2010年4月21日水曜日

「群れ」の論理(2)怒りの意味

【要約】
  1. 囚人のジレンマ型ゲームを繰り返すと、常に相手に協力する「お人好し」なプレイヤーばかりがいる場合、裏切ることが合理的な選択肢になってしまい、人の善意を踏みにじる悪人プレイヤーが繁栄する。
  2. その結果、ゲームのプレイヤーが悪人だらけになってしまい、結果的に協力のない、最も悪い状態に陥ってしまう。そうならない有効な戦略の一つが、協力には協力で、裏切りには裏切りで対処する「しっぺ返し戦略」である。
  3. おそらく、「しっぺ返し戦略」は、「人類生来の倫理」の基本構造の一つだろう。
  4. より現実の状況に近づけるため、裏切りに対する「罰」と、「罰」を行う「第3者」という要素を追加すると、より裏切りがやりにくくなり、協力的な戦略が合理的になる。
  5. そこで示唆されるのは、「人類生来の倫理」の一つは、「協力的に行動せよ。しかし、他人が非協力的な行動をしている場合は、罰せよ」ということである。
  6. しかし、他人を罰するには通常大きなコストを伴うことも考慮に入れる必要がある。「第3者」が「罰」を下す場合、大きなコストを負担しなければならない一方で、自分自身には何の利益もない。それでも、ヒトは進んでこういう行動をとるよう進化した。
  7. これは、一見すると経済的でなく、非合理に見える。しかし、もし適切に「罰」が下されないと、「悪」が繁栄するおそれがあるから、たとえ自分が損することになっても、「罰」を下すことは必要なことなのだ。
  8. つまり、「悪への報復」の執念は、個人にとってはそもそも割に合わない非合理的なものだが、「群れ」には必要なものであるからこそ、ヒトはそういう感情を抱くように進化したと考えられる。
  9. そういう感情は、そもそも経済的な損得計算とは別次元のところで生じており、非合理的に見えるのは当然だ。
  10. 宗教は、こういった感情をしばしば人が未熟な証だとするが、そうではなく、人間社会を協力的に保つために非常に価値のある感情なのだと私は評価したい。
  11. しかし、警察機構や司法の存在を考慮にいれると、単純にはそう言い切れない部分もある。
  12. 人類は、「罰」を当事者に任せないという文明(警察、司法)を発達させた。これは、悪を犯した者が罰されないことも、罰されすぎることもなくし、社会的に悪を制裁することができる安定的なシステムである。
  13. しかし、このシステムは、我々が悪に抱く怒りや憎しみの感情を、ある程度無用なものに変えてしまった。なぜなら、もはや我々には個人的に報復しなければならない理由はないからだ。
  14. 警察や司法を備えた社会の人間にとっては、どこまでも敵を懲らしめたいという個人的な怒りや憎しみは抑え、社会的に受容できる量刑で納得できる淡白さこそ必要である。しかし、我々の感情は、そういう淡白な社会にはまだ適応できていない。
  15. この議論には、留意点が3つある。(1)我々が通常遭遇する事案は、普通は警察や司法は登場しない些末なものであり、その中で感じる怒りは、依然として社会的価値があるだろう。(2)とはいえ、そういう怒りのままに報復してしまうと、やりすぎてしまう危険性がある。そういう「やりすぎ」を防ぐ本能もあるはずだ。(3)また、「悪」や「不正」という言葉を軽々しく使ってきたが、それはそもそも相対的概念だし、「悪」への協力行動もあるので、本当はそういう情緒的な言葉を使わずに、「非協力的な行動」とでもすべきものだ。


今回は、前回からの続きである。前回は、人間の悩みの原因の一つには、「人類生来の倫理」と現代社会の求める倫理(正義)との矛盾があるのだ、という仮説を提示し、「人間生来の倫理」というものが確かにあるらしい、ということまでを述べた。しかし、なぜそういう矛盾が存在するのかという点まで説明することが出来なかったので、今回はその説明を試みたい。そして、なぜ我々はなぜなかなか人を許せないのか、かくも執念深く、非合理的な怒りや憎しみを抱くのかという点について一つの見方を提供しよう。

