まれうると思われる。しかし同時に、停滞した社会では、明日への希望なき多くの底辺の人間も生まれる。それが、偉大な精華を生むための社会的コストなのだ。

どのような社会が望ましいかは、どのような価値観を持つのかに依存する。だから、中世化した社会で偉大な精華を生み出すことに価値を見出し、そういう社会がよいと考える人もいるだろう。しかし、社会を構成する多くの人間は、実際にはそういう社会で下層階級で生きることになるのは間違いない。だから、多くの人間にとっては、ある程度社会が不安定で流動的であることが望ましいはずだ。その意味で、私はこれからの世界にとって、組織的に不安定要素を導入することが重要であると思われるのだ。産業革命この方2世紀ほど、技術革新というものが社会の不安定要素であり、だからこそこの2世紀は空前の繁栄を謳歌した。持続的技術革新が困難になったとき、社会の不安定要素になるものを見出すことは、人類の福祉にとって重要な課題であろう。

そしてもうひとつ、これからの社会がこれまでの社会と異なるであろうと予測されることがある。それは、文明が費用低減的から費用逓増的になるだろうということだ。その一つの例として、先程学問について述べておいた。俗な言い方をすれば、21世紀、学問は「拡大路線」を取れなくなるというという予想だ。これは何も学問だけについて言えることではない。本稿では、農耕社会は費用逓減的な生産様式であったことが社会の巨大化を招き、それが文明を生む要因の一つであったと説明していた。文明は、費用逓減的なものとして生まれたのだ。すなわち、文明は一度生まれると拡大路線を歩むということだった。しかし、これからの文明は費用低減的でいられなくなるかもしれない。学問について述べたことが、社会全体で当てはまるようになるかも知れないからだ。

具体的には、大量生産・大量消費的な産業、重厚長大的な産業、画一的なイデオロギーが栄えたのは、20世紀までだったと振り返られる時が来るかもしれない。なぜなら、本当に世界が中世化するなら、グローバルプレイヤーよりも小さな組織が繁栄する可能性があるからだ。現在、まだその兆しは明確には現れていない。むしろ、20世紀よりも企業が巨大化している面すらある。しかし、グローバルプレイヤーが競争上有利なのは、より多くの資源を研究開発に投資できるからという側面が強い。研究開発の意味が薄れてしまうと、グローバルプレイヤーは巨大で鈍重な組織の重みに耐えかねて、分裂していくように思われる。そして、これは産業だけでなく、思想についても言えるだろう。

私は、もともと人間は個人のレベルで多様な戦略・生き方を持っており、それこそが人間という種の強みであったと述べた。しかし、農耕社会はそれを一つの思想の枠に嵌めてしまった。人間が本来持っていたはずの多様性は、費用低減的な、20世紀型の拡大路線の中で見失われてしまったのだ。それが、費用逓増的な世界になって、大量で長大なものより、僅少で短小なものが生産的であるような時代が来ることによって、改めて人間の多様性に光が当たるかも知れない。そして、情報社会という大きな変化が、間違いなくこの傾向を後押しするだろう。

そして、思想や宗教のあり方もこれまでとは変わったものになっていくだろう。本稿において、人間社会が持つ制度が、その時の環境に適応する形で成立してきたことを述べた。例えば婚姻制は、女性が子育て中に資源を継続的に与えてくれる保護者を必要としたことから成立したものだ。しかし、社会福祉制度が整い、女性一人でも比較的楽に子供を育てることができる社会になれば、婚姻制は少なくとも表面的にはその必要がなくなる。実際、社会福祉が充実した北欧の諸国が「フリーセックス」の国だと(一部誤解もあるが)言われるのは故なきことではない。もちろん、単に資源の確保だけならば婚姻制はなくなってしまうだろうが、それと同時に、人間は「愛」という感情を発達させた動物であることにも留意すべきだ。人間に必要なものは金だけではなく、やはり、愛、慰安、信頼できるパートナー、絆というものも不可欠なのだ。というのも、そういう結びつきの中にいるほうが心地良く幸福感を持つように人間本性が進化しているからだ。

そういう自然な感情を軽んじてはいけないが、同時に、社会の変化に合わせて、思想や宗教をも変化させていくことが必要であり、また必然でもある。未だ我々は未来の思想や宗教がどういったものになるのか予見することはできない。しかし、未来の思想や宗教を形作る上で私が重要だと思う観点をいくつか述べて本稿の終わりとしたい。

一つ目は、人間本性に立脚したものであるということ。これまでの社会で支配的だった思想や宗教は、これまで述べたように人間を収容する檻の役目を果たした。これからの思想や宗教は、人間本性を肯定し、人間の求める自然な幸福を実現するものであって欲しい。

二つ目は、「外来種としての人間」ということを自覚したものであること。一つ目と矛盾するようだが、文明の中で生きる限り、人間は世界にとって外来種であり、自然な幸福など望むべくもない。しかしだからこそ、人間本性の求めるものと世界の矛盾をどうにかして解消していくことが求められる。例えば、その解消法の一つは、現代社会において、人間本性の求めるもののイミテーションを創りだすことであろう。もはや、外来種としての人間には、本来適応していた環境をハリボテで再現するしか自然な幸福を感じる方法が残されていないように見える。

三つ目は、社会の不安定要素を肯定すること。技術革新という不安定化要因がなくなった社会では、人間社会は極度に安定化し、停滞することが予想される。停滞にも良い面と悪い面があるが、人間本性に立脚した考え方をすると、適度に不安定要因や流動性がある方が好ましい。ただし、二つ目の観点を踏まえると、もしかすると、その不安定要素はイミテーションに過ぎないものになっているかもしれないが。

そして最後に、人間の多様性を肯定すること。これまで、支配的だった思想や宗教はあまりに全体主義的すぎた。社会が中世化するとともに、情報流通技術がより進むと考えると、世界はむしろ分散化・多様化すると思われる。そのため、思想や宗教もそれに対応したものである必要があるだろう。

2010年9月1日水曜日

農耕という不幸(4)都市という牢獄が世界宗教を生んだ

【要約】
  1. 農耕社会は、都市を生み出した。都市は、人間本性にとって居心地が悪い牢獄のような場所なのに、なぜ繁栄したのか。 
  2. 都市が誕生した理由は、寒冷化による農業生産の不安定化だという説がある。生産性を高めるため、大規模化と分業化による労働集約的な都市ができたのだ。そのために、都市は中央集権的になった。 
  3. 都市の成立には、防衛の観点もある。異民族の侵入に備えるための城壁や要塞が必要であり、壁の内側に住民が住むことが都市を形作った。 
  4. 文字の発明も都市の成立にとって重要だ。中央集権的な行政を運営する上で、信頼関係のない不特定多数の人間を相手にする必要があると、文字がなくてはならないからだ。文字は支配装置の一つだった。 
  5. 貨幣の発明も都市の成立にとって重要だ。貨幣は分業化を可能にした。貨幣がなければ、財の交換に大きなコストがかかり、生産と消費を分離する都市は成立しなかっただろう。貨幣は、それまでは人間関係の中に存在していた財の価値を具体化するメディアだった。貨幣は、様々な関係性で結ばれていた人間関係を解体し、人間は貨幣によっ て関係付けられることになった。 
  6. 都市は様々な面で人間本性のあり方に反しているが、この矛盾を解消する必要があり、仏教やキリスト教のような最初期の世界宗教はこの課題に取り組んだ。 そして、これらの宗教は、 中央集権 制、防衛機構、文字、貨幣など都市化を成立させる要素を否定しているように見える。 
  7. 特に、貨幣は強力なメディアであるため、これに対するスタンスは重要だったに違いない。金に惑わされるなという教えは現代でも通用する。 
  8. 貨幣というメディアで囲まれ、 農村社会で存在していた親密な信頼関係が崩壊し、中央集権という巨大な装置の中に組み込まれ、人間らしいリアリティが失われた中でどうやって人間が生きるのかということが、最初期の世界宗教の課題だった。彼らの答えは、人は究極的には独りであり、人間は個人で生きるしかないというものだ。 
  9. その思想は、社会性の動物として進化してきた人間本性に反したものである。しかし、人間本性に反した存在である都市が繁栄してしまったからこそ、世界宗教の思想は栄えたのであろう。 
  10. 都市は人間本性に反しているにも関わらず、成功しすぎた。そして、多くの人間が個人として生きざるをえなくなった。ヒトは社会を離れた社会性動物という奇形的存在になったのだ。

農耕社会は、狩猟採集社会に比べ大規模になった、ということは既に述べた。今回は、農耕社会は単に大規模になっただけでなく、都市を生み出したということについて述べたい。

私は、本稿の最初の方で、人間は「文明/都市」という檻に入れられた動物だとする見方を提示した。都市は、人類が本来適応していた環境とは大きく異なる。都市には心地良い自然がないし、窮屈だし、労働は辛く退屈、周りは知らない人だらけで、人が生きる上での基本的な人間の信頼関係すら不安定な要素を抱えている。このような環境は、人間本性が快適と感じられるものではない。都市は、人間の精神をすり減らす牢獄なのだ。

しかし、ではなぜ、都市が生まれ、そしてそれが繁栄したのだろうか。都市がそんなにも人間を抑圧したのなら、都市は村落社会との競争に負け、消失してしまったのではないだろうか。そうでなかったとしても、人間が都市の中でそんなにも苦しむのなら、人間は都市を捨てればよかったのではないだろうか。今回はこれについて考えたい。

まず、なぜ都市などというものができたのだろうか。簡単そうに見えて、意外と難しい問いである。仮説の一つは、農耕の開始と同じく、寒冷化によってもたらされたというものだ。紀元前3000年から4000年くらいは、「ヒプシサーマル期後の寒冷期」と呼ばれており、世界的に寒冷化した時代である。この寒冷期において、農業生産は不安定化したに違いない。そこで、牧歌的な農耕社会は存続できなくなり、中央集権的な集約農業の必要性が増したであろう。それが、都市の成立の理由なのかもしれない(なお、農耕の開始をもたらした寒冷期は別の寒冷期であるが、世界同時的に農耕が開始されたわけではないので、細かい点は今は触れない)。

都市の誕生が、本当に寒冷化に対応するためだったのかは不明だが、ここで重要な点は、都市は生産性を向上するために生み出されたという考え方である。古代都市というと、大勢の神官たちがいたり、インフラが整っていなかったりというイメージがあり、決して生産性が高いように思えないが、 実際は、都市以前と比べると生産性は確実に向上していただろう。

その理由は、大規模化と分業化である。大規模化については、農耕は費用低減的であるということから既に述べた。分業化については、人間の得意不得意にはばらつきがあるということから、比較優位のある作業に特化すると、全員が同じように作業するよりも全体の利得が増大するということで説明がつく。もちろん、古代における分業は得意不得意というよりは、職能集団に基づいて分業がなされていたのだが、これでも結論は変わらない。分業することにより、より頑強で使いやすい農耕器具が生み出されたし、安定的な灌漑施設を構築できた。そして、より精度の高い暦を作ることができ、作付計画は厳密かつ効率的になっただろう

現代においても、特に発展途上国において、半ばスラム化したような大都会にどんどん田舎から若者が流れてくる現象が見られる。スラム化しているような都市に来て、どうするのだろうと思うが、実は、都会にいるほうが田舎にいるよりも、生涯賃金の向上が期待できると主張する人もいる。単に都会に夢を見ている素朴な人もいるだろうが、実際に都会にいることが得にならないことが分かれば、田舎から都会への人の流れは持続的なものにならないだろう。古代に都市が成立した際も、このような人口の流入があったのかもしれない。寒冷化など何らかの理由で農村社会の生産性が落ちたとき、高い生産性を保っていた誕生間もない都市に人口が流れていったと考えられないだろうか

都市が農村よりも生産性が高かった原因は、大規模化と分業化であると述べたけれど、ではそれを実現した仕組みは何かといえば、紛れもなく中央集権化であろう。中央集権、つまり少数の権力者が人間社会を運営することにより、効率的な生産を可能にしたのだ。具体的には、統制の取れた計画、安定した労働力を確保するための階級制や奴隷制、技術の維持のための職能制、そしてこれらのしくみを正当化するための思想の構築。これについては前々回に述べたので繰り返さないが、要は、都市というものは、必要に駆られて作った全体主義体制なのだ

さらに、最初期の都市が生まれた時期に当てはまるかどうかは不明だが、都市の成立には防衛の観点も深く関わっている。特に、世界が寒冷化すると、遊牧民が拠点地から離れて、農耕民の暮らす世界に流れこんでくる。そのため、農耕民の居住地には、高く頑丈な壁、城壁、要塞などが必要になる。そして、住民は城壁で区切られた内部に居住することになるため、都市が成立してくるのである。日本においては異民族の侵入という事態は元寇の例外を除けばなかったため、ついに大陸風の都市国家は成立しなかったが、基本的に都市は防衛の単位でもあった

そして、既に説明したように、戦争というような集団間暴力が生まれたのは、農耕によって富が集積するとともに、土地や設備を守らなくてはならなかったからなのだ。だから、遊牧民という脅威が都市を作ったのではなくて、やはり農耕という生産方式が都市化を指向する部分があると考えたい。つまり、人間は富を持ってしまたことで、外敵に対抗して強くなる必要があったのだ。それまでの人間の敵は肉食動物や毒を持つ小動物・昆虫だったのが、都市構築の基本コンセプトは、人間の敵は人間、ということなのだ

また、別の観点から都市の成立にとって重要な発明がある。それは、「文字」である。都市は多くの人口を擁する。そして、それは基本的には中央集権的なものなのであり、そこの構成員は信頼関係では結ばれていない。特に、租税の徴収や土地の所有権など、関係者の言い分を聞くことで解決できない問題も多い。そこで、文字が必要になる。現代文明に生きる我々は、文字は便利なものであり、一度発明されるとすぐに広がるような印象を持ってしまうがそれは違う。文字を持たない社会では、(他の文化の)文字を知っていてもそれを使おうとはしない。なぜなら、何かに書いたものが信頼できないからだ。紙に書くと、風で飛んでいってしまうかもしれない。木に書いても、燃えてしまうかもしれない。それに比べて、当事者同士が覚えているなら、一番確実だという。実際、無文字社会での人々の記憶力は驚異的なものがある。

しかし、都市という環境では、それは通用しなかっただろう。まず、記憶しなければならないものの量が圧倒的に多い。なぜなら、中央集権的なシステムを構築しているため、行政機構の人間は租税徴収などについて大量の記憶をしなくてはいけないからだ。さらに、不特定多数の人間を相手にしなくてはならないため、当事者同士、といったような信頼関係を前提とすることができない。だから、客観的な記録の手段が必要であり、それが文字の発明へのインセンティブだったろう。つまり文字は、不特定多数の人間を中央が支配するために生み出されたという側面があるのである。文字は支配装置の一つなのだ。

都市の成立を考える上でもう一つ重要な要素は、「貨幣」の発明である。先程述べたように、都市の本質の一つは分業化である。もっと言うと、生産と消費を分離したことである。農村社会においては生産と消費が一体不可分になっており、基本的に人は生産したものを消費し、それ以外の必要品については物々交換(等価交換)や互酬的な交換(その場で等価なものと交換するわけではないが、別の機会に逆向きの提供が行われるなど、長い目でみると損得ゼロになるような交換)に依っている。しかし、都市では、このような交換は全く不能になる。まず、人間関係が固定的ではないので、互酬的な交換は不可能である。そして、物々交換もかなり難しくなる。なぜなら、野菜を持っている人が農耕器具が欲しい場合、農耕器具が余っていて野菜が欲しい人をいちいち探さなくてはならないからだ。都市においてこのように特定のニーズを持った人を探し出すのは困難である。

そこで、貨幣が登場する。貨幣は、こういった物々交換を不要のものにした。貨幣は、支払いの手段、貯蔵の手段、価値の尺度などの様々な機能があり、このうち物々交換を不要にしたのは、もちろん支払いの手段としての機能である。貨幣が存在しなければ、財の交換に大きなコストがかかり、生産と消費を分離することはできなかったであろう。ここで生産と消費が分離したというのは、生産としての村落と、その統治や生産物の集積としての都市との対立が誕生したということでもある。このように書くと、都市が村落を搾取しているように感じられるかもしれないが、それは違う。都市が中央集権的、集約的な構造を作り、村落がその構造の中に位置づけられることによって、村落の生産性も上がったのではないかというが、私の意見である。

さて、貨幣は、これだけでも本が一冊書けそうな重いテーマである。しかし、ここでは先を急ぐので、簡単に次の事実を指摘するに留めたい。貨幣は、これまで人間関係の中に存在していた財の価値を外に取り出したのだ。つまり、貨幣は価値を具体化するメディアだった。貨幣の登場以前においては、ものの価値というものは、信頼、互酬性、相互監視、血縁、利害関係などで結ばれていた人間同士が、互いの関係において決めていた。「決めていた」というよりは、自ずから決まっていたのだ。それが、貨幣が登場したことにより、そういった人間関係は、全く価値に関係ないものではないにせよ、中心ではなくなったのだ。そして、貨幣は、様々な関係性で結ばれていた人間関係を解体し、人間は貨幣によって関係付けられることになったのだ。貨幣は、人間を関係付けるメディアにもなったということだ。もちろん、最古代の都市成立時においては、これは言い過ぎかもしれない。当然ながら、都市においても血縁関係は重要だったし、ご近所づきあいのようなものはあっただろうし、交易という面から見ても、経済的な相互依存関係はあったはずだ。ただ、一度貨幣というメディアを通して世の中を見るということが定着してしまうと、そういうリアルな関係よりも、貨幣というメディアを通した関係の方が見えやすくなってしまったと思われる。

さて、これまで述べたように、都市は、様々な面で人間本性のあり方に反している。だから、都市が抱える矛盾を解消する必要があったと思われる。そして、それに応えたのが、仏教やキリスト教のような最初期の世界宗教である。 このことは、既に本稿の初めの方に述べておいたことであるが、今回はより詳しくこれについて考察したい。

最初期の世界宗教が成立した時、都市も現在の形のように発達していたと考えられる。具体的には、上に掲げたようなしくみ、すなわち中央集権制、防衛機構、文字、貨幣のようなものを備えた都市であっただろう。そして、最初期の世界宗教は、このようなものを基本的に否定することによって成立したものであるように思われる

例えば、中央集権制。ブッダは王子だったとされているが、王城での暮らしを捨てて修行生活に入った。ナザレのイエスはローマに反抗して処刑されている。防衛機構という観点では、そもそも中央集権を否定しているので明確には論じられていないが、キリストも仏教の場合も、争いの否定ということは言われている。また、文字については、これはむしろ文字の成立が世界宗教の成立を促したという側面があるので、かならずしも宗教の始祖たちが反文字の立場に立っていたかどうかはわからない。しかし、ブッダ、ナザレのイエス、孔子、ソクラテスなど古代の思想家の多くが自らは文字を残さなかったということは示唆的に思える。要は、文字は信頼する相手とのコミュニケーションに使うものではないということではなかったのだろうか。そして最後に、貨幣であるが、これは私が最も気になる部分である。

先述のように、貨幣は強力なメディアであり、人間関係のあり方を変えてしまう程の破壊力を持っていた。これに対してどのようなスタンスを取るのかということが、最初期の世界宗教にとって重要だったに違いない。そして、私の見るところでは、貨幣を否定はしないにしろ、要は「金に目をくらまされるな」「金で表される価値に惑わされるな」ということを最初期の世界宗教は述べているように思われる。特に、ユダがイエスを銀貨30枚で売ったということは私に取って非常に象徴的に思える。貨幣経済登場以前においては、こういう事態は存在せず、裏切りの原因は怨恨とかいい女といったものではなかったろうか。貨幣という単なるメディアが宗教指導者を裏切る原因となるという筋書きは、十分に現代的であると思うがどうだろうか。

つまり、貨幣というメディアで囲まれ、農村社会で存在していた親密な信頼関係が崩壊し、中央集権という巨大な装置の中に組み込まれ、人間らしいリアリティが失われた中でどうやって人間が生きるのかということが、最初期の世界宗教の課題だったのだ。そして、彼らの答えは、信頼すべきリアリティある共同体がなくなってしまった中、人間は個人で生きるしかないということだったのではないだろうか。個人というと、近代に登場した概念であるとよく言われるが、中世から近代の封建制が共同体との濃密かつ安定的な関係を保っていたために個人の意識が発達しなかったのであって、封建制のような支配体制が成立する以前の古代社会においては、意外と「個人」という意識は明確だったのではないかと思われる。

その証拠に、原始仏教においては、「人間は独りである」ということが繰り返し述べられるし、キリスト教においても、神の前の独りの人間という概念は基本概念であると思われる。このような教えを表明した仏教やキリスト教も、封建社会の成立など、社会の変化とともに教義の内容が変化し、共同体よりに変わっていくけれども、最初期においては、かなりラディカルだったと思われるのだ。

しかし、人は究極的には独りであるという思想は、根本的に人間本性に反したものである。なぜなら、人間は社会=群れで進化してきた動物であるからだ。人間は、物事の価値を社会の中での相対的な位置づけによってしか測れないし、幸せや不幸、快楽や絶望といった根本的かつ強力な感情すら社会的文脈に依存して発動するものである。だから、人は究極的には独りであるという思想は、大多数の人間にとって簡単に受け入れられるものではない。しかし、最初期の世界宗教はかなり大きな改変を経ながらも、現代までなんとか生き延びてきた。本当にラディカルだった認識の方ではなく、単なる因習や迷信のような部分の方がより強く生き延びているように見えるのは皮肉だが、それでも現代まで残ってきたのは、やはり都市と人間本性の問題に絡んでいたからではないかと空想したくなる。都市が人間本性に反する存在だったからこそ、人間本性に反する思想が栄えたのである。

都市は、これまで述べたように、人間本性には反する部分があるが、中央集権による生産、防衛などの面で農村に比べ確実な優位性があり、歴史的には浮沈はあったものの、基本的には大きな成功を収めてきた。具体的には、より多くの人口を擁し、安定的な社会を構築してきた。もし、都市という仕組みがもう少し脆弱な構造を持っていれば、人間には、都市で暮らすのではなく、もっとのびのびと農村で暮らす選択肢も多分に残されていたのかもしれない。しかし、生産や防衛が重要になればなるほど都市の重要性は増し、今では、世界人口の大きな割合が都市に住んでいる。つまり、都市は人間本性に反しているにも関わらず、成功しすぎたのだ。だからこそ、人間の多くにとって、個人として生きる道しかなくなってしまったのだ。そう、人間の多くは、生まれながらにして都市という牢獄で生きるしかなくなったのだ。これは、生物としてのヒトには不幸な事態だったに違いない。つまり、ヒトは社会を離れた社会性動物という奇形的存在になってしまったのだ。ここに、人が苦しむ理由の多くが存在しているのではないかと私は思う。

