2010年5月9日日曜日

「群れ」の論理(5)不平等起源論

【要約】
  1. 本稿では、大型類人猿の群れを参考にしながら、人類の序列に対する本能的な姿勢がどういったものなのか、また、人間社会に存在する不平等がどのように説明されうるかを論じる。
  2. チンパンジーの群れは、人間社会に比べより競争的だ。チンパンジーでは群れでの「序列」と生殖可能性がかなり相関しているため、「序列」が生殖の上での死活問題だからだ。人間の場合は、序列が低くても子孫を残せる可能性が少なからずあるため、ボスになろうと必死になる必要はない。
  3. とはいえ、ヒトは「狩りをするサル」である。「狩り」のように高い協調性を求められる活動を行うにはボスがいた方がよいため、人間にとって群れでの序列は重要でないが、やはりボスは必要である。
  4. しかし、狩猟採集の社会では、ボスになることにあまりウマ味がないため、ボスになりたがる個体が現れない可能性がある。そんな事態を防ぐために、「ボスになる利益があまりない状況でも、ボスになりたがる」という個体が、一定割合遺伝的に存在しているのかもしれない。
  5. さらに、ボスであることに大きな利益がある場合でも、ほとんどの個体はボスになれないため、当然多くの個体は「ボスではない状態」に適応しているはずであり、ヒトは、「序列が低い状態を甘受できる」ように進化したはずだ。そして、「ボスになれそうな時にだけボスになりたがる」という戦略を持ってい るのではないだろうか。
  6. 他の動物では、「群れ」の序列を上げることに絶対的価値があるため、不平等な状態が恒常的に続くような群れの構造は持続できない。一方、人間社会の場合は、不平等状態を受け入れることが出来、体制に対して本能的に保守的であるため、ボスの「政権」が長続きし、格差が拡大してしまうのだ。つまり逆説的だが、人間は序列に対する執着が弱いために、他の動物には見られないほどの不平等な(序列的な)社会を作り上げたのだ。
  7. なお、ボノボの群れでも序列と交尾との相関が弱いため、ボスを巡る争いはそんなに激しくなく、群れでは序列や優劣よりも、平等性のほうが強調されている。
  8. ヒトの社会も、狩猟採集生活のうちは、序列に執着しないことは群れを協力的に保つことに役立っていた。しかし、ヒトが定住社会に移行した際、富の蓄積はボスであることのウマ味を大きくした。それでも、本能的に体制是認的である多くの個体は序列を甘受するという行動を続けてしまい、その帰結として、人間社会は他の動物には見られないほどの不平等なものとなったのだろう。

我々の社会は、なぜこんなにも不平等なのだろうか。ほとんど何もせずに巨万の富を自由にできる人間がいる一方で、必死に働いても生きる為の最低水準の食事ですら得られない人間もいる。遠い国の話ではなく、一つのコミュニティの中にすらそういう不平等は存在する。不平等は、人類の本性なのだろうか。

こういう社会は、人類がそもそもそういう本性を持っているために避けられないものなのだろうか。別の言い方をすると、人間社会がこんなに競争的で、序列が厳しいのは、本能のためなのだろうか

もちろん、階級制という意味での序列は文明の産物であり、本能から導けるものではないだろうが、序列(上下関係)という発想自体は、本能に根ざすものと考えても差し支えないだろう。そこで本稿では、人類の序列に対する本能的な姿勢がどういったものなのか、また、その姿勢によって、人間社会に存在する不平等がどのように説明されうるかを論じたい。

まず、人類の序列に対する本能的な姿勢は、ある程度祖先であるサルから受け継いだ部分があると推測できる。そこで、人間の祖先であるサルがどういった形態の「群れ」を作っていたのかが重要だけれども、これはまだよくわかっていないため、蓋然性の高いことを何も言うことができない。そこで、現代に生きる我々の親戚である大型類人猿の群れを参考にしながら、狩猟採集するサルだった人類の原初状態を想像してみることとしたい。

