前節では、進化ゲーム型のタカ-ハトゲームにおいては、タカ戦略が唯一の進化的安定戦略(ESS)になることを説明した。本節の目的は、そのようなゲームが行われている集団でどのような倫理、行動規範が進化しうるかを考察することである。
さて、その前提として、まずは前節で考察した進化ゲーム型タカ-ハトゲームを存立させている条件のうち2つが妥当なものであるか吟味する。その2つとは、第1に「利得は相対的な適応度とし、(個体は一定割合で自然死するため、)全体の個体数は一定であるとする」ということと、第2に「プレイヤーはランダムに出会ってゲームを行う」ということである。
まずは、「利得は相対的な適応度とし、全体の個体数は一定であるとする」という第1の条件は妥当なものかどうか考えてみよう。
このモデルは、限られた資源(例えば縄張り)を争う生物がどのように進化していくかをある程度うまく記述する。例えば、好戦的な個体と協力的な個体が生存競争を行う場合、このモデルでは好戦的な個体が繁栄することを予測するので、いずれは元の種とは別種の好戦的な種が確立するであろうことが想像される。しかし、こんな状況は人類進化において一般的だっただろうか?
私は、個体数が一定という条件は、本モデルを人類に応用する場合には慎重に扱うべきであろうと思う。それは、人類の人口が一定ではなかったからではない。むしろ、人口が一定の期間の方が長かったのは確実だが、それによって、人類は他の生物とは違った行動を取るのではないかと考えられるからだ。
というのも、先ほどの条件の内「利得は相対的な適応度とし」というのは、人類においては妥当ではないのではないか。適応度は次世代に残せる子孫の数(正確には、自らの遺伝子セットを持つ次世代の人数)であるから、この条件では、利得は子孫の数にしか影響しない。しかし、人間の場合は他の生物とは違い、生活水準向上や文化活動にも利得を使うのが普通である。
これは、人間と他の動物との重要な相違点である。他の動物であれば、一般的には個体が得る利益はその子供の数に直結するのが普通だ。しかし人間の場合、個人の「生活の質」を高めることにも利得は使われる。
ちなみに「生活の質」のような、生物界においてはあまり重要性を持たないであろう事柄になぜ人間は資源を浪費するようになったのか? ということは、それはそれで非常に重要かつ面白い問題であるが、ここではその理由を考究することは本筋と離れるので、それについては改めて書きたい。
結論を言えば、「人口が一定」という条件と「利得は相対的な適応度」であるという条件は、両立しないのではないかというのが私の意見である。「人口が一定」という条件は、すなわち自然から与えられる資源が有限であるということから帰結されるものであるが、これはすなわち、人口が一定以上に増える(出生率が上がる)と、飢餓や(人口密度の上昇による)疫病の発生などにより死亡率が上がり、人口が均衡することを示している。
つまり、人口が一定という条件の下では多産であることは資源の無駄になってしまう。だから獲得した利得は、子孫の数を増大させることよりもむしろ、個人の生活の質を向上させることに使われるだろう。よって、「利得は相対的な適応度とし、全体の個体数は一定であるとする」という条件は妥当とは言えない。個体数が一定であるとすれば、利得は適応度に直結しない、ということになるだろう。
では次に、「プレイヤーはランダムに出会ってゲームを行う」という条件について考えてみよう。これも、個体数(人口)が一定という条件の下であれば、非現実的な条件である。人口が一定ということはある程度社会が安定していることが前提となるが、こういうとき、社会は一般的には固定的である。すなわち、人間関係や身分が固定的で、ゲームを行う際にランダムに他人と出会うことはあり得ない。つまり、このような場合、自分の周りのプレイヤーとしかゲームを行わないという状況になるであろう。
ただし、ここで考えているのは進化ゲームなので、正確を期せば「周りのプレイヤーの”子孫”同士しかゲームを行わない」と理解しなくてはならない(ゲームは、1世代事に1回しか行われないとしているため)。しかし、ここでの考察では、こういうことをあまり厳密に考える必要はない。
ちなみに、プレイヤー同士がランダムに出会うのではなく、位置情報を持つプレイヤーが周りのプレイヤーとゲームをする場合にどういった戦略が安定的かということは、既にいろいろと研究されているので結論だけ簡単に紹介する。主には次の3つのケースがある。
第1にハトプレイヤーの集まるところとタカプレイヤーの集まるところができる(つまり棲み分けが行われる)場合。第2に全部タカプレイヤーになってしまう場合。第3に安定状態が存在せずハトとタカが交互に繁栄する場合。ちなみに、この3つのケースのどれになるかは、利得表の細かい数字と、集団の初期状態、プレイヤーの位置構造などに依存する。
さて、ようやく前提条件の吟味ができた。まとめると、次のようになる。
(1)個体数が一定であるとすれば、利得は適応度に直結しない。
(2)個体数が一定であるとすれば、プレイヤー同士はランダムに出会うことはなく、近くのプレイヤー(の子孫)同士が繰り返しゲームを行う。
この2つの帰結から何が言えるだろうか?