2010年8月28日土曜日

農耕という不幸(3)必要悪としての戦争と階級制

【要約】
  1. 近代的な意味での戦争が生まれたのは、農耕社会以降である。なぜなら、狩猟採集社会においては、攻める方にも応戦する方にも戦う理由があまり無いからだ。農耕社会においては、蓄積された資産、守るべき食料と土地があり、戦争するインセンティブが存在したために、近代的な意味での戦争が生まれた。人類史的には、戦争はごく最近の現象であるために、戦争は放棄できると主張する人もいる。
  2. 農耕社会での戦争のインセンティブとして、具体的には飢餓がある。飢餓は戦争の原因として普遍的だが、それより本質的な理由として、農耕という生産方法が人間にとって非常に退屈であったために、単純作業を奴隷にやらせたいという欲求があったことがあるのではないか。
  3. 奴隷の存在から、階級制が生じる。階級制誕生の原因は、農耕における仕事が単純で退屈だということが大きいのではないか。 人間本性には元来合致しない「労働」を必要とする社会を作り上げたため、階級制が生まれたのだ。
  4. また、個人のレベルでは必ずしも利益にならない戦争に群れのメンバーを参加させるために、戦争を正当化する思想が生まれただろう。これは、19世紀以降の近代的戦争にも当てはまる。
  5. 戦争がなくならない理由の一つは、人間の倫理観は、あくまでも群れの内部を友好的・協力的に保つために進化したものであり、群れの外の人間には適用されないものだということだ。だから、戦争の抑止のためには、全ての国家が共通の利害を何かしら持つことが必要だが、これは現実的には困難だ。
  6. 二つ目の理由は、戦争は旧い社会秩序の破壊に役立つということだ。人間社会の大多数は、かなり秩序が安定してしまっているが、そのような社会は人間本性に反している部分があるため、脆弱となり、新興勢力に滅ぼされてしまう可能性が高い。戦争は、停滞した社会が活力を取り戻す手法の一つであり、必要悪だ。
  7. その意味で、戦争を撲滅させたいのであれば、戦争に代わる社会秩序の破壊法を見出さなくてはならないと思われる

私は以前、農耕社会において相続がなされていったことが階級制誕生のきっかけであったと述べた。今回は、戦争という観点から階級制の創出について考え、また、戦争そのものの持つ意味を考えてみたい。

さて、以前、狩猟採集社会でも戦争はあったが、それは近代的な意味での戦争ではなかったと述べた。近代的な意味での戦争が生まれたのは、農耕社会以降の話であって、戦争というのは、人類史的にはごく最近の現象なのだ

なぜかというと、狩猟採集社会においては、他集団から略奪できるものがあまりないということと、その時の居住地に固執する理由もないため、仮に敵から攻めて来られても、単に逃げればよいからだ。だから、攻める方にも攻撃の理由があまりないし、攻められる方にも応戦する理由があまりない。だから、狩猟採集社会においては、集団間の争いという意味での戦争はあったけれど、大規模な資源の略奪としての戦争は存在しなかった。

一方、農耕社会においては、富の蓄積が組織的に行われているし、軽々に移動できないような資産(例えば、灌漑設備、大きな家屋)もある。だから、それらを略奪するインセンティブがあるわけだ。そして、攻められる方も自分たちの資産を必死で守る必要がある。土地を奪われることは、農耕民族にとって死活問題だし、仮に土地を守れたとしても、備蓄していた食料を奪われると次の収穫の時期まで人々は飢えなくてはいけない。

だから、攻撃にも応戦にもインセンティブがあるのだ。これが農耕社会において戦争が生まれた理由である。そして、この主張は考古学的証拠により支持される。大量の武器(矢尻、投石機など)と戦いによって死んだ多数の人骨は、農耕社会出現以降、大雑把に言って7000年前から6000年前くらいから出土するようになる。だから、人間はその黎明から現代までのほとんどの期間、戦争というような状態を経験したことがなかった。集団間の暴力というものはサルの時代からあっただろうが、組織的かつ計画的な、大量の虐殺と略奪という意味での戦争が人類史に登場するのは、つい最近のことなのだ。

人は、弓矢や投石といった殺傷能力の高い武器を開発し、動物としての能力を遥かに超えた攻撃力を持つようになった。だから、人間本性(human nature)が戦争を志向していないということではなく、単に、そういった技術革新が、人間本性が持つ攻撃性を拡大しただけだ、という考え方もあるかもしれない。確かに、以前述べたように、ヒトは他の肉食動物が持つような、同族に対する攻撃性の本能的な制御機構を持っていない。これは、戦争というむごたらしい行為を可能にする理由の一つではある。しかし、事実人類は、数百万年にサル(ape)からヒトとなる道を歩み始めた時から、戦争などというものを経験してこなかったのであって、戦争が人間本性に立脚する行動であるとは言えないというのが私の考えである。

そのため、ある人は、戦争は必ず放棄できると主張する。いつの日か、人間は「昔は、戦争という組織的な争いがあってね」というような昔話をする日が来るだろうというのだ。確かに、国際連盟や国際連合の取り組みは、必ずしもうまくいったとは言えないが、一つの進歩なのは確かだ。しかし、私はその見方は少しナイーブすぎるのではないかと思う

その理由について述べる前に、農耕社会における戦争についてもう少し深く考えてみたい。先程、農耕社会においては、「攻撃する方にも応戦する方にもインセンティブがある」と述べた。しかし、応戦する方のインセンティブは当然だが、攻撃する方のインセンティブは本質的にはどんなところにあっただろうか。もちろん、うまくすれば大きな富を一時にして得ることができるが、そのためには仲間の犠牲もある程度は覚悟しなくてはいけない。費用と便益を天秤にかけたとき、果たして戦争は得になるのだろうか? 人間は自分が死ぬ可能性があっても、他の集団の富を収奪しようとするのだろうか

つまり、戦争というコストのかかる行為をするためには、大きな利益が期待できるだけではなくて、それがやむにやまれずに行われるものである必要があるのではないだろうか。例えば、そういう理由として考えられるものは、飢餓である。農耕社会においては、計画的に食料を生産するため、その計画が狂った時の修正が大問題になる。欠乏をすぐに補う方法がないからだ。例えば、不作の時、次の収穫時までの食料が絶対的に足りないという状況になったらどうするか? 何もしなければ、群れのメンバーの幾許かは餓死してしまうということが明確な食料の備蓄量だったとき、あなたが群れのボスだったらどうするだろうか?

対処方法の一つは、別の群れから食料を奪うというものだろう。これは十分に戦争の理由になるのではないかと思う。事実、そういう理由で起こった争いも多かったに違いない。歴史的には、他集団の大規模な侵略は大きな気候変動と連動するように起こっているが、これは飢餓が戦争を起こす要因として大きいことを示している。例えば、ゲルマン人の移動やモンゴル人のシナ地方への侵略は、地球規模の寒冷化による飢餓がその要因の一つに挙げられている。飢餓は戦争の原因として最も普遍的なものであることは間違いない。ただ、私は、農耕社会で戦争が出現した原因が他にも考えられるのではないかと思う。

既に述べたように、農耕という生産方法は、人間本性にとって、非常に退屈な作業であったに違いなく、できれば、単純作業から開放されたいという強い欲求が生じたに違いない。つまり、農耕は奴隷を欲したのである。狩猟採集社会においては、通常は奴隷のような存在は見つからない。狩猟社会では、単純労働はあまりないし、そもそも群れのサイズを大きくすると、一人あたりの生産高は減ってしまう。一方、農耕社会は費用低減的であるので、大規模に耕作を行うことが得になる。だから、退屈な農作業は奴隷にやらせようというわけだ

そう、奴隷を獲得するために戦争を行うのである。実際、農耕社会以前においては、奴隷のような人間はいなかったと考えられている。飢餓が戦争の大きな理由であることは否定しないが、奴隷の獲得もかなり重要な戦争の動機だったのではないだろうか。戦争で獲得した奴隷を労働力として使うことで、農耕社会はより発展しただろう。そして、親世代のもつ資産(これは、有形無形のいろいろなものを含む)を子供世代が相続するという人類特有の行動と相俟って、階級制が誕生したのである。つまり、階級制は、そもそも農耕における仕事が単純で退屈だということが大きな原因であるように思えるのだ。農耕社会において、仕事は「労働」になった。一方、狩猟採集における仕事は大変なものではあっても、単純さや退屈さはあまりない。それらは、探求やスリルなど、我々の人間本性が求めるものを提供してくれる側面もあるからだ。つまり、我々が、人間本性には元来合致しない「労働」を必要とする社会を作り上げてしまったが為に、階級制が生まれたのだ

ただし、先程の問いに戻って考えてみると、戦争を行うには群れのメンバーに危険を強いることが必要だったわけだが、奴隷獲得のためという理由はその動機として十分であろうか。飢餓状態では、人はやむにやまれず戦いに繰り出しただろう。だが、労働力の確保というような目的で、人は危険を犯して戦争などしただろうか。

私は、必ずしも奴隷獲得は自らを危険にさらす強い動機にはならないと思う。しかし、前回議論したように、農耕社会において成立した「善悪の概念」が、こういった場合に生きてきただろう。つまり、思想的に戦争が正当化されたのではないかということだ。そして、個人のレベルでは必ずしも得にならない戦争に、参加させられた大勢の人間がいたのではないだろうか。

そう考える理由として、多くの神話には戦争が描かれているということがある。神話は、過去の歴史、民族の思想を伝えるものであり、未来への指針ともなるものである。現代に残っている神話に、戦争のことがよく出てくるのはなぜならのだろうか。一つは、戦争という記憶が大変に強烈なものだったということがあるだろう。しかし、それだけでなく、神話は群れのメンバーに戦争を正当化する理由を与えたのではないだろうか。もっと言えば、群れにとって戦争を善とする思想が形成されたのだ

これは、19世紀以降の戦争にも言えることである。19世紀以前の戦争、特に封建社会における戦争には、善悪の概念はない。なぜなら、戦争は利益のために行うものであり、封建領主との契約や相互依存関係に基づいて、その利益は参加者たる戦士階級や傭兵に分配されたからである。こういう形で戦争が行われる限り、戦争は利益を生むことこそ必要だが、善である必要はない。しかし、19世紀以降の戦争においては、より大規模化したことで、国民全員を動員することが必要になった。実際には戦争に勝利しても利益を得ることがない一般国民を戦争に動員するには、思想的にまとめ上げるしかなく、善のための戦争を掲げざるを得なかった。なお、私は、これが国民国家(nation state)が生まれた背景として重要ではないかと思っている。

このことは、古代社会の戦争においても言えたのではないだろうか。戦士階級や傭兵といった階級が未分化だった時、戦争は群れ全員を巻き込むようなものだったはずだ。その際、人類は、本質的には利害を共有していない群れの大多数を戦争に駆り出すため、その思想を統一する必要に迫られたと考えられる。これは、もちろん前回の主張と同等なので詳しくは述べないけれども、古代思想のある部分は、利害を実際には共有していない群れのメンバーを仮想的に利害関係者に仕立て上げる機能を有していたのではないだろうか。

さて、次に、なぜ戦争はなくならないかという点について考えてみたい。先程挙げた戦争が起きる理由は、実際に争いが起きる理由のごく一部ではあるが、現代社会においては克服不能なものではないように見える。飢餓や労働力の確保は、戦争によって解決する方が、現代では高くつくだろう。しかし、やはり戦争は簡単にはなくならないだろう。

一つ目の理由は、人間の倫理観は、あくまでも群れの内部を友好的・協力的に保つために進化したものであり、群れの外の人間には適用されないものだということだ。群れと群れの利害が対立しているとき、他の群れのメンバーへ利他的行為をすべき理由は何もない。人間の倫理観は、あくまでも仲間内だけに適用されるものなのだ。だから、他の群れのメンバーには著しく不利益になるような行為でも、自分の利益になる行為ならば、人間はそれを行うであろう。

戦争を防止するという観点で考えると、そのように人間が行動しないためには、群れと群れの間に共通の利害関係を作ることが重要である。その方法の一つとして、以前述べたように婚姻関係を結ぶということが考えられる。群れ同士を親戚にしてしまうのだ。もちろん、この方法は群れのサイズが大きくなってくると使えなくなる。だから、農耕社会においては、このような方法よりも、交易関係を結ぶといったような方法で共通の利害を構成したであろう。これは、近代社会においても同様であり、国家間の友好のためには、通常は軍事的に不可侵条約を結ぶ必要はなくて、特別に対立する状況になければ、通商の自由化など、貿易拡大で十分であると考えられている。

この観点で現代における戦争の抑止を考えると、全ての国家が共通の利害を何かしら持っている状態が必要だということだ。しかし、これは実際かなり難しい課題である。グローバル化により、国家間の相互依存関係はかなり進んできたけれども、すべての国家が何らかの意味で相互依存することは、不可能でないにしろ、極めて困難であろう。先程、貿易拡大を進めることは国家間の友好に効果的だと述べたけど、貿易においては、利害が対立する場合もかなり多い。そういった利害を超えて、複数国があたかも一つのコミュニティを成すような共通の利害関係を作るのは、 現実的でない。我々は群れの外の人間に対しては冷淡なのだ。これは、いつになっても変わらないだろう。

二つ目の理由は、こちらの方が本質的であると思うのだが、戦争は旧い社会秩序の破壊に役立つということである。これまで縷々説明したように、人間社会は一貫して安定化する方向に変化してきた。その結果、現代においては社会の安定性は非常に高くなっており、社会秩序は非常に強固になってしまっている。一方で、人間本性は適度な不確実性や流動性を前提として進化しているように思われる。なぜなら、社会秩序が強固な、例えば厳しい階級制が存在している社会は、そうでない社会よりも停滞しがちだし、そこにいる人間の満足度が高いようには思えない。

やはり、人間にとって自然なのは、ある程度頻繁にボスが入れ替わっていくことであり、そして、潜在的に誰にもボスになる可能性が存在している状態なのであろう。しかし、そのような下剋上を許す社会は持続的に発展することができない。だから、人間社会の大多数は、かなり静的な構造のものとなってしまった。だが、そのような高度に安定的な社会はいずれ脆弱となり、新興勢力に滅ぼされてしまう可能性が高い。もちろん、滅ぼされた側の大多数の人間にとって、そのような敗北は耐え難いことであろう。しかし、そうなることで、旧い社会秩序の下で虐げられてた者や弱い者、抑圧されていた者などが、新しいパラダイムの中で活力を得たこともあるのではないだろうか

人間の抱えるジレンマの一つが、極度に安定的な社会秩序であるとすれば、それを破壊しうる戦争は、必要悪とみなせないだろうか。もちろん、戦争などというコストのかかるものは無いに越したことはない。しかし、もし戦争がなければ、旧い社会秩序がいつまでも温存され、相当に社会が停滞するように思われる。そして、そのような安定的な社会は、戦争の存在する社会との競争には勝てそうにない。

その意味で、戦争を撲滅させたいのであれば、戦争に代わる社会秩序の破壊法を見出さなくてはならないと思われる。20世紀にアメリカが大きく発展したのは、地政学的な要因はもちろんのこと、移民という社会秩序の破壊要因を積極的に受け入れたからという側面もあったように思われる。管理できるやり方で社会秩序を破壊していく方法を見つけることができなければ、人間社会が戦争なしに人々に幸福を与え続けていくことは不可能であるように思うが、どうだろうか

2010年8月23日月曜日

農耕という不幸(2)不平等のための行政と思想

【要約】
  1. 農耕社会は、人間は家族型の社会生物としては例外的なほど巨大な群れを安定的に構築できたという点で繁栄しすぎた。この群れの構造は、人間の本性にはマッチしていないようだ。にも関わらず、人類の大部分はそういう社会で生きざるを得ない。
  2. なぜ、農耕社会は巨大で安定的な群れを構築することができたのか。理由の一つ目は、農耕はある程度まで収穫逓減的であり、大規模でやれば大規模でやるほど効率がいいからだ。理由の二つ目は、人が「不平等を甘受できる」性質を持っていたということだ。
  3. 農耕社会においては、富を蓄積することが可能になってしまったために、人は「不平等を甘受できる」性質で、本来想定されていた程度を超えて不平等を是認していると考えられる。
  4. 農耕社会で富の蓄積を可能にした理由は3つ。①定住、②農耕における主要生産物が穀類だったことで、食料の長期保存が可能になったこと、③農耕は計画的に余剰生産物を生み出すことができたこと。
  5. 蓄積された富は、ボスが集中管理することになった。なぜなら、人間が進化的に培ってきた分配の哲学は群れの規模が大きいとうまく働かないため、富を分配する社会的な仕組みを作る必要があったからだ。分配は、ボスの重要な機能になった。
  6. なお、ボスが富を集中管理することの正当性は、おそらく不作時に備えるための貯蓄を組織的に行なったということにあるのだろう。
  7. ボスが大きな富を持つことで、ボスの支持基盤も優先的に富が配分される。結果的に、社会は不平等になった。そして、生産と配分を組織的に行うため、行政が誕生した。文明の産物の一つだ。
  8. 安定したボスとその周辺、という社会構造は、群れ全体の満足度とは無関係に存立しているため、その矛盾を解消するものとして、時々、革命やクーデターが起こる。それを防止するため、社会の不平等を糊塗=言い訳する必要があり、そのために作り出された堅牢な論理体系が文明の核ではないか。それは神話によって表現されてきた。なお、民主主義もそういう神話の一つだ。
  9. 文明の別の重要な機能は、群れの全員が否応なく協力するように強制することだ。群れのサイズが大きくなると、協力しにくくなり、相互監視も難しくなる。そのため、協力を実現するために、天国と地獄という観念を生み出したのではないか。これは、現実世界における信賞必罰が不可能な状況で、善行=協力を行うインセンティブとなるからだ。つまり、天国・地獄、善悪という二項対立は農耕社会的なのだ。ただしシナ文明は例外。
  10. 天国と地獄自体は意義があるが、問題なのは、善悪の価値観を決めるのが支配体制だという点。これは一種の全体主義であり、これにより社会の構造が固定化され、社会を停滞させた側面もあるのではないか。
  11. 現代社会において、宗教やイデオロギーが世界的な大問題になっている理由の一つに、文明同士の思想統制合戦の面がないか。文明は、人間から多様な思想を奪ったという部分があるのである。 

私は、前回、農耕社会は繁栄しすぎたと書いた。そして、それこそが人類が不幸になったことを示唆していると書いた。しかし、これは矛盾していないか。普通は、繁栄は良きものであるはずであり、繁栄したら人間は幸せになるものである。

そこで、私の意図することをもう一度正確に述べてみたい。「繁栄」という言葉の意図するところは、人間は家族型の社会生物としては例外的なほど巨大な群れを構築できたことがまず一つ。もう一つが、群れの構造が非常に安定的だったこと。結果として、人間社会が持続的に発展することができたということである。もちろん、最後の結果については悪いところばかりではない。持続的に発展できたことで、乳幼児の死亡率の低下や公衆衛生の改善など、人々の福祉は概ね向上している。しかし、私が問題としたいのは、その前提となっている、「巨大で安定的な群れの構造」である。

私は、人類の本性というものを考えると、巨大で安定的な群れに所属することは必ずしも幸せでなかったのではないかと思う。狩猟採集生活において人類の祖先がそうであったように、せいぜい150人くらいまでのバンド(小集団)で生活することが人間は現在でも居心地が良いと思うし、群れの構造は適度に不安定要因がなければ、既得権益の保護が社会活動の中心になり、(特に若者の)精神が停滞してしまう。人類は常に創意工夫によって生き残って来た生物であり、停滞した群れで生きることは、息苦しさと退屈を招くことが明らかだ。

にも関わらず、農耕社会というものが非常にうまくいってしまったがために、人類の大部分には、農耕社会という巨大で安定的な、そして退屈な群れに所属するという選択肢しかなくなってしまった。そして、そこは、そこそこ居心地が良くて安全なのだ。ここに人類が抱えるジレンマがあるのではないかと思う。

さらに、前回は文明というものを農耕社会の社会維持装置であると述べたが、どういった意味で社会維持装置であるのか、ということについて深く説明しなかった。そこで今回は、なぜ人類は農耕社会において巨大で安定的な群れ=社会を形作ることができたのかということ、そして社会維持装置としての文明の機能について説明したい。この議論を行うなかで、なぜ農耕が人類最大の不幸なのかということの一端を明らかにしたい。

さて、まずは、「人類は家族型の社会生物としては例外的なほど巨大な群れを構築できた」ということから説明していこう。

以前述べた通り、生物の構成する群れには大きく分けると2種類があって、

(1)血縁のない個体が、集団を作っている場合(selfish herdという)
(2)血縁のある個体が、家族としてまとまっている場合

のどちらかである。しかし、人間の群れ=人間社会の場合は、どちらのタイプにも当てはまらず、非血縁者と家族が混在している。群れは一種の利害関係者の集団であり、その利害関係が一筋縄でいかないからこそ、人間の悩みの原因があるのだ、ということを以前は述べた。人間が巨大な群れを構築できた原因は、人間の群れが基本的に血縁ではなく「利害関係者」の集団であるということにある。

狩猟採集社会においては、利害関係者といっても血縁者、つまり家族が中心になる。なぜなら、狩猟採集は収穫逓減(diminishing returns)の生産方法だからだ。つまり、規模が大きくなるほど一人あたりの獲物の量は減る。群れの行動範囲にはいくらメンバーの数が多くても限界があり、 その行動範囲にある食料は一定なので、群れのサイズが大きくなりすぎると、群れを維持することが出来なくなるのだ。だから、狩猟採集社会においては、群れは小さいサイズのほうが概ね得なのだ。よって、自然と利害関係者は血縁者中心になってしまう。事実、現代の狩猟採集民族は例外なく血縁を基本にして社会を構成している。

