【要約】
- これまでの議論の要点を振り返るとともに、現代社会に生きる人間にとっての示唆を考える。
- 人間は「文明」という檻に入れられた動物だが、人間は文明=現代社会に「適応していない」生物ではなく、むしろ図らずも「適応しすぎていた」ために繁栄した生物である。人間は世界にとって一種の外来種なのだ。
- 文明を存立させる上で重要だったのは、社会を安定化させようとする人間の本能である。安定化により人類は空前の繁栄を謳歌したが、安定化にも功罪の両面がある。
- 安定した社会は文化を洗練させる。一方で、社会が停滞し、新しい文化や価値観が生み出されなくなる。逆に不安定な社会では、社会に活力がある代わり、文化は洗練されず、刹那的、即物的なものになりがちだ。
- 安定はリスクでもあるため、管理できる形で不安定要素を社会に導入することが重要になるだろう。なぜなら、今世紀中に世界は「中世化」していくだろうからだ。原因は、持続的な技術革新が止まることである。それにより、世界は安定し停滞したものになる。だからこそ、技術革新に変わる不安定要素が重要になる。
- また、これからの社会は費用逓増的になり、拡大路線が止まる可能性がある。そして、大量で長大なものより僅少で短小なものが生産的であるような時代が来て、人間の生来の多様性に改めて光が当たるかもしれない。
- それにより、思想や宗教のあり方もこれまでと変わったものになっていくだろう。それは、必然である。これからの思想や宗教を形作る上で私が重要だと思うのは、①人間本性に立脚したものであるということ、②「外来種としての人間」ということを自覚したものであること、③社会の不安定要素を肯定するこ と、④人間の多様性を肯定すること、である。
これまで、人間はなぜ苦しむのかというテーマを巡り、人類史を辿りながら議論してきた。最後に、これまでの議論の要点を振り返るとともに、現代社会に生きる人間にとっての示唆を考えてまとめとしたいと思う。
まず、人間を見る重要な認識として、私は本ブログの最初の方で、人間は本来適応していた環境から引き離されて生きなくてはならなかった動物であるということを述べた。人間は、巨大な社会を構築し、コンピュータで仕事し、時には宇宙まで行くことすらあるが、未だに3万年前の狩猟採集社会に適応したままの生物なのである。普通、本来生きるべき環境から引き離された生物は、非常に強いストレスを受ける。例えば、動物園に入れられた動物は、人間顔負けの「現代病」の症状を見せる。動物園の動物と同じように、人間は「文明」という檻に入れられた動物なのだ。
しかし、本当に重要な問題は、人間が本来適応していない文明的な環境で生きなくてはならないということではない。 もしそうであれば、文明などという人間本性に反するものは捨て去られていただろう。実際には、文明社会というものは、この地球上を席巻するに至った程繁栄したのだ。これはどういうことだろうか。人間は、文明に抑圧されたのではなかったのか。
この事実を考えると、私たちは、人間が文明=現代社会に「適応していない」生物であるという認識を改めなければならない。 むしろ、空前の繁栄を成し遂げた背景は、人間が本来は適応していなかったはずの文明という社会に、「適応しすぎていた」ということにあるのではないか。それを、本稿では丁寧に述べてきたつもりだ。例えば、狩猟採集社会では、群れは自然状態において十分に流動的になる要素があったため、人間は群れの構造を安定化させるように進化した。端的に言えば、人間は序列=不平等を許容するように進化した。これは、狩猟採集社会に適応して人類が身につけた性質だったが、農耕社会に移行したとき、この性質は群れをより巨大化し、中央集権化し、組織化することに役立った。これは、本来人類が適応していたはずの環境とは全く違う環境でより成功した性質なのだ。
こういうことは、自然界では珍しくない現象である。一例として、外来種の問題がある。近年世界的に問題になっているが、本来の生態系には存在してなかった生物が人為的に持ち込まれることにより、その生物が繁栄しすぎて在来の固有種が絶滅してしまうといった状況がいろいろなところで生じている。日本で言えば、20世紀前半に釣りのために導入されたブラックバスは、もともと清流に棲んでいた鮎のような魚のにとって脅威になっている。本来、生物はそれが進化してきた環境に最も適応していると考えがちであるが、そんな単純なものではない。ブラックバスは、環境もよく天敵もいない日本という環境で、その原産地である北米よりも容易に繁栄することができたのである。
