血縁者の間では、自己犠牲的な利他行動も進化しうるが、非血縁者の間ではどうだろうか? 実際の人間社会においては、非血縁者の方が血縁者よりも多いが、これはアリやハチなどの社会性昆虫のコロニーとの大きな違いである。非血縁者間において、道徳的行為は進化しうるだろうか?
先に結論を言えば、非血縁者間においても道徳的行為は進化しうる。 なぜならば、どんな行為であれ、包括適応度を高める行為は進化しうるからであり、非血縁者間における道徳的行為も、包括適応度を高めるような行為がたくさんあるからだ。
例えば、他の個体の背中を掻いてあげるという行為が類人猿において見られるが、これは一種の「親切」であるとも言える(正確には「協力(cooperation)」という用語を使うが、わかりやすく以下「親切」とする)。他人(他猿?)の背中を掻くことで得られる直接的な利益はないからだ。しかし、他人の背中を掻いてあげていれば、自分の背中が痒いとき、普段親切をしている個体から「お返し」に背中を掻いてもらえるかもしれない。こういう、そのときには直接的な利益はもたらさなくても、長期的には見返りがある利他行動を「互恵的利他行動(reciprocal altruism)」という。
つまり、「持ちつ持たれつ」の利他的行動は進化しうるということだ。しかし、そのためにはいくつかの条件がある。
第1に、利他行動の対象になる相手とは継続的関係である必要がある。二度と会わないような相手であれば、「お返し」をしてくれる可能性がないので利他行動をする理由がない。
第2に、個体を識別する認知能力が必要である。「親切」をしてくれた個体や「お返し」をしなかった個体などを覚えておく必要があるからだ。みんなが「親切」をする群れの中で、「お返し」をしない一匹の猿がいれば、その猿は群れのみんなの善意に「タダ乗り(free-ride)」して、大きな利益を得ることができる。「タダ乗り」ができればその方が得なので、みんなが「タダ乗り」してしまい、結局協力的な関係は進化しない。
第3に、 「親切」への「お返し」をしなかった個体や、「お返し」をしない個体へ「親切」をする個体を罰する能力も必要だ。先ほど掲げたように、「タダ乗り」をする個体を許してしまうと協力的な関係が進化しないのであるが、「タダ乗り」する個体を認識したとしても、それを罰する能力がなければそのような個体を排除することができない。
ただし、ここで言う「罰」は「タダ乗り者(free-rider)」の不利益になる行動ならばよく、普通言うような意味での罰である必要はない。たとえば、「二度と親切しない」という行動も罰になりうるのであり、罰を行うために司法機構が必要なわけではないのだ。
以上3つの条件を鑑みると、人間社会においては、小規模な集団においては互恵的利他行動が進化しうる条件が整っていると言える。具体的には、小さな村を想像してもらいたい。村人の構成が固定的で、村人同士が顔見知り、そして、「お返し」をしない人間を村八分にして罰することができる。「仲間内における道徳的行為」は進化しうるのだ。
では、3つの条件を満たさない場合には利他行動は進化しえないのだろうか? 我々は、今後会わないであろう他人であっても親切に道を教えることがあるが、このような一回限りの「親切」は「互恵的」な利他行動とは呼べない。親切を受ける側からの「お返し」は想定されないからだ。血縁者でもなく、仲間内でもない他人への親切は、本能に基づくものではないのだろうか?
