2010年4月26日月曜日

「群れ」の論理(3)協力は打算ではない

【要約】
  1. 大型類人猿は、「群れ」を協力的に保つため、「毛づくろい」や「疑似交尾」をコミュニケーションの手段として使っており、「群れ」を協力的に保つことは、彼らの文化ではなく本能である。
  2. 人間も、「群れ」を協力的に保つことは、文化ではなくて本能であると考えられる。つまり、人間は生まれながらにして「協力するのが好き、仲間と仲良くするのが好き」なのだ。
  3. ちなみに、人間の場合は、「群れ」を協力的に保ち、仲間と仲良くするために、「毛づくろい」ではなく「言語」を使っている。
  4. 人間が本能的に「群れ」のメンバーと仲良くするのが好きならば、「許し」は打算的に行われるものではなく、どういう時に「許す」のかという判断は損得計算に依ることは出来ない。
  5. 「許し」のみならず、そもそも協力行動自体が打算的でなく、仮に長期的に得になる見通しがなかったとしても「友人」は続く。強い者、役立つ者、魅力的な者だけが友人になるのではなく、役に立たない者、弱い者も「友人」として扱われうるのだ。
  6. つまり、あまり見返りが期待できない状況でも、人間は「群れ」のメンバーには協力的に仲良く行動しようとする本能があると考えられる。
  7. この本能は聞こえは良いけれど、文明化により「群れ」での協力の形態が複雑化し、個体間の関係が多様化するにつれて、我々の悩みの種にもなってきたのかもしれない。文明化された社会では、「群れ」=社会のメンバーの利害が常に一致するわけではないので、どうしても本能が求める「仲良し」状態に我々は留まることができないからだ。

前回は、「悪」や「不正」に対する「怒り」は、個人的な利益の観点からは非合理的だが、社会=「群れ」を協力的に保つためには必要なものだから、社会的価値があるのだ、ということを述べた。 しかし、同時に、そういう「怒り」をコントロールする手段も人間の本能に備わっているだろうということを付け加えておいたが、今回はこれを考えてみたい。

さて、あなたは人を許せるタイプだろうか?それとも、一度覚えた怒りはなかなか治まらないタイプだろうか?前回の議論の出発点は、「我々はなぜなかなか人を許せないのか。そして、かくも執念深く、非合理的なのか」ということだった。しかし、普通の大人であれば、時々は怒りに我を忘れることはあっても、そういう自分の感情を大体はうまくコントロールできているし、人それぞれのやり方でそういう感情との「つきあい方」を身につけているものである。多くの宗教が「人を許す」ことの重要性を説いているけれども、敢えて神や仏にいわれるまでもなく、「許し」が重要なことは誰しもわかっている。

では、なぜ「許し」が重要なのだろうか?それに対する答えは百人百様だろうが、大きな理由の一つは、「人は許し合うことで、より大きな利益を得ることができるから」、あるいは逆に言えば、「許し合わなければ、人間社会が争いだらけになってしまうから」ということだろう。だが、この見方に賛同できない人もいるかもしれない。「許し」とは、そんなに打算的だろうか?前回、「怒り」とは個人にとっては非合理な(得にならないかもしれない)感情であると説明したが、「許し」のメカニズムはどうなっているのだろうか?言い換えれば、「怒り」をコントロールする仕組みは、ヒトという動物に、どう組み込まれているのだろうか?

それに答えるため、まずは動物の社会について説明したい。動物には、人間のように多様な情動はないと思われるが、大型類人猿などは、かなり高度な感情を発達させており、怒りや喜びはもちろん、同情や落胆など、豊かな感情を持っているようだ。それだけでなく、かなり高度な感情といえる「雰囲気」とか「空気」とかいわれるものすら感じているらしい。例えば、ちょっとしたいざこざ(食物の分配とか)で「気まずい雰囲気」になってしまうこともある。そういう時、ゴリラやチンパンジー、そしてボノボはどうするか。(「ボノボ」は、一般にはあまり知られていないサル(ape)だが、チンパンジーよりも人間に近い(部分もある)サルとして近年研究が盛んである。)

ゴリラ、チンパンジー、ボノボなど、それぞれの種によりこういった場合の行動は特徴があるが、大型類人猿に共通してみられる行為として、「毛づくろい」がある。最初、反目していた二匹のサルが、仲直りする雰囲気になると、何かのきっかけで一方のサルがもう一方のサルに近づき、おもむろに毛づくろいが始まる。そうすると、先ほどまでの緊張感が融けていき、また二匹は仲直りする、というような行動だ。

