2010年5月20日木曜日

「群れ」の論理(6)「男の序列」と「女の序列」

【要約】
  1. 人間の「序列」の本能は一体どういうものなのか。なお、ここでの「序列」の定義は、「意志決定の優先順位」であるということとする。
  2. 基本的には、人間はできれば「序列」を上げたいと思っているが、なぜ「序列」を上げたいのか。
  3. 序列を上げる理由は、まずは生殖と関連している。とすると、男と女では生殖の戦略は異なっているので、その理由は男女で異なる。「序列」には、「男の序列」と「女の序列」の2種類があるのだ。
  4. 「男の序列」の説明。オスにとって生殖の成功とは、より多くのより魅力的なメスと交尾し、多くの強い子孫を残すことだ。そして、「序列」が高ければ高いほど、より多くの魅力的なメスと交尾できるので、男は本能的に、単純に「序列」を上げたがるはずだ。(ただし、序列が高ければ高いほど(そのコストに見合うだけの)メリットがあるかどうかわからない。)
  5. 「女の序列」の説明。メスの場合は、自分が産む子供の数には限界があるし、出産と子育てには多くのコストがかかる上、配偶者獲得に必死になる必要もない。だからメスにとっての生殖の成功は、少数の自分の子孫が成功する、という少数精鋭的なものであるはずだ。つまり、女にとっての生殖の成功は、ある程度その子供の成功に依存する。
  6. だから、女にとっての有効な戦略の一つは、「自分の子供、特に男の子を厚く支援すること」 である。なお、女の子にはコストを掛けても掛けなくてもある範囲の生殖上の成果しか期待できず、女の子への投資効率は男の子に比べて悪い(あくまでも狩猟採集社会での話)。
  7. 息子の「序列」を高めるように努力する母親は、そうしない母親より適応度(子孫の数)が高いだろう。そして、息子の「序列」を高める方法の一つとして、自らの序列を高め、自分が息子の後ろ盾になるということがある。つまり、母親は息子の序列を上げるために、自分の序列を上げたがるのだ。
  8. この考え方は、生殖能力を失った個体や特定の配偶者を持つ個体が「序列」を高めたがる理由も、生殖の観点から説明する。つまり、自分の子供がより成功するように(それが男の子の場合は「序列」が高くなるように、それが女の子の場合は「序列」が高い男と「結婚」できるように)、自分自身の「序列」を高めるインセンティブがあるということだ。 
  9. なお、女が自分の序列を高める安直な手段は、序列の高い男の妻になることだ。だから、女はより序列の高い男に惹かれる。ただし、女は男の序列だけを見ているわけではない。
  10. 「序列」が意志決定の優先順位ならば、「序列」を高めるということは、強力な後ろ盾を得て政治力を高めるということだ。すなわち、人間社会における「序列」とは「政治」であり、我々は「序列」を高めたいという本能的欲求を持っている以上、生来政治的なのである。

前回は、人間は元々「序列」への執着が強くない、と述べた。しかし、人間の「群れ」=人間社会には「序列」がないわけではない。むしろ、他の動物には見られないほどの激しい格差が人間社会には存在する。人間の「序列」の本能は元来弱いものであるが、今回はそれが一体どういうものなのか論じたい。

まず、今更ながら、本稿でいう「序列」とは何かを定義しておこう。動物の社会での「序列」は単純で、一番簡単に「序列」を表現すると、「生殖における優先順位」のことである。つまり、「序列」が上の個体ほど、より多くの、あるいは一番魅力的なメス(あるいはオス)を獲得できるということである。こう書くと、あたかも「序列」は一方の性だけのもので、もう一つの、選ばれる方の性には序列が存在しないように聞こえるが、単純にそうとは言えないということは後で述べる。

動物の社会において、「序列」を生殖との関係で定義づけられるのは、基本的には動物の群れを構成するメンバーは全て生殖能力を持った個体だからである(野生動物には、「閉経」はない)。そういうわけで、この定義は人間社会にはマッチしない。人間の社会では、生殖能力をなくしたような長命の個体もいるし、それ以上に、決まった配偶者が既にいる場合は、群れでの「序列」と生殖との関係は弱い。

そこで、もう少し「序列」を一般的な形で定義する必要がある。動物の社会でも、「序列」は結局は生殖に結びつくにしても、生殖と直接の関係がない面(例えば、食料の分配)でも影響があるので、正確に定義づければ、「序列」とは「資源配分の優先順位」に他ならない。メス(あるいはオス)や食料、快適な寝床はある意味で「資源」であり、それを優先的に使用できるのが「序列」が高い個体である。この定義は人間にも多くの場面で当てはまるけれど、それでもやはりぴったりとはいかない。例えば、原始的な狩猟採集生活を送っている民族では、かなり平等に資源は配分されているし、必ずしも長老や酋長といった人物が、バンド(小集団)で一番の物持ちというわけではない。むしろ、資源を(無私の立場で)平等に分配することがリーダーの役割である場合だってあるので難しい。

つまり、人間の場合は、単に資源配分を多く受けるというような利益をボスが享受するわけではない。むしろ、ボスがボスである所以は、人間の場合はその「群れ」で最も大きな「意志決定の権利」を持っているからであると考えられる。「序列」が上の個体ほど、その意志決定が尊重されるというのは、かなり一般的に人間社会に当てはまるのではないだろうか。そこで、ここでの「序列」の定義は、「意志決定の優先順位」であるということにしよう(この定義は、人類学や動物学等で承認されたものではなくて、あくまで本稿での定義である)。

