2010年4月14日水曜日

過小評価されている生来の多様性

【要約】
  1. 人間には「生来の生き残り戦略」というものはないが、個人のレベルで見れば、そうとは言えない。生まれつきの性格は、そういう戦略と言えるのではないか。人間の性格は生まれつきではなく、環境に依るという考え方もあるが、ある程度生まれつきの部分はある。人格は可変部分(パラメータ)を持った基本的な「型」を土台にして形成されるものかもしれない。
  2. なぜ、こんなにもいろいろな性格があるのか。人が魅力的な性格の持ち主ばかりではないのはなぜか。その理由は、魅力的な性格が、常に生存競争で有利とは限らないからだ。
  3. 未来が本質的に不確定であるために、人間は多様な考え方を持っていることが必要だ。なぜなら、画一的な考え方の下に行動してしまうと、それが事後的に不適切な行動だったとき、群れが全滅してしまう危険があるからだ。だから、人は生まれつき多様な性格を持っており、群れを効率的に運営していくためには、多様な価値観と能力により創りだされた秩序が必要なのだ。この見方は、ゲーム理論の知見によっても支持される。
  4. しかし、(現代的な意味での)宗教では、特定の人格や生き方を理想化しているように見える。これは、全滅の危険があるという意味でリスキーだ。せめて、人間が生まれつき持っている特質に合った生き方ができるような幅を持たせることが必要ではないか。未だ、多様性の重要性を明確に主張した宗教がないのはおかしなことだ。

私は前回、人間には「生来の生き残り戦略」というものはない、と述べた。しかし、これには多少の注釈が必要である。というのも、人間全体というマクロで見る場合、人間には生来の生き残り戦略と呼べるものはないが、個人のレベルで見れば、そういった戦略がないわけではないと考えられるからだ。もっと正確に述べると、ヒトは生物として決定的な生存の様式を持っておらず、どのように生き延びるかということに柔軟性があるが、個体のレベルでは、ある程度の行動の方向性を持っていると考えられる。

具体的に、個人のレベルでの戦略とは何を指しているのかというと、それは「生まれつきの性格」である。もちろん、性格が全て生まれつきのものだとは言わない。育った環境に左右される部分も大きい。ひところ、タブラ・ラサ仮説というものがまことしやかに説かれたことがあった。人間は、生まれたときは「空白の石版」(=タブラ・ラサ)であり、環境次第でどんな人格にも育つことができるというものだ。これは、特に進歩的でリベラルな知識人に人気のある説だった。当然、人間には人種や階級、血統といったもので乗り越えられない壁があるという因習的な見方への反発として、この説には時代的な価値があった。

しかし、今ではタブラ・ラサ仮説は人気がない。例えば、倫理観のようなものは、生得的なものとして人間に備わっており、その生得的なものに反する倫理観を植えつけることはかなり困難であろうといわれている(ただし、そういう非人道的な実験はされていないので、厳密な証明はできない)。要は、ある程度人間としての原則は生まれつき埋め込まれており、環境を操作することによってどんな人間にも育て上げることができるというほど単純なものではないことが明らかになってきている。

人間としての基本的な原則は生得的であるにしても、性格のような可変性の大きな部分は環境でいかようにも変わるのではないかという考え方もあるが、これもある程度までの話である。これは、例えば、双子の研究でも裏付けられる。幼い頃に離れて育てられた一卵性双生児は、大人になってから性格を含めたいろいろな側面でそっくりであることが多い。ことによると、結婚相手の名前やペットの名前まで同じだったというような神秘的な一致が見られる時もあるが、これは今の議論では重要ではない。単に、「人の性格は、生まれつきの部分もある」ということを述べておきたい。

このことは、猫や犬などのペットの子育てを観察したことがある人はすぐさま納得するだろう。子猫や子犬にすら、生まれつきの性格があるのは明白だからだ。あるものは生まれつき大胆で、あるものは臆病だ。あるものは活発で、あるものはおとなしい。これは、同じ父母から生まれたきょうだいの性格でもかなりの程度のばらつきがあるように思われる。

では、人間の性格はどの程度が生まれつきで、どの程度が環境に依るのか。これは未だ答えの出ていない問題だが、一つの仮説として、生まれつき定まっているものは基本的な原則や方向性であり、環境で変わりうる部分はそれに付随するパラメータであるという考え方がある。つまり、人格の形成は何%が遺伝で、何%が環境だ、というように単純な割合に帰着できない問題であり、人格は可変部分(パラメータ)を持った基本的な「型」を土台にして形成されるものかもしれないということである。