実は、こういう一回限りの「親切」も進化しうることが分かっている。このような「親切」は一見すると一種の純粋な贈与であり、親切な者(利他主義者)には何の利益もないように思えるが、長期的には利益になりうるからだ。具体的には、親切な者の「評判」を高めて、将来の仲間内からの協力行動(親切)を引き出すという利益があるのである。
将来得にならないような「親切」をすることは、「自分は道徳的な人で、(見知らぬ相手にも「親切」をするのだから)仲間内への「親切」や「お返し」は必ずする」というシグナルになるのである(こういうシグナルを「cue(合図)」という)。例えば、あなたは困っている人を助けてあげた、というような噂が村に広まると、あなたは人格者だという(cueを出す)ことになり、今後の村の活動において有利な立場に立つということになったりするのである。
このように、見返りを求めない(互恵的でない)利他行動が進化しうるためには、「親切」をしたということが(互恵的利他行動の対象になる)仲間内に知られるようなシステムがなければならない。例えば、小さな村においては、そのシステムに当たるのは「噂(gossip)」である。
人間は、ゴシップが好きである。現代的な感覚からは、ゴシップに興じることはあまりいい趣味であるとは言えない。しかし、進化的には、ゴシップは集団内を協力的(道徳的)に保つのに役立った。誰が親切をしたか、誰が親切をしなかったか、誰がお返しをしたか、そのお返しは十分なものだったのか、といったことを仲間内で共有することは、集団内が互恵的であるように保つシステムだったのである。
e-bayやyahoo! オークションのような個人対個人の取引において、ちゃんとした品物が送られてくるか、ちゃんとお金を払ってくれるかということは取引者の双方の懸念事項である。こういう、決済と納品の時期がずれる取引は信用取引の一種で、互いが信用で結ばれている必要があるが、このような取引では多くが一回限りであるためにそういう信用は構築し得ないからだ。
そこで重要になるのが「評判」である。インターネットの画面には、これまでの取引における「評判」が表示されており、その「評判」を落とさないように出品者も落札者も誠実な取引を行う。「評判」が落ちるとその後の取引に差し支え、村八分ならぬ「オークション八分」を食らうからである。
インターネット取引のような現代の仕組みが、ゴシップのように伝統的な手法を用いて成立しているというのは興味深い。我々は、現代においても進化的に獲得した機構から逃れることはできないし、それに進化的に獲得された仕組みはそれなりに合理的で効率的である。
人間社会を協力的(道徳的)に保つためには、相互の行動監視と非協力的な人間に対する制裁、そしてゴシップによる情報の共有という、前近代的で息苦しい環境を構築しなくてはならないという諦めも、我々には時として必要なのかもしれない。
2011年1月16日日曜日
2011年1月11日火曜日
【善と悪】身内の利益は自分の利益
なぜ、人間には生まれつきの道徳的直観、つまり「本能的な道徳」が備わっているのであろうか? この問いに対しては、人間はなぜ二足歩行をするのだろうか? ということと同様に、進化生物学を使って答えられるだろうと現在では考えられている。そしてこれは、既にチャールズ・ダーウィン(1809-1882)が示唆していたことでもある。道徳的直観の由来は、進化生物学によってその一端を解明できるのである。
人間が「本能的な道徳」を持っていた理由、それは端的に言って、倫理的であることに利益があったからに他ならない。何らかの利益がない行動や形質は、進化的には発展しないからである(必ずしも淘汰されるとは限らないが)。
では、ここでいう利益とはどういうものだろうか?
それは、単純に言えば、「その行動をすることによって、そうでない個体よりもより多くの子孫を残すことができた」ということである。つまり、倫理的な個体は多産だった、ということだ。
さらに正確に説明すれば、ここでいう「多くの子孫」というのは、自分自身の子供や孫(つまり直系子孫)である必要はなく、きょうだいやいとこの子孫であってもよい。それは、きょうだいは1/2、いとこは1/8の遺伝子を共有しており、その子孫が繁栄することにより、自分の遺伝子を残すことができるからだ。ある行動や形質が繁栄するかどうかということは、その行動や形質をもたらす遺伝子を持つ個体が増えるか減るかということであるから、自らの子供の数という限定された指標ではなく、自らの遺伝子が次世代にどれだけ継承されるかという指標に注目するほうが、より直接的で正確に遺伝の様子を記述できるのである。
なお、自らの子供の数という指標を進化生物学では「適応度(fitness)」といい、自らの遺伝子が次世代にどれだけ継承されるかという指標を「包括適応度(inclusive fitness)」という。
この用語を使って、「倫理的であることに利益があった」ということを言い直すと、「倫理的であることは、その個体の包括適応度は高くなったのだ」ということになる。
具体的にはこういう状況を思い浮かべていただきたい。
答えは、自らを犠牲にしてきょうだい3人を助けるべきである、ということだ。なぜならば、あなたときょうだいは1/2の確率で遺伝子を共有しており、3人のきょうだいが持つ遺伝子の総量は1/2 × 3 = 3/2 なので、自分自身の遺伝子の総量(すなわち1)よりも多い。よって、自分一人が生き残るよりも、きょうだい3人が生き残った方が、あなたの遺伝子がより多く残るのである。