さて、人間は本能的に「序列」を上げようとする動物なのだろうか。これについては、前回随分詳細に論じたが、実は、前回の議論「ボスになりたがるのか」ということであって、「序列」を上げるということはまた微妙に違う話である。ただ、その議論の殆どは、「ボス」だけでなく、「序列」という用語に一般化することが可能なので、今回はまず結論だけ簡単に述べたい。

つまり、その結論とは「人間は、できれば「序列」を上げたいと思っているが、そんなに「序列」に執着しているわけではない」ということだ。そんなに「序列」に執着しないという点は既に強調しすぎるほど強調したので、なぜ「序列」を上げたいのかということが今回のテーマだ。

さて、序列を上げる理由としては、まずは生殖との関連である。序列が上の個体は、より魅力的な個体や多くの個体とつがうことができるから、「序列」はできるだけ高い方がいい。

しかし、それが「序列」を高める理由だとすると、生殖能力を失った高齢な個体や、既に特定の配偶者がいる個体は「序列」に執着する理屈はないことになる。このことを、単に「文明化後、人間が長生きしすぎるようになったからそういう個体が生まれたのだ」として説明することもできる。つまり、自然状態では、そんな高齢の個体は存在しなかったし、特定の配偶者との関係(例えば、「一夫一婦制」)などなかったのだ、という考え方だ。確かにそういう考え方もできるが、敢えて「文明化」を持ち出さなくとも、生殖能力を失った個体や特定の配偶者が「序列」を高めたがる理由は、生殖の観点から説明できるということを後で述べる。(ちなみに、人間は文明化以前も割と長生きだったし、おそらく一夫一婦制的なものもあったと考えられる理由があるが、それは別の機会に述べたい。)

さて、「序列」を高めたがる理由が基本的には生殖だ、とすると、その論理は男と女で違うはずである。なぜなら、男と女では生殖の戦略は異なっているからだ。すなわち、「序列」には、「男の序列」と「女の序列」の2種類があるのだ

まずは、簡単な方の「男の序列」から議論しよう。オスにとって生殖の成功とは、より多くの、そしてより魅力的なメスと交尾し、多くの、そして強い子孫を残すことである。だから、「序列」が高ければ高いほど、より多くの魅力的なメスと交尾できるとすれば、オスは「序列」を上げたがるだろう。

前回は、人間の場合はその相関は弱いから(リーダーの女が常に一番の美人というわけではない!)、「序列」を上げることにそんなに大きなエネルギーを費やさないだろうと指摘したけれど、相関は弱いとはいえ、ある程度の関連性は否定できない。なぜなら、「序列」が上なら基本的に多くの資源を使うことができるからだ。男と女の性戦略は別の機会で詳しく論じようと思うが、基本的に女が男に対して「本能的に」求めるのは、「より多くの資源」である。だから、「序列」が上ならより多くの資源が期待でき、より多くの、より魅力的な女にアピールするのは間違いない。そして、後で述べるが、「序列」にはそれ自体の価値もある。

つまり、男は本能的に、単純に「序列」を上げたがるはずなのだ。とはいえ、何度も繰り返すように、だからといって「序列」の競争が激化することはあまりない。なぜなら、特に狩猟採集生活の場合は、多くの妻を娶ることは不可能だ。であれば、先ほどの「より多くの、魅力的なメス」という高い序列のメリットのうち、「より多くの」というのには自然状態では自ずから限界がある。「魅力的なメス」の方はもっと複雑で、チンパンジーの世界でも好き嫌いの好みがあるくらいだから、人類の原始状態においても、単に序列が高いオスが最も魅力的なメスとつがったかはよくわからない。だから、序列が高いことのメリットは確実にあるが、序列が高ければ高いほど(そのコストに見合うだけの)メリットがあるかどうかわからないのだ。

とはいうものの、生殖と「序列」との関係は、経験的には腑に落ちるものがある。「英雄色を好む」というし、(伝説にあまり脚色されていない)近年の偉人の多くが、かなり好色であるということも思い起こされる。彼らは、高い地位に上り詰める前から、性的放縦や強い性的衝動を抱えている場合が多く、必ずしも高い地位にあることが性的冒険に精を出した理由ではなく、むしろ逆に、有り余る性的エネルギーを建設的な方向に変換できたことが成功の秘訣であったように思われる

次は、「女の序列」である。メスにとっての生殖の成功とは何だろうか。オスの場合は、より多くの、より強い子孫を残すことだと述べたけれど、この戦略目標は、メスには当てはまるようでいて当てはまらない。なぜなら、メスにとっての子孫とは、一義的には自分の子どもに他ならない。そして、自分が産む子供の数は、どんなに頑張ってもある程度以上にはならないことは自明だし、出産と子育てには多くのコストがかかる以上、単に多くの子どもを産めばいいという話ではない。だから、自然とメスにとっての生殖の目標は、「より多く、より強い子孫」というよりは、むしろ少数精鋭的なものになると考えられる。

さらに、オスと違って、メスの場合は、そう望みさえすれば自分の子孫を残すことができる。なぜなら、オスの戦略が「より多くの、より強い子孫」を残すことなので、オスの生殖行動は乱交的な面がある。つまり、直接的に言うと、交尾させてくれるなら誰でもいいというオスが存在する。だから、その質に拘らなければ、メスはいつでも交尾可能であり、オスと違って配偶者獲得には必死になる必要はないのだ。