まずは、前回に引き続き「囚人のジレンマ型ゲーム」について考えてみる。前回は、こういうゲームが1回切りであるということを暗に前提としていた。その場合、個人にとって裏切ることが合理的であり、結果的に裏切り合ってしまうため、二人とも最悪の状態になってしまう、と述べた。しかし、こういったゲームを繰り返し同じプレイヤーが行うとするとどうだろうか(この場合、自白とか懲役とかを繰り返すのはちょっと現実的でないが、文字通りゲームとして考えてもらいたい)。

1回ごとのゲームの利得は繰り返しがあろうとなかろうと変わらないので、1回切りの場合と同様に、お互いに黙秘する(協力する)のが最善の状態である。つまり、二人が黙秘すると懲役4年なので、このゲームを続けると毎回懲役4年を繰り返すことになる。逆に、二人が合理的な選択として自白(裏切る)を続けると、毎回懲役15年を食らうことになり、最悪の状態が続くことになる。

よって、前回と結論は同じで、このゲームが繰り返されようとも、やはり相手を信頼した方がいいということになる。なんだ、繰り返しても同じじゃないか、というなかれ。話はここからである。

こういう「繰り返し型囚人のジレンマ」に十分に適応した個体は、常に相手に協力する、裏切らない個体なのだろうか。少し考えれば、そうではないことがわかる。なぜなら、常に相手に協力するプレイヤーばかりの状況を想像すると、そこでの最も合理的な戦略は、協力ではなくて裏切りだからだ。つまり、相手が「お人好し」で裏切らないことがわかっているならば、相手を警察に売り、自分は懲役2年、相手に懲役15年を課すことが合理的だ。

よって、人を裏切らない、というお人好し集団の中では、相手を裏切る個体が繁栄することになる。こういう、他の個体の協力行動を自分の利益のために利用しつつ、自分は他の個体に協力しない、というプレイヤーのことを、タダ乗り(free-rider)という。お人好し集団の中では、タダ乗りが一番合理的な戦略(専門用語では、「最適戦略」という)になってしまうが、タダ乗りプレイヤーが繁栄し数が増えてしまうと、お人好しがいなくなってしまい、結局裏切りだらけになってしまうので、みんなが懲役15年に服することになり、得をするプレイヤーがいなくなる。つまり、悪ばかりが繁栄すると、全体として悪い状態になってしまい、裏切りは最適戦略でなくなる。

では、こういう状況では、どういう戦略が長期的に安定して繁栄できる戦略なのだろうか。実は、この問いに対する答えはまだ厳密には出ていないが、これまでの研究で概ね認められているところでば、その候補の一つは「しっぺ返し戦略」というものである。

「しっぺ返し戦略」はその名の通り、相手が協力するなら次回も協力し、相手が裏切ったら次回も裏切り返す、という戦略である(なお、初回のゲームでは無条件に協力する)。これなら、相手がお人好しの場合は協力を続けることができるし、相手が悪の場合は(最初の1回は損するが)裏切り返すので相手だけに得をさせることはない。 さらに、相手が心を入れ替えて(?)協力することにすれば、こちらも直ちに協力し返すことができ、協力のチャンスを逸することもない。さらに、「しっぺ返し」のプレイヤー同士だと常に協力することができ、繁栄を続けることができる。

さて、「繰り返し型囚人のジレンマ」において「しっぺ返し」が有効な戦略であるならば、人類も進化の過程でこういった戦略を身につけたことだろう。この「しっぺ返し戦略」は、善には善で報いるが、悪には報復するという戦略であると見ることができ、これはまさしく「人類生来の倫理」の基本構造であるように私は思う。

「囚人のジレンマ」について思いがけず紙幅を費やしてしまったので、ここからはいちいちゲーム理論の説明をせずに概略だけ述べることとしたいが、「善には善で報いるが、悪には報復する」ということは、簡単なようでいて実は大変複雑なシステムである。「囚人のジレンマ」の場合は前提が単純なので結論も単純だが、より複雑な前提の下に考えるとどうなるか。