例えば、チンパンジーの群れでは、ボスの座を巡るオスの競争はかなり激しい。人間社会での出世競争より激しいくらいである。理由は次の通りだ。チンパンジーの場合、メスが発情している(交尾可能で、妊娠可能性がある)期間が極めて短いことから、発情メスの価値が極めて高い。そこで、そういうメスと交尾できる権利は、需要と供給の関係から非常に「高額」なものとなる。現実的には、チンパンジーの群れではボスだけが全てのメスと交尾するわけではなくて、ある程度ボスの目を盗んだ交尾も行われるのだが、それでもボスは(潜在的に)発情メスを我が物にする権利を持っているし、序列の低い猿はメスと交尾できる可能性は低い。これは、自分の子孫を残せない可能性が高いということだから、ボスでいることの価値は極めて高く、序列が下でいることの不利益は非常に大きい。つまり、人間社会のように、「会社では万年平社員だけど、家庭では幸せで子供もたくさんいる」というようなことはチンパンジーではありえない。簡単に言うと、群れでの序列と子孫を残せる可能性がかなり相関しているチンパンジーの社会では、群れでの序列が死活問題なのだ

そして、チンパンジーの群れでの序列のシステムは、彼らが作り上げた文化ではなく、生物の仕組み上避けられないものだ。だから、チンパンジーのオスは、「自分の序列を上げたい」という、非常に強い衝動を抱えているはずだ。序列を上げることはかなりコストがかかるが、彼らは、そいうコストをものともせず、群れの序列を上げることにエネルギーを費やす。

人の「群れ」、つまり人間社会では、ここまで社会は競争的ではない。私は以前、人間社会では「群れ」と「家族」が一致しないから、人間は「群れ」と「家族」に引き裂かれると述べたけれど、この面では、「群れ」と「家族」が一致しないことには高い価値がある。なぜなら、「群れ」での序列が低い個体でも、子孫を残せる可能性が少なからずあるからだ。チンパンジーのような「群れ」=「家族」の社会ではこうは行かない。

とはいえ、人の社会にも「群れ」の序列が本能的に存在することは確実だ。なぜなら、むしろ人の方がチンパンジーよりも、誰かが「群れ」を率いていくことの必要性は高いからだ。その理由は、人が「狩りをするサル」であるからだ。「狩り」のように高い協調性を求められる活動を行うためには、指示命令系統が明確である必要がある。もちろん、人が「狩りをするサル」になった人類の曙の段階から「指示命令」などということができたとは思えないが、少なくとも、意志決定の中心が存在している必要があったはずだ。

また、例え「狩り」をしなかったとしても、(少なくとも野生状態では)「群れ」には「ボス」がいた方がいいことが多い。例えば、「群れ」の移動のタイミングを決めるといった、「群れ」に関する意志決定がボスに一本化されていた方が、意志決定のためのコスト(現代風に言えば、「争議」するコスト)が少なくて済む。ただし、全個体に「序列」があったほうがいいのかどうかは、一概には言えない。(「群れ」に関する意志決定をするだけなら、「ボス」が一人いればいい。)

ここまでの議論で、二つの重要な、そしてある意味で矛盾する次の二点が提示された。

(1)人の「群れ」での序列は生殖可能性との相関が低いので、チンパンジーのような過酷な競争は存在せず、人の序列はあまり厳しくない。
(2)しかし、人が「狩りをするサル」である以上、「群れ」の中には「ボス」が必要である。

なぜこの二つが「ある意味で矛盾する」かというと、(1)は、「人間にとって群れでの序列は重要でない」と言っているのに、(2)では、「でも人間にはボスは必要だ」と言っているからだ。ここで当然、群れでの序列が重要でないなら、誰も「ボス」を目指さないのではないか? という疑問が生じる。なぜなら、「ボス」であることは、ちょっと考えただけでもかなりコストがかかる話だ。例えば、うまく食料が確保できなかった時の責任を負わなくてはいけない。群れがどこにいつ移動するのか、どういう狩りを行うかということがボスの責任で行われるのなら、水の乏しい所や果実の乏しい所に群れを移動させてしまったり、大勢で出かけた狩りで何も仕留められなかったりした時、それはボスの責任になるだろう。いわば、狩猟採集の社会でボスになるということは、まるでPTAの会長をやらされるようなもので、あまりウマ味はない割には、責任は重大なのだ。