そう考えると、人間も一種のブラックバスのようなものではないかと思えてくる。本来人間が適応していたのは、熱帯地方の疎林やサバンナでの狩猟採集生活だったのに、文明社会という生物本来のあり方とは全く違っった環境でこそ空前の繁栄を収めたのだ。つまり、文明社会に生きる人間は、ある意味で「世界にとっての外来種」なのだ。文明社会で生きる限り、我々は外来種であることをやめることはできない。文明を捨て、本来適応していた心地良い環境に戻れば、現代的な人間の苦しみの多くはなくなるだろう。しかし、それは生物としての繁栄を捨て去ることになるだろう。我々は、本来適応していなかったはずの「文明」という外部環境に、図らずも適応しすぎていた生物なのだ。
そして、「文明」を存立させた我々の性質というものを振り返ってみた時、先程も述べたように「群れの構造の安定化」というものが大きく寄与していたということを私は述べた。人間は、動物の群れでは考えられないほど安定的で巨大な群れを作ることができる生物だったのだ。しかし、群れが安定していることは、同時にリスクであるとも述べておいた。本来、人間はやや不安定な、流動的な群れにこそ適応した生物であるからだ。もちろん私は、安定というものをことさら排撃するつもりはない。「文明」というものが手放しに礼賛すべき進歩ではないものの、それが人間に大きな利益をもたらしていることも否定しえないように、安定にも功罪の両面がある。
例えば、安定した社会は文化を洗練させる。社会構造が安定していると、耐久財の期待使用年数は非常に長くなり、100年も200年も持つような文化を生み出す。封建時代において、世界的に偉大な建築物や美術作品が生み出されることは偶然ではない。支配階級に富が集積されるということはもちろんだが、その構造が非常に安定的だということが偉大な文化を生み出すインセンティブにもなるのである。
一方で、社会が安定していることは一種の停滞でもあるので、新しい文化や価値観は生み出されなくなる。文化や価値観の革新をもたらすのは、社会の不安定化であり、流動化である。日本においては、室町時代から安土桃山時代にかけて非常に社会構造が不安定になり、新しい価値観や美術が生まれたし、シナでも春秋戦国時代に諸子百家のような多様な思想が生まれたのである。
しかし、不安定な、流動的な社会では、洗練された文化は生まれにくい。明日をも知れない社会に住んでいる人は、どうしても刹那的、即物的になってしまう。100年や200年持つようなものを産み出そうとは思わない。それよりも、必要最小限のもの、実用的なもの、現世的なものを重視する。それが悪いというのではなくて、人間は自然にそうなる傾向があるということだ。
そして、人間は、安定した社会でこそ空前の繁栄を成し遂げたけれど、本当は少し不安定な、流動的な社会にも憧れている。なぜなら、元来そういう環境で進化したからだ。にもかかわらず、社会を安定化させる本能を持ってしまっているために、必要以上に安定な、頑強で画一的な社会を創り上げ、その社会が非常に成功を収めてしまった。そのために、現代社会で生きるほとんどの人間にとって、そういう強力に安定的な社会で生きる以外の選択肢はなくなってしまったのである。
また、社会が安定的であることから、戦争が生じることも既に述べた。そして、戦争が安定しすぎた社会を破壊し、人間に新しい活力を与えるという意味も持っているという考え方を示した。安定しすぎ、停滞した社会は、文明の周縁に生まれる不安定で暴力的な社会に倒される運命にあるのだ。だから、戦争を放棄するには、組織的に社会に不安定要素を導入する必要があるのではないかということも述べた。それがどういった方策によって可能なのか、人類はまだ見出していないが、管理できる形で不安定要素を社会に導入することは、これからの世界にとって非常に重要になるだろう。
