2011年1月20日木曜日

【善と悪】社会慣習のゲーム

ごく簡単に、ゲーム理論とは何かを一通り説明しておきたい。

まず、ゲーム理論の対象はもちろん「ゲーム」であるわけだが、ここでいうゲームは当然ビデオゲームのようなものではなく、チェスやポーカーのようなゲーム、あるいは外交や日常生活における行動選択なども含む幅広い概念である。

具体的には、ゲーム理論でいうゲームは3つの要素から構成されているものをいう。第Ⅰにゲームを行うプレイヤー、第2にプレイヤーが取り得る戦略(戦略というと大げさだが、選択肢くらいに考えてもらった方がよい)、第3にプレイヤーがそれぞれの戦略に従って行動したときに得られる利得、である。

次に、重要な前提があって、それは各プレイヤーは合理的に行動するということと、それぞれのプレイヤーは他のプレイヤーが合理的に行動するということも知っている、ということである。

おおざっぱに言えば、これらの要素から構成されたゲームにおいて、プレイヤーが自分の利得を最大化するためにどういう戦略を取るかということを分析するのがゲーム理論である。少し注意してもらいたいのは、ゲーム理論はゲームの必勝法を考える学問ではないということだ。もちろん、その草創期ではゲーム理論の研究はゲームの必勝法を考察することも重要であったが、今ではそれはゲーム理論の主たる目的ではない。

さて、具体的に簡単なゲームを考察してみよう。【表1】をご覧いただきたい。これは俗に運転ゲーム(Driving Game)と呼ばれるものの利得表である。先ほど、ゲームは3つの要素から構成されると述べたが、各プレイヤーの選択が独立に行われる(つまり、同時であったり相談したりしない)場合は、このように利得表だけを示せばゲームの内容は分かるので、このような利得表がよくゲームを表すことに使われる。


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【表1】運転ゲームの利得表

このゲームがどういう状況を表しているかというと、自動車で道路の右側を走るか左側を走るかという選択を2人のプレイヤーがしていると理解してもらいたい。2人とも右を走れば、2人とも快適に走ることができる(世界には、2人のプレイヤーしかいないということにする)。だが、1人が右、1人が左を走ると、対向した時に正面衝突してしまうので、利得はない。この状況を、プレイヤーAの利得を右側、プレイヤーBの利得を左側にして(a, b)という行列の形に表し、それぞれのプレイヤーの戦略をAは行で、Bは列で表したのが【表1】である。

さて、合理的なプレイヤーなら、この状況でどのような選択を行うであろうか? つまり、右を走るだろうか、それとも左を走るだろうか?

2人の取る戦略も簡略化のために、(A, B)というように行列で表すのだが、この状況で合理的なプレイヤーが希望するのは(右, 右)あるいは(左, 左)という戦略のペアである。つまり、両方が右か、両方が左を選ぶ場合である。相手が右を走ると分かっていたら自分も右を走った方がいいし、相手が左を走ると分かっていたら自分も左を走った方がよい。

このように、互いが互いの戦略に対する最適な戦略をとる組み合わせを、ナッシュ均衡(Nash Equilibrium)という。これは、ナッシュ均衡等のゲーム理論の精緻化に大きく貢献した数学者のジョン・ナッシュ(1928-)の研究に基づいてそう呼ばれている。

さて、両方が右か左のどちらかを走るのが合理的だというのは当然だが、事前に相手が右を走るのか左を走るのか全く情報がない場合はどうすればよいのだろうか? 言い換えると、相手が右と左を等確率で走ると想定される場合は、どうすればよいのだろうか?

結論を先に言うと、自分も50%の確率で右と左を走るという戦略をとることが合理的であり、しかもこれもナッシュ均衡になることが分かっている。50%の確率で右、50%の確率で左を走る、というような戦略は確率的に自分の行動を変えるということであり不思議な気がするが、例えばサイコロを振って、偶数が出たら右を走る、というような戦略を想定してもらいたい。

このような確率的な挙動を行う戦略は、右を走るとか左を走るといった純粋な戦略の組み合わせで出来ているので、「混合戦略」という。ちなみに、単一の行動を取る戦略(右を走る、など)は、混合戦略と区別して使いたいときは「純粋戦略」という。

ジョン・ナッシュが証明したのは、混合戦略まで含めれば、【表1】で表されるようなゲーム(プレイヤーが有限のゲーム)には少なくとも一つのナッシュ均衡がある、ということだった(正確には、プレイヤー同士が話しあいなどをしない(非協力)という条件の下で、プレイヤーの利得の和が【表1】のように常に同じとは限らない、という状況においてそれを示した)。