例えば、ゲームの中に「罰」という要素を加えるとどうだろう。すなわち、「裏切り」をしたプレイヤーを事後的に罰することができることとするのである。当然、「罰」を伴えば「裏切り」行為をする動機が弱められることになる。特に、「罰」が裏切ることによって得られる利益よりも大きいと予想される場合は、(「罰」のない場合は合理的な行為であった)「裏切り」はコストが高くつきすぎ、「協力」が最適戦略となるだろう。

さらに、ゲームの中に「第3者」という要素も加えるとどうだろう。「第3者」は他のプレイヤーの行動を観察しており、正義に悖る行為、つまり非協力的な行為があった場合、事後的にそのプレイヤーに「罰」を下せることとしてみよう。こうすると、だいぶ現実世界に近づいてくる。

なお、ここでは例として「繰り返し型囚人のジレンマ」を暗に仮定しつつ要素を加えているが、本当は「罰」や「第3者」を導入するには、もっと適切な事例に切り替える必要がある。しかし、煩瑣な説明をしだすとそれだけで紙幅が埋まってしまうため、ここでは結論だけを述べよう。

結論としては、非協力的行動に対する「罰」と、そういう「罰」を当事者だけでなく「第3者」が下せるという要素を加味すると、協力することで大きな利益を得ることができるようなゲームでは、協力的行動が最適戦略になる。つまり、そういう状況のもとでは、「協力的な行動をし、非協力的な行動に対しては「罰」をもって臨む戦略」が進化する。(専門用語を用いれば、そういう戦略が進化的に安定な戦略(evolutionary stable strategy)である、という。)

つまり、ここから得られる示唆は、「人類生来の倫理」が求めることの一つは、「協力的に行動せよ。しかし、他人が非協力的な行動をしている場合は、罰せよ」ということではないかということである。こうすることで、タダ乗りを防ぐことができ、かつ協力行動により大きな利益を得ることができるのだ。

しかし、ちょっと待ってほしい。先ほど加えた要素のうち、「罰」というのは、いったいどのようなものだろうか。具体例で考えると、罰金、体罰、精神的苦痛による罰などいろいろあるが、そもそも罰を加えることは、罰を加えようとする人間にとっても、通常は大きなコストを伴う

想像してみてほしい。あなたはジャングルの奥地に住み、今なお物質文明に触れていない部族の人間だとしよう。村一番の力持ちのAが、あなたの家から大切な釣竿を盗んだとする。さて、憤激したあなたは、Aにどうやって罰を加えるのだろうか。最も単純な「罰」は個人的報復行為だろう。例えばあなたは、夜道でAを待ち伏せし、頭に一撃食らわせようとするかもしれない。しかし、Aは村一番の力持ちである。あなたは返り討ちに遭ってしまう可能性がある。だから、そういう直接的行為は取れないかもしれない。その場合は、あなたは仲のよい友人であるBに相談し、一緒に報復してくれるように頼むかもしれない。いくら力持ちのAでも、二人がかりならなんとかなろうというものである。しかし、これはBにとってはどういう状況だろうか。

Bは、この例では完全に「第3者」である。あなたの釣竿がなくなっても、少しも困っていない。あなたが個人的報復をして失敗して大怪我しても、痛くも痒くもない。むしろ、自分には無関係な報復に巻き込まれ怪我するかもしれないし、よしんば報復自体は成功しても、この先Aに睨まれながら過ごさなければならない。これが「罰」に伴うコストの一例である。通常、「罰」に必要なコストはかなり大きく、「第3者」がそれに直接的な利益を得ることは(そもそも「第3者」なので)ない。

さらに仮定を一歩進めて、すでにAはあなたの釣竿を壊してしまった後だとしてみよう。この場合、あなたはAに報復しても、元の釣竿を取り返すことすらできない。だから、Aに挑む危険というコストを払っても、見返りは一切ない。つまり、罰するという行為は、Bはもちろん、あなたにとっても何の得にもならない行為なのである。

ここが重要な点だが、それでも、人はそういう報復行為を進化させたことがわかっている。つまり、正義に悖る行動であるならば、自分には全く利益がない場合でも、進んでコストを負担し、悪を罰する。これがあらゆる進化ゲームの最適戦略なのかどうかはよくわからないが、少なくともヒトはこういう戦略を進化させた。