一方、農耕社会においては、利害関係者が膨大にふくれあがってしまう。なぜなら、ここが重要な点だが、農耕は(ある程度まで)収穫逓増、あるいは同じことだが費用低減(diminishing cost)の生産方法なのだ。つまり、農耕には「規模の経済」が効く。農耕をする場合は、基本となる装置(灌漑、農耕具、生産計画の立案など)はどんなサイズの農耕でも必要である一方、これらが揃いさえすれば、規模を拡大すれば拡大しただけの収穫が期待できる。

なお、現代においては農業は収穫逓増ではない。なぜなら、土地の取得が非常に困難になっているからだ。これは、古代においても山間部などの開墾が難しい地域においては当てはまっていただろう。そして、収穫逓増という条件が最も良く合致するのは、単なる農耕ではなくて、灌漑農耕である場合であろう。だから、文明の起源として、単なる農耕ではなくて灌漑農耕を重視している学者も多い。もちろん、灌漑という大事業を成し遂げることに、文明の力が必要だったことは明らかだ。しかし、灌漑施設の構築には多くの人手が必要であり、これはある程度文明が発達した段階における精算方法だと思われるので、やはり文明の本質を考察する際には、基本は天水による農耕を考えるべきであると思う。

さて、農耕が費用低減的であるということは、農耕社会は本質的に拡大路線になりがちだということだ。しかしながら、規模の経済が効いたから人間は巨大な群れを構築できた、というほど話は単純ではない。ここで、以前議論した人間の特徴が効いてくる。すなわち、「不平等を甘受できる」という性質がそれだ。

この性質が、その説明の際にも述べておいた通り、巨大な群れを構成する際には不可欠な性質であることは明らかだろう。なぜなら、群れが巨大になるほど、大多数の人間は序列の末端に位置することになり、極端な不平等にも甘んじなくてはいけない。動物の群れの場合、いくら規模の経済が効くような状況になっても、ボスになろうとする本能が強いため、大きすぎる群れには必ず離反者が出てくる。つまり、一生ボスになれないなら、独立してやろうという選択をするのである。人間の場合もそのような選択はなくはないが、人間が協力行動から受ける利益は莫大であり、一匹狼的な生き方は大抵得にならない。将来の見込みが不確実でしかも収穫逓減的である狩猟採集社会においては、そういう生き方も得になったかもしれないが、農耕社会においては、収穫逓増であるばかりでなく、安定的な収入も確保されているわけで、群れから離反するインセンティブはぐっと低くなったはずだ

だから、人類は、「不平等を甘受できる」というその生来の特質を農耕社会において遺憾なく発揮し、巨大な群れを構成することができたのである。しかしこれにより、狩猟採集社会ではあり得なかったほどの不平等を生むことになった。そもそも、人類が「不平等を甘受できる」ように進化したのは、狩猟社会においては、ボスであることのウマ味があまりなかったからなのだ。つまり、群れの序列はあったが、実質的な差は大きくなかった。捕った獲物は群れの全員で分けることが狩猟採取社会の基本であり、ボスであるからといって、資源の独占はできない。しかし、農耕社会ではそうはいかない。農耕社会では富の蓄積が可能になった結果、ボスが資源を集約することが可能になったのだ。つまり、「不平等を甘受できる」という人間本来の性質が、元来想定していた程度を超えて、不平等の是認が行われたのだ。

ところで、なぜ、農耕社会では富の蓄積が可能になったのか。それには3つの理由がある。

一つ目は、定住である。定住することにより、簡単に移動できない大きな財産を持つことができるようになった。なお、これは厳密には農耕を必要条件とするわけではない。ただし、農耕開始以前でも定住していた社会はあると思われるが、大規模な定住が可能となったのは農耕開始以降であろう。

二つ目は、農耕における主要生産物が穀類だったことで、食料の長期保存が可能になったということである。なお、この点は、若干の留意を要する。人類は同時並行的に世界各地で農耕を開始したが、必ずしも穀類の生産を行っていた地域ばかりではない。たとえば、ある種のイモを主要生産物にしている社会もある。しかし、そういった社会は現代においてはかなり「遅れて」いるとみなされている(発展途上国であったり、いわゆる「未開」と呼ばれる地域にあったりする)。農耕と一言に言っても、長期保存可能な穀類の生産なのか、長期保存可能でないバナナやイモの生産なのかによって、その集団が辿った歴史は大変異なるものになった。中東で高度な文明が栄えたのは、メソポタミア川流域の人がとりわけ優秀だったわけではなくて、何を生産したかという歴史の偶然という側面も大きいだろう。

三つ目は、農耕は計画的に余剰生産物を生み出すことができたということだ。狩猟採集の場合は、収穫逓減的な生産様式であるため、必要以上の獲物を狩ることは難しい。一方農耕の場合は、100トンの生産でも105トンの生産でも必要なコストはそれほど変わらない。また、天候不順などによって栽培植物の生育が悪かった場合でも途中で作付面積を増やすことはできないため、自然と余裕を持って作付を行うことになる。その結果、仮に余剰生産を意識していなくても豊作時には余剰が生まれるのである。

そして、余剰生産物としての富は、自然と群れのボスに集中することになった。正確には、ボス個人の持ち物になったのではなくて、ボスの下で集中して管理が行われたのだろう。これは、生産物の「管理」には規模の経済(費用低減)が働いたということからの帰結である。この結果、群れのボスは狩猟採集社会ではありえなかったほどの大きな富を管理することになった。このことは、ボスがその富を群れのメンバーに平等に配分した可能性を排除するものではないが、大きな富を持った者がそれを進んで他人に分配するにはその理由がなくてはならない。富が自らの適応度を高めることが自明である以上、その富は我が物にしたいと思うのが自然だ。

社会のサイズが小さい場合には、収穫物の分配はかなり平等に行われることが経験的に知られている。特に極端な場合として、二人で生産したものをその二人で分配する場合は、その生産への寄与度のいかんに関わらず、かなり折半に近い形で分配されるだろう。これは、人類が狩猟採集時代に獲得した分配の哲学であると考えられている。狩猟においては参加メンバーの狩り行為への寄与度の個人差は大きい。最後のとどめを差す役割の人間もいれば、ただ周りを見張っているだけの役割の者もいる。そういったメンバーが、最終的には平等に獲物の配分にありつけるという期待があったことこそが、複雑な役割分担が必要な狩猟という行為を可能にした理由の一つでもある。

しかし、社会のサイズが大きくなると、収穫物の分配は必ずしも平等に行われない。おそらく、関係者の数が100人や200人を超えてしまうと、人類が狩猟採集時代に獲得した分配の哲学がうまく働かなくなるためなのだろう。そして、現代においてすら、どういった分配がもっとも良い(=効率的、公正、持続的)なのかは答えが出ていない難しい問題なのである。そういうわけで、なぜ人間本性に基づく分配の哲学がうまく働かなくなるのかは不明だが、とにかく我々は大多数の人間で資源を分配するのが苦手なのだ

先程、「ボスは生産物の管理を集中して行った」と書いたが、それは、人間が分配下手だったことで、人間社会が調停者を必要としたためであろう。多くの人間で分捕合戦をすると、対立が生じやすかったり、あるいは単に力の強い人間が多くを得ることになる。だから、ボスが分配を担うことにより、少なくとも無政府状態で分捕合戦をするよりは、より効率的に生産物を分配することができただろう。もちろん、ボスは狩猟採集社会においてもそのような役割を担っている場合がある。しかし、農耕社会においては、生産物の分配はボスの重要な役割、ひょっとすると最大の役割となっただろう

では、ボスは分配をどのように行ったのか。これは、一般論では答えの出ない問題である。ボスが何故にボスであるかという、政治的なバックグラウンドによって分配方法は大きく変わっただろうからだ。祭祀を司るシャーマン的なボスだったのか、遠い昔からあるボスの家系の者なのか、あるいは民主的に選ばれたボスなのか、下克上の成り上がりのボスなのか、といったことによって。だから、ボスが比較的平等に生産物を分配した社会もあった可能性も否定出来ない、しかし、それでも、ボスはきっと自分の手元により多くの資源を確保しただろう。なぜそう言い切れるかというと、農耕社会では、不作の時をどうするかという問題を解決する必要があったからだ

もちろん、狩猟だってあまり獲物がないときもある。しかし、彼らはそれを群れを移動することによって解決する。より獲物が豊富な場所に移るのだ。一方、大規模な定住をする場合は、天候不順になったからといって簡単には畑を移動することはできない。だから、天候不順の場合にも群れのメンバーを食べさせていくことがボスの役割として重要になってくる。そして、これに対する解決策は基本的に、組織的に余剰生産物を貯めておくということに尽きるのだ。非常時への対処ということであれば、群れのメンバーはボスだけが巨大な富を持っていることを不正だと思わない。だから、ボスは大きな富を所持することができたのだ。

そして、ボスが大きな富を持つことができるのであるから、当然ボスはボスの座を守ろうとするだろう。そのために、自らをボスたらしめている政治的基盤である、少数の群れの重要なメンバーには平メンバーよりも大きな富を分配するだろう。当然、それらの需要なメンバーは、自分たちの支持基盤には重点的に富を配分するようにボスに要求しただろう。こういうわけで、一度ボスに集中した富は、平等的というよりは階層的に分配され、結果としてかなり不平等な状態になるだろう。普通の動物では、このような不平等な状態では群れのメンバーが納得せず、安定的にボスが存立することができないと予見される。しかし、人間の場合、「不平等を甘受できる」という性質を生来持っていた。この性質は農耕社会と不思議なほどうまく噛み合い、ボスによる不平等な分配を受け入れることで、結果として不平等な社会をつくり上げることになった。

しかし、その社会は単に不平等というわけではなかった。生産と生産物の管理はボスの元に集約され、組織的に行われることになったからだ。もっと直接的に言えば、ここで行政が誕生したのである。行政機構は文明において必須の要素であるが、これは農耕を組織的に行うだけでなく、収穫物の配分を組織的に行うために必要であったと考えられるのだ。

ところで、ここで一つの疑問が生じる。もともと、分配の問題を解決することがボスの役割として大きかったと推測されるわけだが、結果として不平等な分配になってしまったということは矛盾していないだろうか。実は、これは矛盾しているのだ。ただし、ボスという権力の中心がなく、秩序のない無政府状態よりは、仮に多少不平等でも、安定的に分配することが可能ならば、その方が有益だったということは言えるだろう。一言で言えば、悪法もまた法なのである。

そして、この矛盾が、ボスという存在は必ずしも永続的でないという事態を生んだわけだ。動物の社会であれば、小集団の中で日常的に新陳代謝していくはずのボスの座が、人間の場合は革命とか、クーデターといった社会全体の大変革で行われていく理由がここにあるのである。極端に安定したボスとその周辺、という社会構造があるにも関わらず、その構造は群れ全体の満足度とは無関係に存立しているという矛盾があるため、その矛盾を解消するものとして、時々、群れ構造の地殻変動が起きる必要があるのだ。

なお、この考え方は一つの陰鬱な結論を導きだす。つまり、農耕社会におけるボスの構造、すなわち社会的富の分配は、本来的に矛盾を抱えているということだ。つまり、効率的で公正で持続可能な富の分配方法など、存在していないのではないか。西洋哲学が何百年も考えてきた正義とか公正は、少なくとも富の分配に関しては解のない問題なのかもしれない


さて、ボスとその周辺の人間にとっては、革命のような事態がそう頻繁に起こってしまっては困る。だから、公正な資源分配を行うためのボスの機能が、逆に不平等な社会を作り出しているという矛盾をどうにかして糊塗しなくてはならない。別の言葉で言えば、言い訳しなくてはならない。もちろん、単なる言い訳ではだめで、正常な推論能力のある大人が納得するような、堅牢な論理体系を造らなくてはならない。そういう論理体系こそ、あらゆる文明の核となるものであるように、私には思われる。文明とは、不平等を肯定するための言い訳なのだ

ちなみに、その言い訳には、例えば次のようなものがあるだろう。

その1。ボスは神の子孫であり、特別な人間である(日本=天皇制)。
その2。ボスは通常の人間が持っていない特別な霊的能力を持っている(古代エジプト、マヤ文明?)。
その3。ボスは優れて徳のある人間であり、神(天)がボスを選んだ(中国=易姓革命説)。
その4。ボスは国づくりした始祖(最初のボス)の一族である(ローマ帝国、中世日本=幕府)。
その5。ボスは群れのメンバーの選挙により選ばれた人間である(古代ギリシア、現代の民主国家)。

これらで全てではないし、厳密にはこのように分けられるわけでもなく、様々な要素を組み合わせてそれぞれの文明で論理体系が創りだされている。そして、そういった論理体系は、通常神話のようなもので表現されている。もちろん、神話の内容はこういう言い訳がましい内容ばかりではない。場合によっては、人類が狩猟採集生活だった頃の記憶を伝えているような古い神話もある。しかし、農耕社会成立以降に作られた神話は、こういう言い訳を行うことがその機能の一つだったといえないだろうか。

なお、多くの人は、「その5」とそれ以外には大きな違いがあると考えるかもしれない。選挙によるリーダーの選出法は、それ以外に比べて公正であり、透明性が高く、より適材適所となると考えられているからだ。もちろん、それは事実だろう。しかし、「その1」から「その4」に掲げたような方法では優れた政治が行ない得ないと考えるなら、それは間違いである。人類史のほとんどにおいて、「その1」から「その4」のような方法で王が選ばれてきた。それでも、現代を超えるような政治的成果を達成したことはあったし(例:モンゴル帝国の世界征服)、現代では得難いような英君も出現した(例:マルクス・アウレリウス・アントニウス)。そして、民主主義の下においても、ひどい愚行は行われてきた(例:ナチスのユダヤ人虐殺)。民主主義は、比較的うまく最悪の状態を避けることができるという意味で優れたシステムであるが、民主主義によるリーダーの選出は正しい方法だとするのは一種の価値判断であり、これが唯一の正しい方法だとする証明は誰にもできない。つまり、民主主義は現代の神話なのだ

さて、文明には他の欠くべからざる他の機能もある。それは、群れの全員を否応なく協力するよう強制する機能である。

群れのサイズが大きくなるにつれ、群れのメンバー全員が互いに利害関係者であることは難しくなる。そして、人類は、基本的には利害関係者同士でないと深い協力行動は発達しない。なぜなら、協力行動とは、協力によって双方の利益を高める行為として進化したものであり、「情けは人のためならず」的な部分も含めて、何らかの利益(利害)を必須の要素とするものだからだ。そのため、農耕社会が出現し、群れのメンバー数が膨れ上がるにつれ、どうやって人々を協力的にさせるかということが一つの課題になったに違いない。そもそも、農耕という生産様式は、高度に労働集約的なものである。だから、群れのサイズが大きくなって、協力が難しくなることは、農耕にとっては脅威である。

また、群れのサイズが大きくなるにつれ、相互監視の機能が弱まることにより、サボることも容易になっていったはずである。サボるだけでなく、不正を働くことも容易になっていったはずだ。これも農耕社会にとっては脅威である。これらの問題を解決できなかった社会は、解決した社会に比べて繁栄することはなかっただろう。

さて、群れのメンバーを協力させるという課題はどうやって解決されただろうか。私は、それは天国と地獄の観念ではなかったかと思う。人の善行と悪行のすべてを認知する超越的な存在(神)が我々の行動を見ていて、現世で善行(=協力)を行わないと、あの世とか来世で罰を受けるという思想は、そもそも現世での信賞必罰が不完全にしか履行しえないときにしか生まれえないものではないだろうか。その証拠に、トーミズムとかアミニズムの段階にあるような、狩猟採集民族の神話や伝承においては、善人と悪人の霊を峻別するようなことは普通ない。この世と似たような別の世界や、あるいはまさにこの世の一部(森、夜、地下など)になんとなく死者の霊が集っているというような世界観が多いように思われる。逆に、農耕社会を成立させた地域の神話は、多くが善と悪という二項対立的にものを考えており、善行を積んだ人の魂は天国へと行き、悪行を積んだ人の魂は地獄へ堕ちると教えている

天国と地獄という思想は、社会が巨大化し、利害関係が薄まることで自然な感情に基づく協力ができにくくなってしまうとともに、もはや相互監視も不可能になってしまったこと。それにより、悪=非協力を制裁することができなくなってしまったということ、にもかかわらず、農耕を維持するためには、悪=非協力を抑制し、善=協力を進めなくてはならなかったことが引き金になって生まれたものだということだ。現実世界で善=協力を行うインセンティブが実際にはなくても、あの世や来世での信賞必罰が待っているという観念は、そういうインセンティブを創りだすのである。

もちろん、全ての文明が、天国と地獄を生み出したわけではない。例えば、シナ文明ではあの世における善悪の対立という観念は薄い。これは、シナ文明が遊牧民族と農耕民族の対立の中で生まれたものであることが大いに影響しているのではないかと私は考えているが、さらなる研究を要するだろう。

さて、天国と地獄という世界観は、ある意味で残酷なものだが、協力行動を促進するのであれば、それもいいのではないかと思うかもしれない。確かに、私も善行にはしかるべき報酬を受ける権利があると思うし、悪行はその報いを受けることが必要だと思う。しかし問題なのは、善とか悪とかいう価値観が、支配体制によって決められるところである。人を欺くこととか、利益を独り占めにするといったような普遍的な悪については問題ないと思うが、体制に対する批判であるとか、支配階級に対する無礼などが最大級の道徳的犯罪であるとされることには、私には強い違和感がある。全体主義が持っている、体制を絶対とする思想が、天国と地獄という思想にはないと言い切れるか

もちろん、先程述べたように、巨大なサイズの群れで協力行動を促すには、天国と地獄のような思想は必要だっただろう。しかし、天国と地獄という、一種の全体主義的な思想が文明に組み込まれたことにより、社会の構造が不必要に固定化されてしまったとは言えないだろうか。私は、この意味で文明は社会維持装置であると考えている。つまり、善悪二項対立的な価値観を持つ文明は、その文明以外の価値観を認めないのである。そして、これこそが、逆に人類社会を停滞させる要因でもあった。本項の最初に述べた「群れの構造が安定的すぎた」ということは、この思想にも原因があるのである。例えば、天国と地獄の観念に悩まされ続けたヨーロッパが、中世、数世紀に亘って停滞した(逆の言葉で言えば安定した)一つの原因は、多様な価値観を認めることができなかったためであろうと思われる。

人は、「もはや天国や地獄といった思想は、リベラルな人の間では力を持っていない」と反論するだろう。しかし、文明とは、やはり一種の社会維持装置であり、天国や地獄というイメージを克服したとしても、依然として人をある一つの価値観に縛り付ける桎梏であると思われる。コミュニティにおいてメンバーが共通の価値観を持てなければ、人は精神的に耐えられないのも事実であり、ある程度そういった機能は必要であろう。しかし、小さいコミュニティにおいては、ある一つの価値観など不要なのである。なぜなら、そこでは、人は日常的な相互監視と互酬的なシステムのもとに生きているから、思想的な統制を要しないのである(これはこれで息苦しいが)。現代社会において、宗教やイデオロギーが世界的な大問題になっている理由の一つに、文明同士が壮大な思想統制合戦をやっているということがあるのであはないだろうか。それは、もはや思想以外には、膨大な人間をあるシステムに組み込む方法がないからなのであろう。そして、思想的に自由でなくなった人間は、息苦しさとフラストレーションの中で生きるしかなくなったのである。私が農耕を人類最大の不幸であるとする理由はいくつかあるが、思想的な自由を奪われたこともその一つである。

【参考文献】
民主主義が一つの神話であるということの参考として、「社会的選択と個人的評価」(ケネス・アロー著)を挙げておこう。この本では、ある程度限定された形では民主主義的選択が不可能であることを数学的に証明している(一般可能性定理)。また、これは本ではないが、ハル・ヴァリアンの1973年の論文「Equity, Envy, and Efficiency」では、かなり普通の条件の下でも、一般には資源の公正な分配ができないことが示されている。私は経済学には疎いが、資源の構成分配や社会的意志決定の科学的妥当性を考える厚生経済学は1970年代に盛んになったが、結局否定的な答えしか見つからなかったため、今では下火になっているという印象である。

2010年8月18日水曜日

農耕という不幸(1)壮大な退屈しのぎとしての「文明」

【要約】
  1. 定住と農耕は厳密には違うが、以下同一視して論じる。なぜ、定住=農耕社会の誕生は人類最大の不幸であると私が考えるか。
  2. 狩猟採集生活者になるということは、人類にとって革命的変化であり、このために蒙った精神構造上の変化が主に4つある。すなわち、①人類は、危険(スリル)に耐性をつける必要があった。②人類は、探求行動自体を楽しむ性質を強化する必要があった。③人類は、戦略性や役割分担、協力行動を発達させる必要があった。④人類は、持久性を強化する必要があった。
  3. 人類が農耕を開始した理由は、大まかに言えば、氷河期が終了したことによる食糧難への対処である。ただし、人類がやむにやまれず農耕を開始した根本の理由は不明であり、群れのメンバーに安定的に食料を供給することで、群れのボスが自らの権威を維持しようとしたということが農耕開始の理由だという仮説もある。
  4. 人類が農耕社会を成立させる上で、狩猟採集生活で身につけた精神構造は非常に役に立った部分がある。具体的には、 上記③や④の性質は明らかに農耕社会の成立に役立っており、むしろ、役割分担や協力行動、持久性などは、社会維持に必要な気質として狩猟採集社会におけるそれより重要だったと思われる。
  5. 逆に、 上記①や②の性質は農耕社会には全くマッチしない性質だっただろう。農耕にスリルや探求はなく、単純作業を受動的にこなしていくことは、ハンターとしての人類にはストレスだったに違いない。
  6. 農耕はハンターには退屈な生産様式であり、その退屈に対処することは農耕社会を成立させる上での大問題だったに違いない。人類(特に男性)は退屈さに適応することができず、ついに、壮大な暇つぶしとして、「文明」を創造するに至った。人間は、退屈になって、シンプルに生きることができなくなってしまったのだ。
  7. 農耕社会を維持する装置としての「文明」は、単なる退屈しのぎではない。その意味で文明は偉大である。しかし、農耕社会の成立により、人類が空前の繁栄を遂げたことが、逆説的に人間が不幸になったということを示唆している。次回はこれについて論じる。


私は以前、「定住社会の出現は人類最大の不幸だった」と述べた。しかしその際は、なぜ定住社会が人類にとって不幸であったのか、詳細に述べなかった。これはとても大きなテーマであり、その時簡単に触れるわけにはいかなかったからだ。そこで、ここからこのテーマについて議論していきたい。

