2011年1月16日日曜日

【善と悪】協力的で息苦しい社会

血縁者の間では、自己犠牲的な利他行動も進化しうるが、非血縁者の間ではどうだろうか? 実際の人間社会においては、非血縁者の方が血縁者よりも多いが、これはアリやハチなどの社会性昆虫のコロニーとの大きな違いである。非血縁者間において、道徳的行為は進化しうるだろうか?

先に結論を言えば、非血縁者間においても道徳的行為は進化しうる。 なぜならば、どんな行為であれ、包括適応度を高める行為は進化しうるからであり、非血縁者間における道徳的行為も、包括適応度を高めるような行為がたくさんあるからだ。

例えば、他の個体の背中を掻いてあげるという行為が類人猿において見られるが、これは一種の「親切」であるとも言える(正確には「協力(cooperation)」という用語を使うが、わかりやすく以下「親切」とする)。他人(他猿?)の背中を掻くことで得られる直接的な利益はないからだ。しかし、他人の背中を掻いてあげていれば、自分の背中が痒いとき、普段親切をしている個体から「お返し」に背中を掻いてもらえるかもしれない。こういう、そのときには直接的な利益はもたらさなくても、長期的には見返りがある利他行動を「互恵的利他行動(reciprocal altruism)」という。

つまり、「持ちつ持たれつ」の利他的行動は進化しうるということだ。しかし、そのためにはいくつかの条件がある。

第1に、利他行動の対象になる相手とは継続的関係である必要がある。二度と会わないような相手であれば、「お返し」をしてくれる可能性がないので利他行動をする理由がない。

第2に、個体を識別する認知能力が必要である。「親切」をしてくれた個体や「お返し」をしなかった個体などを覚えておく必要があるからだ。みんなが「親切」をする群れの中で、「お返し」をしない一匹の猿がいれば、その猿は群れのみんなの善意に「タダ乗り(free-ride)」して、大きな利益を得ることができる。「タダ乗り」ができればその方が得なので、みんなが「タダ乗り」してしまい、結局協力的な関係は進化しない。

第3に、 「親切」への「お返し」をしなかった個体や、「お返し」をしない個体へ「親切」をする個体を罰する能力も必要だ。先ほど掲げたように、「タダ乗り」をする個体を許してしまうと協力的な関係が進化しないのであるが、「タダ乗り」する個体を認識したとしても、それを罰する能力がなければそのような個体を排除することができない。

ただし、ここで言う「罰」は「タダ乗り者(free-rider)」の不利益になる行動ならばよく、普通言うような意味での罰である必要はない。たとえば、「二度と親切しない」という行動も罰になりうるのであり、罰を行うために司法機構が必要なわけではないのだ。

以上3つの条件を鑑みると、人間社会においては、小規模な集団においては互恵的利他行動が進化しうる条件が整っていると言える。具体的には、小さな村を想像してもらいたい。村人の構成が固定的で、村人同士が顔見知り、そして、「お返し」をしない人間を村八分にして罰することができる。「仲間内における道徳的行為」は進化しうるのだ。

では、3つの条件を満たさない場合には利他行動は進化しえないのだろうか? 我々は、今後会わないであろう他人であっても親切に道を教えることがあるが、このような一回限りの「親切」は「互恵的」な利他行動とは呼べない。親切を受ける側からの「お返し」は想定されないからだ。血縁者でもなく、仲間内でもない他人への親切は、本能に基づくものではないのだろうか?

実は、こういう一回限りの「親切」も進化しうることが分かっている。このような「親切」は一見すると一種の純粋な贈与であり、親切な者(利他主義者)には何の利益もないように思えるが、長期的には利益になりうるからだ。具体的には、親切な者の「評判」を高めて、将来の仲間内からの協力行動(親切)を引き出すという利益があるのである。

将来得にならないような「親切」をすることは、「自分は道徳的な人で、(見知らぬ相手にも「親切」をするのだから)仲間内への「親切」や「お返し」は必ずする」というシグナルになるのである(こういうシグナルを「cue(合図)」という)。例えば、あなたは困っている人を助けてあげた、というような噂が村に広まると、あなたは人格者だという(cueを出す)ことになり、今後の村の活動において有利な立場に立つということになったりするのである。

このように、見返りを求めない(互恵的でない)利他行動が進化しうるためには、「親切」をしたということが(互恵的利他行動の対象になる)仲間内に知られるようなシステムがなければならない。例えば、小さな村においては、そのシステムに当たるのは「噂(gossip)」である。

人間は、ゴシップが好きである。現代的な感覚からは、ゴシップに興じることはあまりいい趣味であるとは言えない。しかし、進化的には、ゴシップは集団内を協力的(道徳的)に保つのに役立った。誰が親切をしたか、誰が親切をしなかったか、誰がお返しをしたか、そのお返しは十分なものだったのか、といったことを仲間内で共有することは、集団内が互恵的であるように保つシステムだったのである。

e-bayやyahoo! オークションのような個人対個人の取引において、ちゃんとした品物が送られてくるか、ちゃんとお金を払ってくれるかということは取引者の双方の懸念事項である。こういう、決済と納品の時期がずれる取引は信用取引の一種で、互いが信用で結ばれている必要があるが、このような取引では多くが一回限りであるためにそういう信用は構築し得ないからだ。

そこで重要になるのが「評判」である。インターネットの画面には、これまでの取引における「評判」が表示されており、その「評判」を落とさないように出品者も落札者も誠実な取引を行う。「評判」が落ちるとその後の取引に差し支え、村八分ならぬ「オークション八分」を食らうからである。

インターネット取引のような現代の仕組みが、ゴシップのように伝統的な手法を用いて成立しているというのは興味深い。我々は、現代においても進化的に獲得した機構から逃れることはできないし、それに進化的に獲得された仕組みはそれなりに合理的で効率的である。

人間社会を協力的(道徳的)に保つためには、相互の行動監視と非協力的な人間に対する制裁、そしてゴシップによる情報の共有という、前近代的で息苦しい環境を構築しなくてはならないという諦めも、我々には時として必要なのかもしれない。

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