これは一見すると不思議である。なぜなら、何の得にもならない、危険な行為である「罰」を好んで行おうとするとは、およそ経済的でない。あなたは、危険を冒してAに報復する代わりに、別の釣竿を新たに作るという建設的行為を行うこともできたはずである。そして、その方が、一見するとよほど理にかなっているように見える。

しかし、そうとも言い切れないのだ。なぜなら、あなたがAに報復しなかった場合、調子に乗ったAは、村の他のメンバーの持ち物もほしいままにするかもしれない。誰もAを罰することができなければ、村はめちゃくちゃになるだろう。つまり、Aは村の善意(?)にタダ乗りする人間になる。そう考えると、長期的にな利益を見込んで、Aを罰することは村全体にとって合理的だ。

これを、もう一度「あなた」からの視点で説明すると、あなたは、自分自身の利益のためにAに報復をするのではなく、(まだAから被害を受けていないが、潜在的に被害を受ける可能性のある)村の他のメンバーのためにAを懲らしめている、ということだ。「罰」を下す行為は、本質的に他人(群れ)のための行為であるため、個人的利益だけを見る限り、「罰」という行為は(ミクロ経済的に)合理的でない。

ここは重要な点なので繰り返すが、「罰」を下すという行為は、個人的利益だけを考えると、経済的ではなく、非合理的な行為なのである。コストはかかるし、利益はない。この「非合理的な行為」であるという点が非常に重要である。つまり、「悪への報復」の執念はそもそも非合理的なものだということだ。

さて、ようやく前回の問題提起、「我々はなぜ、なかなか人を許すことができないのか、かくも執念深く、非合理的な怒りや憎しみを抱くのか」という点に答えることができる。その答えは、「その怒りや憎しみは個人的に考えれば非合理的なものに見えるが、集団全体を協力的に保つために必要なものなので、ヒトはそういう感情を抱くように進化したからだ」というものだ。

先ほどの例に戻って考えてみよう。あなたがもし、合理的に損得計算をして行動する人間なら、Aから釣竿を盗まれた時にどのように行動するだろうか。きっと、Aから釣竿を取り戻すのに必要なコスト(返り討ちに遭うリスクがどれだけあるか、必要な武器は何か、など)と、新しく釣竿を製作するコスト(適当な木を伐採したり、糸や針を手に入れるコスト)を比べるだろう。そして、新しく釣竿を作るコストの方が小さければ、そうするだろう。そこには、怒りや憎しみの入る余地はない。これが純粋なホモ・エコノミクスだ。

しかし、実際の人間はそう行動しない。まず、怒り、憎しみを覚える。そして、どんなことがあってもAに少しでも仕返ししたいと思う。これは、全く合理的な行動ではないのだ。しかし、そういう感情が湧き、Aに報復をしなければ、先ほど述べたように、Aは盗みを繰り返すかもしれない。それは、結局集団全体の利益を損なうことになる。だから、あなたは、たとえAへ報復することに個人的な利益が全くない場合でも、Aに対して報復する強い感情を持つべきなのだ。

その強い感情は、そもそも経済的な損得計算とは別次元のところで生じているものだ。だから、非合理的なのは当然なのだ。こういう感情が、そうやすやすと治まってしまっては、人間社会に悪がはびこってしまう。だから、我々は容易に人を許すことができず、執念深い怒りや憎しみを抱くようになっているのだ。

宗教は、こういった感情を、しばしば人が未熟な証だとする。そして、そういった感情を乗り越えることこそ目標であるという。キリスト教は、汝の敵を愛せ、という(実際に彼らがそうしていないのは周知の事実だけれども)。それは、後述する意味でとても意味のある主張なのだが、そう否定する前に、私はそういう感情の価値を認めたい。つまり、あなたが敵や悪に対して抱く、強い怒り、執念深い報復の念などは、未熟の証などではなく、人間社会を協力的に保つために非常に価値のある感情なのだといいたい。「汝の敵を愛」し、悪を犯した人間を罰すことがなかったなら、人間社会にはすぐに悪がはびこってしまうだろう。だから、あなたは、その激しい怒りを恥じる必要はないのだ。その怒りはもっともなことであるだけでなく、社会にとって価値あるものなのだ

