2011年1月6日木曜日

【善と悪】「市民感覚」と倫理理論

人間に道徳的直観が本能的に備わっているのならば、それは一体どういうものだろうか? これからの倫理を考えるに当たっては、人間の本能的機構の解明をしなくてはならないが、実はこの点はまだあまり研究が進んでいない。

1735年にヒュームが「人間本性論」で述べたように、「『人間性』という論究は人間についての唯一の学問である。しかし、これまで最も無視されてきた」。これは、残念ながら21世紀になっても依然として真実であるといえよう。我々は、「人間性」がどういうものなのか、まだ十分に知らない。どこまでが本能によるもので、どこからが文化的所産なのか、まだ十分に知らないのである。

ある意味では、我々の本来の(つまり生まれつきの)「人間性」というものが完全に解明されたとしたら、倫理学という学問はほぼ完成されてしまうと言えるだろう。というのも、倫理学というのは、ある意味では人間本性を知るための学問だからである。

例えば、既に述べた次の事例について考えてみよう。
【事例2】あなたは外科医である。今、電車事故で5人の重傷者が運び込まれた。5人は心臓や肝臓など、それぞれ違う臓器を一つずつ致命的に損傷している。しかし、その時血液検査に来ていた5人とは無関係な男の臓器を5人に移植すれば、その男は死んでしまうが、5人を助けられることが分かった。あなたは外科医として、1人を犠牲にして5人を助けるべきかどうか。
さて、この事例を「素朴な功利主義」で考えると、5人を助けることができるのだから、1人を犠牲にすることは正しい、という価値判断が成立しうる。しかし、多くの人は、その価値判断に賛同しない。この状況では、無関係な1人を犠牲にすることは絶対に許されないと感じるのが普通である。

そのため、「素朴な功利主義」に対する多くの人の感想は、「その理論はどこか間違っているのではないか、何かおかしい所があるのではないか」というものになる。そういう道徳的直観を、ここでは「人間性」というややこしい用語を避けて「市民感覚」と呼ぶことにしよう。

あらゆる倫理理論の最初の試金石は、そういう「市民感覚」である。

義務論では、仮に結果的に最悪の事態を招いたとしても、その意図が善なるものであれば、その行為は善であるとされる。しかし、本当に善なる意図を持った行為なら、どんな結果になっても善と呼びうるのだろうか? 卑近な例でいうと、「ありがた迷惑」なことをしてくれる人の行為を、本当に善と言い切れるのだろうか?

また、功利主義では、より大きな幸福のためであれば、小さな不幸は看過しうるというが、5人を生かすために無実の1人を殺すことが正当化されるのだろうか?

「市民感覚」は、これらの疑問に対して、「やっぱり何かおかしいんじゃないか」と答えてきた。だからこそ、素朴な義務論や功利主義は幾多の修正を経てきており、現在では「市民感覚」では簡単には反駁できない理論武装が施されている。

普通の科学ではこういうことはない。間違っているのは「市民感覚」で、正しいのは「科学」の方だった。「市民感覚」では、地球が太陽の周りを回っているのではなく、太陽が地球の周りを回っている。科学史を繙けば、直観的には正しくないと思われる理論が実は正しかったという事例を、いくらでも見つけることができる。

しかし、倫理学においては、理論的な完成度や無矛盾性よりも、「市民感覚」に合致する価値判断ができるかどうか、ということがまず重要である。誰にも正義とは思われないような行為を正義であると判断するような倫理理論に、何の価値があるだろうか?

とはいうものの、価値判断が「市民感覚」と全て合致するような倫理理論があったとして、その理論は倫理学の完成形なのかというと、そうともいえない。その理論は、単に「市民感覚」と呼びうるような多数派の倫理観を追認しているだけであり、その奥にいかに深い哲学的裏付けがあったとしても、知的な前進のあるような理論ではないのである。

一方で、先ほど述べたように、「市民感覚」と全くかけ離れた理論にもまた価値はない。であるとすれば、我々が希求する倫理理論(なるものがありうるとして)は、「市民感覚」と全て合致するわけではないが、全くかけ離れたものでもない、その中間の何かであるということになる。

そもそも、倫理学というものは、社会のあり方についての学問でもある。我々は現代社会に生きる人間としての倫理を構築する必要があり、本能的に備わっている道徳感覚を全て追認するだけで済むと考えるのはナイーブ過ぎるだろう。米国の哲学者ダニエル・C・デネット(1942-)が述べたように、「ほとんど誰にでもできることは1000倍にも増えたのだが、なすべきことについての道徳的理解は同じようには増えていない」のである。

【参考文献】
デイヴィッド・ヒュームの「人性論」は、哲学を人間性から再構築するという哲学史上でも最大級の意欲作であり、個人的に哲学考究の出発点となる書であると思っている。しかし、発表当初はほぼ黙殺された。日本人もドイツ観念論はよく勉強するが、ヒュームにはあまり注目しない。哲学に興味を持つ人全てにお薦めしたい本である。英語では全てが公開されているが、日本語では現在は抄訳版しか手に入らないのは誠に残念である。

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