まず、定住社会と農耕社会はほぼセットで語られることが多いが、この二つは厳密には別のものである。農耕社会であっても、焼き畑のように定期的に移動する社会もあるし、農耕をしない社会であっても、ほぼ定住しているような社会も存在する。例えば、縄文時代の日本は、本格的な農耕はしていなかったが、ほぼ定住しているとみられる集落跡が残っている。しかし、大まかに言えばこの2つはセットにしても問題ないと思われる。私は、重箱の隅をつつく議論をしたいのではなく、人類一般に適用できる考え方で議論したいと思う。その意味で、定住=農耕を同時に語るのは許されるだろう。今後、この二つの要素を峻別する必要がある時はそうすることにして、以降、定住社会=農耕社会という前提で論を進めたい。

というわけで、定住=農耕社会というものがどういうものだったのか、というところを明らかにし、それがなぜ人類にとって不幸なのかということを考察していきたいと思う。しかし、そのためには、迂遠なようだけれども、まずは狩猟採集社会について考えなくては行けない。なぜなら、我々人類は狩猟採集の生活様式に適応したサル(ape)であるからである

さて、以前も少しだけ触れたが、人類が食料採集(food-gather)から狩猟採集(hunter-gather)の生活にどうして移行したのかということは、厳密には解明できていないことだが、おおざっぱにそれをスケッチすれば、結局は食料問題への対処である。つまり、何らかの要因による環境の変化で、それまで熱帯雨林に棲んでいた人類の祖先は、サバンナや疎林のような所で暮らさざるを得なくなった。そして、サバンナや疎林には、それまで主食にしていたような果実、昆虫、植物が圧倒的に不足していた。そのため、人類は新しい食料源を開発せざるを得なかった。この問題を解決した一つの要因が、以前にも触れたが二足歩行による自由になった前足=「手」の誕生である。自由で器用な「手」を獲得したことにより、殺傷能力が高い武器を扱うことができるようになった人間は、サルとしては例外的な攻撃力を身につけた。その攻撃力で狩りをすることができるようになったのだ。これが狩りをするサル、人間の誕生である。

こう書くと、いかにもコトが簡単に進んだように思われるが、食料採集から狩猟採集への移行は大変な革命だった。なにしろ、この二つの生活様式は似ている様だけれど、その本質において全然違う。食料採集は、周りにある食料を見境なしに食べればいいだけの単純なライフスタイルだが、狩猟採集というのは、文字通り「狩猟」をしなくてはならない

「狩猟」というのは、採集とは全く次元を異にする食料獲得法である。狩猟には高い計画性が必要だし、協調して行動することも必要だ。端的に言えば、人間の祖先は、別の生物になった、というくらいの変化を蒙ったはずだ。人類が被った変化はたくさんあるが、ここでは特に精神構造上において、どういう変化があったのかということを、考察しよう。

変化その1。人類は、危険(スリル)に耐性をつける必要があった。なぜなら、狩りは大変危険な行為である。強力な肉食獣、例えばライオンであっても、獲物の草食動物からの反撃で負傷してしまうことはままあることだ。ましてや、人類の祖先は、所詮サルである。狩りの目的はおとなしい草食動物だったとしても、狩りの途中で肉食獣に襲われる危険性はあったし、人類の祖先が狩りを始めた時代は温暖で大きな哺乳類が世界を闊歩していた時代だった。だから、人類は危険をものともしない性格を身につけたはずだ。もっと言えば、人間は危険(スリル)好きに進化したと思われる

変化その2。人類は、探求行動自体を楽しむ性質を強化する必要があった。これは食料採集生活においても必要な資質だが、狩猟を行うことにより、よりこの性質は強化されたはずだ。この主張が述べる内容は、人間は、狩りの成功のような成果を喜ぶのはもちろんだが、狩り=探求行動という手段を目的化してしまったということである。本来は、狩りという探求行動は獲物を得るために払うべきコストであり、狩り行動自体は少なければ少ないほどよろしい。しかし、狩猟というのは偶然にも左右されるし、常にうまくいくとは限らない、成功率の低い行動である。そこで、獲物という目的のみをインセンティブにして行動が発動するようにすると、狩りが失敗するたびに強いストレスを感じるようになってしまう。(パブロフの犬のように、得られるはずの獲物が得られないということが、ストレスになるのである。)

そこで、狩りを行う生物はほとんど、狩りをすること自体が好きになっている。これが、猫がすでに半ば様式化してしまっている狩り行動を繰り返す理由だ。狩りは肉食動物のストレスを解消するのだ。これはもちろん、一つ目の変化であるスリル好きに進化したという点とも関連がある。狩りをする生物は、多かれ少なかれ、成果(獲物)だけでなく、過程(狩り)自体を求めているのである

変化その3。人類は、戦略性や役割分担、協力行動を発達させる必要があった。単独で狩りをする虎のような肉食獣もいるが、ライオン、ハイエナ、オオカミのような集団で狩りをする生物もいる。そして人類は、もともと社会性の生物として進化したこともあり、集団で狩りを行う生物となった。むしろ、人類は、集団の力を用いてしかそのような困難な課題を解決できなかったであろう。そして、集団で狩りをするために必要なものは、戦略性や役割分担、そして協力行動だ。獲物をどうやって特定するか、どう追いつめるか、誰が最初の鑓を投げるか、誰がとどめを刺すか、など、狩りには高度な戦略性と役割分担、計画に沿って統制された協調が必要だ。そして、そのためにはもちろん意志決定権を持つボスの存在が不可欠だし、以前議論したとおり、それ以上にボスに従う多くの個体が必要である。本来競争的で不安定なはずのボスの地位が人類では特異的に安定していたことが、群れ内の協力行動を促進した理由ではないかということも既に述べておいた。

変化その4。人類は、持久性を強化する必要があった。これはなかなか不思議なところである。本来、狩りをする生物は、瞬発力で獲物を倒すというパターンのものが多い。というよりも、人類以外だとそのパターンしか存在しないのではないだろうか。肉食獣は、持久性はないが、ものすごいスピードやものすごい力を一瞬だけ発揮できるようになっている。草食動物も、その肉食獣へ対抗するため、瞬発的にすごい早さで逃げる能力を進化させている。

しかし、人間は、狩りをする生物としては特異的な戦略、すなわち、ねちっこくどこまでも追いつめるという戦略を採用したようだ。こんな狩猟戦略は、他の肉食獣には見られない。なぜ人間がこのように例外的な、むしろ自然の摂理に逆行するとも言える戦略を発達させたのかはよくわからない。おそらく、人類の祖先は非常にか弱い存在で、狩りに使える瞬発的な力を進化させるほどの余裕がなかったのであろう。

人間の持久性は高いというと訝しむ向きもあるかもしれないが、実は人間は自然界では例外的なほど持久性がある。もちろん、渡り鳥とか、回遊性の魚のほうが持久力があるけれど、大型哺乳類で100㎞マラソンをこなすことができるのは人間くらいではないか。例えば、持久力があるように思ってしまう馬なども、15分も走れば休憩が必須である。そして、この持久性というものは、なにも肉体的なものだけではない。精神的なものにおいても必要なものだ。いくら肉体が持久性を持っていても、その肉体を扱う頭脳に持久性がなければ、人間は決してマラソンなどできはしないだろう。ライオンなどの肉食動物を見ているとわかるが、彼らは狩りをしないとき、ほとんどぼーっと過ごしている。つまり、怠惰な生物なのだ。人間の場合、以前説明した食生活の嗜好(食べ続け)と相俟って、ほとんど勤勉といってもよい持久性を獲得している。さらに、「変化その3」で述べたような戦略性とこの持久性が組み合わされることで、人間は長期的な計画が立てられるようになったと思われる。食料採集社会では計画性が発達しないということではないと思うし、一方で現代の狩猟採集民族が長期的な計画の元に行動しているとも思えないが、少なくとも、数日間に及ぶような狩りをするには、数日単位での計画性は必要である。人類は、勤勉で計画的な肉食獣なのだ

さて、以上、人類が狩猟採集生活者となるために必要だった変化をまとめておこう。なお、狩猟生活を開始するにあたって人類が被った変化はこれだけではない。これらは、これから議論することに有益であると言う視点で掲げているものである。
  1. 人類は、危険(スリル)に耐性をつける必要があった。
  2. 人類は、探求行動自体を楽しむ性質を強化する必要があった。
  3. 人類は、戦略性や役割分担、協力行動を発達させる必要があった。
  4. 人類は、持久性を強化する必要があった。
我々は、後にこれらの性質がどのように農耕社会の成立に役立ったのか、あるいは邪魔になったのかを見ることになるだろう。

では次に、狩猟採集社会から農耕社会に移行した時に人類が被った変化のことを考えてみたい。その前提として、なぜ人間は農耕などというものを開始したのかということを少し考察しよう。もちろん、狩猟採集生活を始めた際と同じように、食糧問題への対応という意味合いが大きかったことは間違いない。当時の気候について振り返ってみると、1万年前から8000年前くらいまでに、氷河期が終わりを告げる。人類は、寒冷な気候におけるハンターとして繁栄していたが、氷河期の終了でマンモスのような大型哺乳類は絶滅し、全地球的に植生が変化する。おそらく、人類が食料としていたような動物は劇的に減少したに違いない。そういう状況で、人類は食糧不足への対処を迫られただろうその一つの解決策として「発明」されたのが農耕であったと思われる

氷河期の終了で地球が温暖化し、穀物のように温暖な気候で育つ植物の栽培が容易になったことも、人類の農耕社会の構築を後押ししただろう。しかし、食料問題に対処するという理由だけで、肉食生活から草食生活に移行するに足る圧力を人類が受けたのかよくわからない。狩猟採集生活の開始ということについては、サバンナや疎林という食物の乏しい環境に適応するためという理由で十分説明できるように思えるのだが、氷河期後の食糧難はそんなに苛烈なものだったのだろうか。主観的な意見だが、人類には、大型哺乳類の多くが絶滅した世界で、小粒なハンターとして細々と生きる道も残っていたように思われる人類がやむにやまれず農耕を開始した理由は、よくわからないのだ。

というわけで、農耕が誕生した本当のところの理由はよくわからないのだが、ここで面白い説を紹介しておきたい。農耕の開始を、王権の誕生と結びつける仮説で、こういうものだ。狩猟採集生活では、ボスの権威は決して高くない。なぜなら、ボスは、必ずしも群れのメンバー全員に対して常に十分な食料を配分できるとは限らないからだ。狩猟は、一種の博打のようなもので、いくら優秀なハンターであっても、例えば獲物となる動物がいなければ狩りのしようがないし、仮に獲物を首尾良く発見したとしても、成功率はそんなに高いものではない。一方で、群れのボスには権威を維持しようとするインセンティブが常に働いていたはずだ。しかし、狩猟生活を行っている限りは、食糧供給は安定的にはなりえない。さらに、先述の通り氷河期の終了と温暖化によって、狩りの成果は得にくくなってきている。そこで、群れのメンバーに安定的に食料を供給し、自らの権威を維持するために農耕を開始したというのだ。

この仮説の面白いところは、普通は農耕開始以降に階級格差などが広がったとされるのに、この説では逆に階級格差を維持するために農耕を開始したと考えるところである。もちろん、この仮説は現在支配的な仮説ではない。むしろ、かなり異端的な仮説と言えるだろう。しかし、既に書いたように、人類の不平等を許容する性質は、狩猟採集生活において身につけられたものであり、このような説をあながち簡単に棄却すべきでないように私には思われる。

さて、少し話が逸れたが、理由はともかくとして、人類は1万年から5000年くらい前の間に農耕を開始したということだ。これが、人類にどのようなインパクトを与えただろうか。おおざっぱに言って、私は農耕社会という群れの在り方は、意外なことに、それまでの人類の精神構造に非常に都合がよい部分があったと考える。そして、そこにこそ、私が農耕の開始は人類最大の不幸だという理由があるのである。

その理由について具体的に示していこう。まず、農耕をする社会とは、どのような社会だろうか。狩猟採集との違いはなんだろうか。これについて、先ほど示した、人類が狩猟を開始するにあたり被ったに違いない4つの変化に即して考えよう。

まず、3つ目と4つ目を考える。すなわち、「3.人類は、戦略性や役割分担、協力行動を発達させる必要があった」と「4.人類は、持久性を強化する必要があった」についてはどうだろう。これは、まさに農耕社会でも求められることである。単に自分の周りにある果物などを消費する食料採集社会は、かなり刹那的な社会であり、明日のことは明日考えるというもののはずだ。一方で、狩猟や農耕には高い計画性と持続性が求められるし、高度な役割分担や協力行動が必要だ。私は、人類は一度「狩猟」というライフステージを経なければ、決して「農耕」という文化を生み出すことはなかっただろうと思っているが、まさしくこの2点は、農耕社会の成立に役立った性質であろう

むしろ、役割分担や協力行動、そして持久性は、狩猟よりも農耕においてその本領を発揮する性質だったのではないだろうかとすら思える。先ほど述べたように、持久性などは狩猟戦略としてはかなり例外的なものであり、役割分担や協力による狩りも、人類がか弱いサルだったからこそ編み出した戦略であった。それなのに、ひとたび農耕というライフスタイルを身につけるや、役割分担や協力行動、持久性などが、社会維持にもっとも重要な気質として脚光を浴びたように思えるのである。

次に、1つ目と2つ目を考える。すなわち、「人類は、危険(スリル)に耐性をつける必要があった」と「人類は、探求行動自体を楽しむ性質を強化する必要があった」については、どうだろうか。この2つの性質は、農耕社会においては全くマッチしない性質だっただろうと思われる。ハンターとしての人類の視点からすれば、農耕などという生活は非常に退屈だったに違いない。農耕にスリルはなく、基本的には単調な作業の繰り返しである。そして、探求的でもない。農耕はどちらかというと受動的な作業であり、降雨や気候、病気や害虫など、その場その場の状況によって、適切に対応していくことが中心である。農耕が退屈というのは、決して農耕に知性を要さないというわけではなく、むしろ判断力という意味で言えば狩猟よりも高レベルの判断力が求められるだろうが、その内容が受動的なものになりがちで、新規な事件への対処というよりは、既知の知識の総合という側面が強いということである。農耕にアドレナリンは必要ないのだ

だから、人類が農耕社会を構築するに当たっては、どうやってその退屈に適応するかは大問題だったはずだ。例えば、猫に狩りを禁じると非常なストレスを受ける。もちろん、檻の中のライオンもそうだ。そういった、狩りをする生物が狩りを禁じられた状態は非常なストレスのはずで、人間も同様の課題に直面したに違いないと思えるのだ。

そこで、本当に人間は探求と危険(スリル)が好きなのか。そこに疑問を持たれる方もいるかもしれない。しかし、現代社会を見ても、探求とスリルを求めて娯楽に打ち込む人間は多い。探求の例としては、クイズ、パズル、学問、推理小説など。スリルの例としては、ジェットコースター、ギャンブル、モータースポーツなどだ。特にハリウッド映画では探求とスリルはエンターテイメントの要素として大きく、謎解きとアクションはヒット映画に必要不可欠のものだ。

ただし、一つ付け加えておくと、狩猟は元々男性の仕事として進化したために、こういった狩猟採集社会的特質は男性の方がより強く受け継いでおり、女性についてはこういった傾向は希薄である。女性については、拠点地(巣)からの移動をあまり行わない生活をしていたと思われることから、コミュニティ(ゴシップ、うわさ話、ドラマなど)や営巣(家具、装飾など)、自己投資(グルメ、ファッションなど)が娯楽としての強い関心になっている。

さて、農耕という(狩りに比べて)単調な作業を強いられることで生じた退屈に、人間はどうやって適応したのだろうか。現代社会における娯楽を簡単に概観するだけでわかるように、ある程度人間は単調さに慣れたものの、探求とスリル好きは本質的には矯正できなかったというのが私の考えである。では、どうやって退屈さを紛らわせたのか

その答えが、「文明」の創造ということではないかと私は思う。つまり、退屈さを紛らわすために人間は文明を作ったのだ。文明が持つ特質、例えば、制度、象徴(シンボル)、儀礼、行政などを考えてみるとよい。どれも、この世をややこしくするために作られているようなものではないか。複雑で難解な古代の風習や神話を学ぶと、どうしてこんなに迂遠な方法で世界を理解し、社会を構築していたのかと疑問に思うが、それが退屈を紛らわすためであれば、私には非常に納得できるのだ。そう、人間は、退屈になって、シンプルに生きることができなくなってしまったということだ。

もちろん、文明を造り出したことは偉大なことだと思う。そして、次回述べたいと思うが、文明は、単なる退屈しのぎではなく、もちろん意味のある退屈しのぎ壮大な暇つぶしであった。普通、文明というものは、農耕の開始により社会が複雑化・巨大化することによって誕生したもののように思われているが、私の考え方は逆で、農耕社会を維持する装置として文明が創造されたと見る。そして、社会維持装置としての文明という側面こそ、文明の価値ではないかと思う。

さらに、私の主張したいことは、繰り返しになるが、本来狩猟採集生活に適応していた人類の精神が、農耕社会においては不自然に機能してしまったということだ。具体的には、役割分担や協力、そして持久性という性質はあまりにも農耕に適しすぎており、農耕という生産方法を過剰に成功させた(どのあたりが過剰なのかは次回述べる)。逆に、スリルと探求好きな性格は、農耕という退屈な生産方法に全く適しておらず、その捌け口を求めた。つまり、人類の精神は、農耕に適しすぎていた部分と全く適していない部分があったということだ。そして、幸か不幸か、これらはプラスマイナスで考えると大きなプラスであり、農耕の開始は人類を空前の繁栄に導くことになったのである。そして逆説的だが、この空前の繁栄こそが、人間が不幸になったことを示唆しているのであり、それについては次回論じたい。

【参考文献】
文明を退屈しのぎとして見る見方に通じるものとして、文化の起源を欲望の充足を困難にするための方法として考える見方を提供してくれる極めて面白い本が「誘惑される意思 -人はなぜ自滅的行動をするのか」(ジョージ・エインズリー著)である。未来価値の割引率が指数的でなく双曲的であるということから、多くの「不可解な」自滅的行動を説明している。また、欲望は簡単に充足させられるよりも、充足が困難な方が欲望としての価値が高いという大変興味深い説を披露してくれている。

2010年8月9日月曜日

「家族」の論理(5)婚姻制は社会を安定させる道具になった

【要約】
  1. 婚姻制は社会の安定には役だったが、それは良い面ばかりではないことを述べる。
  2. 一つ目のテーマは婚姻制と政治。そもそも婚姻制は政治的ではなかったが、「社会を安定させる」という機能は極めて政治的なものだ。
  3. 人類の祖先は狩猟採集社会のもとでも戦争をしていただろう。しかし、その戦争は大きな利益を生むものではなかった。利益の小さい戦争が頻発することは社会的損失であるため、戦争防止の方策の1つとして、近隣の集団との同盟があった。その同盟関係を担保するため、族外婚が使われたのではないか。族外婚は、同盟関係の維持に有効で、その上遺伝学的にも合理的だ。
  4. 婚姻制は愛や嫉妬などの自然的感情を補完するものに過ぎないのに、なぜ婚姻制を道具として使うことが可能だったのか。理由は、①女性にとっての男性の価値は、資源提供能力であり、愛はそれを確実にするために発達したものだったから。②特に男性にとっては、婚姻関係を持続させるインセンティブがセックスにあったから。③配偶者探しが容易になるため、特に男性にとっては、結婚相手が社会的に決まることが歓迎されたから。という理由が考えれる。
  5. 族外婚は、普通女性が他の集団に嫁ぐ形を取る。なぜなら、集団間の友好のためには、価値あるもの=女性を提供することが必要だからだ。そのため、族外婚を行う社会は男系的になる。これが家父長制を生み出す一つの要因になる。
  6. 婚姻制の存在以前の社会は、基本的に母系社会だった。なぜなら、親子関係が確実なのは母子だけだからだ。しかし、族外婚により、家系の中心は男性になった。そして、女性を価値ある「資源」と見なす考えが発生しただろう。婚姻制は、生物学的には自明ではない、男系社会=家父長制を生み出した。
  7. 二つ目のテーマは、婚姻制と相続。相続は、人の悩みの種である。世代間対立は、親はできるだけ少ない資源で子供を育てようとし、子供は親からできるだけ多くの資源を引き出そうとすることから生じる。しかし、人生の最期には持てる資源を全て子供に与えることが合理的であり、それが相続だ。
  8. 男系社会において定住・農耕社会が成立すると、男性から大きな資産が相続されることになるので、家父長制が生まれた。だが、男性は相続のリスクも抱えていた。
  9. 相続は、誰にどのくらいの資源を与えるか決めるのが困難だ。①平等な相続、②子供一人への相続、③②の特殊な形態として長子相続、④親がその状況に応じて決める、⑤相続しない。このような方法のどれにもメリット・デメリットがある。相続にはきょうだい間の対立の防止と、社会的序列の維持、未来への投資の3つの観点があり、それらが矛盾するものだからだ 。
  10. さらに、どれくらい相続可能な資産を残すのかということも考えなくてはならない。 人間は、資産の管理と継承という問題も考えなくてはならなかった。
  11. 安定的な相続法を確立させた社会は繁栄しただろう。それは、格差の固定化も生み出し、階級制のきっかけともなった。階級制は、社会の安定のためにはよかったかもしれないが、社会の流動性を阻害し、社会を停滞させる要因でもあった。
  12. 婚姻性を道具として使うやり方が発展したのは、それが社会の安定に寄与したからだ。社会の安定は、社会全体で考えると良いことだが、個人のレベルでは必ずしも良くない。人類のジレンマの一つがここにあるのではないか。 しかも、実は長期的には社会の活力を失わせる要因にもなる。安定していることはリスクでもあるのだ。

前回は、婚姻制は社会を安定させる機能があったと述べた。下剋上的にパートナーが入れ替わっていく世界より、ある程度パートナーが安定していた方が、群れとして協力することもより容易になるし、その結果として、婚姻制のある社会は、それがない社会よりも繁栄するだろう。

