【要約】
- 近代的な意味での戦争が生まれたのは、農耕社会以降である。なぜなら、狩猟採集社会においては、攻める方にも応戦する方にも戦う理由があまり無いからだ。農耕社会においては、蓄積された資産、守るべき食料と土地があり、戦争するインセンティブが存在したために、近代的な意味での戦争が生まれた。人類史的には、戦争はごく最近の現象であるために、戦争は放棄できると主張する人もいる。
- 農耕社会での戦争のインセンティブとして、具体的には飢餓がある。飢餓は戦争の原因として普遍的だが、それより本質的な理由として、農耕という生産方法が人間にとって非常に退屈であったために、単純作業を奴隷にやらせたいという欲求があったことがあるのではないか。
- 奴隷の存在から、階級制が生じる。階級制誕生の原因は、農耕における仕事が単純で退屈だということが大きいのではないか。 人間本性には元来合致しない「労働」を必要とする社会を作り上げたため、階級制が生まれたのだ。
- また、個人のレベルでは必ずしも利益にならない戦争に群れのメンバーを参加させるために、戦争を正当化する思想が生まれただろう。これは、19世紀以降の近代的戦争にも当てはまる。
- 戦争がなくならない理由の一つは、人間の倫理観は、あくまでも群れの内部を友好的・協力的に保つために進化したものであり、群れの外の人間には適用されないものだということだ。だから、戦争の抑止のためには、全ての国家が共通の利害を何かしら持つことが必要だが、これは現実的には困難だ。
- 二つ目の理由は、戦争は旧い社会秩序の破壊に役立つということだ。人間社会の大多数は、かなり秩序が安定してしまっているが、そのような社会は人間本性に反している部分があるため、脆弱となり、新興勢力に滅ぼされてしまう可能性が高い。戦争は、停滞した社会が活力を取り戻す手法の一つであり、必要悪だ。
- その意味で、戦争を撲滅させたいのであれば、戦争に代わる社会秩序の破壊法を見出さなくてはならないと思われる。
私は以前、農耕社会において相続がなされていったことが階級制誕生のきっかけであったと述べた。今回は、戦争という観点から階級制の創出について考え、また、戦争そのものの持つ意味を考えてみたい。
さて、以前、狩猟採集社会でも戦争はあったが、それは近代的な意味での戦争ではなかったと述べた。近代的な意味での戦争が生まれたのは、農耕社会以降の話であって、戦争というのは、人類史的にはごく最近の現象なのだ。
なぜかというと、狩猟採集社会においては、他集団から略奪できるものがあまりないということと、その時の居住地に固執する理由もないため、仮に敵から攻めて来られても、単に逃げればよいからだ。だから、攻める方にも攻撃の理由があまりないし、攻められる方にも応戦する理由があまりない。だから、狩猟採集社会においては、集団間の争いという意味での戦争はあったけれど、大規模な資源の略奪としての戦争は存在しなかった。
一方、農耕社会においては、富の蓄積が組織的に行われているし、軽々に移動できないような資産(例えば、灌漑設備、大きな家屋)もある。だから、それらを略奪するインセンティブがあるわけだ。そして、攻められる方も自分たちの資産を必死で守る必要がある。土地を奪われることは、農耕民族にとって死活問題だし、仮に土地を守れたとしても、備蓄していた食料を奪われると次の収穫の時期まで人々は飢えなくてはいけない。
だから、攻撃にも応戦にもインセンティブがあるのだ。これが農耕社会において戦争が生まれた理由である。そして、この主張は考古学的証拠により支持される。大量の武器(矢尻、投石機など)と戦いによって死んだ多数の人骨は、農耕社会出現以降、大雑把に言って7000年前から6000年前くらいから出土するようになる。だから、人間はその黎明から現代までのほとんどの期間、戦争というような状態を経験したことがなかった。集団間の暴力というものはサルの時代からあっただろうが、組織的かつ計画的な、大量の虐殺と略奪という意味での戦争が人類史に登場するのは、つい最近のことなのだ。
