【要約】
- 動物には群れのタイプが2種類ある。ひとつは、群れの他のメンバーなんか知ったことではない、という完全に他人同士の群れ。もうひとつは、群れの他のメンバーの利益は(長期的に)自分の利益にもなるという、家族の群れである。
- 動物の場合は、自分を優先するか、群れの他のメンバーを優先するかは、その群れがどちらのタイプなのかによって決まっている。
- 人間の作る群れ=人間社会は、どちらのタイプにも当てはまらず、非血縁者と家族が混在している。これは、社会=群れの利益と家族の利益が時に一致し時に背反する、奇形的な形態の群れである。
- 生物として見れば、「群れ」よりも「家族」を優先するのが当然なのに、社会=「群れ」の維持こそ真に価値あるという幻想があるせいで、人間は「群れ」と「家族」の間で揺れ動く存在となった。
前回は「悩む」ということは、他の動物には出来ない、人間の特権なのだということを確認した。しかし、そんなことは何も生態学や進化学を持ち出すまでもなく、常識的な人間ならば誰しも気づいていることであろう。それを前提として、人間の悩みの深淵はどこにあるのかをこれから探求していきたい。
そこでまずは、「群れ」と「家族」について考えてみたい。人間は、社会(共同体、コミュニティ)と家族との間で常に引き裂かれてきた。戦争を持ち出すまでもなく、社会の構成員としての義務を優先すべきか、家族を優先すべきかという問題は、古くから人を悩ませてきたのである。卑近な例でいうと、「仕事と家庭、どっちが大事なの?」という問いにもそれは現れている。また、社会と家族との相克は、これまで多くの文学を生んできたし、多くの悲劇を生んできた。そして、この問題について、誰にでも適用可能な解決方法は、おそらく今後も見つからないだろう。
しかし、人が社会と家族の間で苦しむのはなぜだろうか。社会と家族の利害が対立することもあるので、そんなことは当たり前かもしれないが、立ち止まって考えてみたい。例えば、動物はそういう対立に苦しむことがあるのだろうか。
まず、動物にも社会は存在する、ということを確認しておこう(「会社」は存在しないけれど)。1960年代くらいまでは、動物にも社会が存在するなどとは考えられておらず、(おおざっぱに言って)動物界は弱肉強食という言葉が表すような、力が支配する無秩序な世界だと思われていた。それが、1960年代くらいから、今西錦司のサル社会の研究などがメジャーになるなど、動物界にも社会が存在することが認知されてきた。また、社会性昆虫と呼ばれる蟻や蜂の研究も盛んになり、1970年代にはエドワード・O・ウィルソンが大著「社会生物学」をまとめ、生物界における「社会」という概念は常識となった。
では、動物における社会とはどんなものか。端的に言って、それは「群れ」と言われる単位の中の構造を表している。では、「群れ」とは何か。「群れ」は複数の個体の恒常的集合であるが、大きく分けて二つのパターンがある。
(1)血縁のない個体が、集団を作っている場合(selfish herdという)
(2)血縁のある個体が、家族としてまとまっている場合
(1)の例としては、鰯の大群とか、ヌーの群れ、鳥の集団繁殖地などである。彼らがなぜ集団を作るのかというと、大群になると捕食者から狙われる確率が(特に集団の内側の方は)低くなるからである。つまり、他の個体の陰に隠れて、自分だけ助かればいいという個体がまとまっているのである。一例として、ある一匹の鰯の視点で考えてみると、他の鰯が一網打尽に喰われてしまっても、自分さえ助かっていれば何の問題もない。むしろ、自分が他の鰯の犠牲の上に助かったのであるなら、それこそが集団で行動する利益なのであり、満足すべき結果である。つまり、このタイプの集団は、群れの他の個体の利益・不利益は知ったことではなく、自分が一番大事、という社会なのである(ただし、この集団を「社会」と呼んでもいいかどうかは立場によって異なるだろうが)。
