2010年12月25日土曜日

【善と悪】善とは何かという伝統的な問題

善(good)とは何だろうか? どういう行動が善と呼びうるだろうか? 倫理的とはどういうことだろうか? こういうことを考えるのは、倫理学の内でも、特に「メタ倫理学」と呼ばれる。だいたい近代以前の倫理学というのは、そうは呼ばれていなかったけれどもメタ倫理学的であり、どういう行動が善であるかということの考察をしていた。

もちろん、西洋においてキリスト教が支配的な力を持ってくる中世以降の数百年は、善は神の意図にかなう行為として規定されたので、「善とは何か?」という答えは簡単だった。なぜなら、教会が神の代理人を任じており、神が人間に何を望むかを教会が決めていたからである。しかし、教会はどのように神の意図を読んだのであろうか? もちろん、民衆支配のためにご都合主義的な善悪を持ち出してきたことも多々あった。しかし、そういうご都合主義的なやり方だけでは教会という巨大なシステムは維持できなかった。端的に言えば教会は「理論武装」を必要としたのであり、それが「神学」だった。

近代西洋哲学は、神学との対決で生まれた、といっても間違いではないであろう。といっても、近代西洋哲学者が無神論者であったというわけではないし、哲学者と神学者の境界線は事実上なかった。そして、スピノザ(1632-1677)のような例外もあるが、むしろ、彼らは積極的に自分たちは無神論者ではないということを主張している。 無神論的な主張がおおっぴらに公表されるようになったのは、18世紀啓蒙思想からである。

近代西洋哲学が神学の影響を強く受けていると私が感じるのは、西洋近代思想が原理主義的なものが多い、ということである。

例えば、ここでカント(1724-1804)の正義論を簡単に考察しよう。カントの正義論は倫理学でいう「義務論(deontology)」に分類される。義務論というのは、おおざっぱに言えば「人間には道徳的に振る舞う義務があり、良心に従って行動しなくてはならない」ということである。カントのみならず、近代以前の哲学においては、倫理学の中心は義務論であった。ソクラテスの思想も義務論と見なせるであろう。しかし、義務論には一つの弱点がある。「良心はどういう原理によって、従うべき義務を導出するか」が説明できないのだ。つまり、義務論は正義や善悪という茫漠としたものを、良心という茫漠としたものに置き換えて説明しているに過ぎない。

そこでカントが考え出したのが、有名な「定言命法(categorical imperative)」というものである。定言命法とは、「あなたの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」というもので、もっと簡単な言葉に置き換えると、「みんなが同じように行動しても困らないような行動ならよい」ということである。例えば、みんなが気にくわない者を殺してしまうと、とんでもない殺し合いの世の中になってしまう。だから気にくわないというだけで殺すのはよくない、ということになる。

定言命法の批判はたくさんあるのだが、ここで紹介することはあまり意味がない。ここで私が言いたいのは、「定言命法」のような単純な原理で道徳の(全部とはいわないまでも多くが)説明されうると考えるのは、あまりに素朴過ぎるのではないかということである。しかし、こういう素朴な考えをカントならずとも西洋の哲学者の多くが犯しているように思う。私は、それは唯一神という単一の「原理」から全てを導出する神学の影響が大きいのではないかと思っているのだが、それも素朴過ぎる考えだろうか?

単一の原理から善を導出しようとした哲学者の代表は、ジェレミー・ベンサム(1748-1832) であろう。ベンサムは功利主義という考え方で正義を論じた。功利主義とは、おおざっぱにいうと、「幸福や快楽の総量を増大させるものが善だ」というものである。特にこれが政治哲学に応用される場合は、「最大多数の最大幸福の原理(the greatest happiness for the greatest number)」と呼ばれる原理となる。つまり、社会全体の「快」を最も増進するのが正しい(good)政策なのだ、ということになる。

功利主義も大変批判の多い考え方で、例として一つだけ紹介すると、一人を犠牲にして100人の快が大きく増すのであれば、一人を殺すことが善になってしまうが、それは善であるようには思えない、というものだ(ただし、ベンサム自身はそれは善とは言えないというロジックを用意している)。一方、私が感じるのは、やはりそのような単一の原理で道徳の体系を導出するのは無理があるのではないか、ということなのである。

とはいえ、ここで義務論や功利主義といった先人の成果を論うことは本旨ではない。そして、これから後の議論において、それぞれの考え方は、進化学に基づく理論の別の側面を説明したものである、という形で位置づけていく予定である。

最後に紹介するのは、イギリスの哲学者G.E.ムーア(1873-1958)が提唱した直観主義(intuitionism)である。直観主義とは、何かが善であるという倫理的判断は、実は直観的判断にすぎないとする考え方である。つまり、何かが善であるというのは、何らかの原理から導出されるわけではなく、私たちがそう考えるからそうなのであり、それ以上の説明はできない、ということである。例えば、赤いものが赤く見えるのがどうしてか? ということを問うのは無益だろう。それが赤く見えるからだ、という答え以上のものはない。それと同様に、倫理的な判断も我々の「直観」に基づくものであると考えるのが直観主義である。

しかし、直観主義は義務論と同様に、倫理的判断という茫漠としたものを、直観という茫漠としたもので説明しようとするものではないだろうか。つまり、「良心」を「直観」と言い換えただけで、ある意味義務論に先祖返りしている部分がある。特に、なぜ我々はそのように直観するのかというメカニズムを解明しなければ、人々の間で食い違う倫理的判断を調停することはできないので、実際的な思想としての価値が低い。そういうこともあって、直観主義はムーアの後を継ぐ者もおらず、すぐ廃れてしまった。

しかし、個人的に最も共感を覚えるのがこの直観主義である。そして、直観主義を体系化するという試みはまだ十分になされていないけれども、倫理学は一般的に、その判断の妥当性の吟味には直観主義が使われている。例えば、先ほど功利主義の批判として紹介した「一人を犠牲にして100人の快を増進することは善であるようには思えない」というのもそうである。「思えない」というのは、どういう原理による判断なのだろうか? 我々の多くは、これに対して「そう思うから、そう思う」以上の説明ができない。

つまり、我々の倫理的判断はほぼ直観的になされているのだ。そういう立場で考えると、冒頭の問い「善とは何か?」ということへの答えは、「善だと思われることが善だ」ということになる。しかし、これは単なるトートロジー(同語反復)のように思える。これで、何が説明できたのだろうか? 何も説明できていないのではないか。多くの哲学者はこのように、直観主義は考究しても生産的な成果を生み出さないように感じたのであろうが、私は、ここが現在の倫理学の出発点になると思っている。

つまり、倫理学と進化生物学が出会うところが、この点なのである。


【参考文献】
私自身通読したことはないが、ムーアの主著『プリンキピア・エチカ(倫理学原理)』は哲学の古典として重要である。決して読みやすい本ではなく、倫理学について勉強する人以外は読む必要のない本だが、もし英語が読めれば、ここで公開されているので一度覗いてみるのはよいだろう(それにしても、公開されている本の邦訳が6000円以上するのはどうしてだろうか)。

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