人は、弓矢や投石といった殺傷能力の高い武器を開発し、動物としての能力を遥かに超えた攻撃力を持つようになった。だから、人間本性(human nature)が戦争を志向していないということではなく、単に、そういった技術革新が、人間本性が持つ攻撃性を拡大しただけだ、という考え方もあるかもしれない。確かに、以前述べたように、ヒトは他の肉食動物が持つような、同族に対する攻撃性の本能的な制御機構を持っていない。これは、戦争というむごたらしい行為を可能にする理由の一つではある。しかし、事実人類は、数百万年にサル(ape)からヒトとなる道を歩み始めた時から、戦争などというものを経験してこなかったのであって、戦争が人間本性に立脚する行動であるとは言えないというのが私の考えである。
そのため、ある人は、戦争は必ず放棄できると主張する。いつの日か、人間は「昔は、戦争という組織的な争いがあってね」というような昔話をする日が来るだろうというのだ。確かに、国際連盟や国際連合の取り組みは、必ずしもうまくいったとは言えないが、一つの進歩なのは確かだ。しかし、私はその見方は少しナイーブすぎるのではないかと思う。
その理由について述べる前に、農耕社会における戦争についてもう少し深く考えてみたい。先程、農耕社会においては、「攻撃する方にも応戦する方にもインセンティブがある」と述べた。しかし、応戦する方のインセンティブは当然だが、攻撃する方のインセンティブは本質的にはどんなところにあっただろうか。もちろん、うまくすれば大きな富を一時にして得ることができるが、そのためには仲間の犠牲もある程度は覚悟しなくてはいけない。費用と便益を天秤にかけたとき、果たして戦争は得になるのだろうか? 人間は自分が死ぬ可能性があっても、他の集団の富を収奪しようとするのだろうか。
つまり、戦争というコストのかかる行為をするためには、大きな利益が期待できるだけではなくて、それがやむにやまれずに行われるものである必要があるのではないだろうか。例えば、そういう理由として考えられるものは、飢餓である。農耕社会においては、計画的に食料を生産するため、その計画が狂った時の修正が大問題になる。欠乏をすぐに補う方法がないからだ。例えば、不作の時、次の収穫時までの食料が絶対的に足りないという状況になったらどうするか? 何もしなければ、群れのメンバーの幾許かは餓死してしまうということが明確な食料の備蓄量だったとき、あなたが群れのボスだったらどうするだろうか?
対処方法の一つは、別の群れから食料を奪うというものだろう。これは十分に戦争の理由になるのではないかと思う。事実、そういう理由で起こった争いも多かったに違いない。歴史的には、他集団の大規模な侵略は大きな気候変動と連動するように起こっているが、これは飢餓が戦争を起こす要因として大きいことを示している。例えば、ゲルマン人の移動やモンゴル人のシナ地方への侵略は、地球規模の寒冷化による飢餓がその要因の一つに挙げられている。飢餓は戦争の原因として最も普遍的なものであることは間違いない。ただ、私は、農耕社会で戦争が出現した原因が他にも考えられるのではないかと思う。
既に述べたように、農耕という生産方法は、人間本性にとって、非常に退屈な作業であったに違いなく、できれば、単純作業から開放されたいという強い欲求が生じたに違いない。つまり、農耕は奴隷を欲したのである。狩猟採集社会においては、通常は奴隷のような存在は見つからない。狩猟社会では、単純労働はあまりないし、そもそも群れのサイズを大きくすると、一人あたりの生産高は減ってしまう。一方、農耕社会は費用低減的であるので、大規模に耕作を行うことが得になる。だから、退屈な農作業は奴隷にやらせようというわけだ。
