2010年4月30日金曜日

「群れ」の論理(4)「怒り」を抱える居心地の悪さ

【要約】
  1. ライオン、オオカミなどの肉食動物は、同種間の争いが殺し合いに発展しないように、それが出たら戦いは終わり、という「降参」のサインを発達させている。
  2. ヒトは、「狩りをするサル」(肉食動物)であるが、「降参」した相手を許す、という行為は(残念ながら)ヒトの本能に組み込まれていない。つまり、人間は本能的には、「仲間を許す仕組み」を持っていない。
  3. この原因は、ヒトが狩猟生活に完全に適応しきれなかったことにあるのではないか。ヒトが狩猟生活を行うようになり、より攻撃性が増した際、「降参」のポーズなどを進化させてもおかしくなかったが、人間が実際に進化させたものは、「言語」であり「文化」だった。
  4. しかし、本能による謝罪と違い、言葉による謝罪には、それが行われると直ちに互いが友好的になるというような完成度はない。なぜなら、言葉は後天的に獲得するものだからだ。
  5. しかも、何が謝罪になるか、その謝罪で十分なのかということは、文化によって違う。そして、それはある程度、個人の性格にもよる。「謝罪」にも「許し」にも本能的定型スタイルは存在せず、「文化」と「個人」に任されている。
  6. 一方で、ヒトには仲間と仲良くするのが心地いいという本能があるため、「怒り」を抱えたままでいることは心地よくない。しかし、それを治める(本能的)方法が確立していないため、宙ぶらりんの気持ちに苦しむことになる。
  7. ただし、ここでの説明は少し極端で、人間が発達 させた「言語」・「文化」は、多くのケースで、「怒り」をコントロールし、サルの「毛づくろい」と同じように「群れ」を友好的に保つことに役立っている。

前回に引き続き、「人間は怒りをどうやってコントロールするのか」という問題について書く。

さて、これまで「怒り」などという感情的な言葉を使ってきたが、「怒り」というのは、主観的な用語であり、どれくらい怒っているのかということは本人しかわからないし、他人の感情と直接比較することはできない。さらに、「動物も怒るのかどうか」という問題は、(動物の脳波計測などで明らかになるかもしれないが)基本的には人間にはわからない。

そこで、「怒り」と意味するところは違うけれども、その現れの一つである「攻撃性」という用語を使うことにする。もちろん、「攻撃」が観察されたからといって、その個体が「怒って」いるとは限らないし、その逆もまたしかりである。しかし、人間のレベルでは、この二つを表面的に等質的なものと見なすのは許されるであろう。

さて、前回は、大型類人猿の世界で、群れを仲良く友好的に保つために「毛づくろい」がコミュニケーションの手段として使われているということを述べた。しかし、人間の場合に、「群れ」を仲良く友好的に保つ手段がどうなっているのかということについては、「毛づくろい」の代わりに「言語」がその役割を果たしているだろうとだけ指摘するに留めた。実は、人間のことについて語るためには、他のサル(apes)とヒトとの違いについて注目しなければならない。

それは、ヒトは大型類人猿の中で唯一、「狩りをするサル」であるということだ。他のサルは、基本的には採集型の生活をしており、主な食料は果実、草木、昆虫である。ヒトがなぜ「狩りをするサル」になったかという話は別の機会に詳細に述べたいと思うが、ヒトの主食はまずは、肉である。とすれば、大型類人猿の群れとヒトの群れとの比較は、それだけでは十分でない。むしろ比較すべきは、ライオン、オオカミなどの狩りをする動物の群れと比較してみなくてはならないだろう。

狩りをする動物には、大きな牙や鋭い爪などの武器を備えている。彼らは、もちろんそれを狩猟のために使うのだけれど、身体的に備わっている以上、同種間の争いにも使うことになる。同種間の争いとは、例えば、メスを巡る争いであったり、なわばりを巡る争いである。そうすると、彼らの争いは、その攻撃力が強いため、非常に危険なものになりがちだ。しばしば、彼らは同種間の争いで命を落とす。

しかし、一方が死に至ってしまう場合はそんなに多くはない。なぜなら、そうなる前に、「降参」するからだ。「降参」のサインを見せた相手には、もう攻撃は加えられない。それまでいかに激しく争っていようとも、一方が「降参」すれば、それで戦いは終わりである。おそらく、彼らの本能には、「降参」のサインを見ると攻撃のスイッチが切れるようなプログラムが組み込まれているようである。なお、具体的な「降参」のサインは、例えば、「腹側を見せて寝ころぶ」というような仕草である。

これは、彼らがその攻撃性をコントロールする手段を進化させたことを物語っている。もし、そういう手段を発達させなかったとしたらどうだろう。争いが起こった時、どちらかが死ぬまで戦い続けることになってしまうのではないか。一方が負けを認めたとしても、他方がそれにかまわず攻撃を加え続けることにならないか。