このように書くと、先ほど「選ばれる方の性には序列が存在しないように思われる」と述べたように、あたかもメスは序列に関心がないかのように感じられるが、話はここからである。確かに、セイウチのような群れだと、メスに序列があるようには思えない。競争に勝った序列の高いオスが多くのメスを「所有」するハーレム式の群れを作るセイウチのメスには、基本的に序列を高めるメリットがない。しかし、ヒトの群れではもっと複雑である。女性には、ちゃんと序列を上げるメリットがあるのだ

それは、先ほど「メスにとっての生殖の戦略目標は、少数精鋭的なものだ」と述べたことと関係がある。ここでいう「少数精鋭」とは具体的に何を意味するかというと、自分の子供が「より多くの、より強い子孫を再生産する」ということである。つまり、女にとっての生殖の成功は、ある程度その子供の成功に依存する部分があるのだ。

なお、生殖の成功は子供の成功に依存するというロジックは、男にも当てはまるのではないかと思われる方もいるだろうが、男の生殖戦略は少数精鋭的なものになりにくい。なぜなら、男の場合は、配偶者との間に生まれた子供が自分の子供ではないというリスクが常に存在している。だから、特定の子供に(少数精鋭的に)コストを費やして、その子供が「より多くの、より強い子孫を再生産する」という生殖上の成功を収めたとしても、もしかしたらそれは自分の本当の子供ではないかもしれないのだ。そのリスクを回避するため、どうしても男の生殖戦略は乱交的、粗製濫造的になることになる。つまり、男の場合は、子供が生殖的に成功するかどうかをいちいちかまっているのはリスキーなのだ。それよりも、自分自身が「より多く、より強い」子孫を残せるように努力する方が理にかなっている。(もちろん、DNA鑑定の技術が確立している現代ではこのロジックは当てはまらないが、本稿は、人間生来の生き残り戦略について論じているので、狩猟採集社会での話だと理解してほしい)

さて、話を元に戻すと、女にとっての生殖の成功が、その子供の生殖の成功に依存する部分があるならば、女が取るべき有効な戦略は、端的に言えば「自分の子供が成功するように支援すること」である。もっと正確に言うと、「自分の子供、特に男の子を厚く支援すること」である。なぜなら、先ほど述べたように女は配偶者獲得に必死になる必要がなく、しかも出産できる子供の数には限界がある。要するに、女の子にはコストを掛けずに一定の生殖上の成功が期待できる一方で、いくらコストを掛けても、その成果(子孫の数)には限界がある。つまり、女の子への投資効率は男の子に比べて悪いのだ(これは、あくまでも狩猟採集社会での話であることに注意。現代社会で女の子への投資効率が低いとは思えない)。

では、母親が「男の子供を支援する」とは具体的には何を表しているのだろうか。もちろん、十分な食料を与えるであるとか、生きるための技術を与えるといったことも重要である。しかし、本稿の主題である「序列」も生殖とは相関している。序列が高い男がより多く、より魅力的な女を娶るチャンスがある以上、息子の「序列」を高めるように努力する母親の適応度(子孫の数)は、そうしない母親の適応度より高いだろう

そして、息子の「序列」を高める方法の一つとして、自分自身(母親)の序列を高めるという方法がある。つまり、自分が息子の後ろ盾になるということだ。

ここで、ボノボの社会を例に出そう。前回、ボノボの社会はチンパンジーに比べて競争的でないと述べたとおり、ボノボではオス同士の激しい競争はあまり見られない。しかし、やはり群れでの序列は存在しているのだが、この序列の決まり方がなかなか面白い。かなり多く観察される現象が、まず母親の序列が上がってから、息子の序列が上がる、ということなのだ。つまり、ボノボのオスの序列は、母親の後ろ盾にある程度依っているみたいなのだ。

この構造が、ヒトにも共通なのかどうか、厳密には証明できないけれど、私は、「母親は息子の序列を上げるために、自分の序列を上げたがる」ということは、歴史が証明しているのではないかと思うのだ(例えば、西太后)。ただし、同様に歴史が証明していることは、(息子より)娘をかわいがる母親も結構いるということなので、この仮説は物事の一面を表しているにすぎないことにも注意する必要がある。

なお、この考え方は、先ほど問題提起した「生殖能力を失った個体や特定の配偶者が「序列」を高めたがる理由」を生殖の観点から説明する。つまり、生殖の成功とは、自分自身の生殖の成功に限らないのだ。生殖能力を失った個体や既に特定の配偶者がいる個体にとっては、「より多くの、より強い子孫」を残そうというインセンティブは弱い。だから、男も女も少数精鋭的な戦略に傾く。つまり、今いる自分の子供(や親戚の子供)ができるだけ成功するように努力する。そういうわけで、自分の子供がより成功するように(男の子の場合は「序列」が高くなるように、女の子の場合は「序列」が高い男と「結婚」できるように)、自分自身の「序列」を高めるインセンティブが生じるのだ。

さて、女が自分の序列を高める安直な手段は、序列の高い男の妻になることである。だから、女はより序列の高い男に惹かれるのだと考えられる。先ほど、「男の序列」の説明の中で、「序列」にはそれ自体の価値もあると述べたのはこのことである。しかし、ここで留意する必要があるのは、女が男に対して求めるものは、基本的には「より多くの資源」であるということである。つまり、いくら序列が高い男でも第2婦人、第3婦人では、多くの資源を期待することができない。だから、序列が少々低い男でも、一夫一婦的な関係を保障する男の方が夫として魅力的な場合もある。そういうわけで、何度も強調している通り、序列と生殖との相関は弱いのだ。