猫でさえも、「毛づくろい」にはある程度社会的なつきあいの要素があるようだが、大型類人猿にとっては、「毛づくろい」は毛皮の手入れよりもコミュニケーションとしての意味の方が大きいように見える。彼らが毛づくろいに費やす時間はかなり長いらしい。挨拶代わりに毛づくろいし、仲直りに毛づくろいする。そして、「群れ」の序列の確認のためにも毛づくろいする。それは、実際そこまで毛づくろいしなくてもいいのではないかと思うほどである。

実をいえば、毛皮を清潔に保つだけなら、そんなに毛づくろいは必要ないのだと思う。なぜなら、先ほど挙げた大型類人猿は、定期的にねぐらを移動しながら生活している。こういう非定住型の動物には、例えば虱(シラミ)はつかない。人間に虱がつくようになったのも、定住生活を始めた頃からだろうといわれている。虱は、宿主のねぐらが一定していないと繁殖できないからである。これは、移動性の動物は、体を清潔に保つのにそんなに苦労しない、という一例である。

というわけで、そこまで手を掛ける必要のない「毛づくろい」に、多大な時間を要しているのは、「毛づくろい」で群れの仲間と仲良くやっていくために、「お互い仲良くしましょうね」とか、「私はあなたより下の立場だから優しくしてね」、「さっきは怒ってごめんね」といったコミュニケーションをしているためだと考えられている。

もちろん、仲直りの方法は、「毛づくろい」だけに留まらない。例えば、疑似交尾なんかもある。これは、交尾(つまりペニスの挿入)ではないのだけれど、一匹が後ろ向きにお尻を突き出し、もう一匹がその上に乗る(マウント)、そしてしばしば腰を振るという行為である。これは、雄と雌の間で起きるとは限らず、雄同士のこともある。疑似交尾は、「仲直り」というよりは「順位の確認」の要素の方も強い(もちろん、お尻を突き出している方が劣位になる)ようだが、これも大型類人猿のコミュニケーションの一つである。ただ、ここでサルの仲直りの方法を詳細に述べてもしょうがないので、この話の要点としては、サルは「群れ」の中で仲良くやっていくために、「毛づくろい」などの行動をコミュニケーションの手段として使っているということだ。

とはいえ、「毛づくろいはコミュニケーションなんかじゃなく、やはり何らかの理由で毛皮の手入れには時間がかかるんじゃないか」と思う方もいるかもしれない。確かに、実際のところはサル本人でないと毛皮がどれだけ重要かはわからないが、これをコミュニケーションとみなす根拠の一つとして、毛づくろいに費やす時間について述べたい。実は、「群れ」のサイズが大きくなるほど、一匹のサルが毛づくろいに費やす時間は多くなることがわかっている。これは、コミュニケーションを取るべき相手が増えるからだと考えられないか。

もう一つ、ゴリラの事例を出しておく。ゴリラの群れを観察すると、食べたり寝たりすることに加えて、特に何もしていない時間がかなり多いことに気づく。そういう時、ゴリラは仲間の顔をじっと見たり、仲間の行動を観察したりする。何のためにそうしているのかという答えがはっきりしているわけではないが、有力な仮説としては、ゴリラは人間関係ならぬ「ゴリラ間関係」を良好に保つために、他のゴリラの観察やアイコンタクトをしているのではないかといわれている。つまり、ゴリラは仲間の心を読んでいるというわけだ。そして、彼らは「群れ」の中で自分の振る舞いを制御しているらしい。

この二つの事例は、「群れ」を協力的に保つためにサルが発達させた行動について物語っている。「毛づくろい」は仲直りのための方法を提供し、互いの観察はそれぞれの信頼性を確かめるのに役立つ。既に述べたように、協力した方が長期的には大きな利益が得られる場合でも、短期的には自分の損になってしまうことも多い。だから、近視眼的な行動を取りすぎないように、協力することがいいことだ、という倫理観がヒトには発達したと考えられている。

しかし、「倫理観」という言葉は少し大げさかもしれない。もっと親しみやすい言葉を使うならば、人間は「協力するのが好き」なのである。 これはどこまで大型類人猿に当てはまるか不明だけれども、少なくとも、彼らの場合は「仲良くするのが好き」なのは間違いない。そもそも、彼らの場合は「群れ」のメンバーは血縁関係があるか、(潜在的なものも含めて)つがい関係にあるかである。だから、仲良くするのがいいのは当たり前のことなのだが、「仲良くする」ということは、彼らの持つ文化ではなくて、本能がそうさせているのだということは重要な点である