そこで予想される人間の性質は、「ボスになる利益があまりない状況でも、ボスになりたがる個体がいる」ということだ。繰り返すが、動物界においてボスになる利益は通常かなり高い。すなわち、最も魅力的な(あるいは多くの)メスと交尾できて多くの子孫を残せるということだ。逆に言えば、序列の低いオスは、完全に子孫を残せないわけではないが、生殖の可能性はかなり減る。だから、例えばチンパンジーのような動物では「群れ」の中での序列闘争は非常に激しい。でもヒトではどうだろう。確かに、一部の社会ではボス(例えば酋長)が多くの妻を娶る社会もある。しかし、そういう社会は人類全体からいってごく一部だ。普通は、「ボス」であっても、ナンバー2であっても、生殖可能性には大した違いはない。もちろん、序列のものすごく下の方(例えば、現代風に言えばホームレスとか)の個体の生殖可能性は低いから、序列が全く重要でないというわけではない。ここで主張したいのは、「ボス」でもナンバー2でも(そしてナンバー3でも)、大して生殖可能性に違いがないなら、誰がボスになりたがるんだろうか、という点である。現実の世界でも、ボス(社長)よりナンバー2(専務理事あたり?)の方が楽しく生きてることって、よくある状況だ。だから、確かに序列がものすごく下の方になりたくないのは当然だが、ある程度上の方の序列にいるなら、それ以上序列を上げる必要はないのではないか?

そして、みんながそう考えると、結局「ボス」になりたいやつがいなくなってしまう! 集団にとって、ボスがいないことはかなり不便で、特に「狩り」のような、意志決定が重要な「事業」をする場合にはそうだ。「ボス」のなり手がいないと狩猟生活が成り立たないはずなので、人間は、どうにかして「ボス」のなり手が自然に供給される手段を発達させたはずだ。その手段として私が推測しているのが、先ほど述べた「ボスになる利益があまりない状況でも、ボスになりたがる個体がいる」ということだ。

もちろん、全ての人間がそういう性質を持っているという可能性もある。しかし、全ての個体があまり価値のない「ボス」の座を争っているような生物が繁栄するとは思えないし、仮にそういう生物がいたとしても、その生き方は進化的に安定な戦略ではない。なぜなら、そんな社会の中では、みんなが価値の低い「ボス」の座を争っている間に、魅力的なメスと(みんなの目を盗んで)交尾する「漁夫の利」のような戦略が最適戦略になると思われるからだ。

だから、「ボスになる利益があまりない状況でも、ボスになりたがる」性質を持つのは一部の個体だけでいいのだ。なお、「じゃあどんな個体がこういう性質を持っているのか?」という疑問が生じるが、これはおそらく「生まれつきそういう個体がいる」というのが一つの合理的な考えかただろう。なぜなら、ボスになろうがなるまいが、ある程度の序列以上ならば適応度(残す子孫の数)に違いがないのなら、ボスになりたがる性質は進化的に広まらない。こういう、適応度に影響を及ぼさない突然変異を進化的に中立であるという。ボスになりたがるという性質が進化的に中立かどうかは証明されていないことだが、そう考えるにはある程度の合理性がある。なぜなら、ボスになることで適応度が上がる一方、不合理なほどの野心は身を滅ぼすこともあるため、プラスとマイナスが打ち消し合う可能性もあるからだ(証明はできないけど)。

この主張を簡単な言葉で言えば、「お山の大将になりたがるのは生まれつき」だということだ。

なお、「ボスにはウマ味がない、という仮定は非現実的ではないか?」という疑問もあるかと思う。しかし、私は、「ボスにはウマ味がないことある」と言っているだけで、「ボスには常にウマ味がない」と主張したいわけではない。当然、ボスであることに利益(ウマ味)がある場合だってある。その場合、当然の帰結として、ヒトは「ウマ味がある場合はボスになりたがる」性質を進化させたはずだ。こういう性質を、我々は持っているのかもしれない。

しかし、ある程度「群れ」での序列を上げようとすることは人間のサガであろうと思われるが、みんなが「ボス」になりたがるというのは、ちょっと現実的ではないと思う。現代の社会を見ても、みんなが社長を目指しているのかというと、そんなことはない。とはいえ、「それは、社長になれる見込みがないから理性的に考えて諦めているだけだ。本能的には、みんなボスになりたいはずだ」という反論もあるだろう。