ところで、女でも男でも、序列を上げる方法は具体的には何だろうか。霊長類以外の動物で考えると、単純に喧嘩が強いとか、体が大きいといったことが序列を決める要素になるので非常にわかりやすい。しかし、霊長類での序列はそんなに簡単には決まらない。特に、私は先ほど「序列」を「意志決定の優先順位」として定義づけておいたが、これは何により決定づけられるものだろうか。

先ほど、ボノボの場合はある程度母親の序列が息子の序列に影響していると述べたけれど、霊長類の順位はかなり複雑なシステムである。チンパンジーの群れの場合は、序列を決める大きな要因は誰を見方につけているか、ということであるように思われる。若いオスは技術(喧嘩の技術だけでなく、群れのメンバーの”心”を掴む技術)はないが戦いの体力はある。一方で、老獪なオスは、技術は高いが体力的には若いオスに劣る。例えば、この2匹が協力して、若く技術もある現体制のボスを倒すというようなことが、チンパンジーの群れでは起きる。つまり、チンパンジーの群れでは合従連衡がポイントなのだ。これを政治と言っても言い。

ヒトの群れでも同じである。「序列」が意志決定の優先順位ならば、「序列」を高めるためには、自分の意志に従ってくれる多くの人間、あるいは「群れ」での重要な人間を仲間にする必要がある。つまり、強力な後ろ盾を得た人間の序列は高まる。しかも、チンパンジーの場合は、結局は実力行使(つまり喧嘩)でボスが決まることが多いが、人間の場合、喧嘩のようなことで序列が決まる場合はほとんどない(子供とか、一部の暴力的な社会の場合だけだろう)。むしろ、後ろ盾の強力さだけで序列が決まってしまうことが多い。つまり、人間が「序列」を高めるには、政治力を高める必要があるのだ。もっと乱暴に言うと、人間社会における「序列」とは「政治」であり、我々は「序列」をある程度高めたいという本能的欲求を持っている以上、人間は生来政治的なのである。すなわち、ヒトは、ホモ・ポリティクスなのだ。

「ドラえもん」で、スネ夫がエラそうにしているのは、ジャイアン(群れのボス)の後ろ盾を(おもちゃやお菓子で)買っているからだが、これは人間の「序列」の本質を突いていると言えよう。なお、人間が生来政治的であるということは、様々な帰結をもたらすように思われる。例えば、我々が他人の対立を好むというのは、ゴシップ的興味の他に、政治的ニッチを得るチャンスとしての関心があるのではないかと考えられる(つまり、漁夫の利を得ようとしている、ということ)。ただ、このテーマは「序列」という範囲で扱える内容ではないし、私自身まだ整理できていない問題なので、考えがまとまってから書くこととしよう。

2010年5月9日日曜日

「群れ」の論理(5)不平等起源論

【要約】
  1. 本稿では、大型類人猿の群れを参考にしながら、人類の序列に対する本能的な姿勢がどういったものなのか、また、人間社会に存在する不平等がどのように説明されうるかを論じる。
  2. チンパンジーの群れは、人間社会に比べより競争的だ。チンパンジーでは群れでの「序列」と生殖可能性がかなり相関しているため、「序列」が生殖の上での死活問題だからだ。人間の場合は、序列が低くても子孫を残せる可能性が少なからずあるため、ボスになろうと必死になる必要はない。
  3. とはいえ、ヒトは「狩りをするサル」である。「狩り」のように高い協調性を求められる活動を行うにはボスがいた方がよいため、人間にとって群れでの序列は重要でないが、やはりボスは必要である。
  4. しかし、狩猟採集の社会では、ボスになることにあまりウマ味がないため、ボスになりたがる個体が現れない可能性がある。そんな事態を防ぐために、「ボスになる利益があまりない状況でも、ボスになりたがる」という個体が、一定割合遺伝的に存在しているのかもしれない。
  5. さらに、ボスであることに大きな利益がある場合でも、ほとんどの個体はボスになれないため、当然多くの個体は「ボスではない状態」に適応しているはずであり、ヒトは、「序列が低い状態を甘受できる」ように進化したはずだ。そして、「ボスになれそうな時にだけボスになりたがる」という戦略を持ってい るのではないだろうか。
  6. 他の動物では、「群れ」の序列を上げることに絶対的価値があるため、不平等な状態が恒常的に続くような群れの構造は持続できない。一方、人間社会の場合は、不平等状態を受け入れることが出来、体制に対して本能的に保守的であるため、ボスの「政権」が長続きし、格差が拡大してしまうのだ。つまり逆説的だが、人間は序列に対する執着が弱いために、他の動物には見られないほどの不平等な(序列的な)社会を作り上げたのだ。
  7. なお、ボノボの群れでも序列と交尾との相関が弱いため、ボスを巡る争いはそんなに激しくなく、群れでは序列や優劣よりも、平等性のほうが強調されている。
  8. ヒトの社会も、狩猟採集生活のうちは、序列に執着しないことは群れを協力的に保つことに役立っていた。しかし、ヒトが定住社会に移行した際、富の蓄積はボスであることのウマ味を大きくした。それでも、本能的に体制是認的である多くの個体は序列を甘受するという行動を続けてしまい、その帰結として、人間社会は他の動物には見られないほどの不平等なものとなったのだろう。

我々の社会は、なぜこんなにも不平等なのだろうか。ほとんど何もせずに巨万の富を自由にできる人間がいる一方で、必死に働いても生きる為の最低水準の食事ですら得られない人間もいる。遠い国の話ではなく、一つのコミュニティの中にすらそういう不平等は存在する。不平等は、人類の本性なのだろうか。

