2010年4月20日火曜日

「群れ」の論理(1)人類生来の倫理

【要約】
  1. 人間は、「群れ」と「家族」に引き裂かれているが、それだけが悩みの原因ではなく、「群れ」「家族」それぞれに内在する矛盾が存在する。まずは「群れ」的な論理の説明を試みよう。
  2. 人を許すことが容易でないのはなぜか、執念深く、非合理的なのかという理由は、「人類生来の倫理」と現代社会が求める倫理(正義)が乖離しているからであると私は考える。
  3. 倫理は文化的・宗教的なものであると考えられているが、文化や宗教によって何を倫理的と感じるかの差はなく、むしろ、「囚人のジレンマ的」状況に対処するために進化した生得的なものだと考えた方がよい。それが「人類生来の倫理」である。
  4. なお、「囚人のジレンマ型ゲーム」は、個人が合理的に行動すると、結果として最も悪い状況を選択してしまうゲームであり、これに最適解を出すためには、ある意味非合理的ともいえる「倫理」を持つことが一つの方法である。

前回は、他の動物には見られない、「利害関係者による群れ」を作るという人間の特異性が、人を「群れ」と「家族」に引き裂いた、ということを述べた。しかし、実は「群れ」と「家族」の相克がなくても、それぞれの論理の中に苦悩の種は内在している。もっと正確に言えば、「群れ」的な論理、「家族」的な論理それぞれの中に、現代の社会と相容れない部分があり、二つの論理が対立しない場面でも、我々は自然が要求する行動と自分が正しいと思う行動とのギャップに苦しむことになる。

これから、「群れ」と「家族」の双方について、「現代の社会と相容れない部分」を説明していこうと思うが、まずは、「群れ」の方から始めよう。

最初に具体例を掲げる。あなたは、人が約束を守らなかったとき、あるいは期待通りの行動をとってくれなかったとき、激しい怒りを感じたことはないだろうか。後で冷静になって考えてみると、「なんであんなに怒っちゃったんだろう」というというくらいに頭にくることがしばしばあるが、ああいう怒りをなぜ覚えるのだろう。

また別の例として、あまり一般的な状況ではないが、犯罪被害者が加害者に抱く復讐心というのも、当然のようではあるが、よく考えると合理的ではない。例えば、子供を殺された親が、犯人をなんとしてでも探し出し裁きを受けさせたい、と何年にも亘って個人的な捜査を続けることがあるが、そういう行動は経済学的には合理的ではない。なぜなら、仮に犯人が見つかって死刑が執行されたとしても、失った子供が戻ってくるわけでもない。むしろ、個人的幸福の最大化を図る功利主義的な立場に立てば、残された子供に資源を重点配分したり、子供がいないのなら、自らの快楽を増大させることにお金や時間を使うべきで、経済学的には浪費にすぎない復讐に一生を費やすのは馬鹿げている。(ここで「経済学的に」といっているのは、「こういう復讐は、経済学でいうサンクコストを取り戻そうとする行為と似ている」という意味である。)

もっと単純に言えば、我々はなぜなかなか人を許せないのだろうかそして、かくも執念深く、非合理的なのだろうか

その答えの一部は、「人類生来の倫理」と現代社会が求める倫理(正義)が乖離していることにある、と私は考える。
「人類生来の倫理」?そんなものがあるのか?と思った方もいるだろう。倫理とは文化的なものであり、遺伝子に刻み込まれたものではないとお考えかもしれない。しかし、人間は本来的にある種の「倫理」を備えていることが今ではほぼ明らかになっている。今でも、倫理は後天的なものであると主張している研究者もいるけれども、だいたいはある程度人間は生まれつきの倫理観を持っていると考えられている。(これは、乳幼児が倫理を持っているということではなく、正常に成長した健全な大人は、文化や宗教に左右されない、普遍的な倫理を自然に身につける、ということを意味している。)

なぜ、生まれつきの倫理があるのだろうか。それは、人が「利害関係者による群れ」で生きることと関係している。本論からすると横道に逸れる部分もあるが、まずは、生まれつきの倫理、「人類生来の倫理」とは何かを明らかにしたい。

詳細な説明に入る前に、概略を述べておこう。集団かで何かをやろうとする時、それぞれが自分のことだけ考えて行動するよりも、みんなが利益になることをする方が、結局は個人にとっても得になる状況は多い。そこで、みんなが利益になる行為をする方がいいんだ、という価値観を持つ生物は、それを持たない生物よりも繁栄することになるだろう。こういう道筋で、人間は倫理観を発達させたに違いない。とすれば、人間が倫理観なるものを持っているのは、文化的なものではなくて、生得的、先天的なものであるということになる。

さて、この状況をもう少し詳しく説明しよう。そのために、よく知られた「囚人のジレンマ型ゲーム」を考える。「囚人のジレンマ型ゲーム」あるいは単に「囚人のジレンマ」と呼ばれるゲームは、ゲーム理論を少しでも齧ったことがある方にはおなじみのものだが、ここでは改めて簡単に説明する。