もしかすると、そこまで酷い話にはならないかもしれない。しかし、彼らにとっての「攻撃性」とは、半ば本能のシステムである。狩りや同種間の争いのため攻撃態勢にならなければならないときは、瞳孔が開き、血流が増し、多少の怪我にも動じなくなる。戦いのためのスイッチが入っているからだ。そのスイッチは、どこかで切れなくてはいけない。その合図が必要であり、それが「降参」のサインである。そのサインでしっかり矛を収めることができれば、勝負が決した後に余計な危険を冒さずに済む。

つまり、まとめると、狩りをする生物は、狩りのために発達させた攻撃性(爪や牙)を、必要以上に同種間に対して使うことがないように、その攻撃性を抑制する仕組みを発達させたということだ。

では、人間はどうだろう。人間をライオンやオオカミと比べるのは、いかにも不適切のように思えるけれど、「攻撃性」に関しては人間も同じ面がある。例えば、戦闘態勢になると、血中にアドレナリンが駆けめぐり、瞳孔が開き、血流が増し、手足が汗で湿り、緊張する。そして、戦いの最中には怪我の痛みをあまり感じなくなる。こういう特徴を持っているのは、人間が「狩り」をする生物だからだろう。オランウータンのような生物であれば、こういうシステムは必要ない。

では、「腹側を見せて寝そべる」サインのような、争いを収める「降参」の本能的サインは人間にもあるのか。

残念ながら、人間の場合、そういう本能的サインはないようだ。別の言葉で言えば、「降参」した相手を許す、という行為はヒトの本能に組み込まれたものではない。このことは、私にとってはかなり陰鬱なものである。

人類が社会的生物として進化した以上、同種間の争いをどう調停するかということは大問題だったはずである。同種間の争いを上手く調停できなければ、結局は集団全体の利益を失うことになるため、調停のための「本能的な」方法が進化したはずだ、と思いたくなる。もちろん、そういう方法に見えるものはある。例えば、我々は反省している時、許しを請いたい時、相手が勝ったと認めた時に、文化や宗教にかかわらずにする表情がある。うなだれ、目を伏せ、肩をすくめる。これは、人類が本能的に行う「降参」のサインとも言えなくはないしかし、それで「敵」が攻撃の矛を収めてくれるとは限らない。場合によっては、その攻撃性をなお一層高めることすらある。だから、そういう行為は、ライオンやオオカミでいう「降参」のサインではない。先述したように、彼らの「降参」とは、「その行為をすると、相手は強制的に攻撃をやめなくてはならない」ような、双方にとって本能的な仕組みだからだ。

このことが、私を陰鬱にさせる理由だ。前回、「多くの宗教が「人を許す」ことの重要性を説いているけれども、敢えて神や仏にいわれるまでもなく、「許し」が重要なことは誰しもわかっている。」と述べたが、それは、「理性的に考えれば、許しは重要だ」ということであって、人間は「本能的に許し合う動物」ではないということだからだ

また、前回は、人間は本能的に協力するのが好き、仲間と仲良くするのが好きだ、と書いた。しかし、上の議論を踏まえれば、同時に、人間は本能的には、「仲間を許す仕組み」を持っていないということだ。このことは非常に重要だ。

例えば、あなたがAさんと問題を抱えたとしよう。具体的には、異性関係のもつれでも何でもよいのだが、何かもめ事があって、結局Aさんから謝罪があったとする。もし、その謝罪が十分なものであれば、こういう時、「過去は水に流しましょう」とさっぱり争いを終える方が、互いの利益にかなっているように見える。しかし、実際はそうならないかもしれない。あなたはAさんに対して汚い言葉で罵るかもしれないし、(あまりないことだと信じたいが)気が済むまでAさんを殴るかもしれない。まだ、あなたがかなり陰湿な人なら、Aさんの持つ高級外車にキズをつけるかもしれない。そんなことをして何になるのだろう。答えは、何にもならない。あなたがAさんを「許す」ためには、そういう行為が必要だったということだけなのだ。(もしかしたら、それでもあなたはAさんを許さないかもしれないが。)

ここで言っている「許し」とは、もうそのことはいいよ、と放免することだけではない。気持ちの上でその争いを過去のものだと片づけることをも含む。もしこれが、ライオンやオオカミであれば、相手が「降参」のサインを出した瞬間、自らの攻撃性はスッと治まるだろう。感情的なわだかまりなどは、おそらく存在しない。しかし、あなたは、形式的にAさんを許すことになったとしても、あなたはいつまでもAさんのことを恨み続けるかもしれない。そういう恨みが続くなら、生物のレベルでいえばおそらく「許し」たことにはならないだろう。これは、人間が本能的に「仲間を許す仕組み」を持っていないからこそ起きる問題である。もしそういう仕組みがあれば、何かのサインをきっかけにその仕組みが発動し、あなたはきれいさっぱりAさんを許すことができるはずだ。