こういう社会は、人類がそもそもそういう本性を持っているために避けられないものなのだろうか。別の言い方をすると、人間社会がこんなに競争的で、序列が厳しいのは、本能のためなのだろうか

もちろん、階級制という意味での序列は文明の産物であり、本能から導けるものではないだろうが、序列(上下関係)という発想自体は、本能に根ざすものと考えても差し支えないだろう。そこで本稿では、人類の序列に対する本能的な姿勢がどういったものなのか、また、その姿勢によって、人間社会に存在する不平等がどのように説明されうるかを論じたい。

まず、人類の序列に対する本能的な姿勢は、ある程度祖先であるサルから受け継いだ部分があると推測できる。そこで、人間の祖先であるサルがどういった形態の「群れ」を作っていたのかが重要だけれども、これはまだよくわかっていないため、蓋然性の高いことを何も言うことができない。そこで、現代に生きる我々の親戚である大型類人猿の群れを参考にしながら、狩猟採集するサルだった人類の原初状態を想像してみることとしたい。

例えば、チンパンジーの群れでは、ボスの座を巡るオスの競争はかなり激しい。人間社会での出世競争より激しいくらいである。理由は次の通りだ。チンパンジーの場合、メスが発情している(交尾可能で、妊娠可能性がある)期間が極めて短いことから、発情メスの価値が極めて高い。そこで、そういうメスと交尾できる権利は、需要と供給の関係から非常に「高額」なものとなる。現実的には、チンパンジーの群れではボスだけが全てのメスと交尾するわけではなくて、ある程度ボスの目を盗んだ交尾も行われるのだが、それでもボスは(潜在的に)発情メスを我が物にする権利を持っているし、序列の低い猿はメスと交尾できる可能性は低い。これは、自分の子孫を残せない可能性が高いということだから、ボスでいることの価値は極めて高く、序列が下でいることの不利益は非常に大きい。つまり、人間社会のように、「会社では万年平社員だけど、家庭では幸せで子供もたくさんいる」というようなことはチンパンジーではありえない。簡単に言うと、群れでの序列と子孫を残せる可能性がかなり相関しているチンパンジーの社会では、群れでの序列が死活問題なのだ

そして、チンパンジーの群れでの序列のシステムは、彼らが作り上げた文化ではなく、生物の仕組み上避けられないものだ。だから、チンパンジーのオスは、「自分の序列を上げたい」という、非常に強い衝動を抱えているはずだ。序列を上げることはかなりコストがかかるが、彼らは、そいうコストをものともせず、群れの序列を上げることにエネルギーを費やす。

人の「群れ」、つまり人間社会では、ここまで社会は競争的ではない。私は以前、人間社会では「群れ」と「家族」が一致しないから、人間は「群れ」と「家族」に引き裂かれると述べたけれど、この面では、「群れ」と「家族」が一致しないことには高い価値がある。なぜなら、「群れ」での序列が低い個体でも、子孫を残せる可能性が少なからずあるからだ。チンパンジーのような「群れ」=「家族」の社会ではこうは行かない。

とはいえ、人の社会にも「群れ」の序列が本能的に存在することは確実だ。なぜなら、むしろ人の方がチンパンジーよりも、誰かが「群れ」を率いていくことの必要性は高いからだ。その理由は、人が「狩りをするサル」であるからだ。「狩り」のように高い協調性を求められる活動を行うためには、指示命令系統が明確である必要がある。もちろん、人が「狩りをするサル」になった人類の曙の段階から「指示命令」などということができたとは思えないが、少なくとも、意志決定の中心が存在している必要があったはずだ。

また、例え「狩り」をしなかったとしても、(少なくとも野生状態では)「群れ」には「ボス」がいた方がいいことが多い。例えば、「群れ」の移動のタイミングを決めるといった、「群れ」に関する意志決定がボスに一本化されていた方が、意志決定のためのコスト(現代風に言えば、「争議」するコスト)が少なくて済む。ただし、全個体に「序列」があったほうがいいのかどうかは、一概には言えない。(「群れ」に関する意志決定をするだけなら、「ボス」が一人いればいい。)

ここまでの議論で、二つの重要な、そしてある意味で矛盾する次の二点が提示された。

(1)人の「群れ」での序列は生殖可能性との相関が低いので、チンパンジーのような過酷な競争は存在せず、人の序列はあまり厳しくない。
(2)しかし、人が「狩りをするサル」である以上、「群れ」の中には「ボス」が必要である。

なぜこの二つが「ある意味で矛盾する」かというと、(1)は、「人間にとって群れでの序列は重要でない」と言っているのに、(2)では、「でも人間にはボスは必要だ」と言っているからだ。ここで当然、群れでの序列が重要でないなら、誰も「ボス」を目指さないのではないか? という疑問が生じる。なぜなら、「ボス」であることは、ちょっと考えただけでもかなりコストがかかる話だ。例えば、うまく食料が確保できなかった時の責任を負わなくてはいけない。群れがどこにいつ移動するのか、どういう狩りを行うかということがボスの責任で行われるのなら、水の乏しい所や果実の乏しい所に群れを移動させてしまったり、大勢で出かけた狩りで何も仕留められなかったりした時、それはボスの責任になるだろう。いわば、狩猟採集の社会でボスになるということは、まるでPTAの会長をやらされるようなもので、あまりウマ味はない割には、責任は重大なのだ。