こういう状況を考えてもらいたい。二人組が警察に捕まり、別々に取り調べを受けている。二人はあまり重要でない罪で別件逮捕されており、警察が本当に追っている大事件の方は証拠がなく立件できない。このまま二人が黙っていれば、懲役4年程度の服役で済む。しかし、捜査に協力して自白すれば、司法取引で懲役2年に減刑される。しかし、自白しなかった方は、大事件の犯人として懲役15年は堅い。一方で、両方が自白すれば、司法取引の効果は帳消しになり、二人とも懲役15年を服役することになる。(ちなみに、海外では捜査に協力する代わりに減刑される「司法取引」制度があるが、日本には基本的にはないので、このような状況は日本の司法には当てはまらない。)

こんな状況で、あなたならどうするだろうか。自白するか、黙っているか、どうするだろうか?もちろん、あなたが組んだペアがどういう人間かにも拠るだろう。簡単に仲間を売ってしまう口の軽い人間か、それとも口が堅い信頼できる人間かということに。では、相手が簡単に仲間を売るような、口の軽い人間だったとしよう。すると、相手が自白してしまうのなら、自分が自白するしないにかかわらず自分は懲役15年を食らうことになる。一方、相手が万が一自白しない場合は、、自分が自白すれば懲役2年に減刑されるが自白しなければ懲役4年である。つまり、相手がどういう行動をしようとも、自白した方が少なくとも損にならない。これは、相手が口の堅い人間の場合でも、議論の順番が逆になるだけで同じである。
要は、相手が自白しようとしまいと、自分は自白した方が得だ、ということだ。

しかし、相手も同じように考えているはずである。よって、二人とも自白することになり、二人ともめでたく懲役15年を食らうことになる。二人とも黙っていれば、二人とも懲役4年で済んだはずなのに、それぞれが合理的に行動したために、結果として最悪な状況を選択してしまう。これが、「囚人のジレンマ」である。
これが「ジレンマ」といわれる所以は、個人が合理的に行動すると全体として利得の少ない状態を結果的に選択してしまう、という個人の合理性の限界を示しているからである。言うまでもなく、このゲームでの最高の状態は、自分は自白して相手は黙秘を続け、結果自分は懲役2年、相手は懲役15年という状態だが、これでは二人ともがこうなるわけにはいかない。そこで、合理的に考えて現実的なもっともよい状態は、二人とも黙秘し、懲役4年ずつ服役する、という状況である。

二人とも黙秘する、という状態は、それぞれが相手に協力しているので、このケースでの「協力行動」と呼ばれる。自白してしまうのは、協力の逆ということで「裏切り」と呼ばれる。「囚人のジレンマ型ゲーム」をこの言葉を使ってもう一度説明すると、互いに協力すればより大きな利益が得られるのに、個人の利害だけを考えると裏切ることが合理的であるため、結果として裏切りあってしまい、最も悪い状態になってしまう、ということだ。

人類はその進化の過程において、「囚人のジレンマ型ゲーム」的な状況をかなり体験してきたはずだ。例えば、狩は大型の動物と戦うことにリスクがあるので、個人としてはできるだけ参加しない方がいい。しかし狩をしないと大きな動物を捕らえることはできず、果物で我慢しなくてはいけなくなる。ただし、これは単なる協力ゲームであり、正確には「ジレンマ」ではない。

だから、人類がもし目先の利益だけでなく、長期的な利益まで考えることができたら、狩へ参加することは合理的な選択となっただろう。しかし、「囚人のジレンマ」の状況は、そういうことではなく合理的に考えると正しい選択ができないということを示している。そういうときに役立つのはなんだろうか。考えるまでもなく、時に非合理的である「信頼」であり、「絆」というものだろう。つまり、人を裏切らない、という倫理観である。

そういう倫理観を持っている生物は、そういう状況に置かれた時により大きい利益を得ることが出来るため、それを持たない生物よりも全体として繁栄することができる。だから、人はそういう倫理観を発達させたはずである。ただ、倫理観が遺伝子(ゲノム)によって規定されているかどうかはわからない。おそらく、そういう遺伝子がありそうだとは考えられているが、まだ特定はされていない(おそらく複数の遺伝子が関係していると思われる)。

事実、倫理観というのは、文化や宗教に大きく左右されてしまうものと考えられがちだが、いろいろな地域、文化、宗教の人間集団を観察すると、実際には「何を倫理的だと思うか」ということはほとんど差はないという。むしろ、宗教は「人類生来の倫理」に寄生している存在であると考えられている。すなわち、宗教は、「人間生来の倫理」がなぜそうであるのかを説明する理論を構築しているだけなのである。

さて、そういうわけで、人間には生まれつきの倫理、「人類生来の倫理」というものが備わっているのである。それは、結構なことだ、と思うだろう。しかし、話はそう単純ではない。この倫理、なかなかのクセモノなのだ。それを説明するのが本稿の主題だが、かなり長くなってしまったので、次回に書くことにしよう。


【参考文献】
人間には生まれつきの倫理があるという点に関しては、その基本構造を丁寧に説明する「Moral Mind」(マーク・ハウザー著)がお勧めである。我々の持つ倫理がいかに微妙(で、かつ理性ではなかなか説明できないもの)かわかる。

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