前節においては、人間には生まれつきの道徳的直観が備わっているが、それは数万年前までの社会で身につけたものであるため、時代遅れの部分があると指摘した。倫理は時代や地域によって様々であるように見えるが、人間社会の倫理とは、全て基本的には小集団での狩猟採集生活における倫理が基盤になっているのである。都市では数百万人が暮らし、1日あれば世界のほとんどの国に行くことができ、地球の裏側の出来事がインターネットで個人中継されるような現代世界の倫理が、基本的には狩猟採集生活におけるそれだというのは、驚きではないか?
もちろん、人類という存在自体が、時代遅れのデバイスを使った最新機器のようなものだ。我々の脳は、コンピュータを使うために進化したのではないし、我々の耳は眼鏡を掛けるためにあるのではない。我々は、狩猟採集生活をしていた頃から基本的に体の機構を変えていないのであり、文明社会は、実は我々にとってなじみのない環境なのだ。この認識は、これからの倫理を考える上でも非常に重要なものである。
倫理について考える以上、我々はいかに生きるべきか、社会はどうあるべきか、ということを考えざるを得ない。これは、単なる個人や社会の抱負としてだけではなく、人間のクローンや捕鯨といった新たな社会的課題に対して何らかの答えを出すという現実的な課題として重要である。つまり、我々は「これからの社会正義としての倫理」を考える必要があるのであり、ヒュームがいうように、その際には人間性を深く理解しなくてはならないのである。
私は、これから人間本性(human nature)としての「倫理」を、出来る範囲でスケッチしていこうと思う。それにより、倫理とはどういうものなのかをまずは明確にしたい。そしてその上で、「これからの社会正義としての倫理」について私なりに提案してみたいと思う。それは、時代遅れのデバイスを使った最新機器である人間が、どうやってその時代遅れの部分と現代社会との矛盾を調停するかという問題への解答でもあるはずだ。
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