2011年1月28日金曜日

【善と悪】社会から独立した普遍的倫理など存在しない

倫理感覚は第三者的なものであるということについて、もう少し述べておきたい。

倫理感覚が第三者的であるということは、「正義は第三者が決める」ということではない。もちろん、対立する人間の調停は第三者でないと困難なので、例えば裁判官のような第三者に裁いてもらうというのが法治国家の正義のあり方だが、ここでいいたいことはそのことではない。

むしろ、倫理感覚は「自分の中にいる第三者の目」であるということだ。つまり、「社会の他の人であればこのことをどう考えるだろう?」という、他者の心をシミュレートする感覚なのだ。他者の心をシミュレートする能力は、ごく一部の大型霊長類を除けば、あらゆる生物の中で人間しか持っていない能力だし、人間のように洗練された高度なシミュレート能力を持っている生物は、大型霊長類にもいない。

他者の心を自らの心の中にシミュレート(再現)するとはどういうことだろうか。例えばこんな実験がある。被験者は、まず次のような様子を見せられる。ある人(Aさんとする)が現れて、お菓子を棚の中に隠す。Aさんが退場した後、別の人がやってきて、棚の中に入ったお菓子を見つけて箱の中に隠してしまう。そして、被験者に「Aさんがお菓子を取りに戻ってきたら、どこを探しますか?」と聞く、というものだ。

当然、正しい答えは「棚の中」である。しかし、認知能力が発達していない子供(2歳児)は、「箱の中!」と答えてしまう。お菓子が箱の中にあるという「事実」と、Aさんが心の中で思っている「信念(belief)」を混同してしまうのだ。(なお、この「信念」という言葉は倫理学/哲学用語で、一般に「あの人は信念がある人だ」というように使う信念のことではない。「人がもっているある考え」くらいに理解してもらえればよい。)

この実験は、他人の心を自分の心の中に再現するという、我々がごく当たり前にやっていることをわかりやすく示すものだ。さて、「Aさんはお菓子が棚の中にあると思っている」のように他人の心をシミュレートすることを、ここでは「第1段階のシミュレート」と呼ぶことにしよう。

次に、「「Aさんはお菓子が棚の中にあると思っている」とBさんは信じている」のように、他人の心をシミュレートする人の心をシミュレートすることを「第2段階のシミュレート」と呼ぶことにしよう。同様に、第3段階、第4段階のシミュレートを定義することができる。

さて、人間はどれくらいの段階のシミュレートまで出来るだろうか。これまでの研究によれば、だいたい5段階くらいまでが限界だそうだ。5段階というと、「Aさんはお菓子が棚の中にあると思っている、とBさんは信じている、とCさんは考えていることを、Bさんは予想している、ということをAさんは知っている」というような状態を人間は理解することができるというわけだ。

私は正直、上の文で表されている状況を頭に思い描くことは難しいのだが、平均的に3段階くらいまでなら容易に思い描くことができるのではないかと思う。

さて、なぜ人間はこのような他人の心を何段階にもわたってシミュレートする能力を獲得したのだろうか?

答えはおそらく単純だ。群れ(社会)を構築して生きなければならなかった人類においては、群れの他のメンバーが何を考えているのかということは重要な戦略的な情報だったのだ。他人の心を読むことに長けた個体はより成功しただろうし、他人の心を読むことがヘタだった個体は繁栄できなかっただろう。

これは、既に触れた運転ゲーム的状況を考えるだけでも分かる。運転ゲームにおいては、各プレイヤーが「共有知」を持っていることでナッシュ均衡を実現する戦略を容易に選択することができた訳だが、その「共有知」をもう一度正確に述べるとこうなる。

「ゲームが過去にある戦略で均衡を実現してきたことをプレイヤーが知っていて、また双方のプレイヤーがそのことを知っている、ということを双方が知っていて、かつそのこと(双方がそのことを知っているということを双方が知っているということ)を双方が知っている場合、それを「共有知」という。」

かなりややこしく、一読しただけでは文意がつかみにくいが、要は互いに相手の手の内を知っている、ということを双方が知っているという場合に「共有知」が存在するといえるのだ。ちなみにこれは、3段階のシミュレートにあたる情報である。

そして、運転ゲームならずとも、他者がどういう行動を取るか予想することの出来る人間は、あらゆるゲームにおいてより大きな利得を得ることができることは容易に分かる。

さて、近代西洋哲学においては、デカルト(1596-1650)の「我思う、ゆえに我あり」という言葉に代表されるように、「合理的個人」を全ての出発点としてきたが、少なくとも倫理に関する限り、やはりこれは幻想だったということだ。

世界にたった一人しか存在しないとしたら、いかなる倫理も生じ得ないことはすぐにわかるだろう。現実の個人は社会(コミュニティ)の中で生きているのであり、コミュニティの価値観(共有知)を基軸にして行動しなくては、コミュニティの利益を毀損するのみならず、自己の利益の最大化をすることも出来ない。これが自由主義を批判するところのコミュニタリアリズム(communitarianism、共同体主義)の要諦である。

倫理感覚は、基本的に自らの適応度を高めるための装置であると考えられているが、より具体的に言えば、「社会の中での自他の行動の規矩(許容範囲)を定める」ものである。すなわち、倫理を考える際には、カントが想定するような「合理的個人」ではなく、個人が埋め込まれているところの「社会」に目を向けなくてはならない。

倫理感覚は第三者的なものである、ということは、その第三者がどういう人間であるかが重要なのだ。すなわち、第三者(もちろん当事者も)が所属する社会がどういうものであるかが重要であるということだ。従来の倫理学において、この視点があまりにも軽視されてきたと私は考える。

遊牧生活をする社会には「遊牧の倫理」があるし、工業化社会には「工業化社会の倫理」がある。長子相続の社会には「長子相続の倫理」があるし、貧しい社会には「貧しい社会の倫理」があるはずなのだ。

これからの倫理を構想するためには、どのような社会における倫理なのか、ということをまずは考えなくてはならない。社会から独立した、普遍的倫理の体系など存在しない。もちろん、人を理由なく殺してはならない、というような道徳的直観的は普遍的である。しかし、道徳的直観のみで倫理の体系全体を導出できると考えるのはナイーブすぎるだろう。


ところで、コミュニタリアリズムなどといっても、日本人にはなかなかピンと来ない。何しろ、日本人には独立自尊の「合理的個人」などというものがほとんど成立せず、普通の人は常に共同体の一部であったため、「コミュニタリアリズムなどと、今更何を偉そうに言っているのだろう」という印象を持つからだ。これは極めて当然であり、私自身、コミュニタリアリズムにあまり魅力を感じない。コミュニタリアリズムは、出発点としての視座に過ぎないのではないか。

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