普通の感覚では、自分の命を犠牲にして他の人の命を救うことは、それが家族や親戚であっても「徳の高い」行為と見なされる。つまり利己的な人間にはできない行為であると考えられがちだ。しかし遺伝学的に考えると、仮に自分自身に不利益をもたらす行為であっても、家族や親戚の適応度を高める行為は、究極的には自分の利益に適う行為なのであり、その意味で利己的な人間でも行いうる行為なのだ。
では、【事例5】で、きょうだいの数が2人だったらどうだろうか? 答えは、救っても救わなくてもよい、つまり包括適応度は変わらない、である。なぜなら、きょうだい2人だと自分と共有する遺伝子の総量は1/2 × 2 = 1なので、自分自身の遺伝子の総量と変わらないからだ。もちろん、きょうだいの数が1人なら、自分が生き残った方がよい。
さて、ここで一つ補足しておきたい。これまで、きょうだいと自分が遺伝子を共有している確率が1/2、つまり50%であるとしてきたが、これはどういう意味だろうか。よく、チンパンジーは人間と約99%の遺伝子を共有していると言われるが、きょうだいよりチンパンジーの方が遺伝的に近いわけではないだろう。
というわけで、包括適応度の概念を理解する際に重要な「血縁度(relatedness)」の説明をしておきたい。先ほど「きょうだいと自分が遺伝子を共有している確率」が50%であると書いたが、まさしくこれはきょうだいと自分の血縁度が50%であるということにほかならないのだ。さて、血縁度とは何か?
血縁度とは、2つの個体間に定義される確率で、一方が有するある特定の遺伝子に注目したとき、その遺伝子をもう一方の個体が共通の由来から受け継いでいる確率のことである。
つまり、遺伝子自体が同じかどうかということよりも、ある特定の(より正確に言えば「任意の」)遺伝子が共通の由来を持っているかどうか、ということに注目するのである。先ほどの説明では、「遺伝子を共有している確率」と述べたが、正確には「共通の由来を持つ遺伝子を共有している確率」と言わなくてはならなかったのだ。
しかし、この説明だと何のことかよく分からないかもしれないので、具体例で説明しよう。
第1に、自分と親の血縁度は50%である(人間の場合。以下同じ)。なぜなら、自分のもつ任意の遺伝子に着目したとき、人間は減数分裂による生殖を行うので、それは父か母かのどちらかから等確率で受け継いでいるのであり、すなわちその確率が50%だからである。
第2に、自分ときょうだいとの血縁度も50%である。なぜなら、自分の全ての遺伝子は両親のどちらかから受け継いだものであり、両親ときょうだいとの血縁度は50%なので、1/2 × 1/2 + 1/2 × 1/2 =1/2 となる(自分の特定の遺伝子が父由来である確率×両親ときょうだいの血縁度+母由来である確率×両親ときょうだいの血縁度)。
第3に、自分といとこの血縁度は25%(1/8)である。なぜなら、たとえば母のきょうだいの子供のいとこだとすると、母と自分の血縁度(1/2)×母と母のきょうだいの血縁度(1/2)×母のきょうだいとその子供の血縁度(1/2)= 1/8 となるのだ。
ちなみに、包括適応度という概念は、アリやハチのような社会性昆虫の社会において、自らは子孫を残さない不妊性のワーカー(働きアリや働きバチ)が姉妹を育てる役割に特化しているのはなぜか? という問題に答えるために考案されたものである。
アリやハチは、大きな群れ(コロニー)を作るけれども、実はそのほとんどは不妊性のワーカーで、自分自身の子孫は残さない。こういう他の個体の利益になるが自分の利益にならない行動を協力行動の中でも特に「利他行動」というが、子孫を残さない利他行動がどうして進化しうるのか? ということは進化生物学上の謎だった。
それに対するウィリアム・ドナルド・ハミルトン(1936-2000)の答えが、「不妊性ワーカー確かに自分自身の子孫は残さないけれど、(不妊でない)きょうだいを育てることで、自分の遺伝子を残している」ということだった。、アリやハチは人間とは違い、生殖において半倍数性という性決定方式をとっており、きょうだいと自分の血縁度が3/4なのである。よって、人間におけるきょうだいよりも協力行動によって高まる包括適応度が大きいのだ。なお、包括適応度という言葉は、ハミルトンの論文を紹介したジョン・メイナード=スミス(1920-2004)が名付けたものである。
このように、自らの適応度を高める(=子孫を増やす)ことによってではなく、包括適応度を高める(=親戚を増やす)ことによって利他行動が進化することを説明する理論を、血縁選択説(kin selection)という。
先ほども触れたが、こういった理論が出てきた背景には、人間のみならず動物においても、自分を不利にして他の個体に協力する利他行動が観察されるが、そのような行動はどうやって進化したのかという問題意識があった。まさしくこれは、倫理の起源にも関わる問題である。
ことわざに「情けは人のためならず」とあるが、包括適応度の観点からはこのことわざは正しい。利他行動は人のためではなく、自分の包括適応度を高めるために発達したものであり、その意味で自分にも利益があるからだ。「本能的な道徳」の起源を解き明かすには、道徳的行為がどのように包括適応度を高めたのか、という考察が必要なのだ。
人間が「本能的な道徳」を持っていた理由、それは端的に言って、倫理的であることに利益があったからに他ならない。何らかの利益がない行動や形質は、進化的には発展しないからである(必ずしも淘汰されるとは限らないが)。
では、ここでいう利益とはどういうものだろうか?