このように述べると、婚姻制は素晴らしい発明だ、ということになりそうなのだが、今回は、婚姻制は良い面ばかりではないということを示したいと思う。もちろん、婚姻制がある意味での桎梏であって、例えばより魅力的なパートナーが現れた時に柔軟な対応ができない、といったようなデメリットはすぐに思いつく。しかしながら、そもそも婚姻制はそういう行動を抑制するために誕生したのであって、今回はそういう観点では考えない。むしろ、婚姻制の誕生から帰結するところの種々の結果を、二つのテーマのもとに論じてみたいと思う。

さて、まず一つ目のテーマとして、婚姻制と政治について考えてみたい。なぜ婚姻制が生まれたのかということを振り返ってみると、 そもそも人類においては、女性が子育てのために男性からの資源を要したということから、序列上位の男性による女性の独占ができなかった、ということに端を発している。序列と配偶の相関関係が弱くなったことで、配偶者獲得競争を激化するよりも、「婚姻」という形で配偶関係の社会的決定を行うことでそれを緩和するメリットが男女双方にとって大きかったということである。だから、そもそも婚姻制は政治的ではなかった

では、なぜ政治というトピックを出したのかというと、「社会を安定させる」という婚姻制の機能が、極めて政治的なものだからである。ただし、人類が狩猟採集生活を行っていた時代には、婚姻制の政治性はあまり強くなかったのではないかと思う。狩猟採集生活においては、大きな群れを構築することはできないし、既に述べたようにボスである利益も大きくなく、人間の政治性はそんなに高くなかったと思われるからだ。しかし、群れの中だけ見ればそうなのだが、群れの外まで見ると、そうともいえないかもしれない。

一時期、「高貴なる野蛮人説」なるものが流行ったことがあった。それによると、人間社会に存在する問題は文明化以降に生じたものであり、文明化以前の段階にある現代の狩猟採集民においてはそれらの問題が存在せず、彼らは原初的な精神の高貴さを保持しているということだ。私自身、人間社会に存在する問題は、文明化以降、特に都市化によって生み出されたものが多いと思っており、この説に賛同できる面もある。しかし、狩猟採集民が高貴な精神を持っているのかというと、はなはだ危うい。彼らも、我々と同じ人間であり、別にどちらが高貴でどちらが野蛮というわけではない。環境が違うので、違った振る舞いをするというだけであり、彼らの社会が特に道徳的な意味で何も問題ないというのは行き過ぎである。

現在は、「高貴なる野蛮人説」を信奉している人は、少なくてもメインストリームにはあまりいない。例えば、殺人、嬰児殺し、復讐、戦争などというものは狩猟採集民の世界でも存在しているし、その発生率は、現代の先進国におけるよりも高いというデータもある。私は、人類の発明の中でも「法」はかなり偉大なものだと思っているが、社会の安寧を守る透明性の高い仕組みがない状態では、人間はどんな環境にあるにせよ、何をするかわからない

さて、少し話が逸れたけど、ここで述べたかったことは、狩猟採集民族においても、基本的な精神構造は人間として同じであり、必要に応じて戦争もしたし、そして戦争終結の際に和睦も結んだに違いないということである。

狩猟採集民における「戦争」というのはちょっと混乱させるものの言い方で、戦争については別の機会に述べることとするが、「戦争」といっても、19世紀以降に普通になった全面戦争のようなものを意味していない。 ここでは、どちらかというと現代の内戦のようなものをイメージした方がいいのかもしれないが、別のコミュニティとの組織的戦いという意味で、以後「戦争」の用語を使用することとする。

さて、狩猟採集民が戦争をする場合はどんな原因があるかというと、領土問題、怨恨(報復)、歴史的対立などがあるようだが、その原因についてはここでは詳しく述べない。むしろ、このような場合では、勝利したとしても大きな利益を生むものではないということに留意したい。領土問題については、猟場の確保など、生産面に与える影響も大きいようだが、狩猟採集の生活をしている限り、自ずから資源には限界があることもあり、実際には死活問題ではないと私は考える(ただし、これをしっかり主張するためには、ちゃんとした実証研究を待たねばならない)。

ということで、大きな利益を生むものではないのに、なぜ戦争が起きるか、と言う疑問が生じる。最も普通に考えられるのは、一回の戦争では利益が大きくなくても、それが何回も繰り返される場合、戦争する方が得になったからだ、ということだ。実際、ゲーム理論において、一回切りのゲームと無限回繰り返しのゲームにおいては、均衡(安定的な状態)が異なる場合がある。一回切りの戦争においては、領土を割譲することが合理的な場合でも、それが終わることなく繰り返されると、結局領土がなくなってしまう。だから、好戦的な民族がどこかにいる限り、戦争は(潜在的には)なくなりはしないのだ

しかし、大して利益のない戦争を続けているようだと、その地域に住んでいる民族は、結局は疲弊してしまう。領土問題は、典型的なゼロサムゲーム(つまり、関係者の利得を合計すると0になる)だし、怨恨や歴史的対立は、おそらく得をする集団がどこにもない。結局何がいいたいのかというと、狩猟採集生活においては、できるなら戦争しない方がよいということだ。一方で、好戦的な民族がどこかにいる限り戦争はなくならないので、戦争を防止する手段を発達させなければならない。これは現代世界でも同じことで、国家間同盟のほとんどは国際的係争の防止を主要な目的としていると考えられる。

現代の世界であれば、条約に署名すれば同盟を結ぶことができるが、古代社会において、どのようにして戦争の防止、すなわち集団間の友好関係を確立することができただろうか。文字がないから、現代のような条約を締結することはできない。ただし、文字がないことは実はそんなに重要ではない。約束を履行しなかった時にペナルティがちゃんと存在することこそ、約束を成立させる必須の要素だけれど、 古代社会ではこれが難しい。現代においても、国際連合がうまくいかないのは、ペナルティを課すという制裁力が弱いという要因が否定できないだろう。

さて、戦争は防止したいが、集団間で約束を結ぶことが難しい。そこで、我々の祖先はどうしたか。これにはいろいろな考え方がある。例えば、交易による相互依存関係を発達させたとか、ある種の儀礼などを発達させて定期的に友好を確認するとか、いろいろな方法があったことだろう。そして、この方法の一つとして、婚姻制を用いた友好関係の保持があったと考えられる。つまり、「族外婚(族外結婚)」の風習である。

族外婚とは、同族内で婚姻することが出来ず、通常ある決まった外部集団と婚姻する制度のことを言う。例えば、A族の男は必ずB族の女と結婚しなければならないとか、C族の女はD族の男と結婚しなければならないというような方法である。

もちろん、これには適応的な意味がある。同族による婚姻を繰り返すと、劣性遺伝の形質が発現する確率が大きくなる。だから、 新しい血を入れることが必要で、そのために族外婚は遺伝学的に合理的だ。しかし、単に新しい血を入れることだけが目的であれば、決まった集団にパートナーを求める必要はなく、単に同族外と結婚すればよいだけだ。族外婚には多分に同盟の要素があるのである

婚姻制は、同盟には非常に便利だ。血縁者は常に重要な利害関係者であり、自分の娘や息子、孫がいる集団に対して戦争を仕掛けようと思う親はあまりいないからだ。しかも、遺伝学的な合理性もある。これは非常に都合がいい方法であったに違いない。

しかし、なぜ婚姻制を道具として使うことが可能だたのか。既に説明したように、人間の配偶関係は愛という非合理的感情を基盤にしている。そして、それを補助するものとして嫉妬という感情がある。つまり、感情的な結びつきが基本なのだ。婚姻制は、それを補完するものに過ぎないはずだ。それなのに、感情的な結びつきがない状態で、政略結婚がいかにして可能なのか。それには、3つの要素が関係していただろう。

一つ目は、女性にとっての男性の価値は、資源提供能力であり、愛はそれを確実にするために発達したものである、という点。つまり、愛はそれ自体に価値があるのではなく、本当の価値は男性が提供する資源にある。だから、政略結婚であっても、その男性が自分や子供の面倒をちゃんと見るのなら、その男性には価値があった。

二つ目は、特に男性にとっては、婚姻関係を持続させるインセンティブがセックスにあったという点。こういう言い方をすると身も蓋もないが、生殖能力を持つ女性であれば、男性にとっては誰であれ十分に愛すべき対象だったのかもしれない。

三つ目は、配偶者探しが容易になるため、特に男性にとっては、結婚相手が社会的に決まることが歓迎されたのではないかという点。これは、上記二つとはちょっと別の理由である。上記二つは、基本的に「愛」がもともと生じていないようなところでも、婚姻によって二人には愛(のようなもの)が生じ得るという理由である。しかし、これは、族外婚は男性にとって都合が良かった、という理由である。ではなぜ男性にとって都合が良いかという点を説明したい。

族外婚の説明をした際には、詳しく述べなかったけれども、A族の男はB族の女と結婚するというルールがあったとして、このルールは具体的にはどのように運用されるかというと、一般的には、女性の方が男性の家系に嫁ぐ形を取る。なぜならば、族外婚は集団同士の友好のため、すなわち同盟のために行われるものであるので、基本的に価値有るものを別の集団に提供する必要がある。そして、婚姻市場において本質的に価値があるのは女性であって、男性ではない。なぜなら、極論を言えば、男性は一人いれば、多くの女性を妊娠させることができるが、子供を生むという女性の機能は他のものでは代えられない。

だから、族外婚を進める場合、基本的に社会は男系的になる女性は生まれた村を離れて、男性の待つ村へ嫁いでいかなくてはならないからだ。私は、ここに家父長制の起源があるのではないかと思う。

婚姻制の存在以前という原始社会を考えてみると、基本的に人類は母系社会を形成していたのではないかと思われる。なぜなら、男性にとっては、生まれてきた子どもが自分の子供であるか確証は持てないからだ。だから、自分の子供の面倒を見るよりは、新たなパートナー探しに頑張った方がいいかもしれない。もちろん、子供の面倒を見なければ、本当の自分の子供もうまく育たないかもしれないので、子供を全く無視していたわけでもないだろう。ただ、男親と子供には、強い結びつきは生まれていなかっただろうと思われる。基本的に子供は、父親よりも母系の親類から厚い保護を受けたに違いない。つまり、社会構造は母系が中心でおり、男系はそれに付随して理解されているに過ぎなかっただろう。

しかし、族外婚を進めたことで、女性は出身の家系から分断されるようになり、いきおい社会は男系が中心になった。そして、「女性は他の集団へ提供する資源だ」という考え、つまり女性をモノとして見なす考えが広まり、今風に言う「女性の地位」が下がったであろう。今でも、族外婚という風習をフェミニズムに反するものとして非難する人がいるが、私は、その批判は当たっていると思う(個人的には、フェミニズムという考え方はよくわからないが)。そして、「愛などというものは、18世紀のロマン主義(あるいは12世紀の中世騎士道)が生み出した幻想だ」といったような、「高貴なる野蛮人説」に立脚した考え方の方が間違っていると思う。狩猟採集民の社会制度が、なぜ人間本来のものであると言い切れるのか。ここで説明したように、族外婚が生まれたのは、単純に集団間の同盟関係を確実にするためであって、愛のような人間の自然な感情には反したものであったかもしれないのだ

そして、婚姻制は本来、愛や嫉妬という自然な感情を補完するものとして生まれたのにも関わらず、社会の安定のためとはいえ、そういった自然な感情が置き去りにされ、婚姻制が単なる社会維持装置になってしまったということは、皮肉ではないだろうか。戦争が起きないことは重要だが、そのために不幸せな結婚がなかったとは言えないのである。

ここで主張を繰り返すと、婚姻制を族外婚という制度とあわせて運用することにより、男系社会が出現したのではないかということだ。もちろん、もともと軍事や政治といったものは男性の領域であり、族外婚という考え方自体が政治的である。つまり、男性同士の緊張を緩和するために族外婚のような制度が創りだされたという側面もあっただろうから、族外婚は男系社会の原因なのではなく、むしろ男系社会の結果として、生み出されたのではないかという考え方も可能である。しかしながら、この二つの現象の因果関係がどちらであっても、私の主張にはあまり違いがない。この二つは強く相関しているということは言えるだろうからだ。私の主張は、婚姻制は、ついに生物学的には自明ではない、男系社会=家父長制を生み出したということなのだ

さて、本稿の二つ目のテーマに移ろう。次は、婚姻制と相続である。婚姻制成立以前においても、相続という概念は存在していたに違いない。なぜなら、動物の場合でも、相続という概念がないわけではない。例えば、もっとも単純な例としては、ナワバリを相続するという動物がいる。ただ、動物の場合は、もともと何か資源(動産、不動産)を持っているような生物はごく一部なので、相続というのはあまり一般的ではない。人間の場合も、婚姻制成立以前においては、大したものを相続してはいなかっただろう。

なぜなら、先程も述べたように、婚姻制成立以前は母系社会だったと考えられる。つまり、相続は母から子への相続が基本になっただろう。そうすると、あまり大したものは相続されないと思われる。なぜなら、もともと女性の価値は生殖にあり、資源の提供は男性の役割だった。よって、女性は自分の自由になる資源をあまり持つことができない。資源をある程度男性に依存しているからだ。もちろん、母の兄弟(叔父など)からの相続もあっただろうから、一概に相続するものが少なかったと断ずることはできないけれども、少なくとも父方からの資源はあまり期待できないので、相続するものは相対的には少なかっただろうとは言える。

それが、婚姻制が成立し、自分の子供が本当に自分の子供であるということの確実性が高まると、父方からの相続が可能になる。さらに、(世界中どこでも起きた現象というわけではないが)族外婚というしくみにより、家父長制が成立すると、その傾向はなおさらである。

子供は、それまでよりもより大きな資源を受け取ることができるようになったということで、これも一見よい結果に思える。しかし、相続が現代においても大問題であることからわかるように、古代においても相続は大問題だっただろう。ここに、人が苦しむ原因の一つがあるのだ。

相続に関する議論を続ける前に、世代間対立についても触れておこう。オイディプスの話を引くまでもなく、世代間、つまり親と子には本質的な対立が存在する。それは、資源の奪い合いである。通常、子どもが増えても収入は増えない。 だから、ある家族は、一定の収入の中で子供を育てなくてはいけない。そして子供は、より強く、より賢く育つために、親から最大限の資源を取得することが重要である。だから、他のきょうだいよりも多くの食べ物を貰いたいと思うし、他のきょうだいよりもよい技術を身につけたいと思うだろう。だから、きょうだいというのは、人生初の生存競争の相手なのだ。

だからこそ、神話にはきょうだいが闘争する話がよく出てくる。アベルとカインしかり、山幸彦と海幸彦しかりである。 しかしながら、きょうだいは生存競争の相手としては、そんなに厳しい相手ではない。なぜなら、同じ父母から生まれたきょうだいは、2分の1の確率で遺伝子を共有しており、きょうだいが成功することは、自分の成功でもあるからだ。以前も使った用語を使えば、きょうだいの適応度を高めることは自分の適応度を高めることにもつながるので、包括適応度の観点から見ると、きょうだいを助けることには適応的な意味がある、ということである。

だが、親は違う。親も、兄弟と同じように、2分の1の確率で遺伝子を共有しているが、親の適応度を高める(すなわち、親がもっときょうだいを生むように助ける)ことは、メリットもあるがデメリットも大きい。つまり、家族が使える資源は一定なので、きょうだいの数が増えると自分が受け取れるはずだった資源の量が減ってしまう。もちろん、きょうだいの数が増えることで包括適応度が高まるというメリットも存在する。だから、きょうだいの数が少ない時は父母がさらに子供を作ってくれるように応援することが適応的だが、きょうだいの数がある程度に達すると、新たな子供は生まれてこない方が合理的になる。子供にとってどういう行動が合理的かは、父母の資源提供能力に依存する問題であっただろう。

しかし、父母が新たな子供を作らない状態(高齢)だったり、あるいは別のパートナーと子供を作ろうとする状態だと、子供にとっては親に協力するインセンティブはほとんどなくなる。親からは、最大限の資源を奪い取ろうとすることが子供にとって合理的である。しかし、親にとっては、子供は最小限の資源で育てたいと思う。なぜなら、もっと多くの子供を作れるかもしれないし、子供に投資するよりも自分自身の序列を高めた方が、子供の適応度を高めることになるかもしれないからである。

しかし、平均的に言って、親は子供より早く死ぬ。資源をあの世にまでは持っていくことができないわけなので、最終的には資源は誰かのものになるだろう。そして、一つの合理的な考え方として、生殖能力のない個体にとって自らの適応度を高めるためには、子供の適応度を高めることが必要なので、資源を自分の子供に与える、つまり相続するという発想が生まれただろう。

そして、定住・農耕社会が成立すると、それまでとは比べものにならないくらいの富が集積されることとなった。そして、この富が相続されることにあっていくのである。先程、族外婚というものが家父長制を生んだと述べたが、実はこの言い方は正確ではない。族外婚が生んだものは、男系社会であって、年長の男性が一族を支配するという意味での家父制ではない。単なる男系社会を家父長制的にしたのは、おそらく農耕社会だっただろう。なぜなら、農耕によって、家系には余剰の富が集積したはずで、これを管理していたのが族長たる年長の男性だったであろうと思われるからだ。そして、年長の男性が大きな資源を持っていることで、一族の支配権を握ったのであろう。さらには、族外婚という形で外に出てしまう女性に大きな資源を分割すると無駄になるので、基本的には女性にはあまり資源は相続されないことになる。これは、女性の社会的地位をさらに押し下げたことだろう。

さて、相続が家父長制の誕生と維持に重要だったと思われるが、必ずしも、男性が相続を都合よく使えたのかというと、そうとも言えない。彼らは、相続という難しい問題をうまく解決することはできず、むしろ、相続には頭を悩ませたに違いない。そして、時にはそのために命を落とすような人間も、少なからずいた。もちろん、これは男性だけの問題ではなく、遺産相続は女性にとっても重大事である。例えば、一夫多妻制においては、複数の妻(とその子供)にどのように遺産が分配されるかは大問題である。しかし、家父長制的な世界において、財産の処分権を男性が持っていたのであれば、相続の問題により悩まされたのは男性だと思われる。男性は、女性を支配しているつもりだたのかもしれないが、それに付随する各種のリスクも負っていたのだ。

相続の難しさは、誰にどのくらいの資源を与えるか決めるのが極めて難しいという点にある。具体的には次のような相続法が考えられるが、それぞれにメリットとデメリットがあり、どれが最善というものはない。

(1)きょうだい間の争いをできるだけ少なくしようと考えると、平等に資源を分割することになるが、こうすると、親の資源は数分の1になってしまうため、子供世代では社会での序列が低下してしまう。多くの貴族がこういう相続をしてしまったために零落した。モンゴル帝国が一時期ユーラシア大陸のほとんどを支配したにも関わらず、すぐに瓦解してしまったのは、モンゴル帝国において分割相続が行わたからということも一因であろう。

(2)零落を防止するため、子供のうちの誰か一人に遺産を相続することにすると、まずはきょうだい間の争いが起こりやすくなる。特に、受け取る遺産が大きい程きょうだい間の争いは激しくなり、資源の浪費が増える。 また、誰に相続するか決める方法において、親の影響力が確立されていないと、親自身が殺されてしまうリスクが存在する。

(3)長子相続(長男への相続)は、きょうだい間の争いをなくし、資源の分割を防止する方法として有効だが、常に長子が優秀であるとは限らない。長子の能力が明らかに他のきょうだいより劣っていた場合に相続に失敗することになる。江戸時代の日本のように、実子に見込みある子供がいない場合は、養子を迎えるなどしなければ、この方法もデメリットが大きい。

(4)もっとも合理的なのは、被相続権は一人に限定しつつ、その一人は能力に応じて親が決定できるという方法に見えるが、これも難しい。まずは、家父長制の下では大きな問題でないかもしれないが、父と母の意見が一致するとは限らないし、それに、もっと大きな問題として、きょうだいで誰が一番見込みがあるかということは、意外と親は分からない。そして、本当に資源を一人に集中することがよいのかわからない。リスク分散のために、多少は他のきょうだいにも遺産を分配した方がいいかもしれない。こう考えていくと、結局どうすればいいのかわからない。

(5)極端な方法として、人生の最期には持てる資源を全部蕩尽し、相続すべき資源を残さないという方法もある。例えば、ものすごく派手で金がかかる葬式が必要な風習を持つところはこれにあたるだろう。しかし、この方法は争いも産まないが、子供の適応度も大きく高めはしないだろう。 (なお、この方法は、嫉妬が大きな意味を持つ社会で発達しうる。)

相続は、現代においても人の悩みのタネであり、未だにベストな方法というのは発見されていない難しい問題である。だからこそ、宗教が「あるべき相続の基準」などを教えたりもするのだろう。確かに、これは経済学などでは解けない課題だと思う。なぜ、相続はこんなにも難しいのだろうか。その答えは、上の例でもわかるとおり、相続には、きょうだい間の対立の防止と、社会的序列の維持、未来への投資の3つの観点があり、それらが矛盾するものだからだ

きょうだい間の対立の防止の観点からは、平等的な分割が示唆される。社会的秩序の維持の観点からは、誰か一人に集中して相続することが示唆される。そして、未来への投資の観点からは、選択と集中のみならず、リスク分散をも考えた相続が示唆されるだろう。

さらに、どれくらい相続可能な資産を残すかということも難しい問題である。相続可能な資産は、無意識的に形成されていく面もあるが、それらを費消せず、次の世代に相続していくことはある程度意識的に行われる。ある程度の資産を形成したとき、自身の適応度を直接的に高めるようにその資産を使用してしまうか、それとも子供たちの適応度を高めるように取っておくかは一つの判断である。そして、もちろんこの判断を行うには、先程述べた世代間対立の要素も考えなくてはいけない。人間は、他の動物では決して頭を悩ますことがない、資産の管理と継承という問題を考えなくてはならなかったのである

そして、人間社会において、上記の(1)~(5)に掲げたような、様々な相続法が発達したのは、その社会がどのような環境に置かれていたのかということと関係する。そして、相続というものが非常に重要なイベントであり、また、争いを生みがちなイベントであったために、安定的な相続法を確立させた社会が繁栄していったのではないかと思われる。その意味で、その妥当性はともかく、宗教が相続において一つの基準を示したことは、進歩と言えたのかもしれない。

