【要約】
- 人間以外の動物には、何を選択すればよいのか、というタイプの悩みは基本的にはない。なぜなら、それぞれの生物には生来の生き残り戦略が本能として埋め込まれており、本能が行動の優先順位をつけるからである。
- 人間には生来の生き残り戦略と呼べるものはなく、あるとすれば「いかなる状況にも柔軟に対処する」という戦略である。つまり、人間は他の動物に比べて非常に幅の広い選択をすることが出来、そのため、動物には(おそらく)存在しない「悩み」を抱く。
- 「悩み」は宗教的には人間の不完全さや人格の不完成を表し、未熟な証とも見なされるが、「悩める」ということは人間の特権であり、それはむしろ「高貴なる者の義務」なのではないか。
動物には人間のような悩みはあるのだろうか。未だ動物の心理を読み解く方法が確立していないのでなんとも言えないが、類人猿のような動物には多少の悩みがあるのかもしれない。しかし、多くの動物には、おそらく人間の抱えるような悩みはないだろう。
ここで言う「人間の抱えるような悩み」とは、「Aにしようか、それともBにしようか」という選択の悩みだと狭く定義しておく。例えば、家業を継ごうか、それとも会社勤めのままでいようか、とか、ダイエットのために毎朝ジョギングしようか、それとも1分でも長く寝ていようか、といった類の悩みである。
勿論、人間が抱える悩みはこういった類の悩みだけではない。他にも、子を失った悲しみから立ち直れない、とか、老いの悩みなど、「どうしようもない悩み」はたくさんある。しかし、ここでは、選択の悩みだけに、より正確に言うと「行動に優先順位をつける悩み」に限定して考えよう。
結論を言えば、多くの動物には、おそらくそういった悩みは存在しない。なぜなら、生きる上で何を優先するかは本能(あるいは、個体の生来の性格)の中に埋め込まれているからである。これはより単純な生物では明白で、非脊椎動物などは殆ど自動化されたプログラムに基づいて生きている。
例えば、ゴキブリは空気の揺れを感じると、文字通り何も考えずに一目散に逃げる。「今逃げるべきときか、留まるべきか」とは考えないのである。このようなプログラムは無駄が多い(つまり、逃げなくてもいい時に逃げてしまうこともある)が、危機に対して確実に対処できるという意味で、生き残り戦略としては勝れている。
哺乳類の例としては、大型類人猿(チンパンジーやゴリラなど)を考えてみたい。大型類人猿は、なわばりの中を周期的に移動しなが生活している。ある拠点で得られる食料(例えば果物)が少なくなると、なわばり内の他の拠点に群れごと移動していく。ここで問題になるのは、どのタイミングで移動するかである。サルは、そういうことに悩むだろうか?答えはサル(apes)の頭の中を覗いてみなければわからないが、おそらくそういう悩みはなさそうである。なぜなら、まず群れの行動の決定権は群れのボスにあるので、ボス以外のサルは悩むことはない。ボスにとっては、それは自らの性格(移動好きか、食料がなくなるまで留まるタイプかなど)の赴くままに決めればよいことであり、やはり悩みはないと思われる。少なくとも、大型類人猿が移動していくのは本能に埋め込まれた生き残り戦略である。ボスは、いつ移動するかを自分の感覚に基づいて決定すればいいだけのことであり、「移動すべきか、移動しないべきか」といった二項対立的な選択をしているわけではない。
一方、人間はどうだろうか。人間には、動物が持っているような、生まれつきの生き残り戦略はないように見える。キリスト教では、そのことをしばしば「人間には自由意志がある」と表現する。人間に本当に自由意志があるかどうかということについては、哲学及び神学において数百年も論争されてきたテーマであり、突き詰めて考えると難しい問題であるが、動物にあるような「生まれつきの生き残り戦略」は人間にはないという意味で、私は人間には自由意志があると思う。