なぜなら、今世紀中に、世界は「中世化」していくに違いないからだ。「中世化」とは、要するに持続的な経済成長がない、停滞した世の中になるということを意味する。持続的な経済成長は、産業革命以降のたかだか2世紀に経験した、人類史的に見れば一刻の現象に過ぎない。人間は18世紀まで、生産性が一定で、一人当たりの土地面積で豊かさが決まるマルサス的世界に生きていたのである。産業革命が持続的経済成長を成し遂げたのは、たゆまぬ技術革新のお陰であったが、今世紀中には容易に到達できる科学的知見は概ね発見されてしまい、持続的に技術革新を続けていくことはどんどん困難になるだろう。つまり、人間の知性的領域が、ついに収穫逓減的になってしまうのだ。
これは、人間の知性の限界に到達するということではない。収穫逓減的になるということは、次の発明・発見をするのは、それまでの発明・発見に比べてより困難になるということである。学問はこれまで、全世代の学説・知見を継承し、それに立脚することで、より多くの新しい発明・発見を可能にしてきた。ニュートンが、「私がより遠くまで見通すことができたのだとしたら、それは巨人の肩に乗っていたからだ」と述べたように、先人の業績は人間がより知的な意味で生産的になるための土台であった。すなわち、知的生産は時間軸的に見て収穫逓増的だったのだ。しかし、今世紀中には、先人の業績に新たな知見を加えることはどんどん困難になっていく。そうすると、どういうことが起きるか。
新たな技術革新が生まれないということは、旧来の秩序を脅かすものがなくなるということである。つまり、技術革新とは、社会に不安定要素をもたらすものでもあったのだ。それがなくなると、人間性来の社会安定化の指向を止めるものはないため、どんどん社会の構造が固定化する。格差や階級が固定化し、既得権益を脅かすものがなくなり、新しい文化や価値観が生まれなくなり、社会の活力がなくなってしまう。これが、社会の「中世化」である。もちろん、これも悪い部分ばかりではない。社会が中世化すれば、20世紀に生まれた文化や価値観はより洗練され、持続的な形へと発展していくだろう。そして、22世紀や23世紀に受け継がれるべき、偉大な精華が生まれうると思われる。しかし同時に、停滞した社会では、明日への希望なき多くの底辺の人間も生まれる。それが、偉大な精華を生むための社会的コストなのだ。
どのような社会が望ましいかは、どのような価値観を持つのかに依存する。だから、中世化した社会で偉大な精華を生み出すことに価値を見出し、そういう社会がよいと考える人もいるだろう。しかし、社会を構成する多くの人間は、実際にはそういう社会で下層階級で生きることになるのは間違いない。だから、多くの人間にとっては、ある程度社会が不安定で流動的であることが望ましいはずだ。その意味で、私はこれからの世界にとって、組織的に不安定要素を導入することが重要であると思われるのだ。産業革命この方2世紀ほど、技術革新というものが社会の不安定要素であり、だからこそこの2世紀は空前の繁栄を謳歌した。持続的技術革新が困難になったとき、社会の不安定要素になるものを見出すことは、人類の福祉にとって重要な課題であろう。
そしてもうひとつ、これからの社会がこれまでの社会と異なるであろうと予測されることがある。それは、文明が費用低減的から費用逓増的になるだろうということだ。その一つの例として、先程学問について述べておいた。俗な言い方をすれば、21世紀、学問は「拡大路線」を取れなくなるというという予想だ。これは何も学問だけについて言えることではない。本稿では、農耕社会は費用逓減的な生産様式であったことが社会の巨大化を招き、それが文明を生む要因の一つであったと説明していた。文明は、費用逓減的なものとして生まれたのだ。すなわち、文明は一度生まれると拡大路線を歩むということだった。しかし、これからの文明は費用低減的でいられなくなるかもしれない。学問について述べたことが、社会全体で当てはまるようになるかも知れないからだ。