しかし、である。これは、あくまでも原始社会の話だ。つまり、先ほどの例に警察機構や司法は出てこなかった。この点は極めて重要である。ここに、前回予告したように、「人類生来の倫理」と現代社会が求める倫理(正義)が乖離していることが、人間の悩みの淵源なのではないか、という点が関係してくる理由がある。以下、それを説明しよう。

先ほども述べたように、「罰」にはかなりのコストがかかる。しかも、「罰」を、当事者本人が下すことが基本ならば、まず社会的弱者は「罰」を下すことができず、いい食い物にされるだろう。社会的弱者でなかろうとも、「罰」を下すことにコストがかかりすぎ、適切に悪が制裁されないおそれがある。しかしそれよりも大きな懸念は、報復者があまりに大きな罰を与えてしまう可能性である。釣竿を盗まれたあなたは、闇夜にAを待ち伏せ、後ろから殴り倒した。結果、Aは死んでしまった。非合理な怒りに身を任せた結果、Aを殺してしまったことは、果たして集団全体の利益にかなっているといえるだろうか。

おそらく、いえないだろう。こういう行為が許されるのであれば、あなたの村は報復合戦になってしまう。つまり、最初は小さな諍いだったのが、報復を繰り返すうちにエスカレートし、非常な戦闘状態になってしまうおそれが高い。そこで、人類は、「罰」を当事者に任せないという文明(あえて、「文明」と言わせていただく)を発達させた。「罰」を当事者に任せないことで、悪を犯した者が罰されないことも、罰されすぎることもなくしたのである。

刑法発展の歴史からすると、「罰されないこと」を防ぐのが古代~中世刑法の目的で、「罰されすぎ」を防ぐことが目的になるのは近代刑法からだ、と主張する人もいるが、古代バビロニアの有名なハンムラビ法典では、「目には目を、歯には歯を」というように、明確に「罰されすぎ」を防いでいる(「目には目を」というと、現代的な倫理観からは随分と報復的に感じるが、「辱めを受けたら相手の命を取る」というような復讐合戦を防ぐ意義があると現代刑法学でも評価されている)。一方で、瑣末な罪ですぐに死罪になってしまうような古代法(「慣習」と言った方がいいかもしれないが)が存在したのも確かなので、一概には言えないところがあるが、少なくとも報復を当事者に任せないことで、「社会的に認められた量刑を行う」という点は全ての刑法に共通するところである。

こういうシステムを実現するための方策が、警察であり司法である。警察や司法の発明は、場当たり的で感情的で不確実だった当事者による報復を、社会がコストを負担してより安定的に行うシステムに変えた。これは、人類の歴史にとって、紛れもなくよいことだったに違いない。

しかし、このシステムは、我々が悪に抱く怒りを、敵に対する憎しみを、ある程度無用なものに変えてしまった。なぜなら、我々は個人がコストを負担して悪を罰せなければ、悪が跳梁跋扈するような社会に住んでいるわけではないのだ。現代社会に住む我々は、もはやそういう非合理的な怒りや憎しみを抱き、個人的に報復しなければならない理由を失っている。それは、警察であり司法に任されているのだから。

もちろん、警察や司法が存在するその究極的な淵源の一つは、たとえ自分自身の得にならず、コストを負担することになろうとも、悪を罰さなければならないという我々の感情にあることは確かだ。だから、警察や司法は通常税金でまかなわれている。しかし、原始社会で生きる人間に比べると、我々がそういう強い感情を抱く意味合いはかなり減じていることも確かだろう。

そう、我々が、人が人をなかなか許せず、執念深い怒りや憎しみを抱くのは、我々の感情が、もはや現代の社会システムにマッチしていないからなのだ。警察や司法がうまく働くなら(実は、これはかなり難しい仮定だが)、我々はもっと恬淡としていてかまわないのである。実際、キリスト教や仏教などが、人を簡単に許すことを勧めているのは、報復を社会的に行う制度が整ってきていたからである。(キリスト教では、「悪を犯した人間は神が罰する」ことになっていて、この世での罰は軽視されているが、当時のエルサレムでは(それ自体が不正だったという話はあるけれども)ちゃんと裁判による量刑が行われていたのである。)