それは、単純に言えば、「その行動をすることによって、そうでない個体よりもより多くの子孫を残すことができた」ということである。つまり、倫理的な個体は多産だった、ということだ。
さらに正確に説明すれば、ここでいう「多くの子孫」というのは、自分自身の子供や孫(つまり直系子孫)である必要はなく、きょうだいやいとこの子孫であってもよい。それは、きょうだいは1/2、いとこは1/8の遺伝子を共有しており、その子孫が繁栄することにより、自分の遺伝子を残すことができるからだ。ある行動や形質が繁栄するかどうかということは、その行動や形質をもたらす遺伝子を持つ個体が増えるか減るかということであるから、自らの子供の数という限定された指標ではなく、自らの遺伝子が次世代にどれだけ継承されるかという指標に注目するほうが、より直接的で正確に遺伝の様子を記述できるのである。
なお、自らの子供の数という指標を進化生物学では「適応度(fitness)」といい、自らの遺伝子が次世代にどれだけ継承されるかという指標を「包括適応度(inclusive fitness)」という。
この用語を使って、「倫理的であることに利益があった」ということを言い直すと、「倫理的であることは、その個体の包括適応度は高くなったのだ」ということになる。
具体的にはこういう状況を思い浮かべていただきたい。
【事例5】あなたは3人のきょうだいとともに事故に遭遇した。きょうだい3人を助けることができるが、そうすると自分は死んでしまう。逆に、あなたが助けなければ、きょうだい3人全員が死んでしまう。あなたはきょうだい3人を助けるべきだろうか(あなたときょうだいは子供であるとする)。これは、道徳的な問題ではなく、生物学的な問題だと捉えて欲しい。つまり、どういう行動が包括適応度を高めるのかということを考えてみよう。
答えは、自らを犠牲にしてきょうだい3人を助けるべきである、ということだ。なぜならば、あなたときょうだいは1/2の確率で遺伝子を共有しており、3人のきょうだいが持つ遺伝子の総量は1/2 × 3 = 3/2 なので、自分自身の遺伝子の総量(すなわち1)よりも多い。よって、自分一人が生き残るよりも、きょうだい3人が生き残った方が、あなたの遺伝子がより多く残るのである。
普通の感覚では、自分の命を犠牲にして他の人の命を救うことは、それが家族や親戚であっても「徳の高い」行為と見なされる。つまり利己的な人間にはできない行為であると考えられがちだ。しかし遺伝学的に考えると、仮に自分自身に不利益をもたらす行為であっても、家族や親戚の適応度を高める行為は、究極的には自分の利益に適う行為なのであり、その意味で利己的な人間でも行いうる行為なのだ。
では、【事例5】で、きょうだいの数が2人だったらどうだろうか? 答えは、救っても救わなくてもよい、つまり包括適応度は変わらない、である。なぜなら、きょうだい2人だと自分と共有する遺伝子の総量は1/2 × 2 = 1なので、自分自身の遺伝子の総量と変わらないからだ。もちろん、きょうだいの数が1人なら、自分が生き残った方がよい。
さて、ここで一つ補足しておきたい。これまで、きょうだいと自分が遺伝子を共有している確率が1/2、つまり50%であるとしてきたが、これはどういう意味だろうか。よく、チンパンジーは人間と約99%の遺伝子を共有していると言われるが、きょうだいよりチンパンジーの方が遺伝的に近いわけではないだろう。
というわけで、包括適応度の概念を理解する際に重要な「血縁度(relatedness)」の説明をしておきたい。先ほど「きょうだいと自分が遺伝子を共有している確率」が50%であると書いたが、まさしくこれはきょうだいと自分の血縁度が50%であるということにほかならないのだ。さて、血縁度とは何か?