一方で、安定的な相続法が確立されるということは、親の持っていた資源が安定的に子供世代に引き継がれていくことを意味する。これはこれで結構だが、要は、親世代であった格差が子供世代にも受け継がれるということだ。すなわち、階級制誕生のきっかけの一つが相続にあるのだ。そう、農耕社会という資源蓄積的な社会において、婚姻制から家父長制が成立し、相続がなされていったことが階級制の成立の引き金になるのである。それは、大きな資源を年長の男性が支配していたということ。そして、男性が女性よりも序列を重視するという傾向があったことなどが影響している。

そして、階級制というものが悪かったのは、平等性を破壊し格差を固定化したことももちろんその理由であるが、私にとってはその点よりも、社会の流動性を阻害し、極度に安定的な、そして既得権益の保護が重要な、そんな活力のない社会を成立させたところにあるのではないかと思う。もちろん、安定的であったことでよかった点もあるのだと思うが、このような社会のあり方は、人間本性には反しているように思えるのだ。

今回は、婚姻制が社会維持装置としてどのように働いているのかという点を考察し、一つは婚姻制が政治的に利用され、男系社会の出現を招いたとした。そして、男系社会は農耕社会によって家父長制に発展していったとしたが、私は、家父長制自体はいいとも悪いとも言えないと思っている。ただ、その制度の下で行われていた結婚は、どちらかというと人間の本性に反するものだったと思われるし、本来生殖においては女性の価値の方が高いがゆえに、皮肉なことに女性を資産として見る見方が生まれたのではないかと思う。そして、ここが強調したい点だが、そもそもどうして男系社会のようなものが誕生したのかというと、その要因の一つとして族外婚のような風習があり、これは、社会の安定のための制度だったということなのだ。社会の安定に寄与したからこそ、婚姻を道具として使う方法が発展したのだろうと思われる。

そして、婚姻制は、子供と父親の血縁を保証するために、父親からの相続を可能とし、これが家父長制の下で運用されることで、格差を固定化することに役立ったと述べた。そして、格差の固定化は、悪く言えば流動性のない、よく言えば安定した社会を作ることに寄与しただろう。社会の安定化は人類にとって概ね繁栄の要素である。社会を安定化するような変化は生き残り、社会を不安定化するような変化は淘汰されてきたのではないかと思われる(ただし、こういう言い方は社会進化論的でやや注意を要する)。しかし、私は、社会が安定化することは、群れのレベル、集団のレベルでは良くても、個人のレベルでは必ずしも良いことだったとは思わない。なぜなら、人類の基本的な精神構造は、適度に下剋上がある狩猟採集生活の中で培われたものであり、非常に安定性の高い社会に適応したものではないと考えられるためだ。人類の抱えるジレンマの一つが、ここにあるのではないだろうか。全体を考えると社会が安定している方がよいが、個人的にはある程度社会が流動的である方がよいという綱引きの問題だ

しかも、社会が安定化することは短期的にはよいことだが、長期的には社会の活力が失われ、しかるべき創意工夫が停滞していく要因にもなったはずだ。だから、社会の内部がいくら安定していても、戦争とか革命とかで、時々その安寧は不連続的に破られることになる。すなわち、逆説的だが、安定していることはリスクでもあるのだ

それでも、狩猟採取生活を続けている限り、問題になるような大規模な社会の安定は存在し得なかっただろう。人類の社会を極度に安定化させたのは、上の議論でも示唆したように農耕の開始である。というわけで、次回からは、農耕というテーマで語っていこうと思う。


【参考文献】
婚姻制と社会構造の関連を知るには、大著「親族の基本構造」(クロード・レヴィ=ストロース著)が必読である(と言っている私自身が未読だが…)。構造主義の原点ともなった重要な本。

2010年7月29日木曜日

「家族」の論理(4)社会維持装置としての婚姻制

【要約】
  1. 「婚姻制」は人類の基本構造に組み込まれているものではなく、文化的所産と考えられるが、なぜ世界中で普遍的に見られるのか。それは、婚姻制に適応的な利点があったからだろう。 
  2. 具体的には、婚姻制は、配偶関係の維持のコストを安くし、解消のコストを高めることにより、配偶関係を安定的に保つ仕組みとして有効だ。
  3. 男性としては、配偶関係の維持には、女性の横取りと浮気を防がなくてはいけない。そこで、パートナーを自分のものだと宣言し、その女性に性的にアプローチすれば大きな罰を与えることを公言する戦略が有効だ。これをコミュニティ全体で実施すれば、既婚女性に手を出すことは誰にとっても大きなコストになるという状態を作り出すことができる。
  4. 女性としては、配偶関係の維持には、男性の浮気を防がなくてはいけない。そのため、浮気へのペナルティを厳しくすることも一案だが、浮気した男性との関係を解消することはむしろ自分にとって不利になる。だから、配偶関係の解消(=離婚)のコストを高める戦略が有効だ。
  5. このために、配偶関係の成立と解消に対して次のような制約が設けられている。①莫大なコストがかかる結婚式、②離婚のための複雑・困難な手続き、③離婚は能力の欠如の現れであるというコミュニティからの評価、などだ。
  6. なぜわざわざいろいろな文化的制約を設けて離婚のコストを高めているのかというと、男性の配偶者としての価値は歳を経るにつれ上昇する一方で、女性の価値は下がってしまうという構造的問題があるため、男性側の離婚インセンティブが存在しているためだ。
  7. 婚姻制は、個人のレベルで考えると一長一短あるが、世の中にはダメ男ばかりという状態でない限り、平均的に見れば婚姻制は配偶関係を安定的にすることに役立つ。
  8. さらに、婚姻制には社会のレベルでも大きな利点がある。婚姻制は男性側の競争を抑止することにより、群れ全体の協力レベルを引き上げるからだ。婚姻制には、社会=「群れ」的に考えると、「配偶者争奪競争をあるところで終わらせる」という価値がある。「これ以上序列を上げたとしても、もっといい女を娶れるわけではない」という、ある意味での諦めが、群れでの競争を緩和しているのは間違いない。
前々回、前回は「愛」と「嫉妬」の進化的な基盤を説明したが、今回は、そういった自然な感情と対置するところの「婚姻制」について述べたい。

さて、前々回、婚姻制の意味は「子育てのため、女性が男性と同盟を組んだ」ことにあるとし、この「同盟」の基礎として男女双方の「愛」の感情が重要だったと述べた。そして、前回は、それを補完するものとして「嫉妬」という感情が位置づけられることを述べた。では、「愛」や「嫉妬」はヒトが進化していく上で獲得した生来の感情であったとしても、「婚姻制」は人類の基本構造に組み込まれているものなのか、それとも文化的所産なのか

このあたりのことについて、最近の文化人類学ではどのように考えるのが普通なのか承知していないのだが、私は、「婚姻制」はあくまでも文化的所産であるという立場で論を進めたい。もちろん、婚姻制も「言語」のように、「制度の基本設計は人間生来の機構に組み込まれているが、基本構造の中で文化的差異がある」というようなものの一つである可能性はある。しかし、人類に普遍的に見られる現象全て――例えば宗教、火の使用、通過儀礼など――を安直に人間生来の(本能的な)行動であると結論づけるのは危険である。ある行動がひとたび本能的な、生得的な行動であるとされてしまうと、特定の文化的パターンを人類の「正しい在り方」であるとしてしまい、それ以外を「間違った文化」であるとしてしまう過ちをおかしてしまいがちだ。だから、かなりの蓋然性がない限り、そういった措定はすべきでないだろう。婚姻制自体は人類社会にあまねく見られる現象だけれども、人間は本能的に婚姻関係を維持しているようには思えない(離婚率は現代の狩猟採集社会においても高いし、結婚している男女でも、魅力的な異性がそばにいると心惹かれてしまうのは、婚姻制が本能的なものでないことを示唆している)。

なお、本稿においても、倫理、群れ内の序列化、繁殖戦略における男女の差異などを人類の基本構造に組み込まれた生得的なものとして説明したが、これらがまったく遺伝的な基盤を持たないという可能性もなくはないのである。しかし、現在の進化心理学の標準的な立場では、これらはほとんど生得的なものであるとされているので、本稿では生得的なものとして説明している。

さて、「婚姻制」は文化的所産であると私は考えるが、では、一夫一妻、一夫多妻、多夫一妻などいろいろなヴァリアントはあるが、なぜ婚姻制は世界中で普遍的に見られる現象なのだろうか

それは、単純に言って婚姻制に適応的な利点があったからであると考えられる。つまり、婚姻制を持つ文化は婚姻制を持たない文化より栄えたのだ。そして、婚姻制は遺伝子による行動ではない分(生得的な機構の制約を受けないので)、いっそう急速に初期人類社会に広まったと考えられる。 では、どのあたりが適応的なのか。

既に述べたように、人類の女性は極端に未熟児の状態で生まれてくる子供を育てるため、子育てへの男性からの協力(資源の提供)を必要とした。そして、男性はその子供が間違いなく自分の子供であると確信するため、その女性からの排他的なセックス権を求めた。この結びつきをより強固で安定的なものとするため、男女間には「愛」という非合理的感情が生じたとした。

そして、「愛」による関係をより強固なものとするため、人間は「嫉妬」という感情を進化させた(愛は非合理的な感情だが、嫉妬は合理的な反応であるという点は面白い)。しかし、「愛」や「嫉妬」は万能ではない。このように安定的関係=配偶関係を築いている場合でも、男性にも女性にも浮気をするインセンティブはある。そしてそれ以上に、常に配偶者横取りの危険性も存在する。つまり、夫の留守中に妻が誘惑またはレイプされる可能性があるのだ。

そこで、配偶関係を感情のような生得的機構にゆだねるだけでなく、「婚姻制」という制度でより強固にしておくことに意味がある。「婚姻制」を一言で言えば、「配偶関係の維持のコストを安くし、解消のコストを高めることにより、配偶関係を安定的に保つ仕組み」である。そこで、以下、「維持のコストを安くする」という視点と、「解消のコストを高くする」という視点から婚姻制が適応的な意味を持っていたことを示したい。

まずは、「配偶関係の維持のコストを安くする」という視点から男性と女性の側それぞれから説明する。男性としては、配偶関係を維持するためには、女性が横取りされることと、浮気されることを防がなくてはいけない。そのための方策の一つが「嫉妬」だが、嫉妬はあくまでパートナーへのペナルティであって、社会的な抑止力はない。そこで、男性はいくつかの方法を考え出した。例えば、①女性を群れから離して隠してしまう、②女性を自分のものだと宣言し、その女性に性的にアプローチすれば大きな罰を与えることを公言する、というようなものだ。もちろんこれ以外にも方法はあるが、基本的な路線はこの二つだ。

①女性を群れから離して隠してしまう、の具体的な例としては、厳格なイスラム圏で見られるブルカの風習とか、日本語でも妻を「家内」や「奥様」と言ったり、女性が結婚することを「家に入る」と言ったりするように、物理的にどこか(服の中や家の中)に軟禁するやり方である。これは他の男性から女性を守るのには効率的だが、全体的な効率の低下は避けられない。なぜなら、物理的に妻を隔離してしまうと、妻の生産性が下がるのはしょうがないので、夫への経済的負担は増えることになる。夫に安定的で高い収入がある場合は、このような戦略が有効だが、人類の曙である狩猟採集の生活でこのような戦略を採れたのは極めて少数であろう。

②女性を自分のものだと宣言し、その女性に性的にアプローチすれば大きな罰を与えることを公言する、の具体的な例としては、単純には、「この女は俺の女だ」と宣言することであり、これこそが婚姻制の萌芽である。もっと一般的かつ広義な例としては、公衆の面前で手を繋ぐ、腰に手を回す、キスをするといった行動も含まれる。

女性を自分のものだと宣言することは、仮に「手を出す」ことへの罰がなかったとしても、他の男からの横取りをある程度防ぐことができる。なぜなら、まず横取りすること自体が、誰とも関係を持っていない女性を誘惑するよりコスト高だ。前回述べたように女性はセックスの提供の前提として男性からの資源の確約と先行投資を求めるので、すでにある男性からの資源を確約している女性は、それ以上の資源を約束/先行投資しなければセックスに応じないだろう。つまり、交渉金額のベースが高くなっているため、女性が交渉において有利なのだ。また、その男が仮に首尾良くその女性を横取りできたとしても、女が生んだ子供が自分の子供である可能性は十分高くはないということもある。

とはいえ、ただ宣言するだけではそれは「制度」とは呼べない。「制度」とは、コミュニティの構成員が共通のフレームワークを共有することである。この場合は、「性的にアプローチすれば大きな罰を与える」という部分を共有化しているということだ。これにより、仕返しを怖れる必要がないような強い個体に多くの女性が寡占される可能性が低減される。つまり、特定の配偶者が決まっている女性に手を出した男性は罰されるべきという規範が共有されることで、もし既婚女性に手を出すことは誰にとっても大きなコストになるという状態を作り出すことができたのだ。

ただしここで一つ注意すべきことは、既婚女性に手をだした男への「罰」のコストは、必ずしも群れ(コミュニティ)の男性と女性が等しく負担するわけではないということだ。普通、浮気男に対する男性からの評価はそんなに低くならず、実際的には男性からの罰は(嫉妬に狂った寝取られ男本人からの復讐は別として)多くはない。むしろ、浮気男への罰のコストを負担するのは通常女性側である。女性は、その男に物理的な攻撃を加えるようなことはしないが、「評判を落とす」「相手にしない」といった戦略を採ることにより、その男の将来のセックス可能性を減じさせるのである。こういった戦略は、負担するコストが低い割に効果は大きいため、女性の方がこの場合の罰を「担当」していると考えられる。つまり、ドン・ファンは男性の中では英雄になるが、女性からは実際はつまはじきにされる可能性が高い。 (ただし、ドン・ファンが近くにいたら、男性も女性も迷惑だ。多情な女性は喜ぶかもしれないが。)

さて、「配偶関係の維持のコストを安くする」ことの女性側の視点だが、女性としては、配偶関係を維持するためには、男性が他の女に心移りしないで、継続的に自分(と子供)に資源を提供してくれることが重要だ。女性が男性をこういう状態にしておくすべはどのようなものがあるだろうか。ここで、男性側が使った「配偶者を群れから離して隠してしまう」という戦略は使えない。なぜなら、そもそも女性が男性に期待するものは資源の提供なのに、群れから夫を引き離してしまっては大きな資源提供が期待できないからだ。

では二番目の「男性を自分のものだと宣言し、その男性に性的にアプローチすれば大きな罰を与えることを公言する」という方法はどうだろうか。こちらは、ある程度効果はあるが、男性が宣言する場合ほど大きな効果は得られないだろう。なぜなら、多情な女が夫に近づいたとしても、十分に罰を与えることができないと予想されるからだ。先ほどと同様、群れのメンバーが結託してその女の評判を落とす、というような罰は出来るが、これは男性に対する場合ほど効果的ではない。なぜなら、その多情な女にとっては、群れの女性からランクづけられる序列は自身の適応度には直結せず、あくまでも男性側からの評判の方が重要だからだ。そして、男性側としては、多情な女はむしろ歓迎である。自身への排他的なセックスは期待できないけれども、ともかくセックスを提供してくれる女性は男性にとっては価値がある。だから、先ほどのケースでは婚姻制は多情な男を排除するメカニズムとして機能するけれど、多情な女を排除することは出来ない可能性がある

しかし、女性にとってこのことはあまり重要ではない。なぜなら、多情な女の割り込みは配偶関係の維持には脅威だが、実際には、自分の夫の方が他の女とセックスすること自体は大したコストではない。なぜなら、配偶関係が維持されるのであれば、夫からの資源提供は引き続き期待できるからだ。それよりも重要なのは、夫が本来妻に振り向けるべき資源を他の女に振り向けてしまうことだ。だから、優先順位としては、多情な女のアプローチを防ぐより夫の浮気を阻止することの方が大事だ。だから、配偶関係をより安定的に保つ戦略として有効なのは、浮気へのペナルティとしての「嫉妬」の能力を高めるということだろう。極端に言えば、一度でも浮気したら即配偶関係を解消する(=離婚する)というような戦略だ。そうすれば、男性は浮気が発覚することを怖れて(男性は、隠すのが下手だ)、浮気をしにくくなるに違いない。

しかし、実際の世界ではこのような戦略は徹底されていないようだ。実際には、一度婚姻関係が成立すると、男性側が多少浮気しても婚姻関係を解消しづらいような制約がある一方で、女性側が浮気した場合、問答無用で婚姻関係を解消できるような文化は多い。つまり、一般的に言って婚姻制は男性の浮気に対して甘い。これは女性には不平等じゃないか、そう思われる方が多いと思われるが、私には、だからこそ婚姻制の適応的意味があると思われる。

なぜなら、先述のように、男性の浮気を阻止する戦略として有効なのは、浮気へのペナルティを高めるということだが、この戦略を採っていると、男性が浮気するたびに配偶関係が解消され、安定的な関係を築くことができない。これは、女性がそのような戦略を採っていたとしても、男性には浮気をするインセンティブがあるためだ。例えば、そもそも男性側が配偶関係の解消を望んでいる場合は、浮気をすれば女性側から離婚してくれるわけだ。その結果、男性は浮気相手を新しい配偶者として新たな「家庭」を築けばよいだけだが、女性側は残された子供を女手一人で育てるという大きなコストを払わなくてはならない。そして、女性が「コブ付き」の場合は新しい夫を見つけるのも格段に困難になる。他人の子供を育てるのに喜んで資源を提供するような男はあまりいないからだ。

では、「男性側が配偶関係の解消を望む」場合がそんなに頻繁にあるのかと言う点だが、実はこれが頻繁に起こりうる。男性は歳を経るにつれて老獪になり、技術を習得するので、群れでの序列も高くなる傾向にある。そのため、男性側の性的な魅力が資源の提供能力にあるとしたら、群れでの序列の上昇とともに、これまでは手の届かなかった魅力的な女を手に入れる機会が増えることになる。とすると、現在の妻との関係を維持するより、手持ちの資源を有効に使って、より魅力的な女を獲得することが、男性にとって合理的だ。さらに、もう一つ重要な点は、女性の性的魅力は繁殖能力にあるため、歳を経るにつれて女性の配偶者としての価値は逓減していくというこだ。だから、男性の配偶者としての価値は歳を経るにつれ上昇する一方で、女性の価値は下がってしまう。この構造的問題があるために男性側の浮気は不可避的だ。しかし、先述したとおり、女性としては夫の浮気を許したくはないが、一度の浮気を許さずに配偶関係を解消すれば、損するのは自分の方である。ここに女性のジレンマがある

だから、配偶関係を安定的に保つためには、男性の浮気まである程度計算のうちに入れておかなければならない。すなわち、男性が(仮に浮気したとしても)軽々に配偶関係を解消できないようにしておかなくてはならない。これが、先ほど予告した「解消のコストを高くする」という視点での婚姻制の意味になる。

すなわち、婚姻制は、配偶関係を解消することへの文化的制約を設けることによって、解消のコストを格段に大きくすることができるのだ。つまり、仮に男性が女性との関係を解消したくなったとしても、そのコストが大きすぎ、新しい配偶者を獲得するより、今の配偶者との関係を続けた方が「お得」であるという状態を作っているのである。コストを大きくしている制約としては、例えば次のようなものだ。
  • 莫大なコスト(手続き、資源)がかかる結婚式(二度目の結婚式をためらう)
  • 離婚のための複雑・困難な手続き(結婚を家族間同盟とすることで、利害関係解消を困難にさせる)
  • 離婚は能力の欠如の現れであるというコミュニティからの評価(二度目の結婚がしにくくなる)
こういった制約を設けることにより、離婚は非常に高価な行為になっている。さて、ここで「離婚しづらい」ということが、男性と女性それぞれにどのような効果を及ぼすか考えてみたい。先述のとおり、男性側は一般的に言って歳を経ると婚姻関係解消のインセンティブが高まる場合が多い。つまり、男性側から離婚したいという要望が出る蓋然性が大きくなる。しかし、女性としては、そのような男性は是非とも自分の元につなぎ止めておきたい。なぜなら、その男は結婚当初より資源の獲得能力が向上しているからだ。こういうケースでは、婚姻制は女性にとって都合よく働く。逆に、男性にとっては都合が悪い。

では、女性側から離婚したい場合はどうだろうか。例えば、男性がダメ男だった場合とか、多情で浮気者の男だった場合などだ。多くの狩猟採集文化では(近代においても)、これらは離婚の理由として成立しづらいようである。とすると、女性としてはダメ男と一生を添い遂げなければならず、かなり適応上不利になる。この場合は婚姻制は女性にとって都合が悪く、男性にとって都合がよい。

また、男性の場合と同様に、現夫に不満はなくても、より素晴らしい夫候補が見つかったという女性にとっての婚姻制の損益も考慮すべきだが、こういうケースは構造的にはあまりない。なぜなら、先述のとおり女性の性的価値は年齢とともに落ちていくので、より素晴らしい男性が最初の結婚から数年経って現れる可能性は低いし、避妊が不完全だった時代は、配偶関係にある健康なカップルには普通子供が生まれるので、コブ付きの女性を受け入れてくれる男性は少ないからだ。だから、より素晴らしい夫候補を見つけた女性にとっては婚姻制は確かに不利になるけれど、実際にはそういう場合は少ないと思われる。

逆に、妻が不妊や浮気性の夫にとっては婚姻制はどう働くだろうか。実は、女の不妊や浮気は多くの文化で離婚の正当な理由として認められており、男性側にとって婚姻制が離婚に不利に働くことはあまりない。もちろん、妻に浮気をされるという、所謂「寝取られ男」として社会的評判は落ちるのだが、それは婚姻制があるためというよりは、単に他の男との競争に負けたという社会的不名誉のせいだ。


これまでの話をまとめると、次のようになる。
  • 「婚姻制」により配偶関係維持のコストを安くすることは、通常配偶関係維持のコストを払っているのは男性なので女性側にはあまり利点はない(リスクもない)が、男性側からすると現状の配偶関係を安上がりに維持できる点で利点がある。
  • 「婚姻制」により配偶関係解消のコストを高くすることは、女性側からすると資源獲得能力がある男をつなぎ止めておく利点があるが、逆にダメ男と離れられなくなるリスクがある。男性側からすると、多少の浮気や収入の低下というマイナス要素があっても女性を自分につなぎ留めておく利点があるが、よりいい女が現れた時に「乗り換える」ことができなくなるリスクがある。
 つまり、婚姻制は、個人のレベルで考えると一長一短あるが、世の中にはダメ男ばかりという状態でない限り、平均的に見れば婚姻制は配偶関係を安定的にすることに役立つ。しかし、話はこれだけではない。婚姻制を社会のレベルで考えるとどうか。