まず(1)であるが、もはやこのような状況においてプレイヤーは適応度(子孫の数)を大きくしようとしないのであるから、利得の大小によって次世代の戦略を予測することができなくなる。すなわち、元々の進化ゲーム型タカ-ハトゲームにおいては、期待利得が高いタカ戦略の個体の割合が増え続けたのであるが、この場合はそういう社会動態は示さないだろう。つまり、残念ながらもはやこれは進化ゲームとは呼べない。
次は(2)についてだが、これは局所的には無限回繰り返し型タカ-ハトゲームが行われることを示唆する。この場合、既に述べたようにプレイヤーは利得(1, 1)以上を実現するあらゆる戦略を採りうるということだ。
さて、これはもはやゲーム理論の範疇の考察ではないが、このような状態でどのような戦略が繁栄するだろうか。これを考察するために、迂遠なようだが、まずはこの集団でどのような倫理なり、行動規範なりが進化しうるかを考えてみよう。
少し考えれば分かる通り、この集団で進化する唯一の倫理は、「ハト戦略を実行せよ」である。なぜなら、既に述べたように倫理は第三者的・評論家的なものなので、自己の行動論理ではなく「他人にどのような行動を期待するか」によって構成される。この集団においては、自分の戦略はハトであろうとタカであろうと、他人の戦略はハトである方が自分の期待利得は高い。だから、他人にはハト戦略を期待するのだ。全ての個体が他人にハト戦略を期待するのであるから、この世界で存在する唯一の倫理は「ハト戦略を実行せよ」となる。
この点はとても示唆に富む。カントの定言命法、すなわち「あなたの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」においては、個人の採用する戦略(行動)が普遍的になりうる時、それは道徳的であると言われるのだが、この例はこれと似ているようで少し違う。この原理をカント風に言えば、「どんな他人も同様に期待するような格率が倫理である」となるだろう。
では、他人に対してはハト戦略を期待するプレイヤーたち自身はどのような戦略を採用するのだろうか?
まず、近くのプレイヤーとは長期的関係が存在するので、ハト戦略を採用することが合理的だ。局所的には、同じプレイヤー同士の繰り返し型タカ-ハトゲームと同じだからだ。この結論はながながと考察してきた割には平凡で、つまらないものに思える。
だが、前提条件を丁寧に吟味したおかげで、このような集団において、どんなときにタカ戦略を採用するかを予測することができる。
それは、個体数が一定でなくなった時、特に増加していく局面である。平たく言えば、人口が増えていく時は集団を倫理的に保つのは難しいということだ。一回限りのゲームが多くなるため、プレイヤーはタカ戦略を採用することが予想されるからだ。
この予測は、実際の社会動態とよく合致するであろう。都市に人口が流入していく局面では、田舎にあるような隣人愛的な倫理は存在しにくいことは実感として分かる。非常におおざっぱな言い方をしてしまえば、自然発生的な倫理は、田舎あるいは人口流入を終えた静的な都市に生じるものであって、発展途上の都市には生じにくいのである。
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