そこで予想される人間の性質は、「ボスになる利益があまりない状況でも、ボスになりたがる個体がいる」ということだ。繰り返すが、動物界においてボスになる利益は通常かなり高い。すなわち、最も魅力的な(あるいは多くの)メスと交尾できて多くの子孫を残せるということだ。逆に言えば、序列の低いオスは、完全に子孫を残せないわけではないが、生殖の可能性はかなり減る。だから、例えばチンパンジーのような動物では「群れ」の中での序列闘争は非常に激しい。でもヒトではどうだろう。確かに、一部の社会ではボス(例えば酋長)が多くの妻を娶る社会もある。しかし、そういう社会は人類全体からいってごく一部だ。普通は、「ボス」であっても、ナンバー2であっても、生殖可能性には大した違いはない。もちろん、序列のものすごく下の方(例えば、現代風に言えばホームレスとか)の個体の生殖可能性は低いから、序列が全く重要でないというわけではない。ここで主張したいのは、「ボス」でもナンバー2でも(そしてナンバー3でも)、大して生殖可能性に違いがないなら、誰がボスになりたがるんだろうか、という点である。現実の世界でも、ボス(社長)よりナンバー2(専務理事あたり?)の方が楽しく生きてることって、よくある状況だ。だから、確かに序列がものすごく下の方になりたくないのは当然だが、ある程度上の方の序列にいるなら、それ以上序列を上げる必要はないのではないか?

そして、みんながそう考えると、結局「ボス」になりたいやつがいなくなってしまう! 集団にとって、ボスがいないことはかなり不便で、特に「狩り」のような、意志決定が重要な「事業」をする場合にはそうだ。「ボス」のなり手がいないと狩猟生活が成り立たないはずなので、人間は、どうにかして「ボス」のなり手が自然に供給される手段を発達させたはずだ。その手段として私が推測しているのが、先ほど述べた「ボスになる利益があまりない状況でも、ボスになりたがる個体がいる」ということだ。

もちろん、全ての人間がそういう性質を持っているという可能性もある。しかし、全ての個体があまり価値のない「ボス」の座を争っているような生物が繁栄するとは思えないし、仮にそういう生物がいたとしても、その生き方は進化的に安定な戦略ではない。なぜなら、そんな社会の中では、みんなが価値の低い「ボス」の座を争っている間に、魅力的なメスと(みんなの目を盗んで)交尾する「漁夫の利」のような戦略が最適戦略になると思われるからだ。

だから、「ボスになる利益があまりない状況でも、ボスになりたがる」性質を持つのは一部の個体だけでいいのだ。なお、「じゃあどんな個体がこういう性質を持っているのか?」という疑問が生じるが、これはおそらく「生まれつきそういう個体がいる」というのが一つの合理的な考えかただろう。なぜなら、ボスになろうがなるまいが、ある程度の序列以上ならば適応度(残す子孫の数)に違いがないのなら、ボスになりたがる性質は進化的に広まらない。こういう、適応度に影響を及ぼさない突然変異を進化的に中立であるという。ボスになりたがるという性質が進化的に中立かどうかは証明されていないことだが、そう考えるにはある程度の合理性がある。なぜなら、ボスになることで適応度が上がる一方、不合理なほどの野心は身を滅ぼすこともあるため、プラスとマイナスが打ち消し合う可能性もあるからだ(証明はできないけど)。

この主張を簡単な言葉で言えば、「お山の大将になりたがるのは生まれつき」だということだ。

なお、「ボスにはウマ味がない、という仮定は非現実的ではないか?」という疑問もあるかと思う。しかし、私は、「ボスにはウマ味がないことある」と言っているだけで、「ボスには常にウマ味がない」と主張したいわけではない。当然、ボスであることに利益(ウマ味)がある場合だってある。その場合、当然の帰結として、ヒトは「ウマ味がある場合はボスになりたがる」性質を進化させたはずだ。こういう性質を、我々は持っているのかもしれない。

しかし、ある程度「群れ」での序列を上げようとすることは人間のサガであろうと思われるが、みんなが「ボス」になりたがるというのは、ちょっと現実的ではないと思う。現代の社会を見ても、みんなが社長を目指しているのかというと、そんなことはない。とはいえ、「それは、社長になれる見込みがないから理性的に考えて諦めているだけだ。本能的には、みんなボスになりたいはずだ」という反論もあるだろう。

でも、ちょっと考えてみて欲しい。ヒトの原始状態での社会は、比較的小さな(30~100人くらいの)集団(バンド)で構成されていたと考えられるけれども、それでもボスになれるのは一部の人間だけになる。逆に言えば、ほとんどの個体はボスになれない。「本能的には」みんながボスになりたいのであれば、その「ほとんどの個体」は、常に強いストレスに晒されることになる。なぜなら、「本能的には」ボスになりたいのに、それがどうしても実現できないという状況が続くからだ。本能からの要求を実行できないというのは、だいたい生物にとってかなり強いストレスの原因だ。食欲、性欲、睡眠欲の不充足は言うに及ばす、運動不足だってかなり強いストレスの原因になる(飼い犬を散歩させないとどうなるか?)。そして、ストレスは体調不良の原因になる。つまり、ボスになれないことをいちいちストレスに感じてしまうと、その個体にとってあまり良いことがない

だからヒトは、「自分はボスでなくてもまあいいや」と考える方が現実に即している。なぜなら、繰り返すが、ほとんどの人間はボスにはなれないし、なったとしても、そんなに大きな利益があるわけじゃないからだ。(これは、あくまでも狩猟採集社会に限定した話であることに注意してほしい。現代社会ではボスであることの利益は大きい。)