(2)の例としては、蟻、ライオンの群れ、チンパンジーの群れなどである。これらの群れは、いかに個体数が多かろうとも、家族のみで構成されている集団である。もっと正確に言えば血縁関係のある集団であるが、ここではわかりやすく「家族」と呼ぼう。彼らは、家族全体の利害が一致しているために集団で過ごしている。だから、群れの他の個体の利益・不利益は大変重要であり、群れの他の個体の利益のために、時として我が身を犠牲にする個体すら存在する。例えば、働き蟻について考えてみよう。働き蟻の一生は、子守や巣の造営のような労働で終わってしまい、自分自身の子孫を残すことすらできない。生物学の基本原理のひとつは、「生物は自らの子孫を残すために生きている」ということだから、働き蟻の存在は、この原理と矛盾しているように見える。しかし、遺伝子のレベルで考えると、自分自身の子供はいなくとも、自分の遺伝子が残っていけば、生物は環境に適応的であると言えるのであり、自分自身の直系子孫の数のみで適応度(生物としてどれくらい繁栄するか)を計るべきでない。例えば、実子を持たなくても、甥や姪がたくさんいるのであれば、自分の遺伝子の一部は次の世代に伝わっているということであるので、それをもって子孫繁栄といってもおかしくはない。(なお、甥や姪が自分とある遺伝子を共有している確率は1/4であり、自分の子供だと1/2であるので、実子が1人いて甥や姪はいない場合と、実子はいなくとも甥と姪が合わせて3人以上いる場合を比較すれば、遺伝子のレベルで見ると後者の方が「子孫繁栄」しているといえる。)
専門的に言えば、これは包括適応度という概念で説明できるが、ここでは深く立ち入らない。ただ、「家族の利益になるのであれば、仮に自分自身の得にならない行為でも、次の世代に自分の遺伝子を伝えることに役立つ(ことにつながる)ので、生物は不利益を受け入れることがある」という事実だけ押さえておこう。
働き蟻の例は、その極端な場合である。ひとつの群れにいる働き蟻は、皆一匹の女王蟻から生まれた姉妹なのだが、遺伝的な共通性は人間のきょうだいよりも実は大きい。働き蟻はもとから生殖能力を持っておらず、単に群れの維持のために生きている存在だが、女王蟻の産む生殖能力のある個体(これも、彼女らのきょうだいにあたる)が生き残れば、次の世代へ自分の遺伝子を伝えることができる。だから、働き蟻は喜んで全体の犠牲者になる。つまり、蟻の社会は根っからの全体主義である。
ライオンやチンパンジーではここまで鮮明な事例を示すことができないが、自分自身には得にならない(むしろ損する)行為でも、群れのメンバーに得になる行動をすることは多い。例えば、食料を分ける(自分の食べる分が減る)とか、迫る危険を知らせる(大声を出すことで捕食者に狙われやすくなる)といった行動である。
ここまでのことをまとめておこう。動物の世界では、2つのタイプの群れがある。ひとつは、群れの他のメンバーなんか知ったことではない、という完全な他人同士の群れ。もうひとつは、群れの他のメンバーの利益は(長期的に)自分の利益にもなるという、家族の群れである。
さて、ヒトはどちらの群れのタイプの生物だろうか。そう、答えはどちらでもない。ヒトの作る群れは、家族を単位とするが、通常血縁のないものも含まれる、どっちつかずの群れである。原始社会では血縁集団が社会の基本だっただろうと考えられるけれども、やはり血縁の濃い家族だけの社会ではなく、相当遠縁のものも含まれる、所謂「部族」社会のようなものだっただろう。
ようやく本稿の主題にたどり着いた。ヒト以外の動物には、「社会か家族か」という悩みは存在しえない。なぜなら、社会=群れの他のメンバーは自分と無関係な存在であるか、社会=群れの他のメンバーはまさしく家族であるかのどちらかだからである。ヒトのように、自分と血縁上は無関係なのにもかかわらず、利害を共有するメンバーで構成された群れは、他の動物にはみあたらないのである。
つまり、ヒトの構成する群れ、つまり「人間社会」は、動物の基準から言って、かなり奇形的であるということだ。本来、生物学的視点、つまり遺伝子をいかに次の世代に残すか、という視点でいえば、血縁関係のあるなしは最も基本的な価値基準である。しかし、人間社会において、自分の血縁関係者だけをひいきする者がいたらどうだろうか。たいていの社会で、そういう人間はよく思われない。それは、人間社会は血縁者のみならず、非血縁者も血縁者と同じように利害を共有しているという前提の下に構成されているからで、それが人間社会の大原則だからである。