でも、ちょっと考えてみて欲しい。ヒトの原始状態での社会は、比較的小さな(30~100人くらいの)集団(バンド)で構成されていたと考えられるけれども、それでもボスになれるのは一部の人間だけになる。逆に言えば、ほとんどの個体はボスになれない。「本能的には」みんながボスになりたいのであれば、その「ほとんどの個体」は、常に強いストレスに晒されることになる。なぜなら、「本能的には」ボスになりたいのに、それがどうしても実現できないという状況が続くからだ。本能からの要求を実行できないというのは、だいたい生物にとってかなり強いストレスの原因だ。食欲、性欲、睡眠欲の不充足は言うに及ばす、運動不足だってかなり強いストレスの原因になる(飼い犬を散歩させないとどうなるか?)。そして、ストレスは体調不良の原因になる。つまり、ボスになれないことをいちいちストレスに感じてしまうと、その個体にとってあまり良いことがない

だからヒトは、「自分はボスでなくてもまあいいや」と考える方が現実に即している。なぜなら、繰り返すが、ほとんどの人間はボスにはなれないし、なったとしても、そんなに大きな利益があるわけじゃないからだ。(これは、あくまでも狩猟採集社会に限定した話であることに注意してほしい。現代社会ではボスであることの利益は大きい。)

もう一歩この話を進めると、重要な帰結が得られる。すなわち、「ヒトは、序列が高くない状態を甘受できる」ということだ。なぜなら、ほとんどの人間がボスになれないのだから、当然ながら進化途上の人間のほとんどはボスではなかった。ならば、当然「ボスではない状態」に適応していてしかるべきだからだ。もちろん、「家族」=「群れ」の生物、例えばチンパンジーなどでは、先述のように「群れ」での序列は死活問題だから、そんなことは起こらない。人間は、「家族」と「群れ」が一致しないからこそ、ボスでなくてもいいという状態が生じたのだ。

ここで、人間は仮にボスになることのウマ味(利益)が大きい場合でも、みんながボスになりたがるわけではない、ということが示唆される。人間は、基本的にボスでない状態に適応しているからだ。では、どういう時に人はボスになりたがるのかというと、先ほどのように「生まれつき」ということも考えられるが、それよりありそうなのは、「ボスになれそうな時にだけボスになりたがる」ということだ。

この戦略を持つ個体は、なれない可能性が高いボスの座を巡って高望みの争いをすることもないし、ボスになれそうな時はそのチャンスを逃さずに済む。人間は「ボスでない状態」に適応しているはずだと述べたが、この戦略は、実際の世界で繰り広げられる権力闘争とともに、権力に縁も関心もない多く人間の存在を同時に説明することができる。さらに、この戦略は、先ほど仮説として提示した、「ボスになる利益があまりない状況でも、ボスになりたがる個体がいる」ということとも矛盾しない。なぜなら、ボスになる利益があまりない状況であれば、ボスになろうとする個体が少ないはずだ。逆に言えば、ボスになれる可能性が大きい状況であると考えられるため、この状況下では、「ボスになれそうな時だけボスになりたがる」戦略を持つ個体は、少しでもその利益があればボスになろうとするだろう。

話を整理するため、ここまでをまとめてみよう。
(1)人の「群れ」での序列は生殖可能性との相関が低いので、チンパンジーのような過酷な競争は存在せず、人の序列はあまり厳しくない。
(2)しかし、人が「狩りをするサル」である以上、「群れ」の中には「ボス」が必要である。
(3)だから、ボスになるウマ味がない場合でも、ボスになりたがる個体がいるだろう。
(4)問題は、ボスになるウマ味がある場合だ。この場合も、多くの個体は結局ボスにはなれないため、人間は「ボスでない状態」に適応しているだろう。
(5)そして人間は、「ボスになれそうな時にだけボスになりたがる」という戦略を持っているだろう。

重要なこととして、(4)の洞察は、逆説的なようだけれど、人間社会がなぜこんなにも不平等なのかということをある程度説明する。人間の社会は、動物の社会に比べて極端に序列が激しく、不平等である。例えば、極端に序列が低い「奴隷」という個体は、動物の社会では見られない。なぜ動物ではありえないほどの不平等が人間社会に存在するかということは、一つの理由だけでは説明できないが、その一因として、そもそも「人間は不平等を甘受できるように進化したからだ」ということがあるのではないか。(その他の原因については、別の機会に述べる。)