実は、社会=群れのレベルで考えた時、婚姻制のもたらす利益はとても大きいと思われる。なぜなら、婚姻制は男性側の競争を抑止することにより、群れ全体の協力レベルを引き上げるからだ。この重要な点について述べて本項を終わりたい。

婚姻制のない状態では、「愛」や「嫉妬」の感情が発達していても、十分に配偶関係を維持できないと思われる。なぜなら、いかに「愛」や「嫉妬」や女性が男性に資源を確約するという戦略があったとしても、配偶関係を成立させた条件が何十年も変わらないことはあり得ないからだ。そして、その条件が変化した時、魅力的な相手がそこにいないとは限らない。配偶関係が基本的にいつでもオープン(=解消可能)であれば、少しでもその前提条件が崩れた時に新しい配偶関係に乗り換えるインセンティブが男女双方にある。

例えば、チンパンジーの社会を見てみよう。もちろん、彼らには人間のレベルで言うところの「愛」とか「嫉妬」がないということもあるが、配偶関係が非常に安定していない。群れのボスがメスを総取りする形のため、ボスの交替によってパートナーが入れ替わっていく。こういう場合、オス全体の協力は発達しにくく、むしろ、ボスを出し抜くことが下位のオスの利益になり、集団的な統率は取りにくい。

一方、婚姻制を発達させた人間社会はどうだろうか。婚姻制は、社会=「群れ」的に考えると、「配偶者争奪競争をあるところで終わらせる」という価値がある。つまり、そういう制度がないと下剋上的にパートナーが入れ替わっていく可能性があるが、婚姻制によって誰が誰のパートナーになるかという配偶者獲得ゲームの結果をある時点で確定し、それ以降動かせなくすることで、それ以降に配偶者獲得競争が続くのを防止することができるのだ。

その結果、男性同士の協力が促進されることになる。例えば、危険な狩りを行う際、ボスの指示に従うことができるのは、ボスを出し抜いてもボスの女を娶ることはできないという理由がないわけではないだろう。また、安心して男同士で協力し狩りに出かけることができるのも、誰かに出し抜かれて妻を寝取られる可能性が少ないと確信できるからだ。そしてそれ以上に、「これ以上序列を上げたとしても、もっといい女を娶れるわけではない」という、ある意味での諦めが、群れでの競争を緩和しているのは間違いないだろう。

おそらく、これこそが婚姻制がある社会とない社会を比べた時に、婚姻制がある社会の適応度が高かった真の理由であるように私には感じられる。進化生物学的に人間の心理や社会制度を見た時、より安定的な群れ=社会の構造を実現する進化・発明の重要性は非常に高い。群れの中での競争を緩和し、現在の人間関係を是認し、群れの中での協力を促進するような変化は、群れを競争的・下剋上的にする変化よりも概して適応度が大きく、人間社会の発展に寄与したのだ。

つまり、婚姻制は、個人のレベルで適応的であることはもちろん、社会のレベルで考えた時、群れの競争を緩和し、関係を安定的に保つ上で非常に大きな利点があったと思われるのである。

2010年7月6日火曜日

「家族」の論理(3)嫉妬は得なのか

【要約】
  1. 愛は万能ではない。誰かを愛しているからといって、他の誰かとセックスすることのインセンティブがなくなるわけではない。むしろ、浮気をすることが合理的な場合では、愛に囚われず浮気することが適応的な時がある。
  2. しかし、 配偶関係にある男女双方にとって、相手の浮気は大きなコストである。 だから、「人間はパートナーの浮気を防ぐようにも進化」したはずである。具体的には、浮気へのペナルティを高めることで浮気を防止しており、これが「嫉妬」の一つの意味であると考えられる。
  3. 男性が浮気をするのは、より多くの子供を残すために多くの女性とセックスをすることが合理的だからで、男性は肉体的かつ一時的な浮気をしがちだ。そして、男性の浮気は、女性にとっては男性からの投資が減少する危険があるという意味で危険だ。
  4. 浮気に嫉妬する女性を相手にしている男性は、現状の相手との安定的なセックスを楽しむ方が、割安になる。つまり、女性の嫉妬は男性の浮気防止に役立つ。
  5. 女性が浮気をする目的は、一つは優秀な遺伝子の獲得で、もう一つはセックスによる資源の獲得、つまり広い意味での売春である。どちらにせよ、男性にとっては他人の子供に資源を投資させられるかもしれないので、パートナーの浮気は脅威である。
  6. 浮気に嫉妬する男性を相手にしている女性は、浮気のコストが非常に高いので、男性の嫉妬は女性の浮気防止に役立つだろう。ただし、資源の提供能力がない男は、嫉妬する意味があまりないので、女性の浮気にはあまり嫉妬しない可能性がある。
  7. つまり、嫉妬という感情は、パートナーの浮気をある程度防止することができ、配偶関係を安定させる効果がある。人間は嫉妬のせいで非合理的な行動を取ってしまうこともあり、それは、一見すると適応的でないようだが、進化的視点で見ればそれらの行動にも合理的基盤があるということだ。嫉妬という感情を獲得したことにより、人類は得をしている。
  8. しかし、嫉妬という感情が適応的であることと、嫉妬が引き起こす行動を正当化することとは何の関連もない、ということには留意する必要がある。
  9. なお、愛と嫉妬という車の両輪があっても、配偶関係は十分に安定的ではなかった。その証左に、それを補完し、配偶関係をさらに強化するものとして、人類は「婚姻制」という文化を生んだ。

嫉妬は、文学の一大テーマだ。嫉妬は、普段なら考えられない行動をする原因になり、時に愛する人を殺してしまうことすらある。我々は嫉妬に苦しみ、そして嫉妬に操られる。嫉妬は、文学には絶好の怪物である。

(なお、ここで言っている嫉妬とは、愛と対置されるところの感情であり、他人の所有物に対するねたみなどはとりあえず考えないこととする。)

では、嫉妬は適応的な意味があるものだろうか。つまり、嫉妬という感情を獲得したことにより、人類は得をしているのだろうか。まず結論を言ってしまうと、その疑問への答えは、yesである。嫉妬は、一見不合理だけれども、実は合理的な基盤の上に立っている。今回はそれを論じたい。

前々回、女性は子育てへの男性の援助(資源)を求め、男性と同盟を組んだ、そしてその同盟関係を低コストで安定的に保つ仕組みが「愛」だった、と述べた。と同時に、「愛は万能ではない」ということも予告しておいた。「愛は万能でない」などということは正常な大人であれば自明と思えるだろうが、ここで一応説明しておきたい。

様々な動物で、「つがい」という関係がどういったものかが調べられているが、一般的な原則として、ある程度継続的なつがいを作る動物においては、その関係はかなり安定だということが言える。つまり、一度つがいが成立すると、滅多なことではそのつがいは解消されない(子供が出来なかった場合を除く)。擬人化していえば、他の男女に目移りせず、つがいのパートナー同士が違いに「夢中」になると言うことだ。これは、おそらく、つがいの成立を一つのスイッチにして、パートナーを捜すという行動への制約がかかり、現状のパートナーとの子育てを効率的に進める生得的な仕組みがあると考えられる。ただし、全く浮気をしないかというとそうでもなく、種によるが、そのチャンスがあればつがい外交尾(EPC=Extra-Pair Copulation)をする動物は多い。

そういう視点で人間のつがい、つまり夫婦を見てみると、とても「つがい成立がスイッチとなって、パートナーを捜す行動への制約がかかる」ようには思えない。特に男性は生殖能力があるかぎり、新しいパートナーを潜在的に捜していると言われる。この心理的傾向は、つがいを安定的に保つ観点からは脅威で、男性は常に「目移り」する誘惑と戦わねばならないことになるし、女性は男性の浮気を防止しなくてはならない。もし「愛」という心理的システムが完全なものであれば、このようなことは起こらないだろう。

では、愛はなぜ完全ではないのか。かなり当たり前の部分もあるので簡単に述べるが、一度配偶関係が成立したとしても、解消したり浮気したりする利得が現実にある以上、盲目的に愛に従う個体よりも、愛する愛さないに関わらず得になる行為をする個体の方が適応度が大きかっただろう。これが「愛は万能ではない」という理由である。つまり、「愛」に囚われて現状のつがいに固執していると、本当に大きな利益を生む新しい関係を見逃してしまうというコスト(機会費用)を払わなくてはならないとうことだ。とすると、逆に言えば、俗な言い方だが、人間は浮気するように進化した、といえるわけだ。

しかし、配偶関係にある男女双方にとって、相手の浮気は大きなコストである。女性に浮気された男性は、誰か別の男の子供に資源を投資させられるという大きなコストを払う可能性があるし、男性に浮気された女性は、本来自分や子供に配分されるはずだった資源がどこかの女に横取りされるというコストを払わなくてはならない。だから、先ほど私は「人間は浮気するように進化した」と不用意に書いたけれど、パートナーが浮気することが大きなコストである以上、「人間はパートナーの浮気を防ぐようにも進化」したはずである

では、具体的にはどのような方法で人間はパートナーの浮気を防ぎ得るだろうか。この課題への解決の一つとして、浮気へのペナルティを高めるという方策があり、これが「嫉妬」の一つの意味であると考えられる。つまり、もし浮気をしたら大変なことになるぞ、というペナルティが「嫉妬」なのだ

もう少し正確にこの辺の事情を述べたい。これまで、簡単に「浮気」と書いてきたけれど、人間が浮気する時、一時の情事という意味での浮気もあれば、配偶者との愛は完全に醒めてしまった場合に、新たな配偶者を捜す意味での浮気もある。また、精神的な浮気もあれば、肉体的な浮気もある。これら全てを単に「浮気」と表現すると、ちょっとおおざっぱに考えすぎになるので、以下、男性の立場、女性の立場に立って、これらの「浮気」を防止または軽減する意味で「嫉妬」が機能するか見てみたい。

まず、男性の浮気からだが、男性の場合ほとんど常に新しいパートナーとのセックスを求めている。こう書くと身も蓋もないが、男性に取っての生殖戦略はたくさんの女性とセックスすることが第一なので、セックスの機会を逃さない個体はより多くの子孫を遺すことができた。だから、男性は基本的にセックスの機会さえあれば、新しいパートナーとセックスするだろう。つまり、男性は肉体的な意味での浮気をしがちである。

では、その浮気は一時的なものであるか、それとも配偶関係の解消に至るものになりがちなのかどうかというと、実は、男性の生殖戦略から予見されるのは、男性の浮気は、配偶関係の解消に至るものになりづらいと考えられる。なぜなら、配偶関係維持のために男性に求められるのは、ある程度の資源を継続的に女性(と子供)に提供し続けることである。これは、どの女性をパートナーにしても変わらない。つまり誰とくっついても資源の提供は必要になる。であれば、一度ある女性をパートナーにしているとすれば、資源提供を確約するための先行投資等が既になされているので、現状のパートナーを維持するほうが、新しいパートナーに再び投資するよりお得である。ただし、これは短期的な話で、長期的には現状の配偶関係を解消して若い妻を迎え入れることが合理的になるのだが、これは後で述べる。

まとめると、男性は肉体的かつ一時的な浮気をしがちだということで、理屈をこねた割には結論は平凡である。さて、このような男性に対して女性はどう対処すべきだろうか。

合理的に考えれば、女性にとっては、男性が他の女とセックスしようが、自分に対する男性からの資源が減じない限りは、知ったことではない。なぜなら、夫に妾や隠し子がいたとしても、夫が妾や隠し子に資源投入をしない限りは自分の損にはならないからだ。ただ、妾を維持するにはある程度の資源を投入しなくてはならないのは確実だし、隠し子の場合はちょっと違うが、かなりの蓋然性で(ある意味での)養育費を支払う必要が生じる。とすると、男性が他の女とセックスすること自体は問題ではないが、男性からの投資が減少する危険がある以上、できるだけ浮気は防がなくてはならない

ここで、女性が「嫉妬」という心理メカニズムを身につけている場合に何が起こるだろうか。つまり、男性が他の女とセックスしたり、資源提供することに対して、怒り、悲しみ、攻撃的になり、男性の浮気行為を妨害し、セックスの提供を辞めるような行動を取ったらどうだろうか。これらの行動は、男性の、新しいセックスパートナーを獲得するコストを高騰させることになる。前回述べたように、通常、女性はセックスするために男性にある程度の資源の提供や確約を求める。しかし、現状のパートナーが他の女への資源提供に対して嫉妬する場合、それらの資源提供をすることが(心理的にも物理的にも)困難であり、しかも、浮気相手候補の女に資源提供したところで、セックスしてくれる保証はないからだ。であれば、現状の相手との安定的なセックスを楽しむ方が、割安なのだ

だから、女性が男性の浮気に対して嫉妬する場合、肉体的なものよりもまず精神的なもの(=他の女への資源提供)を重視することになる。そして、男性の浮気はもともと一時的なものになりがちだと予想されるけれども、女性が浮気を防ぐ目的は、配偶関係の維持(=継続的な男性からの資源提供)になっているだろうということが予想される。

次に、女性の浮気を考えてみたい。考察に入る前に一言留意事項を述べると、従来の社会学等では、女性を受動的な存在と見なしがちであったので、女性の方から積極的に浮気するということがあまり想定されていなかった。しかし、生物学的には、前回も述べたように配偶行動は女性の側が競争の基本ルールを決めており、女性の側も適応度を高めると言う利益を得るために積極的に行動すると考えられている。

さて、女性が浮気をするメリットは何だろうか。前回も述べたけれど、女性が産める子供の数は自然と上限があるので、多くの男性とセックスをすることは女性には必要なく、むしろエネルギーの浪費である。しかし、それでも現状のパートナーとのセックスからだけでは得られない利益を、浮気によって得られる可能性がある。

一つは、より優秀な遺伝子の獲得である。子育てには男性からの資源提供が必須だけれど、優秀な遺伝子を持つ男性が常に身持ちがよいとは限らない。そして、それ以上に、そういう男性は「高嶺の花」で、高い序列の女性しか配偶者になれないかもしれない。一方で、そういう男性でも、行きずりのセックスならしてくれるかもしれない。となれば、女性にとって合理的なのは、平凡だが継続的な資源提供が期待できる男と安定的な関係を築いておき、優秀な遺伝子を持つ男と一時的な情事を(特に排卵日付近にこっそりと)行うことである

もう一つは、セックスによる資源の獲得、つまり広い意味での売春である。ここで議論している状況は、現代社会ではなくて、大昔、狩猟採集社会の話だが、狩猟採集社会の場合、男は狩猟の為に長期に留守することがある。そんな時、女性は子供と家に残されて、誰も守ってくれない状態にある。そんな中で、女性が身の安全や食料と引き替えにセックスを提供することは、自身の適応度を高めただろう

男性に取っては、女性のこのような行動は脅威である。特に、一つ目の「優秀な遺伝子獲得のための浮気」は大打撃で、我が子でない子供に投資させられることは大きな損失である。だから、男性はこのような女性の行動を極力防がなくてはならない。ここで、女性が「嫉妬」という感情を身につけた男性を相手しているとすれば、どうだろうか。先ほど論じたのと同様に、やはり女性にとって浮気をする行動は高くつくだろう。つまり、女性が他の男とセックスすることに対して、怒り、悲しみ、攻撃的になり、女性の浮気行為を妨害し、資源の提供の停止あるいは無理矢理セックスするような行動を取るような男性を相手にしているとすれば、女性にとっては浮気は大きな賭である。もし浮気が成功し、優秀な遺伝子の子供を宿すことができればいいが、夫にばれた場合は配偶関係解消を含めた大きなペナルティが待っている。

男性にとっては、女性が他の男性の子供を宿すことが極めて大きなコストなので、女性とは対照的に、男性が女性の浮気に対して嫉妬する場合、精神的なものよりも肉体的なもの(=他の男とのセックス)を重視するだろう

しかし、先ほど挙げた二点目の状況、つまり、セックスによる資源の獲得はどうだろう。男性にとっては、やはり女性が他の男の子供を宿す危険性があるので、これも同様に防がなくてはならない。しかし、先ほど述べたように、この行動は女性の適応度を高めることに役立つ。のみならず、子供の適応度も高めることに役立っただろうから、間接的には夫の適応度を高めることに役立つのではないか

とはいえ、妻が売春する行動が夫にとっても利益になるのはごく限られた場合だけだろうということは容易に予想できる。なぜなら、夫にとって、他人の子供に投資させられるのは、とてつもなく大きな出費だからだ。だから、妻の売春が合理的なのは、夫に資源の提供能力があまりない時だろう。例えば、男がヒモの場合だ。この場合は、男はそもそも子供への投資を行っていないので、妻が生んだ子供が自分の子供でも他人の子供でも損することがない。だから、こういう状態にある男性は嫉妬の感情が弱まる可能性があるが、そうでない場合は、やはりこういう浮気も男性は防がなくてはならない。

なお、細かい点だが、嫉妬した男性と女性ではその反応に若干の差があると考えられる。嫉妬した女性は、セックスの提供を拒むだろうが、嫉妬した男性は無理矢理にでも妻とセックスするだろうという点である。男性が浮気した場合、それにペナルティを課すために女性はセックスの提供を拒む可能性がある。もちろん、男性の浮気が精神的なもので、その気持ちをつなぎ止める必要がある場合には妻は進んでセックスを提供するかもしれないが、男性の浮気が肉体的なものにあるとき、罰する意味でセックスの提供は停止しうる。しかし、男性が嫉妬している場合は、むしろ妻と無理矢理にでもセックスするだろう。なぜなら、妻の膣内には浮気相手の精子が残っているかもしれず、それらの精子に自分自身の精子を競合させて、妻が他人の子供を孕むのを防止するためである。事実、嫉妬の状態にある男性は、セックスの際により多くの精液を射精するというデータがある。嫉妬は媚薬であるということだ。

ここまでで、嫉妬という感情を得たことで、パートナーの浮気をある程度防止することができ、配偶関係を安定させる効果があることがわかったと思う。前回は「愛」という感情を、今回は「嫉妬」という感情を説明したが、これらが車の両輪になり、我々は配偶関係を安定的に運営することができるのだ。愛は完全ではない、と冒頭に述べたけれど、そこに嫉妬を加えると、少しだけ完全に近づくことができるのだ。人間は無意味な嫉妬に苦しめられることもあるし、嫉妬のせいで非合理的な行動を取ってしまうこともある。それは、一見すると適応的でないようだが、進化的視点で見ればそれらの行動にも合理的基盤があるわけで、その行動自身は合理的でないかもしれないが、人間の進化の産物なのである。

宗教においては、嫉妬という感情は概して評判が悪いようだ。そもそも、既婚者に対するアプローチ自体が悪とされている場合がほとんどだろうと思うが、嫉妬という感情も良くないもののように考えられていることが多い。しかし、これまで述べたように、嫉妬という感情自体は、配偶関係を安定的に保つ効能を持っており、それ自体が悪いものだとは言えない。しかし、嫉妬という感情が引き起こす行動については、問題がないわけではない。我々は狩猟採集時代であってすら、分不相応な攻撃力を持った存在であり、嫉妬に駆られてパートナーを殺してしまう場合すらあるのだ。パートナーを殺すのは、これまでの投資が無になるために、仮にパートナーが他人の子供を宿している場合ですら合理的でない場合がほとんどだと思われる。パートナーを殺すことが、群れの他の個体への「見せしめ」となり、以後の浮気を減らす効果があるのなら、利他行動として意味があるのだろうが、そのような効果があるのかどうかも疑問である。

つまり、嫉妬という感情が適応的であることと、嫉妬が引き起こす行動を正当化することとは何の関連もない、ということには留意しておこう

さて、愛と嫉妬という車の両輪で、配偶関係は十分に安定的になるだろうか。実は、これだけでは配偶関係は十分に維持されなかったようだ。なぜなら、人類は「婚姻制」という文化を生んだからだ。愛と嫉妬が完全に働けば、敢えて「婚姻」などという制度を設けなくてもパートナーとの関係は安定的だっただろう。しかし、実際にはそうではなかった。人間は、愛と嫉妬という感情を獲得してもなお、新しいパートナーの獲得や現在のパートナーとの関係解消を頻繁に試みたのだ。パートナーが安定していない状態は、おそらく群れ全体の利益を損ねたし、個人の利益も損ねたと考えられる。そのため、婚姻制という文化を発明し、配偶関係をより強固なものにしていったのだろう。次回は、それについて述べることとする。

2010年6月23日水曜日

「家族」の論理(2)セックスの目的は、生殖ではなく快楽だ

【要約】
  1. 愛はセックスによって維持される。セックスだけで愛が維持されるわけではないが、人類にとってセックスは極めて重要だ。それを示唆するものとして、人類のセックスは他の霊長類のそれと異なっている点がいくつかある。
  2. 相違点1。 人間のセックスは非常に長い時間を要する。人間のセックスは妊娠可能性が低く、エネルギーの無駄の側面があるにもかかわらず、長時間のセックスを行うのは、快楽を目的としているからではないか。男女が快楽を与え合うことが、愛を維持するインセンティブとなるのだ。
  3. ちなみに、女性のオーガズムは人間に特有だと考えられている。オーガズムの存在理由としては、女性を暫くの間虚脱状態とし、射精された精子を膣内に留めておくためとの説がある。別の仮説は、人間のお産は非常に難産であるため、その埋め合わせとしてオーガズムという最高の悦楽を得た、あるいはセックスのたびにお産の予行演習をしているというものだ。
  4. 相違点2。人類のセックスは通常夜に行われることが多い。これは、おそらく精子を膣内に留めおくために女性が仰臥しなくてはならないということと関係している。
  5. 相違点3。人類は、セックスの最中にボディタッチ=愛撫を非常に多用している。人間は、群れ=社会を友好的に保つという目的では「毛づくろい」を放棄したが、特別に緊密な相手とのコミュニケーション手段として「毛づくろい」から「愛撫」を生み出した。
  6. 人間に体毛がないのは、おそらく「愛撫」による快感をより強く感じ、より緊密な交流を行うためだったのではないか。また、体毛の喪失は性淘汰の側面もあっただろう。
  7. これらの相違点を踏まえると、人類のセックスは、本来の目的である生殖の側面を薄くし、より大きく長い快楽を味わえるように進化したと考えられる。
  8. なお、他の相違点として次のようなものがある。いろいろな体位があり、特に正常位が基本になっているという点。通常、群れの他の個体からは離れた(見えない)場所で行われるという点。男性のペニスと睾丸が非常に大きいという点など。これらは、より大きな快楽を得るためということで説明しうる。
  9. ところで、人間の平均的男性は、胸やお尻など女性の体の丸っこさに性的魅力を感じるが、これはなぜか。人間以外の生物では、丸っこさは妊娠や授乳、生殖の不能を示すサインであり性的魅力にはなりえない。人間の場合、妊娠中や授乳中に男性が離れてしまうことは大きなリスクであり、これを回避することが必要だった。丸っこさが性的魅力になったのは性の美意識上の大革命だったが、これは人類はセックスを「愛」の維持に 使っているということの傍証ではないか。
  10. 「愛」を維持する仕組みとして、セックスによる快楽を極限まで高めた結果、浮気するインセンティブも大きくなってしまったのは皮肉である。
  11. 男性にとっては、生まれてきた子供が紛れもなく自分の子供であると確信する必要があったが、そのための仕組みとして、個性的な顔が生まれたのかもしれない。それくらい、浮気への警戒感は大きかったのではないだろうか。