それが、先ほど述べたように、怒りや憎しみは乗り越えるべきものだ、汝の敵を愛すべきだ、という主張にも価値があるとした理由である。警察や司法を備えた社会にとっては、当事者による個人的な復讐などはむしろ風紀を紊乱する行為であり、百害あって一利なしである。むしろ、どこまでも敵を懲らしめたいという個人的な怒りや憎しみは抑え、社会的に受容できる量刑により納得できる淡白さこそ必要である。

しかし、「人類生来の倫理」は、そんなに物分りよくできていない。やはり、悪に対しては、経済学的には非合理なほど厳しい報復を要求するし、そうした感情は、原始社会においては社会全体として価値あるものである。それなのに、現代社会が我々に求める倫理(正義)は、「あなたの怒りはもっともですが、悪に対する制裁はコチラにお任せください」という社会システムを受け入れろということなのだ。そうしなければ、先ほども述べたように、「罰されなすぎ」や「罰しすぎ」の状態が発生するおそれが大きいので、それは合理的な要求だ。ただ、我々の感情は、そういう淡白な社会には、まだ適応していないのである。

ただ、最後に3点だけ留意点を挙げておきたい。

一つ目は、人間社会で行われる悪や不正というのが、警察や司法によって処理される類のものばかりではないということ。むしろ、我々が通常遭遇することの殆どは、そういった社会的システムに乗らないものばかりである。例えば、約束の時間に遅れるとか、手柄を横取りされるとかいったことは、普通は裁判沙汰になることはない。そういう時に怒りを覚えるのは当然のことであり、むしろ、先述のとおり、そういう感情こそが人間社会を協力的に保つために一役買っているのであるから、その怒りには社会的価値があるのである。

二つ目は、とはいえ、その怒りのままに報復することは、やはり、警察や司法の存在がなかったとしても慎むべきだ。なぜなら、そもそも怒りは非合理的なものであり、報復を「やりすぎる」危険性が高いからだ。先述の事例で、怒りのままに復讐し合えば、どんどん報復がエスカレートしていくだろうと述べた。だから、人間が「怒り」をコントロールできなかったとしたら、これほどには繁栄しえなかっただろう。人間には、警察や司法という発明がなかったとしても、「怒り」をコントロールする本能(これも、文化的な所産ではない!)があるはずだ。これについては、改めて深く議論したいと思うので、ここでは、「怒り」が社会的に価値があるといっても、感情にまかせて報復することを私が勧めているわけではないことを述べるに留める。

三つ目は、本稿においては、協力的でない行動を「悪」とか「不正」とか決めつけてきたが、これは実は公正な表現ではない。なぜなら、協力行動の中には、(世間でいう)「悪」に対する協力もあるのであって、「協力」が常に社会の福祉を増大させるわけではない。また、「悪」とか「善」とかいうのは相対的な観念であって、社会の福祉を増大することが「善」として定義出来るわけでもない。だから、より正確に表現するなら、「悪」とか「不正」とかいう情緒的な言葉ではなくて、「非協力的な行動」とか、もっと親しみやすくするなら「信頼に背く行為」とかすべきであろう。だた、いちいちそういう表現をしていては煩瑣になるので、「悪」とか「不正」とかいう言葉を濫用してしまったが、その点は割り引いて読んで頂きたい。

【参考文献】
プレイヤーが世代交代し、かつ戦略が遺伝するゲームを「進化ゲーム」というが、動物行動の進化を進化ゲームで理解する理論的な基礎は「進化とゲーム理論-闘争の論理」(ジョン・メイナード=スミス著)が古典的教科書であり、お勧めである。数式が若干出てくるので、大学学部生程度の学力が必要だが、基礎から学ぶことができる。
また、「人類生来の倫理」のゲーム理論による説明については、(実は、私自身未読だが)「Natural Justice」(ケン・ビンモア著)が意欲的な著作である(らしい)。(叢書「制度を考える」で邦訳予定なので、邦訳を待って目を通したい)

 



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