つまりこういうことだ。他の動物では、「群れ」の序列を上げることに絶対的価値があるため、「低い序列では満足できない」ような本能が備わっているはずだ。だから、あまりに不平等な状態が恒常的に続くような群れの構造は、持続可能ではない。もっと正確に言うと、序列争いが十分に競争的なら(カルテルを結ぶなどがなければ)、常に新たな挑戦者がボスの地位を狙う下剋上状態が続くため、ボスの座は安定的ではないはずだ。そのため、恒常的な不平等状態を続けることはできず、ある程度の期間でボスが入れ替わっていく社会にならざるをえない。一方、人間社会の場合は、先ほど述べたように不平等状態を受け入れることが出来るので、ボスの「政権」は長続きする傾向があると考えられる。言葉を換えて言えば、人間は体制に対して、本能的に保守的である、ということだ。その結果、序列が固定化された状態が恒常的に続くことになる。序列の固定化は、いうまでもなく格差の拡大を招く。そのために、人間社会では、動物ではありえないほどの不平等が存在することになる。そして、そのような不平等状態が続いても、格差是正のための行動を起こす人間は極めて少ない。さらには、権力闘争はあくまでも「ボスになれそうな個体」の間でしか起こらないため、上の序列の個体間の争いとなる。その争いは、下剋上ではなくて、体制という秩序の中での新陳代謝にすぎないものだろう。「ボスになれそうな時にだけボスになりたがる」という戦略は、ミクロ(個人)のレベルで考えれば合理的なのだが、結局のところ体制是認的にならざるを得ないため、不平等な状態を維持する方向に働いてしまうのだ。こうして、人間は序列に対する執着が弱いために、逆に他の動物には見られないほどの不平等な(序列的な)社会を作り上げることになった。

この仮説が正しいとすれば、有史以来最大級の皮肉だろう。ヒトはもともと序列に厳しくなかったということが、不平等な社会を実現してしまう遠因になるのだから。

ここでまた動物の事例を出したい。大型霊長類では序列を巡る争いは激しい、ということを仄めかしながらここまで説明したが、実はボノボにはそれは当てはまらない。ボノボの群れは乱交性であり、ボスがメスを総取りする格好ではなく、序列と交尾との相関は弱い。ここでは詳しく説明しないが、ボノボは性を群れを協力的に保つ戦略を進化させた結果、極めて多くの交尾や疑似交尾が行われるようになったため、年中交尾しているようなサル(ape)なのだ。よって、ヒトの場合と同じように、「ボスであることのウマ味があまりない」という状態になっている。ボスを巡る競争はあるにはあるが、チンパンジーのように熾烈ではない。また、群れの中では、序列や優劣が問題になる場合ですら、「尻つけ」と呼ばれる疑似交尾の一種を行うなどして対等性を確認し、序列や優劣を曖昧にして決着を図ることが多い。序列を明確にするためにはある程度の肉体的争いが不可避だが、怪我を負うリスクがあるのに序列により得られるメリットが少ないならば、序列を曖昧にしておいて群れの中では仲良くした方がよいからだ。

ヒトの社会も、その黎明において、ボノボのように、序列よりも平等性を重視する社会だっただろう。群れでの序列にあまり価値がないのであれば、序列は曖昧にしている方が群れを協力的に保つのに便利だからだ。なぜなら、序列が厳しい社会では、序列が上のメンバーの裏をかくこと(裏切り)が合理的な戦略となる場合が多いと考えられるため、群れのメンバー間による協力行動が十分に発達しない。以前述べたように、「協力する社会」は「協力しない社会」よりも大きな利益を得られるから、「序列に厳しい群れ」は「序列に執着しない群れ」との競争に負けて淘汰されただろう。だから、ヒトの社会は黎明においては、おそらく「序列に執着しない群れ」だったと思われるのだ。

なお、しばしば「狩猟採集社会だったから人は平等だった」と言われるけれども、食料採集社会であるチンパンジー社会がとても平等とはいえないことから、狩猟採集と平等性は結びつかない。むしろ、ボスであることのウマ味がないという「群れ」と「家族」が一致しない人間社会の構造が、平等性の演出に役立ったと言えるだろう。