前回、私は、「人類は、男女双方が互いの約束を信頼するためのコストを低減させるために愛という感情が生まれた」と主張した。しかし、その「愛」は具体的にはどのように維持されうるのか、明確には説明しなかった。

さて、「愛」はどうやって維持されうるか。答えは簡単で、セックスである。このように書くと、一部からは反撥があるだろう。例えば、このことから性的不能の夫婦に愛は維持できないというような主張が演繹されうるが、そうとは言い切れないのではないか、というような。

私も、性的不能の夫婦間にも愛は維持され得ると思っている。しかし、人類全体の平均で考えると、セックスのないつがいは長期的には安定的でないということが言えるだろう。ただし、セックスをすることは直接的に愛に繋がるわけではないので、私は、セックスをすれば愛が維持できるというような単純な命題を主張したいのではない。以前に述べた通り、男女が互いを愛するということは、担保のない状態で互いの約束――他の人とセックスしないという約束、資源を提供するという約束――を信じるということであるから、約束を信じるための種々の条件を満たすことが必要であり、「愛」の表現としてのセックスはその結果としてついてくるに過ぎない。

しかしながら、セックスは人類にとってただのオマケではない。「愛」という、ある意味で抽象的な感情を長期的に維持していくための行動様式として、セックスは極めて重要である。その点について、人間のセックスが他の霊長類のそれと比べて著しく異なっている点を踏まえつつ考えてみたい。

まず、人間のセックスは非常に長い時間を要する。人間以外の動物のセックスにおいては、そもそも交接の時間は短ければ短いほどよい。なぜなら、交接の最中に外的に襲われる可能性もあるし、乱交的な動物の場合であれば、1回あたりの時間が短い方が、多くの相手とセックスできる。チンパンジーにおいても、一回のセックスは15~20秒ほどで済んでしまう。ボノボの場合はそもそも乱交的であるから同じくらい交尾時間は短い。

人間は、どんなに短いセックスであっても、最低5分程度はかかるだろう(ギネス記録的な意味ではもっと短くできるだろうが)。しかも、セックスの深い快楽を味わうためにはかなり長い時間が必要で、1時間程度かけて互いの快楽を深めていく必要があると言われている。

どうして、人間はセックスに長い時間を要するのであろうか。そもそも人間の場合は、セックスが排卵日に当たる可能性も小さく、受精を目的としたセックスではない。だから、人間のセックスは元来の目的である受精という観点からはほとんどエネルギーの無駄と言える。その無駄な行為にこれだけ多大なエネルギーを要する理由として考えられるのは、人間の場合、セックスすることよりも、セックスにおいて味わう快楽を目的としており、その快楽をできるだけ大量に味わうために長いセックスをしているのではないかということだ。そして、男女が互いに快楽を与え合うことが「愛」を維持するインセンティブとして働いたのではないかと考えられる。

実は、他の動物がセックスに感じる快楽よりも、人間はより大きな快楽をセックスから感じていると考えられている。例えば、人間の女性にはオーガズムという強烈な快楽の感覚があるが、他の霊長類には、オーガズムはないと言われている。そして、おそらく他の哺乳類一般において、メスのオーガズムは存在していないだろうと思われる。他の動物でオーガズムが観察されていないことはもちろんのこと、自然の中でオーガズムのような虚脱状態になることは大変な危険を伴うので、おそらくオーガズムなどというものは、人間特有のものであろう。

オーガズムがなんのために進化したのかということは、まだ解明されていない問題であるが、一つの仮説としてもっともらしいのは、精子をより膣内に留めておくためという説だ。

人間以外の哺乳類はほとんど4足歩行であり、4足歩行の場合、メスの膣は地面に平行になっているので、オスが射精した精子は簡単に膣内に留まることが出来る。しかし人間の場合、二足歩行のために膣が地面とほぼ垂直になっている。そのため、射精の後、女性がすぐに直立歩行を行うと、せっかく射精された精子が膣外に漏れ出てしまう。これは受精の観点から是非とも避けなくてはならない。その一つの解決策が、セックス後は暫く女性に横になってもらうというものであり、そのために虚脱状態としてのオーガズムが生まれたのではないかということだ。

もう一つは、人間の出産が難産であることに関係しているとする考え方だ。既に述べたとおり人間は直立歩行を実現するため、骨盤がお椀状に変化し、結果として産道が極めて狭隘になった。そのために人間の女性は大変な難産を経験することになったのだ。具体的には、普段は強固な骨盤がお産の時だけ歪んでしまうほどの変化を受ける。骨盤は3種類の骨の組み合わせ出来ているが、お産の最中にはそれらの結びつきが緩む。イメージとしては、きつく閉まったネジを緩めて、部品ごとにバラすことにより、大きな産道を確保しているようなものだ。そのため、女性の下半身は分娩の最中に非常に柔軟になっている。さらに、人間のお産にはかなりの激痛を伴なう。赤ちゃんの大きな頭が狭い産道を通らなくてはならないし、普段は縮約している膣口を出産の時には大きく拡張しなくてはならない。この痛みをどうして耐えることができるのか。
実は、出産の最中、女性の体にはβ-エンドルフィンと呼ばれる鎮痛作用の強い脳内麻薬が大量に放出されている。これが本来激痛であるはずの分娩に女性が耐えられる理由である。この脳内麻薬のおかげで、陣痛時には非常な激痛に耐える必要があるにもかかわらず、自然分娩においては、分娩時は激痛どころか痛みはほとんど感じず、多幸感すら感じる人もいるという。それは、オーガズムすら超えた最高の悦楽だということだ。

そして、β-エンドルフィンという物質は、オーガズムを生み出している物質でもある。そして、セックスの最中、女性の下半身は出産の時と同じように柔軟になることが知られている。出産とオーガズムは類似しているのである。ここからは論理の飛躍だけれど、とすれば、女性はオーガズムのたびに出産を疑似体験しているのかもしれない。耐え難いお産を経験しなくてはいけないということの引換にオーガズムという悦楽をも獲得するに至ったのか、あるいは、ある意味でお産の「予行演習」を行うためにオーガズムがあるということなのではないか。いずれにせよ、オーガズムとお産には深い関係があるのではないかと予見されるが、これも二足歩行による対処とつながっているのではないかということが、私には重要に思われる。

さて、オーガズムと関連して、人類のセックスが他の霊長類と異なる点は、人類のセックスは通常夜に行われることが多いということである。いつごろからこのような傾向が生じたのわからないが、おそらく精子を膣内に留めおくために女性が仰臥しなくてはならないということと関係しているのだろう。なぜなら、仰臥の姿勢を長時間とるためには睡眠中が最も効率がよい。昼間は、食料の採集活動などをしなくてはならないため、長い時間横になっていることは自然界においては効率的ではない。もちろん、現代においても効率的でないだろう。だから、人類のセックスは、就寝時に行われるという特徴を獲得するに至ったのだと考えられる。エロスが夜的なものであるのは、人類が二足歩行を始めたことを淵源とすると言えるのだ。

なお、精子を膣内に留めることが目的であれば、女性をしばらくの間仰臥させるなどという迂遠な方法を採らなくても、例えばスペルマの粘性を上げるというような対処も可能だったのではないだろうか。これは、人類以外の二足歩行的な哺乳類、例えばカンガルーなどのスペルマも調べてみなければ本当にこのような進化がありえたのかはわからないが、私はこのような対処法は、人間には不向きだったのではないかと思われる。なぜなら、そもそもセックスの快楽は男女間の精神的結びつきを強化するために発達したものであるため、セックス自体があっさりしていてはその機能を十分に果たせない。より快楽を深め、より長時間に、より忘我的になることこそ、人類のセックスの進化の方向性だったのではないだろうか。だから、私にとっては、スペルマの粘性を上げるなどという手軽な解決策よりも、快楽で虚脱状態にし、ある程度仰臥の姿勢を保つようにするという解決策の方が、より「人類的」であるような気がするのである。

人類のセックスが他の霊長類のそれと異なっている点はまだある。人類は、セックスの最中にボディタッチ=愛撫を非常に多用している。交接の前後、このように互いの体を愛撫する生物は他にはいない。なぜ愛撫が人類のセックスにおいてこんなに重要なのか、その理由は未だ解明されていないが、一つの考え方としては、以前説明したサルにおける「毛づくろい」が発展したものが人類の「愛撫」ではないかという考え方だ。

少しおさらいしておこう。サルは群れを友好的な状態に保つために、互酬的な行為として「毛づくろい」をしている。しかし、群れのサイズが大きくなると、時間のかかる「毛づくろい」は効率的でないため群れの個体全てと互酬的な関係を築くことができないし、そもそもそんなに毛の手入れが必要なわけでもない。よって、「毛づくろい」を群れの個体間関係の良好化に使うのには限界がある。人間の場合は、「毛づくろい」ではなく言語という効果的かつ簡便な手段を使って、社会を友好に保つという方法を獲得したことが、巨大な社会を構築できた一因だったのではないかということだった。

では、人間は「毛づくろい」を完全に忘れてしまったのだろうか? 私はそうではないと思う。サル時代の「毛づくろい」は、特別親密な人とのコミュニケーションの手段として発達したのではないだろうか。サル(apes)の場合、チンパンジーにしろゴリラにしろボノボにしろ、特別に仲良くする個体があるわけではない。なぜなら、彼らの婚姻関係は常に流動的であるからだ。よって、彼らは特別に親密な個体とのコミュニケーションを発達させる必要はなかった。一方で、人間の場合は、子育てを男女が共同して行わなくてはならないという制約があったため、婚姻制の”発明”以前においても、つがいの男女間には特別な精神的紐帯が必要であり、それが「愛」という非合理的な感情であったということが私の仮説だった。であれば、愛する者同士の特別なコミュニケーション手段が発達してもおかしくないのではないか。そしてそれは、サル時代に人が多用していたに違いない、「毛づくろい」をさらに洗練させたものではなかっただろうか。要は、「毛づくろい」は一般的な友好化のための手段ではなく、愛する者同士のための特別な手段になったのである。

「毛づくろい」なのにも関わらず、人間にはほとんど毛がないではないか、との反論があるだろう。人間がなぜ体毛を失ったのかということも、未だ解明されていない課題であり、水性進化説、放熱対策説などいろいろな説が主張されている。それらのどれにも長所と短所があるが、私が最も気に入っているのが、体毛の喪失は、「毛づくろい」を特別化するための進化だったのではないかという考え方だ。つまり、「毛づくろい」である以上、コミュニケーションは自分の皮膚ではない「毛」が中心になる。より親密な交流を行うには、毛ではなく、皮膚を直接撫でたほうが効果的だ。だから、人間は愛撫するために体毛を失ったのではないかと考えられるのだ。

この考え方を裏付けるのは、体毛における男女差の存在である。なんらかの外部環境への適応として体毛の喪失が進化したとすれば、大きな男女差は生まれないはずだ。しかし実際は、明らかに女性の方が体毛が薄い。これは、体毛の喪失は外部環境の適応ではなく、性淘汰によって獲得された可能性を示唆している。性淘汰は、進化を促す上での淘汰圧として自然淘汰と同様に重要な概念であり、平たい言葉で言えば、「そっちの方がモテる」ということから生じる淘汰のことである。つまり、体毛の薄い女性の方がモテたから、人類の体毛は喪失したのではないか。

なぜ体毛の薄い女性がモテたのかというと、進化した「毛づくろい」である「愛撫」によって、より濃密なコミュニケーションを取ることができ、愛情が持続的だったからかもしれない。あるいは、愛撫によりより深い快楽、信頼、慰安を感じることができた女性は、安定的に子孫を産み育てることができ、適応度が高かったからかもしれない。いずれにせよ、「愛撫」によるコミュニケーションがより成功した個体が生き残ったということだ。ただ、不思議なことに、男性は女性よりも愛撫への感受性が鈍くできている。なぜ、男性は愛撫する側で女性は愛撫される側なのかということは、さらに研究すべき課題のように思われる。一つの考え方としては、出産は女性にとって非常に大変なイベントであるため、男性に対してより大きな信頼や愛情が必要だったのではないかということだが、どうだろうか。

さて、本論において重要な点としては、「愛撫」はセックスにより大きな快楽を与えてくれたということだ。人類以外の動物も、セックスから快楽を得ているのかもしれないが、それはあくまでも挿入/非挿入という単純なものだろう。人間の場合は、それに加えて体や性器への愛撫は、セックスにおける快楽の要素として非常に重要だ。最近流行りのスローセックスの理論に従えば、愛撫こそセックスの本当の快楽であるとも言えるそうである。

これらのことから何が言えるだろうか。私の考えでは、人類のセックスは、いかに快楽を大きく、長時間感じられるようにするかということを中心軸として進化したのではないかということだ。もっというと、本来の目的であるはずの生殖という側面を弱め、快楽自体を自己目的化するような方向に進化したのではないだろうか。そしてそのように進化した理由は、「愛」という非合理的感情を長期間に亘って継続させるために、セックスの非常な快楽というものを必要としたからであると考えられる。

なお、上で述べた以外にも、人類のセックスが他の霊長類のそれと異なる点はある。これまでの考察で、論点はかなり明確になっていると思うので、以下は簡単に触れることにする。まずは、いろいろな体位があり、特に正常位が基本になっているという点。次に、通常、群れの他の個体からは離れた(見えない)場所で行われるという点。そして、男性のペニスと睾丸が非常に大きいという点などである。これらの理由もまだ完全に解明されているわけではないが、快楽の自己目的化としてセックスを捉える見方からすると、理由は明快であろう。

多様な体位は、多様な快感を得るためだろうし、正常位が基本なのは、愛撫をしながらセックスするため、あるいは対面でその反応を確認しながらセックスを行うためだっただろう。他の個体から見えないところでセックスするのは、「群れ」の論理で動く生物であるところの人間、すなわち社会的な生物としての人間ではなく、あくまで「家族」=男女間という極めて個人・個別的な関係に没入するために必要な措置であっただろう。そして、ペニスや睾丸が大きいのは、より大きな快楽を継続的に感じるためだっただろう。

なお、睾丸の大きさは乱交性と関連しているという事実はあるが、人類の祖先は乱交性であったが、睾丸の大きさはヒトがヒトになってからは、同じ相手と繰り返しセックスするためにこそ役立ったのではないかと思われる。

さて、ここまでの考察で、人類のセックスは、生物としては例外的なほど快楽に特化しているということと、セックスこそ愛を維持するための紐帯であったということはかなり明白になったのではないかと思われるが、さらに補足としてある現象を取り上げたい。それは、人間の平均的男性は女性の体の丸っこさに性的魅力を感じるということである。

丸っこさが魅力というとちょっと奇異な言い方だが、大きく膨らんだ胸、突き出た尻などに男性は魅力を感じるのだということだ。そんなの当たり前じゃないか、と言うなかれ。これが自然界(他の哺乳類)ではかなり異端的な女性の好みなのだ。なぜなら、自然界では、人気のあるメスの特徴としては、角張っていて丸っこくない個体だからである。というのも、丸っこさは妊娠あるいは授乳中のサインであり、このような個体は生殖の対象として価値がほとんどない。妊娠中のメスと交尾しても得るところはないし、授乳中も(排卵が止まっているので)同様である。だから、霊長類も含む人間以外の哺乳類では、メスは丸っこいと人気がないのだ。

妊娠中や授乳中のメスの価値が低いというのは、人間でも当てはまる論理なはずなのに、なぜ人間の男性は丸っこい女性を好むのだろうか。ここに、人類の女性が成し遂げた、革命的な美意識の変化があると私は考える。

愛がセックスによって維持されるものだとすると、女性にとって脅威なのは、セックスの価値が著しく低下する期間である妊娠中や授乳中に男性が自分への興味をなくし、新しい女に手を出してしまうことである。こうなると、生まれてくる子供や現在抱えている赤ん坊を、男性の援助なく女で一つで育てなくてはならない。これは女性にとっては大変なリスクだ。そこで、妊娠中や授乳中も男性の自分への興味が持続するようにしなくてはならない。だが、授乳中は自然に胸が膨らむし、妊娠中は自然にお腹が丸くなる。これを隠すことはできない。どうするか。

そこで、人類の女性は、男性の美意識を根本から作り替えることに成功した。自然界では本来妊娠や授乳を表すための「丸っこい」というサインを、性的魅力(セックスしたくなる)という全く逆の価値観と結びつけた。これは、本来、男性側にはネガティブなサインだったはずのものである。想像するに、胸の大きな女性を見ると、「(妊娠中や授乳中だから)性の対象にはなりえない女だ」と考えたはずだ。それが、どういう進化的過程を辿ったのか不明だが、ネガティブだった特徴が、ポジティブな特徴になった。だから、人間の男性は胸やおしりが好きなのだ。

その結果、どういうことが起こったか。人間の男は、妊娠中や授乳中も妻に欲情することができたのである。妊娠中や授乳中は、本来は女性としてはセックスしたくない期間のはずである。流産の危険性があったり、篤い保護が必要な赤ん坊の世話が疎かになったりする。それなのに男性がセックスしたがるのは、そのための意味があるはずで、それこそが、セックスを「愛」の維持に使っているという傍証なのではないだろうか。

ちなみに、大きな胸や尻は、女性の生殖器が股の間という見えにくいところにあるため、膣が腫れ上がるといったような発情のサインを現示させにくくなり、その代替として胸や尻が膨れたのだ、という仮説もあるが、私にとってこの仮説は全く説得的でない。なぜなら、そもそも人類の性戦略の基本は、女性が発情期を隠したことにあると考えているので、発情のサインを示す必要性など全くないし、自然界ではむしろ発情と対極にある胸や尻の丸っこさというものを、なぜ発情のサインとして使ったのかという説明ができないからである。

さらに、蛇足だが、この性の美意識の革命的な変更を受けて、人間の芸術には、基本的に「丸っこいものが美しい」という感覚が導入されたのだと思われる。もしこの性の美意識の革命がなければ、角張っているものが美しいという、今とは全く別の芸術体系が生まれていたのかもしれない。

さて、論証に思わず多言を要してしまったが、これまでの議論をまとめると、私の主張は次の通りだ。
人間の男女は「愛」という非合理的感情を長期間に亘って維持する必要があった。
そして、そのためにセックスを本来の生殖という目的ではなく、快楽を与えてくれる仕組みとして進化させた。
そのため、人間は、動物としては異例ともいえる強力な快楽を与えてくれるセックスを行うことになった。
結果として、人間は男女がともに快楽を与え合うことにより「愛」を強化するという仕組みを確立することができた。

読者諸君は、「それは大変結構だ」と思うかもしれない。しかし、これが落とし穴なのである。セックスによる快楽を極限まで高めた結果、なんと、人間には浮気するインセンティブも大きくなってしまったのだ。ここまでセックスによる快楽が大きくなければ、特に生殖上有利なわけでもないその場限りの情事が横行することはなかったのではないだろうか。

本来は、継続的なつがい間の愛を強化・継続させることこそ快楽的セックスの存在意義だったはずなのに、それが浮気のインセンティブを高めることになるとは、進化の皮肉である。もちろん、浮気のインセンティブはセックスの快楽だけではない。浮気を防止する仕組みとしての嫉妬や婚姻制については後に述べるが、この論考の最後に、浮気という可能性が潜在的にあったことで進化した別の事象について付け加えよう。

さて、男性にとってつがい関係の最大のリスクは、自分の子供だと思って育てていた子供が、実は他人の子供だった、というものである。だから、つがいの女性からうまれたその子どもが、まぎれもなく自分の子供だと確信できるような仕組みを発達させる必要があった。そのために、例えば嫉妬であったり、婚姻制というような仕組みが生まれたのだ。これらについては後に説明するが、人間が発達させたのはこれだけではないだろう。おそらく、顔の多様性も、このために生まれたのではないだろうか。

人間の顔は、大変多様性に富んでいる。もちろん、動物の顔が均一だ、ということではない。社会性のある動物は個体レベルで識別することが必要だから、ある程度顔や体の個性がはっきりしている。だけど、人間の場合は(私が人間だからそう感じるだけ、という可能性もあるが)動物とはまた違ったレベルで多様な顔を持っている。なぜだろうか。もちろん、個体レベルでの識別が必須だったから、というのも有力な理由の一つだ。しかし、それと同じくらい重要な理由として、女性から生まれた子供が本当に自分の子供だと確信するための印として顔の特徴があるのではないだろうかということが考えられる。

生まれてきた子どもが自分に似ている、ということは、その子が本当に自分の子であることを直接的に証明するものだ。もちろん、似ていなかったからといって、血縁が否定されるわけではない。似ていなかったからといって、世話をするのを辞めるわけではない。しかし、自分により似ている子供には安心してより大きな投資をすることができる。実際、人間は自分に顔が似ている人ほどより簡単に信用するという研究結果がある。信用と血縁は相関関係にあるのだ。だから、個性的な男性から生まれた個性的な顔立ちの子供は、平均的な顔立ちの子供よりもより大きな保護と投資を受けただろう。その結果、人間の顔立ちはどんどん個性化する方に進化していたのではないか。

もちろんこれは、単なる仮説に過ぎない。だが、男性が持つ女性の浮気への警戒という感覚は、人類の顔を多様化させるくらい強烈だっただろうというのが、私の考えである。