もう一歩この話を進めると、重要な帰結が得られる。すなわち、「ヒトは、序列が高くない状態を甘受できる」ということだ。なぜなら、ほとんどの人間がボスになれないのだから、当然ながら進化途上の人間のほとんどはボスではなかった。ならば、当然「ボスではない状態」に適応していてしかるべきだからだ。もちろん、「家族」=「群れ」の生物、例えばチンパンジーなどでは、先述のように「群れ」での序列は死活問題だから、そんなことは起こらない。人間は、「家族」と「群れ」が一致しないからこそ、ボスでなくてもいいという状態が生じたのだ。

ここで、人間は仮にボスになることのウマ味(利益)が大きい場合でも、みんながボスになりたがるわけではない、ということが示唆される。人間は、基本的にボスでない状態に適応しているからだ。では、どういう時に人はボスになりたがるのかというと、先ほどのように「生まれつき」ということも考えられるが、それよりありそうなのは、「ボスになれそうな時にだけボスになりたがる」ということだ。

この戦略を持つ個体は、なれない可能性が高いボスの座を巡って高望みの争いをすることもないし、ボスになれそうな時はそのチャンスを逃さずに済む。人間は「ボスでない状態」に適応しているはずだと述べたが、この戦略は、実際の世界で繰り広げられる権力闘争とともに、権力に縁も関心もない多く人間の存在を同時に説明することができる。さらに、この戦略は、先ほど仮説として提示した、「ボスになる利益があまりない状況でも、ボスになりたがる個体がいる」ということとも矛盾しない。なぜなら、ボスになる利益があまりない状況であれば、ボスになろうとする個体が少ないはずだ。逆に言えば、ボスになれる可能性が大きい状況であると考えられるため、この状況下では、「ボスになれそうな時だけボスになりたがる」戦略を持つ個体は、少しでもその利益があればボスになろうとするだろう。

話を整理するため、ここまでをまとめてみよう。
(1)人の「群れ」での序列は生殖可能性との相関が低いので、チンパンジーのような過酷な競争は存在せず、人の序列はあまり厳しくない。
(2)しかし、人が「狩りをするサル」である以上、「群れ」の中には「ボス」が必要である。
(3)だから、ボスになるウマ味がない場合でも、ボスになりたがる個体がいるだろう。
(4)問題は、ボスになるウマ味がある場合だ。この場合も、多くの個体は結局ボスにはなれないため、人間は「ボスでない状態」に適応しているだろう。
(5)そして人間は、「ボスになれそうな時にだけボスになりたがる」という戦略を持っているだろう。

重要なこととして、(4)の洞察は、逆説的なようだけれど、人間社会がなぜこんなにも不平等なのかということをある程度説明する。人間の社会は、動物の社会に比べて極端に序列が激しく、不平等である。例えば、極端に序列が低い「奴隷」という個体は、動物の社会では見られない。なぜ動物ではありえないほどの不平等が人間社会に存在するかということは、一つの理由だけでは説明できないが、その一因として、そもそも「人間は不平等を甘受できるように進化したからだ」ということがあるのではないか。(その他の原因については、別の機会に述べる。)

つまりこういうことだ。他の動物では、「群れ」の序列を上げることに絶対的価値があるため、「低い序列では満足できない」ような本能が備わっているはずだ。だから、あまりに不平等な状態が恒常的に続くような群れの構造は、持続可能ではない。もっと正確に言うと、序列争いが十分に競争的なら(カルテルを結ぶなどがなければ)、常に新たな挑戦者がボスの地位を狙う下剋上状態が続くため、ボスの座は安定的ではないはずだ。そのため、恒常的な不平等状態を続けることはできず、ある程度の期間でボスが入れ替わっていく社会にならざるをえない。一方、人間社会の場合は、先ほど述べたように不平等状態を受け入れることが出来るので、ボスの「政権」は長続きする傾向があると考えられる。言葉を換えて言えば、人間は体制に対して、本能的に保守的である、ということだ。その結果、序列が固定化された状態が恒常的に続くことになる。序列の固定化は、いうまでもなく格差の拡大を招く。そのために、人間社会では、動物ではありえないほどの不平等が存在することになる。そして、そのような不平等状態が続いても、格差是正のための行動を起こす人間は極めて少ない。さらには、権力闘争はあくまでも「ボスになれそうな個体」の間でしか起こらないため、上の序列の個体間の争いとなる。その争いは、下剋上ではなくて、体制という秩序の中での新陳代謝にすぎないものだろう。「ボスになれそうな時にだけボスになりたがる」という戦略は、ミクロ(個人)のレベルで考えれば合理的なのだが、結局のところ体制是認的にならざるを得ないため、不平等な状態を維持する方向に働いてしまうのだ。こうして、人間は序列に対する執着が弱いために、逆に他の動物には見られないほどの不平等な(序列的な)社会を作り上げることになった。

この仮説が正しいとすれば、有史以来最大級の皮肉だろう。ヒトはもともと序列に厳しくなかったということが、不平等な社会を実現してしまう遠因になるのだから。

ここでまた動物の事例を出したい。大型霊長類では序列を巡る争いは激しい、ということを仄めかしながらここまで説明したが、実はボノボにはそれは当てはまらない。ボノボの群れは乱交性であり、ボスがメスを総取りする格好ではなく、序列と交尾との相関は弱い。ここでは詳しく説明しないが、ボノボは性を群れを協力的に保つ戦略を進化させた結果、極めて多くの交尾や疑似交尾が行われるようになったため、年中交尾しているようなサル(ape)なのだ。よって、ヒトの場合と同じように、「ボスであることのウマ味があまりない」という状態になっている。ボスを巡る競争はあるにはあるが、チンパンジーのように熾烈ではない。また、群れの中では、序列や優劣が問題になる場合ですら、「尻つけ」と呼ばれる疑似交尾の一種を行うなどして対等性を確認し、序列や優劣を曖昧にして決着を図ることが多い。序列を明確にするためにはある程度の肉体的争いが不可避だが、怪我を負うリスクがあるのに序列により得られるメリットが少ないならば、序列を曖昧にしておいて群れの中では仲良くした方がよいからだ。