そう、奴隷を獲得するために戦争を行うのである。実際、農耕社会以前においては、奴隷のような人間はいなかったと考えられている。飢餓が戦争の大きな理由であることは否定しないが、奴隷の獲得もかなり重要な戦争の動機だったのではないだろうか。戦争で獲得した奴隷を労働力として使うことで、農耕社会はより発展しただろう。そして、親世代のもつ資産(これは、有形無形のいろいろなものを含む)を子供世代が相続するという人類特有の行動と相俟って、階級制が誕生したのである。つまり、階級制は、そもそも農耕における仕事が単純で退屈だということが大きな原因であるように思えるのだ。農耕社会において、仕事は「労働」になった。一方、狩猟採集における仕事は大変なものではあっても、単純さや退屈さはあまりない。それらは、探求やスリルなど、我々の人間本性が求めるものを提供してくれる側面もあるからだ。つまり、我々が、人間本性には元来合致しない「労働」を必要とする社会を作り上げてしまったが為に、階級制が生まれたのだ。
ただし、先程の問いに戻って考えてみると、戦争を行うには群れのメンバーに危険を強いることが必要だったわけだが、奴隷獲得のためという理由はその動機として十分であろうか。飢餓状態では、人はやむにやまれず戦いに繰り出しただろう。だが、労働力の確保というような目的で、人は危険を犯して戦争などしただろうか。
私は、必ずしも奴隷獲得は自らを危険にさらす強い動機にはならないと思う。しかし、前回議論したように、農耕社会において成立した「善悪の概念」が、こういった場合に生きてきただろう。つまり、思想的に戦争が正当化されたのではないかということだ。そして、個人のレベルでは必ずしも得にならない戦争に、参加させられた大勢の人間がいたのではないだろうか。
そう考える理由として、多くの神話には戦争が描かれているということがある。神話は、過去の歴史、民族の思想を伝えるものであり、未来への指針ともなるものである。現代に残っている神話に、戦争のことがよく出てくるのはなぜならのだろうか。一つは、戦争という記憶が大変に強烈なものだったということがあるだろう。しかし、それだけでなく、神話は群れのメンバーに戦争を正当化する理由を与えたのではないだろうか。もっと言えば、群れにとって戦争を善とする思想が形成されたのだ。
これは、19世紀以降の戦争にも言えることである。19世紀以前の戦争、特に封建社会における戦争には、善悪の概念はない。なぜなら、戦争は利益のために行うものであり、封建領主との契約や相互依存関係に基づいて、その利益は参加者たる戦士階級や傭兵に分配されたからである。こういう形で戦争が行われる限り、戦争は利益を生むことこそ必要だが、善である必要はない。しかし、19世紀以降の戦争においては、より大規模化したことで、国民全員を動員することが必要になった。実際には戦争に勝利しても利益を得ることがない一般国民を戦争に動員するには、思想的にまとめ上げるしかなく、善のための戦争を掲げざるを得なかった。なお、私は、これが国民国家(nation state)が生まれた背景として重要ではないかと思っている。
このことは、古代社会の戦争においても言えたのではないだろうか。戦士階級や傭兵といった階級が未分化だった時、戦争は群れ全員を巻き込むようなものだったはずだ。その際、人類は、本質的には利害を共有していない群れの大多数を戦争に駆り出すため、その思想を統一する必要に迫られたと考えられる。これは、もちろん前回の主張と同等なので詳しくは述べないけれども、古代思想のある部分は、利害を実際には共有していない群れのメンバーを仮想的に利害関係者に仕立て上げる機能を有していたのではないだろうか。
さて、次に、なぜ戦争はなくならないかという点について考えてみたい。先程挙げた戦争が起きる理由は、実際に争いが起きる理由のごく一部ではあるが、現代社会においては克服不能なものではないように見える。飢餓や労働力の確保は、戦争によって解決する方が、現代では高くつくだろう。しかし、やはり戦争は簡単にはなくならないだろう。
一つ目の理由は、人間の倫理観は、あくまでも群れの内部を友好的・協力的に保つために進化したものであり、群れの外の人間には適用されないものだということだ。群れと群れの利害が対立しているとき、他の群れのメンバーへ利他的行為をすべき理由は何もない。人間の倫理観は、あくまでも仲間内だけに適用されるものなのだ。だから、他の群れのメンバーには著しく不利益になるような行為でも、自分の利益になる行為ならば、人間はそれを行うであろう。