人が狩猟採集しながら移動生活を続けているうちは、人間社会は名実ともに「序列よりも平等性」だったと思われるが、定住社会ではこういう序列への姿勢は裏目に出たと思われる。定住社会の出現は、人類の最大の不幸であろう

なぜ定住社会では「序列よりも平等」という姿勢が裏目に出たと思われるかというと、定住社会が富を蓄積するからである。「ボスであることのウマ味がない」ということを、先ほどは生殖のレベルで説明したが、移動性の狩猟採集社会では、ほとんど富の蓄積が起こらないために生殖可能性に相違が生じないのである。定住社会では、蓄積された富が全部ボスの手に入るとなれば、ボスであることのウマ味は大きい。その富(例えば食料)でより多くの家族を養えるから多くの妻を娶ることができるし、(一夫一妻制の下でも)多くの子供を養える。

本来、ヒトの「群れ」ではボスであることは大きな価値はなく、だからこそ多くの個体は体制是認的であったのだった。しかし、定住社会においては、ボスであることの価値は大きくなってしまったのだ。それなのに、本能的に体制是認的である多くの個体は、序列を甘受するという行動を続けてしまった。その帰結として、人間社会には他の動物には見られないほどの不平等が存在することになったのだ。さらに、体制是認的であることは、人間の群れが巨大化するための条件でもあったのではないかと思われる。群れが巨大化するということは、ボスになれるチャンスを減らし、より多くの上位個体の下に生きるということだ。だから、「ボスではない状態」に適応しているという体制是認的な本能を持つ生物でなければ、かくも巨大な「群れ」=国家を存立させることは出来なかったに違いない。

定住社会(そして、ほぼセットで語られる農耕)がもたらした数々の「不幸」については、別の機会に述べることとして、ここでは、冒頭の問題提起をもう一度振り返って全体のまとめとしたい。人間社会がこんなに競争的で、序列が厳しいのは、本能のためなのだろうかという問いに対する私の答えは、次の通りだ。

ヒトは、原初状態では、ボスであることの利益は大きくなく、本能的には体制是認的であったはずだ。定住社会が出現した際、その性質が裏目に出て、巨大な権力を握るボスの存在を許してしまった。だから、人間社会に不正なほどの不平等が存在するのは、ヒトが本能的に競争的であることに原因があるのではなく、あまりに競争的でなく、偽りの平等性の中で序列を曖昧にしてしまう本能にこそ原因があるのだ。つまり、繰り返しになるが、大きな不平等の原因は、「あまり序列に執着しない」という狩猟採集時代に適応していた序列への姿勢を未だに続けているということにあるのだ。

なお、「奴隷」や「差別」については、実は「群れ」での序列というよりも、「群れ」と「群れ」の争いの結果として生じるものである。上述の議論の途中で、なぜ人間社会には「奴隷」のように極端に低い序列に固定化された個体がいるのだろうか、という問題提起をしたけれど、これは「群れ」の論理の説明例としては若干不適切である。「奴隷」や「差別」は、通常民族問題と関わっていて、被征服民族が征服民族から受けるものだ。つまり、「群れ」同士の争いの敗者が「奴隷」になったり、差別を受けたりするのであって、これは「群れ」の中の論理ではなく、集団間の論理で説明しなくてはならない。また、「奴隷」の発生には農耕文化の誕生と深いかかわりがあるため、単に集団間の論理だけで説明できるものでもない。これについては、またいずれ論じたいと思う。

【参考文献】
人間は不平等を受け入れることができる、という知見は、進化考古学(認知考古学とも言う)に負っている。進化考古学とは聞きなれない分野だが、概括的な解説ではないもののこの分野の紹介として、最近「進化考古学の大冒険」(松木武彦著)という手軽な本が出た。進化考古学がどんな世界かを知るにはよい本だ(が、「大冒険」というほどのことは書いていない)。
この分野のより本格的な紹介は、スティーヴン・マイズンの「心の先史時代」(松浦俊輔、牧野美佐緒訳)だろう。進化心理学の発展を眺めながら、進化考古学について深く知ることが出来る。

 

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