人間の場合も全く同様で、「協力するのが好き、仲間と仲良くするのが好き」というのは、文化ではなく、本能がそうさせているのではないだろうか。我々は、身近な人と信頼し合い、友好的な雰囲気を保ち、互いの利益を尊重している時の方が、反目し合い、敵対的な雰囲気の中で、己の利益のみを主張しているときよりも、遙かに居心地がよく、リラックスできる。これは当たり前のことのようだけれども、人間が、そういう環境を心地よく感じるということは、その文化により「教育」されたことではなくて、やはり人間はそういう環境に適応している、本能的にそういう環境を好む、と考えるのが妥当だ。時々、元々人間は争い合う本能を持っているなどと言われるけれども、もしそうであるならば、人間は争いの中が心地よい、という風に進化したはずだ。そんな人も時にはいるかもしれないが、普通の人間は争いを居心地悪く感じるものだ。だから、仲間と仲良くするのは人間の本能とみて間違いないだろう。

しかも、人間の場合は既に述べたように、血縁関係による「群れ」ではなく、利害関係者による「群れ」を作る生物である。そもそも「利害関係者」は協力行動を取らなければ、多くの場合利害関係は生まれない。だから、「群れ」のメンバーと仲良くすることというのは、それらの個体と「群れ」を作っている元々の理由ですらある。(「仲良くしない」=「互いの利益にならない」のであれば、「群れ」を解体すればいいだけである。)

しかし、人間の場合はサルと違って「毛づくろい」のような本能的行動はないので、 それが本能なのかどうか訝しむ人もいるだろう。確かに、これを証明することは、なかなか難しい。しかし、科学的に証明されているのか私は承知していないが、おそらくこれは間違いないと思う。そして、人間の場合に「毛づくろい」に当たるのは、おそらく「言語」だろう。

人間は、頭と体のごく一部にしか稠密な体毛はない。だから、仮に毛づくろいをしたくても殆ど出来ない。これは、我々にとってはどうでもいいようなことだが、おそらく類人猿の視点から考えるととんでもないことで、コミュニケーションの手段が奪われていることに等しい。例えば、チンパンジーの全身の毛を剃ってみるとどうなるのか、私は知らないが、相当困惑するのではないか。人類は、その体毛を失った時、「群れ」を協力的に保つにはどうするべきかという課題に直面したに違いない。(こういう場面が実際にあったかどうかはわからないが、仮想的にこう問題提起したい。)

一つの解決策は、先ほども少しだけ触れたように、「疑似交尾」を発達させることだろう。ボノボは、「疑似交尾」(ボノボの場合は、「ホカホカ」と呼ばれる)を上下関係の確認だけでなくて、もっと広い意味(例えば、挨拶)でも使っているし、こういう方向に人類が進化することもあり得たのかもしれない。

ただ、実際の進化の歴史はそうならなかった。我々が「毛づくろい」の代替として獲得したものは「言語」であった。もっと正確に言えば、なぜ我々が「言語」を獲得したのか、その理由は未だ不明だが、「言語」は「毛づくろい」の代わりを立派に果たすことができた。いや、「立派に果たす」どころか、「毛づくろい」に比べて格段に優れた手段だった。先ほど、「群れ」のサイズが大きくなると「毛づくろい」に掛かる時間も長くなる、と述べたが、「言語」はコミュニケーション可能な範囲を格段に広げたため、「群れ」のサイズもかなり大きくすることができた。(なお、「「群れ」のサイズが大きくなったから、コミュニケーション手段として「言語」が発達した」というように、逆の考え方をする人もいる。)

「言語の起源」はかなり難しい問題で、この議論を深めると本題から逸れてしまうので、先ほどの議論に戻ると、「人間は群れを協力的に保つ本能がある」ということだった。さて、こういう認識の下に冒頭に掲げた次の問題提起を考えてみよう。「許し」とは、そんなに打算的だろうか?「怒り」をコントロールする仕組みは、ヒトという動物に、どう組み込まれているのだろうか?