戦争を防止するという観点で考えると、そのように人間が行動しないためには、群れと群れの間に共通の利害関係を作ることが重要である。その方法の一つとして、以前述べたように婚姻関係を結ぶということが考えられる。群れ同士を親戚にしてしまうのだ。もちろん、この方法は群れのサイズが大きくなってくると使えなくなる。だから、農耕社会においては、このような方法よりも、交易関係を結ぶといったような方法で共通の利害を構成したであろう。これは、近代社会においても同様であり、国家間の友好のためには、通常は軍事的に不可侵条約を結ぶ必要はなくて、特別に対立する状況になければ、通商の自由化など、貿易拡大で十分であると考えられている。
この観点で現代における戦争の抑止を考えると、全ての国家が共通の利害を何かしら持っている状態が必要だということだ。しかし、これは実際かなり難しい課題である。グローバル化により、国家間の相互依存関係はかなり進んできたけれども、すべての国家が何らかの意味で相互依存することは、不可能でないにしろ、極めて困難であろう。先程、貿易拡大を進めることは国家間の友好に効果的だと述べたけど、貿易においては、利害が対立する場合もかなり多い。そういった利害を超えて、複数国があたかも一つのコミュニティを成すような共通の利害関係を作るのは、 現実的でない。我々は群れの外の人間に対しては冷淡なのだ。これは、いつになっても変わらないだろう。
二つ目の理由は、こちらの方が本質的であると思うのだが、戦争は旧い社会秩序の破壊に役立つということである。これまで縷々説明したように、人間社会は一貫して安定化する方向に変化してきた。その結果、現代においては社会の安定性は非常に高くなっており、社会秩序は非常に強固になってしまっている。一方で、人間本性は適度な不確実性や流動性を前提として進化しているように思われる。なぜなら、社会秩序が強固な、例えば厳しい階級制が存在している社会は、そうでない社会よりも停滞しがちだし、そこにいる人間の満足度が高いようには思えない。
やはり、人間にとって自然なのは、ある程度頻繁にボスが入れ替わっていくことであり、そして、潜在的に誰にもボスになる可能性が存在している状態なのであろう。しかし、そのような下剋上を許す社会は持続的に発展することができない。だから、人間社会の大多数は、かなり静的な構造のものとなってしまった。だが、そのような高度に安定的な社会はいずれ脆弱となり、新興勢力に滅ぼされてしまう可能性が高い。もちろん、滅ぼされた側の大多数の人間にとって、そのような敗北は耐え難いことであろう。しかし、そうなることで、旧い社会秩序の下で虐げられてた者や弱い者、抑圧されていた者などが、新しいパラダイムの中で活力を得たこともあるのではないだろうか。
人間の抱えるジレンマの一つが、極度に安定的な社会秩序であるとすれば、それを破壊しうる戦争は、必要悪とみなせないだろうか。もちろん、戦争などというコストのかかるものは無いに越したことはない。しかし、もし戦争がなければ、旧い社会秩序がいつまでも温存され、相当に社会が停滞するように思われる。そして、そのような安定的な社会は、戦争の存在する社会との競争には勝てそうにない。
その意味で、戦争を撲滅させたいのであれば、戦争に代わる社会秩序の破壊法を見出さなくてはならないと思われる。20世紀にアメリカが大きく発展したのは、地政学的な要因はもちろんのこと、移民という社会秩序の破壊要因を積極的に受け入れたからという側面もあったように思われる。管理できるやり方で社会秩序を破壊していく方法を見つけることができなければ、人間社会が戦争なしに人々に幸福を与え続けていくことは不可能であるように思うが、どうだろうか。
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