よって、本来生物にとっては当然なはずの「家族を優先する行為」が、(程度の差こそあれ)社会によって抑制されることになる。なぜなら、このような行為が大手を振って許されてしまうと、血縁者と非血縁者の混在によってなりたつ社会そのものの存在基盤を揺るがしてしまうからである。よって、社会を維持していくため、「自分には得にならない(むしろ損する)が、社会全体にとっては利益になる行為」が推奨される。その行為が生物学的に正当化されるのは、あくまでも自分の遺伝子が次の世代に残る可能性を増大させる(包括適応度を高める)行為の時のみのはずであるが、人間社会においては、例えば神風特攻隊、奴隷制、生け贄のように、単に自分が損する行為にまでエスカレートしてしまう。(なお、特攻隊と生け贄については、家族の名誉を高める効果があるために包括適応度が高まる、と主張する人もいる。)
人間社会の基本構造は、本来的にそういう不自然さを抱えている。自然が追求する利己性(自分の遺伝子を次世代に残したい、という欲求)を発揮できないようになっている。生物は、本来的に利己的である。これは、生物全般が他の個体のことを何も考えない無慈悲な存在だ、ということではない。むしろ、行動自体は利他的な行動もとることがある。ただし、それは長期的には自分の利益になるという「情けは人のためならず」的な部分が勘定に入っており、その行動の究極的な動機は自分の遺伝子を次世代に残すことにつながっている、ということである。(これを、簡単に「利己的な遺伝子」という言葉を使って説明することもできるが、この言葉はあまりに人口に膾炙しすぎて、誤解している人も多いので、あえて冗長に説明した)。
人間も、生物である以上、究極的には利己的な存在であるはずである。だから、家族と社会のどちらを優先すべきかという状況になれば、普通の生物なら家族を優先するのが当たり前である。そこに悩みは存在し得ない。しかし、先述のとおり、人間社会は自分と血縁関係のない人とも利害を共有しているはずだ、という前提の下に構築された奇形的な「群れ」であるため、群れの他のメンバーの利害をどれだけ尊重するのかという点が、他の動物と比べて非常に曖昧である。
すなわち先述のように、人間社会では、個人が利己的(家族を優先させる)に振舞うことは制限されている一方で、自分の利益にならない(かもしれない)社会全体への利益を重視するよう、常に推奨されている。例えば、単純に「家族思いの行動」をすると、逆に群れから排除され、長期的にその家族の利益にならない。こういう構造が、人間を「群れ」と「家族」に引き裂いたのである。昔から、偉人といわれている人は、自分や家族のためだけに行動した人間ではなく、社会=共同体のために働いた人が多い。つまり、文化的に「群れ」の論理を推奨する役目を負っているのである。「群れ」の論理は社会維持には役立つが、本来、生物としてより重要なのは「家族」の論理であり、我々が生物として拠って立つのは「家族」の論理であるはずである。それなのに、文化的には「家族」は「群れ」よりも一段低く位置づけられており、「群れ」への貢献こそ本質的に価値のあるものなのだという幻想が撒き散らされている。そのために、人間は「群れ」と「家族」の間でいつも揺れ動くことになった。
しかも、社会維持に積極的に貢献する、従順で正直で無垢な人は、やはり損をする(もしかしたら、「偉人」には当てはまらないかもしれないが)。そして、何食わぬ顔で自分のことだけ考える輩が、得をする。こういう輩をタダ乗り(free rider)という。タダ乗りばかりが増えると社会を維持することができないので、人間社会には、タダ乗りを許さないために様々な仕掛けが設けられており、そのため複雑で面倒、非効率的なシステムになっている。しかし、その原因も、もとはといえば、血縁関係のないメンバーを家族同然に扱わなければならないという矛盾があるからである。
こんな矛盾が生じてしまう根元的な原因は何なのか。この問いに答えるには、「協力行動の進化」というテーマを深めなくてはならず、今日のところはこれは問題提起として保留しておく。この場では、人間の悩みの起源の一つは、非血縁者と家族の混在したこの奇形的な群れの形態もあるのだということを指摘するに留めたい。
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