具体的には、大量生産・大量消費的な産業、重厚長大的な産業、画一的なイデオロギーが栄えたのは、20世紀までだったと振り返られる時が来るかもしれない。なぜなら、本当に世界が中世化するなら、グローバルプレイヤーよりも小さな組織が繁栄する可能性があるからだ。現在、まだその兆しは明確には現れていない。むしろ、20世紀よりも企業が巨大化している面すらある。しかし、グローバルプレイヤーが競争上有利なのは、より多くの資源を研究開発に投資できるからという側面が強い。研究開発の意味が薄れてしまうと、グローバルプレイヤーは巨大で鈍重な組織の重みに耐えかねて、分裂していくように思われる。そして、これは産業だけでなく、思想についても言えるだろう。
私は、もともと人間は個人のレベルで多様な戦略・生き方を持っており、それこそが人間という種の強みであったと述べた。しかし、農耕社会はそれを一つの思想の枠に嵌めてしまった。人間が本来持っていたはずの多様性は、費用低減的な、20世紀型の拡大路線の中で見失われてしまったのだ。それが、費用逓増的な世界になって、大量で長大なものより、僅少で短小なものが生産的であるような時代が来ることによって、改めて人間の多様性に光が当たるかも知れない。そして、情報社会という大きな変化が、間違いなくこの傾向を後押しするだろう。
そして、思想や宗教のあり方もこれまでとは変わったものになっていくだろう。本稿において、人間社会が持つ制度が、その時の環境に適応する形で成立してきたことを述べた。例えば婚姻制は、女性が子育て中に資源を継続的に与えてくれる保護者を必要としたことから成立したものだ。しかし、社会福祉制度が整い、女性一人でも比較的楽に子供を育てることができる社会になれば、婚姻制は少なくとも表面的にはその必要がなくなる。実際、社会福祉が充実した北欧の諸国が「フリーセックス」の国だと(一部誤解もあるが)言われるのは故なきことではない。もちろん、単に資源の確保だけならば婚姻制はなくなってしまうだろうが、それと同時に、人間は「愛」という感情を発達させた動物であることにも留意すべきだ。人間に必要なものは金だけではなく、やはり、愛、慰安、信頼できるパートナー、絆というものも不可欠なのだ。というのも、そういう結びつきの中にいるほうが心地良く幸福感を持つように人間本性が進化しているからだ。
そういう自然な感情を軽んじてはいけないが、同時に、社会の変化に合わせて、思想や宗教をも変化させていくことが必要であり、また必然でもある。未だ我々は未来の思想や宗教がどういったものになるのか予見することはできない。しかし、未来の思想や宗教を形作る上で私が重要だと思う観点をいくつか述べて本稿の終わりとしたい。
一つ目は、人間本性に立脚したものであるということ。これまでの社会で支配的だった思想や宗教は、これまで述べたように人間を収容する檻の役目を果たした。これからの思想や宗教は、人間本性を肯定し、人間の求める自然な幸福を実現するものであって欲しい。
二つ目は、「外来種としての人間」ということを自覚したものであること。一つ目と矛盾するようだが、文明の中で生きる限り、人間は世界にとって外来種であり、自然な幸福など望むべくもない。しかしだからこそ、人間本性の求めるものと世界の矛盾をどうにかして解消していくことが求められる。例えば、その解消法の一つは、現代社会において、人間本性の求めるもののイミテーションを創りだすことであろう。もはや、外来種としての人間には、本来適応していた環境をハリボテで再現するしか自然な幸福を感じる方法が残されていないように見える。
三つ目は、社会の不安定要素を肯定すること。技術革新という不安定化要因がなくなった社会では、人間社会は極度に安定化し、停滞することが予想される。停滞にも良い面と悪い面があるが、人間本性に立脚した考え方をすると、適度に不安定要因や流動性がある方が好ましい。ただし、二つ目の観点を踏まえると、もしかすると、その不安定要素はイミテーションに過ぎないものになっているかもしれないが。
そして最後に、人間の多様性を肯定すること。これまで、支配的だった思想や宗教はあまりに全体主義的すぎた。社会が中世化するとともに、情報流通技術がより進むと考えると、世界はむしろ分散化・多様化すると思われる。そのため、思想や宗教もそれに対応したものである必要があるだろう。
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