さて、人の性格の基本的な部分が生まれつきだとすると、なぜ、こんなにもいろいろな性格があるのかという疑問が湧く。なぜなら、一般的には、寛容で、誠実で、開放的で、勇敢で、ユーモアがあって、知的で、協調性がある人が異性に人気がある。とすれば、よりモテた人間の子孫が繁栄するという性淘汰が働いたとすれば、人は皆こういった「望ましい」性格になったのではないかと考えられるのだ

しかし、実際には、このような性格の持ち主だらけではありえない。もちろん、その理由の一つは、既に述べたように人が文明や都市といった環境に抑圧されているために、本来の自然な性格が表出していないということもあるだろう。それでも、生まれつきこのような性格ばかりで全ての人間が生まれてくるとは思えない。

とはいえ、これは疑問でも何でもないのだ。寛容で、誠実で、開放的で、勇敢で、ユーモアがあって、知的で、協調性がある、そういう人間が常に生存競争において得をするとは限らないからだ。時と場合によっては、狭量で、不誠実で、閉鎖的で、臆病で、ユーモアがなくて、反知性的で、孤立的であることも有益な戦略になりえるのである。どちらがより有利かは、その場の環境に依存するのだ。分かりやすい例として、勇敢なのは、敵が見込みより強かった場合、死んでしまう可能性を高める性格である。うまく敵を倒すことが出来れば大きな利得が期待できるが、死んでしまうと元も子もない。

しかし、このように考えると、性格は生まれつきに決まっているよりも、その場の状況に応じて最も得な性格を選択するということが合理的ではないかと思える。もちろん、現実的に人間はそんな芸当ができないことは明らかだが、こういう戦略が適応的であれば、人類はこのように進化してもおかしくなかったのではないだろうか。それとも、そう進化しなかったということは、このような柔軟性の高い戦略は適応的でなかかったということだろうか。

私の考えは、このような柔軟な戦略は必ずしも適応的でなかったというものだ。その理由は、その場の状況に応じて最適な行動を選択することは、一見効率的に見えて、長期的にはリスクがある戦略だからだ。その理由は、本質的に未来が不確定であるためで、どのような行動が最適であるかは事後的にしかわからないからである。そして、人間は群れで生きる生物であり、狩猟採集社会における群れの運営には多様な考え方が必要だということである。

例えば、あなたが狩猟採集社会を営む群れの一員だったとして、ある時旱魃が起こり、食料や水が不足したとする。この時、あなたの最適な行動はどういうものだろうか。一つは、新たな水場まで移動するというものだろうし、一つは、雨が降るまで現在の場所に留まるというものだろう。また、群れの半分は移動し半分は残るという分離もありうるかもしれない。これらのうち、どれが最適な行動であるかはその時点ではわからない。いつどのくらいの雨がどこに降るかは予測できないからだ。これらは、保守的か、全員一致を重視するか、リスク回避的かといったあなたの性格に依存して決断される問題なのだ。

仮にその場の状況を全て勘案して「理性的に」出した答えに従うという行動を群れの全員が取るならば、その答えが間違っていたときに、その群れは全滅してしまう可能性があり大変危険である。そのため、群れ全体で考えた時に合理的なのは、不確定要素が大きい時は、群れを敢えて分裂させ、群れの一部は水を求めて移動し、一部は現在の場所に留まるというものかもしれない。とすると、そもそもこういう状態になった時、群れが自然に「新しい場所に移動する」派と、「今の場所に留まる」派に分かれるメカニズムを人間は備えていなくてはいけない

これこそ、 ある程度生まれつきの性格が必要とされた理由であろう。すなわち、あらゆる不確定要素を織り込んで最適な判断をしていくことが不可能である以上、長期的に群れが存続していくために合理的なのは、群れの内部で多様な考え方を許し、様々な行動を取らせることにより、群れの全滅を避けることではなかっただろうか

これは、何も「群れの全滅」といった生きるか死ぬかの話の場合だけではない。群れを効率的に運営していくためには、多様な価値観と能力が必要なのだ。例えば、どういったものが「多様な価値観と能力」であると言えるか具体的に列挙すると、合意形成のために周旋する仲介センス、積極的に新しいものを取り入れる力、暗鬱な局面で場を盛り上げる気楽さ、安易な満場一致に冷水を浴びせるクールな批評性、意見が合わなかった時には一人で行動する勇気、などが挙げられるであろう。