つまり、人間の「怒り」、「攻撃性」は本能的な終わりが設定されていないため、半永続的だ。たとえ一方からの謝罪があったとしても、ささいないざこざがずっと続いていく可能性があるということだ。おそらく、こんな生物はいないのではないか。 私は、この原因は、ヒトが狩猟生活に完全に適応しきれなかった、ということにあるのではないかと思っている

サルの場合を考えてみよう、彼らは、争いがあっても「毛づくろい」で仲直りできる。それは、形式的に仲良しを演じるということではなくて、「毛づくろい」している方もされている方も本当に慰安を感じ、仲良しの状態に戻るということだ。(しつこいようだが、本当の感情はサル本人(本猿?)にしかわからないが。)

おそらく、人間も最初はそういうやり方をしていたに違いない。それが、狩猟生活を行うようになって、より攻撃性が増し、「毛づくろい」のように時間がかかる相互の慰安では役に立たない場面も増えてきたはずだ。具体的には、例えば、突発的な争いで仲間を殺してしまうような場合があっただろう。そのため、本来は、一瞬でできる「降参」のポーズなどを進化させてもおかしくなかったし、普通の肉食動物ならばそういう仕組みを備えたはずだ。しかし、人間はそうならなかった。人間が実際に進化させたものは、前回も述べたように、「言語」であった。

「言語」は、「毛づくろい」に比べれば時間は掛からず、「降参」のポーズに比べても場合によっては短時間で済む。「ごめん。僕が悪かった」と言うだけなら、2秒かからない。相手が怒りに我を忘れて攻撃してきたとき、これなら和睦に役立ちそうだ。が、そうはならなかった。本来「降参」のポーズは、それを出されると、攻撃する側は、攻撃する気も失せてしまう、というもののはずだ。しかし、言葉による謝罪には、そんな完成度はない。なぜなら、言葉は後天的に獲得するものであり、個別の言葉、単語は本能に埋め込まれたものではないからだ(「文法」は、ある程度先天的だけれど)。

しかも、何が謝罪になるか、その謝罪で十分なのかということは、文化によって違う。辱めを受ければ、相手を殺すまで許さない、というような武士的な文化も存在する一方、汝の敵を愛せ、というような文化もある。 そして、それは文化のみならず、ある程度、個人の性格(寛容なタイプか、峻厳なタイプか、など)にもよることは許容されている。言葉を換えて言えば、「謝罪」にも「許し」にも本能的定型スタイルは存在せず、「文化」と「個人」に任されているということだ。

だから、前回も述べたように、おそらく他の動物ではありそうにない悩みを持つことになる。それは、先ほどの例でいえば、Aさんに対してあなたが怨恨を抱く一方、そういう自分自身を心地よく感じることができない、というような苦しみだ。先述したように、ヒトは「身近な人と信頼し合い、友好的な雰囲気を保ち、互いの利益を尊重している時の方が、居心地がよく、リラックスできる」ようにできている。これは本能である。しかし、 一度争いが起こったとき、どうしたら友好的な状態に戻れるかという方法は本能に組み込まれていないため、我々は、宙ぶらりんの気持ちを抱えることになるのである。「本当は、みんなと友好的にした方が自分にとっても心地いいのは分かっている。こんな気持ちを抱えながら生きていくのは面白くない。でも、あのことは許すことはできない。あんなやつらとは仲良くできない」という苦しみだ。

とはいえ、ここでの説明は少し極端すぎるかもしれない。実際の社会で起こるいざこざのほとんどはちゃんとした謝罪があれば、心の上でも解決してしまうような場合が多い。人間の場合は、本能的に定型化された「降参」のポーズはないのは確かだが、文化的に定型化された「謝罪の方法」なり「謝罪の礼儀」なりは多くの文化で存在し、そこに則って行われる「謝罪」は、それを受ける側にとっても十分なものと認識されている場合が多い。だから、人間が発達させた「言語」そして「文化」は、多くのケースで、「怒り」をコントロールし、サルの「毛づくろい」と同じように「群れ」を友好的に保つことに役立っている

しかし、それが本能的行動ではない、ということが私が主張したかったことである。つまり、「怒り」をコントロールする本能はない。それは、あくまで「文化」なのだ

なお、補足だが、本項で扱った争いについては、基本的に「群れ」の「中」での争いであることに留意することが必要である。「群れ」と「群れ」の争い、人間社会でいうところの「戦争」については、また別の論理が存在するので、それは別の機会に述べたいと思う。

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