ヒトの社会も、その黎明において、ボノボのように、序列よりも平等性を重視する社会だっただろう。群れでの序列にあまり価値がないのであれば、序列は曖昧にしている方が群れを協力的に保つのに便利だからだ。なぜなら、序列が厳しい社会では、序列が上のメンバーの裏をかくこと(裏切り)が合理的な戦略となる場合が多いと考えられるため、群れのメンバー間による協力行動が十分に発達しない。以前述べたように、「協力する社会」は「協力しない社会」よりも大きな利益を得られるから、「序列に厳しい群れ」は「序列に執着しない群れ」との競争に負けて淘汰されただろう。だから、ヒトの社会は黎明においては、おそらく「序列に執着しない群れ」だったと思われるのだ。

なお、しばしば「狩猟採集社会だったから人は平等だった」と言われるけれども、食料採集社会であるチンパンジー社会がとても平等とはいえないことから、狩猟採集と平等性は結びつかない。むしろ、ボスであることのウマ味がないという「群れ」と「家族」が一致しない人間社会の構造が、平等性の演出に役立ったと言えるだろう。

人が狩猟採集しながら移動生活を続けているうちは、人間社会は名実ともに「序列よりも平等性」だったと思われるが、定住社会ではこういう序列への姿勢は裏目に出たと思われる。定住社会の出現は、人類の最大の不幸であろう

なぜ定住社会では「序列よりも平等」という姿勢が裏目に出たと思われるかというと、定住社会が富を蓄積するからである。「ボスであることのウマ味がない」ということを、先ほどは生殖のレベルで説明したが、移動性の狩猟採集社会では、ほとんど富の蓄積が起こらないために生殖可能性に相違が生じないのである。定住社会では、蓄積された富が全部ボスの手に入るとなれば、ボスであることのウマ味は大きい。その富(例えば食料)でより多くの家族を養えるから多くの妻を娶ることができるし、(一夫一妻制の下でも)多くの子供を養える。

本来、ヒトの「群れ」ではボスであることは大きな価値はなく、だからこそ多くの個体は体制是認的であったのだった。しかし、定住社会においては、ボスであることの価値は大きくなってしまったのだ。それなのに、本能的に体制是認的である多くの個体は、序列を甘受するという行動を続けてしまった。その帰結として、人間社会には他の動物には見られないほどの不平等が存在することになったのだ。さらに、体制是認的であることは、人間の群れが巨大化するための条件でもあったのではないかと思われる。群れが巨大化するということは、ボスになれるチャンスを減らし、より多くの上位個体の下に生きるということだ。だから、「ボスではない状態」に適応しているという体制是認的な本能を持つ生物でなければ、かくも巨大な「群れ」=国家を存立させることは出来なかったに違いない。

定住社会(そして、ほぼセットで語られる農耕)がもたらした数々の「不幸」については、別の機会に述べることとして、ここでは、冒頭の問題提起をもう一度振り返って全体のまとめとしたい。人間社会がこんなに競争的で、序列が厳しいのは、本能のためなのだろうかという問いに対する私の答えは、次の通りだ。

ヒトは、原初状態では、ボスであることの利益は大きくなく、本能的には体制是認的であったはずだ。定住社会が出現した際、その性質が裏目に出て、巨大な権力を握るボスの存在を許してしまった。だから、人間社会に不正なほどの不平等が存在するのは、ヒトが本能的に競争的であることに原因があるのではなく、あまりに競争的でなく、偽りの平等性の中で序列を曖昧にしてしまう本能にこそ原因があるのだ。つまり、繰り返しになるが、大きな不平等の原因は、「あまり序列に執着しない」という狩猟採集時代に適応していた序列への姿勢を未だに続けているということにあるのだ。

なお、「奴隷」や「差別」については、実は「群れ」での序列というよりも、「群れ」と「群れ」の争いの結果として生じるものである。上述の議論の途中で、なぜ人間社会には「奴隷」のように極端に低い序列に固定化された個体がいるのだろうか、という問題提起をしたけれど、これは「群れ」の論理の説明例としては若干不適切である。「奴隷」や「差別」は、通常民族問題と関わっていて、被征服民族が征服民族から受けるものだ。つまり、「群れ」同士の争いの敗者が「奴隷」になったり、差別を受けたりするのであって、これは「群れ」の中の論理ではなく、集団間の論理で説明しなくてはならない。また、「奴隷」の発生には農耕文化の誕生と深いかかわりがあるため、単に集団間の論理だけで説明できるものでもない。これについては、またいずれ論じたいと思う。

【参考文献】
人間は不平等を受け入れることができる、という知見は、進化考古学(認知考古学とも言う)に負っている。進化考古学とは聞きなれない分野だが、概括的な解説ではないもののこの分野の紹介として、最近「進化考古学の大冒険」(松木武彦著)という手軽な本が出た。進化考古学がどんな世界かを知るにはよい本だ(が、「大冒険」というほどのことは書いていない)。
この分野のより本格的な紹介は、スティーヴン・マイズンの「心の先史時代」(松浦俊輔、牧野美佐緒訳)だろう。進化心理学の発展を眺めながら、進化考古学について深く知ることが出来る。