これらは、全員が備えるべき価値観とは言えない。合意形成をみんなが重視すれば、安易な満場一致に陥って最適な判断ができなくなる。みんなが新しもの好きだと、効率的な旧い仕組みが残っていかないかもしれない。また、暗鬱な局面で気楽な人間ばかりだと、真の危機に対応できないかもしれない。みんながクールな批評家だと、決まるものも決まらずに右往左往することになるかもしれない。そして、意見が合わない時に一人で行動する人間ばかりだと、群れはどんどん分裂していってしまう。要は、これらの性質は群れ=コミュニティにおけるバランスの中でこそうまく働くものであり、いくら必要だからといって、群れのみんなが画一的に備えるべき性質ではないのだ。

つまり、人間には生来の生き残り戦略はないかもしれないが、群れ、そして究極的には個人の生き残りのために、その生き残り戦略や能力を多様化してそのバランスを取ることで、群れの維持・運営が成功する蓋然性を高めているのかもしれない。そして、これはゲーム理論の知見からも支持されうるのではないかと思う。あるゲームにおける均衡(=安定的な戦略の組み合わせ)は、一般的にはある一つの戦略の独占状態ではなく、複数の戦略の共存である。これは、ある一つの戦略が極めて強力である場合ですらそういった均衡が存在している場合が多い。

例えば、大腸菌をある環境の中で培養することを考える。大腸菌Aは非常に効率性が高く、少ない栄養で大量に繁殖する。大腸菌Bは効率性が低く、多くの栄養を使う上に繁殖のペースが遅い。このような状況で、大腸菌AとBを混ぜて培養するとどうなるだろうか。これは、限られた栄養を大腸菌AとBで奪い合う一種のゲームだと見なすことができ、十分長い時間た経つと、ゲームの均衡に到達すると思われる。直感的に予想されるのは、栄養の奪い合いゲームにおいては常に大腸菌Aが有利なので、最終的には大腸菌Bは競争に負けていなくなってしまうのではないかというものだが、実際にはそうならない。本当は少し丁寧な議論が必要だが、結論としては、ある割合で大腸菌AとBが混在するというのが答えなのだ。Bは繁殖において絶対的に不利なのにも関わらず、絶滅することはないのだ。

この現象は、ゲーム理論が発達するまで謎とされていた。自然界は弱肉強食の世界であり、最適者しか生き残らないと思われていたからだ。実際には、自然界は弱肉強食だけの論理で動いているのではなかった。ゲーム理論による「均衡」という概念を少し普通の言葉に直せば、自然界は「秩序」ある状態に落ち着いていくということなのだ。だから、大腸菌AとBはある秩序の割合に落ち着く。この秩序という言葉を、先程の文脈で解釈すると、人間の群れでは多様な価値観や能力というものの組み合わせが、一つの秩序を構築しているということになる。つまり、多様性により生み出される秩序が生き残りには本質的に重要なのだ。

しかし、(現代的な意味での)宗教を考えるとき、どうもある一つの人格や生き方を理想化しているように見えるのだ。これは、私が宗教にリアリティを感じることができない理由の一つだ。本当に人間社会がある一つの人格や生き方で統一されてしまったら、その生き残り戦略がその場の環境にマッチしなくなった時、人間は全員が同時に滅びてしまうかもしれない。画一的になることはリスクなのである。では、なぜそのようなリスキーな思想が人間社会にはびこったのかという理由について、私は後に議論するつもりだ。

さて、これまで述べたように、私は人間の生き残り戦略は、多様性にあったのではないかと思っている。もちろん、多様性といってもデタラメに変わり者が多いというわけではない。群れの維持・運営に役立つ価値観や能力の多様性が重要だったということだ。それなのに、特に世界宗教と呼ばれる倫理重視の宗教が、特に始祖の性格に由来する特定の人格や生き方を、人の生きる道であると理想化することは有害ではないだろうか。もちろん、多様性を賛美するだけで理想の人格や生き方を示すことができなければ、思想的な価値はないとも言えるわけなので、ある人格の理想化のようなことが必要であることは認める。しかし、本質的に多様であるはずの人間に対して、ある類型を理想として押し付けることは、人間の救済を標榜する宗教がやるべきことなのだろうか。せめて、人間が生まれつき持っている特質に合った生き方ができるような幅を持たせることが必要ではないかと思う。とはいえ、宗教が理想とする人格は時代的に変遷してきたし、また受け取る側の捉え方次第でかなり変わりうるものである。だから、私が敢えてそれに意義を唱える必要などないのかもしれない。しかし、強調したい点は、人間社会の維持には人格や価値観の多様性が重要であると考えられるにも関わらず、未だ、そういうことを明確に主張した宗教はないのではないかということである。そして、有史以来、宗教が多様性を認めないことで愚かな排斥を受けた人間が少なからずいたことは厳然たる事実である。

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