まず第一の点。「許し」は打算的かどうかということについては、おそらく答えは否である。「群れ」の仲間に損害を与える行為をした個体を許すかどうか、については、私は打算はないと思う。つまり、「そいつを許した時に得られる利益」と「そいつを許さなかった時に得られる利益」を計算し、「許した時に得られる利益が大きいぞ」という時だけ許す、といったようには人間は行動しない。その個体が仮に全くの役立たずだったとしても、やはりある程度「群れ」にとって許容できる行為の場合は、許すのではないだろうか

なお、この認識は、もう少し深めることができる。つまり、許す許さないということが打算ではないということは、既に指摘したように、そもそも協力行動自体が打算的でないということだ。協力行動を行う個体を「群れ」のメンバーであると説明してきたけれども、もう少し現代的な感覚でいうと、それは「友人」と呼べるだろう。「友人」という言葉を使って先ほどの命題を言い換えると、友人同士の協力は打算的ではないということになる。経済的合理性の観点のみで考えれば、長期的に得をするという見通しがないと協力行動は取られない。「友人」であり続けることが長期的に得だという見通しは、普通の場合だと当てはまることも多いだろうが、先ほどの認識を敷衍すれば、仮に長期的に得だという見通しがなかったとしても「友人」は続くだろうということが示唆される。つまり、強い者、役に立つ者、魅力的な者だけが友人になるのではない役に立たない者も「友人」=「群れのメンバー」として長期的な協力関係に組み込まれるだろうということだ。

障害を負った者や年老いた者を「群れ」のメンバーとして相互扶助的なシステムの中に置くのは、一見すると非合理的である。「群れ」の繁栄のみを考えれば、そういう個体は速やかに排除していく方が合理的だ。事実、食料の乏しい社会などでは、そういう人間が必ずしも保護されていない場合もある。しかし、普通は、人間は(通常の意味で)あまり役にたたない個体でも、「群れ」の中に留め、むしろ手厚く保護する。これまで説明したことを前提にすれば、これは「群れ」を協力的に保つための副産物であると考えることができるように思う。つまりこういうことだ。人間は、「群れ」を協力的に保つ必要があるが、近視眼的な損得しか考えていないと、結果的に損してしまう場合があるので、長期的な協力関係を維持するため、「本能的に仲良くするのが好き」であるように進化した。「本能的に仲良くするのが好き」になる対象は、打算的=合理的に選考されるのではなくて(「本能」なので当然だが)、「群れ」のメンバーは自動的にその対象になるように組み込まれていると考えられる。そのため、保護しても直接の価値はない障害を負った者や年老いた者に対しても、「本能的に」協力関係を維持することになる。(「保護しても価値はない」というと、障害者の方や高齢者の方に怒られそうだけれども、ここでは人類の原初状態における話であるので、誤解なきように。)すなわち、弱い者への協力は、あまり見返りは期待できなくても、本能的に存在するのである。

弱い者へ協力する(心暖かい)生物と、見返りが期待できない個体には協力しない(シビアな)生物が生存競争した時に、どちらが繁栄するか思考実験してみるのは面白い。まず考えられるのは、シビアな生物の方が、短期的には繁栄しそうだということだ。会社などでもそうで、無能な社員を容赦なくリストラし、不採算部門を躊躇なく売却・撤退するような会社は、短期的には利益を上げるだろう。しかし、80年代に日本企業が賞賛されたように、心暖かい会社には長期的で安定的な社員との関係が構築でき、長期的な視野での経営が可能になるという場合もある。日本企業の場合は、年功序列と終身雇用というモデルは80年代こそ賞賛されたけれども、バブル後には停滞の象徴であるかのようにも言われているので、一部にはシビアな戦略の方が決定的に勝れていると考えられがちだ。しかし、少なくとも理論的にはどちらのシステムが長期的に繁栄するのかは結論がついていない。なぜなら、心暖かい会社が繁栄する環境もあるし、シビアな会社が繁栄する環境もあるわけで、最適な戦略は環境(所与の条件)によって変わるからだ。

生物の場合も同じことで、「心暖かい生物」は利益が明確でない場合でも協力行動を取ることができるので、損することもあるが、もしかしたら大災害や環境変化などで将来の見通しが全く立たない場合でも協力して難局を乗り切ることができるかもしれない。一方で環境変化などで食糧難になったとき、弱い個体を見捨てる「シビアな生物」の方が生き残るかもしれない。これは、環境という所与の条件によっていずれの生き方が適しているのか変わるため、どちらが勝れているとは言えない。ただし、我々自身が辿った進化的歴史から示唆されることは、おそらく我々人間は「心暖かい生物」であろうということだ。多くの現代社会の倫理は、我々に「心暖かい生物」であるように求めているが(例外もたくさんある。功利主義的倫理とか)、それは我々がそうであると信じるほうが本能的に落ちつくからだと考えるのが妥当であろう。