先ほどのゴキブリの例に対比し、危機が迫った時に人間はどうするか考えてみよう。選択肢は逃げるだけではない。戦うことも考えられるし、本当に危機が迫っているのかどうか疑うことも出来るだろう。あるいは、危機をやり過ごす別の方法(例えば敵を買収する)も状況によっていろいろと考えることができるし、日和見主義的に無視することも可能だ。
また、大型類人猿の例に対比して、食料不足に陥った時を考えると、例えば旱魃で飢饉に陥っているのなら雨が降るまでひたすら待つという方法もあろうし、どこかからか水を運んでくるということも考えられる。もちろん河の近くに移動することもできるし、極端な例としては、隣村を襲撃して食料を奪うこともできる。
こういう発想は、人間以外の動物では、今のところできないだろうと言われている(繰り返すが、未だ動物心理は完全には解析できていないので、「今のところ」とつけておく)。動物が本能に縛られ、まるで自動人形のように行動している、という見方は、ちょっと時代遅れで、今ではもう少し動物も高度な行動戦略を持っていることが知られている。特に、チンパンジーは人間顔負けの駆け引き(もはや「政治」と呼びたいほど高度な行動)をする。しかし、それでも私は人間以外の動物は、「生きるための基本戦略」は本能に埋め込まれていると思う。
逆に言えば、人間は、哲学的な表現で言えば「いかに生きるべきか」ということが個人に任されている。神というものがいるとするなら、他の動物にはそれぞれ細かい指令を与えた一方で、人間に与えた指令は「いかなる状況にも柔軟に対処すること」だけだっただろう。勿論、これはフィクションである。進化の歴史から言えば、人間も限られた行動しかできないサルだった時期があった。しかし、脳の高度化により徐々に選択の幅が広くなっていったとうことに過ぎない。
なお、正確を期するために付け加えれば、人は完全に自由な発想でいかなる行動をも選択できるわけではない。我々は通常意識できないが、やはり生物としての制約はなくなってしまったわけではなく、我々も、生物としてのヒトの基本原理に沿った行動しか取れない。しかしそれでも、「いかなる状況にも柔軟に対処する」という戦略を持つ生物は、おそらくヒト以外にはなく、「柔軟に対処出来る」幅の広さも、生物界の中で桁違いに大きいことは疑いない。
そして、選択の幅の広さこそが人間の悩みの原因のひとつであろう。人間は、動物として見れば無戦略と言えるほど、様々な選択肢を考えることができ、そして選ぶことが出来る。そのために、悩みが生じる。どうすることが一番いいのか。そもそも「一番いい」とは何がよければいいのか。そういうことで人間は悩む。いちいち悩んでいたら、動物は自然界では生き残れない。生まれつきの戦略を持たない人間という種は、不完全なのだろうか。
宗教は、それを原罪のせいにしたり、無明(悟っていない)のせいにしたりする。そして、悩む人間に対して、「それはお前が未熟な証だ」としばしば非情な断定をする。しかし、そういう負の評価と逆に、私は悩みを積極的にもとらえたい。つまり、「悩める」ということは人間の特権なのである。極論を言えば、悩みなき生物は自動人形と同じである。確かに、「悩み」は、人間に生来の「生き残りの基本戦略」がないために背負わされた「十字架」とも言えよう。キリスト教の言うように、自由意志の代償と見ることもできよう。しかし、「悩める」ということは、人間以外の動物の水準から言って、相当高度なことなのであり、それはむしろ「高貴なる者の義務」とも言えるのではないだろうか。
ただし、全ての「悩み」の原因を人間の「生き残り戦略のなさ」に帰着できるわけではない。冒頭にも述べたように、ここでいう「悩み」とは全ての「悩み」ではないし、行動の優先順位に関する悩みに限定しても、「生き残り戦略のなさ」という一言だけで済むものではない。しかし、それは追って述べることとしたい。
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