血縁度とは、2つの個体間に定義される確率で、一方が有するある特定の遺伝子に注目したとき、その遺伝子をもう一方の個体が共通の由来から受け継いでいる確率のことである。
つまり、遺伝子自体が同じかどうかということよりも、ある特定の(より正確に言えば「任意の」)遺伝子が共通の由来を持っているかどうか、ということに注目するのである。先ほどの説明では、「遺伝子を共有している確率」と述べたが、正確には「共通の由来を持つ遺伝子を共有している確率」と言わなくてはならなかったのだ。
しかし、この説明だと何のことかよく分からないかもしれないので、具体例で説明しよう。
第1に、自分と親の血縁度は50%である(人間の場合。以下同じ)。なぜなら、自分のもつ任意の遺伝子に着目したとき、人間は減数分裂による生殖を行うので、それは父か母かのどちらかから等確率で受け継いでいるのであり、すなわちその確率が50%だからである。
第2に、自分ときょうだいとの血縁度も50%である。なぜなら、自分の全ての遺伝子は両親のどちらかから受け継いだものであり、両親ときょうだいとの血縁度は50%なので、1/2 × 1/2 + 1/2 × 1/2 =1/2 となる(自分の特定の遺伝子が父由来である確率×両親ときょうだいの血縁度+母由来である確率×両親ときょうだいの血縁度)。
第3に、自分といとこの血縁度は25%(1/8)である。なぜなら、たとえば母のきょうだいの子供のいとこだとすると、母と自分の血縁度(1/2)×母と母のきょうだいの血縁度(1/2)×母のきょうだいとその子供の血縁度(1/2)= 1/8 となるのだ。
ちなみに、包括適応度という概念は、アリやハチのような社会性昆虫の社会において、自らは子孫を残さない不妊性のワーカー(働きアリや働きバチ)が姉妹を育てる役割に特化しているのはなぜか? という問題に答えるために考案されたものである。
アリやハチは、大きな群れ(コロニー)を作るけれども、実はそのほとんどは不妊性のワーカーで、自分自身の子孫は残さない。こういう他の個体の利益になるが自分の利益にならない行動を協力行動の中でも特に「利他行動」というが、子孫を残さない利他行動がどうして進化しうるのか? ということは進化生物学上の謎だった。
それに対するウィリアム・ドナルド・ハミルトン(1936-2000)の答えが、「不妊性ワーカー確かに自分自身の子孫は残さないけれど、(不妊でない)きょうだいを育てることで、自分の遺伝子を残している」ということだった。、アリやハチは人間とは違い、生殖において半倍数性という性決定方式をとっており、きょうだいと自分の血縁度が3/4なのである。よって、人間におけるきょうだいよりも協力行動によって高まる包括適応度が大きいのだ。なお、包括適応度という言葉は、ハミルトンの論文を紹介したジョン・メイナード=スミス(1920-2004)が名付けたものである。
このように、自らの適応度を高める(=子孫を増やす)ことによってではなく、包括適応度を高める(=親戚を増やす)ことによって利他行動が進化することを説明する理論を、血縁選択説(kin selection)という。
先ほども触れたが、こういった理論が出てきた背景には、人間のみならず動物においても、自分を不利にして他の個体に協力する利他行動が観察されるが、そのような行動はどうやって進化したのかという問題意識があった。まさしくこれは、倫理の起源にも関わる問題である。
ことわざに「情けは人のためならず」とあるが、包括適応度の観点からはこのことわざは正しい。利他行動は人のためではなく、自分の包括適応度を高めるために発達したものであり、その意味で自分にも利益があるからだ。「本能的な道徳」の起源を解き明かすには、道徳的行為がどのように包括適応度を高めたのか、という考察が必要なのだ。
【参考文献】
協力行動の進化の理論は、本節で説明したよりもずっと奥深い内容があり、本節はその一部についての簡単なスケッチに過ぎない。より正確に深く知りたい場合には、長谷川真理子先生他による「シリーズ進化学 6 行動・生態の進化」をご覧いただくとよいであろう。
登録:
投稿 (Atom)