もちろん、人間が「心暖かい生物」だと言っても、それは人間が悪をなさない、という意味ではない。 あくまで、人間は「群れ」のメンバーに対しては、利益があろうとなかろうと協力的に振る舞う、ということを意味しているに過ぎない。しかし、先ほど述べたように、人間は「協力するのが好き、仲間と仲良くするのが好き」なのだし、しかもそれが(短期的な)利益の有無とは関係がないのだから、これだけ聞くと、よほど人間という生物は「群れ」のメンバーが仲良しなのだろうと思ってしまう。

しかし、そういう本能は、文明化により「群れ」での協力の形態が複雑化し、個体間の関係が多様化するにつれて、我々の悩みの種になってきたようにも思える。なぜなら、狩猟採集段階の社会に比べて、文明化以降で「群れ」のメンバー間での利害が一致しにくくなり、合理的には盲目的な(本能的な)協力行動が明らかに個人にとっても有益なことでなくなった場合ですら、依然として我々は協力(仲良くする)に高い価値をおいてしまうからだ。

具体的な例としては、あなたはAさんと何らかの問題を抱えたことがあるとしよう。そして、あなたはAさんの顔も見たくないと思っているとする。さらに、今後の人生において、Aさんと顔を合わせることもなければ、関わることもないとする。さて、この状況で、あなたはリラックスし、気持ちよくなれるだろうか。おそらく、普通の人はなれない。たとえAさんとの縁が切れている場合でも、なんだか後味の悪い、思い出したくもない、いやな気持ちを抱えるはずだ。でも、そういう感情は、合理的に考えればおかしい。なぜなら、Aさんとの共通の利害はもはや存在しないし、Aさんと協力する必要もない。これからAさんとの関係もないのだから、なぜいやな気持ちになる必要があるのだろうか。それは、きっと、あなたが「心暖かい生き物」だからなのだ。つまり、Aさんと仲良くできればよかった、もっとこうしたらよかったかもしれない、というように、仲良くする方に絶対的な価値があると思いこんでしまっているからなのだ。実際は、利害が衝突していたのであれば、(少なくとも短期的には)協力する必要はない。もう一つの感じ方は、「あいつなんかとつき合わなきゃよかった」というものだが、これも同じ本能から出てくる感情だ。つまり、「最初からあいつを「群れ」に入れなきゃよかった」ということなのだ。「群れ」の仲間とは協力する必要があるという前提があるために、こういう「群れ」と「群れ以外」を峻別する考え方が出てくる。これについては、また別の機会に詳しく述べたいと思う。

まとめると、「群れ」の中での盲目的・本能的な協力は、人類の原初状態においては有効な戦略であったと考えられるけれども、文明化された社会では、「群れ」=社会のメンバーの利害が常に一致するわけではないので、どうしても本能が求める「仲良し」状態に我々は留まることができない。その状態では、本能的な要求が満たされていないため、我々は必要以上に居心地が悪くなってしまうと考えられる。もちろん、こういう本能は、人間の「群れ」が利害関係を越えて拡大することに役だっただろう。しかし、我々の本能は、かなり小さな「群れ」でこそ本領を発揮するものということも認識すべきだ。現代のように巨大化した社会では、我々の「心暖かな」本能が機能不全を起こしても不思議ではない。

さて、冒頭の問題提起から大分話が逸れてしまった。話を元に戻して、次は第二の問題提起である「怒り」をコントロールする仕組みについて議論したいと思う。これについては、「許し」が打算的ではないということから難しい問題が提起される。なぜなら、仮に「許し」が打算的(経済的、合理的といってもいい)であるのなら、我々が人を許したり許さなかったりするのは、損得計算をして判断することができる。許すことで得られる利益が何もないなら許す必要はないし、許すことが得になるなら喜んで許すべきだ。だが、人間はそういう風には行動しない。では、どういう時に許して、どういう時に許さないのか。別の言葉でいえば、どうやって「怒り」をコントロールするのか。

ようやく主題にたどり着いたが、長くなってしまったので、以下次回に書くことにする。

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