さて、数学的に証明することは割愛するが、運転ゲームには3つのナッシュ均衡がある。そのうち2つは、(右, 右)、(左, 左)という純粋戦略の組み合わせ、そしてもう1つは、互いが右と左を等確率で走るという混合戦略の組み合わせである。前者の均衡の場合は、プレイヤーはそれぞれ1の利得を得ることができるが、後者の均衡の場合は、確率1/2で(右, 左)か(左, 右)になってしまうので、期待利得は(1/2, 1/2)である。

だから、前者の均衡は効率的だが、後者の均衡は非効率的である(あるいは、「病的な」均衡ともいう)。誰も、道路の右か左を走ることを確率的に選びたい人はいない。いくら自由主義的で政府は個人の選択に関与すべきでないと考える人も、やはり、道路はどちらを走るべきかちゃんと決まっている社会の方が好ましいと思うだろう。

道路のどちらを走るかということは、一見倫理とは関係がないように思えるが、人間社会はこのようなマッチングに関する選択に溢れている。例えば、日本では玄関で靴を脱ぐが、欧米では脱がない。もし、日本式の家に来た人が靴を脱がなかったら亭主は不愉快だし、欧米式の家を訪問した人が玄関で靴を脱いだら亭主は面食らうだろう。こういう、「社会慣習に従う」というゲームは、【表1】のような利得表として表せるはずだ。

すなわち、双方が社会の慣習に従うと双方が利益を得、どちらかが慣習に従わないと双方が利益を得られないのだ。そのため、人間は社会慣習に従うという本能を持ったのであろう。つまり、長いものに巻かれるという行動は、社会の利益になるため進化したと考えられるのだ。

このような、社会慣習がゲーム的状況でどのように成立するかという問題は米国の哲学者デイヴィド・ルイス(1941-2001)によって哲学的意味合いが分析された。先ほどは「相手が右を走ると分かっていたら自分も右を走った方がいいし、相手が左を走ると分かっていたら自分も左を走った方がよい」と述べたが、これについてルイスの分析のさわりだけを紹介しておこう。

先ほど「相手が右を走ると分かっていたら自分も右を走った方がよい」と書いたが、「相手が右を走ると分かっている」という状況はどういう場合だろうか。例えば、相手はあなたが左を走るかもしれないと思っているとしよう。その場合、相手は左を選ぶだろう(右を選ぶと利得は得られないので)。だから、相手が右を確実に選択するためには、相手はあなたが右を選ぶだろうということを想定している必要がある。

つまり、相手が右を選ぶということをあなたは知っていて、それを相手も知っている、という状態でなくてはならない。しかも、互いにそういう状態でなくてはならない。社会慣習のようなこういった共有された知識をルイスは「共有知(common knowledge)」と呼んだ。共有知がある状況だと、運転ゲーム型のゲームにおいてプレイヤーは容易にナッシュ均衡を選ぶことができるのだ。

しかし、ルイスの知見で重要なことは、「共有知があるとみんなの利得が高まるんです」ということではない。共有知により選ばれる均衡は任意のものであり、どこかの均衡に正当性があるということではない、ということを示したということにあるだろう。例えば、道路の右を走るか左を走るかということは、どちらが優れているとか、どちらに正当性があるとかいうことはできない。ただ、文化的あるいは歴史的に共有知が形成されたからにすぎない。

つまり、運転ゲーム的状況を考えると、社会慣習の多くには根源的正当性は存在しないということなのだ。例えば、先ほどの運転ゲームは利得が対象(右側通行でも左側通行でも同じ)だったが、非対称だとどうだろうか。【表2】の利得表をご覧いただきたい。

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【表2】非対象な運転ゲームの利得表

この利得表が表すのは、右側通行の方が互いにとって利得が大きいということである。例えば、スウェーデンではかつて日本と同じように左側通行だったが、右側通行の他の欧州圏との相互乗り入れの利便性を考え、一夜にして右側通行に変わったことがある。この場合、右側通行にする方が、社会が得る利得が高かったということだろう。

しかし、左側通行という「共有知」が存在している限り、右側通行の均衡に移ることはできない。(右, 右)という戦略の組も(左, 左)という戦略の組も同様にナッシュ均衡だが、(左, 左)については効率的ではないにもかかわらず、その組が「共有知」になっているとき、人々はより効率的な均衡を選ぶことができないのだ。

例えば、初対面の人の名前を氏(ファミリーネーム)で呼ぶか、名(ファーストネーム)で呼ぶかということは一つの社会慣習のゲームである。米国のように名で呼ぶところでは、氏で呼ぶと距離を取られているように感じるし、日本では初対面で名で呼ぶことは非常識である。仮に、(社会の親近感が増すということで)名で呼ぶことによる利益の方が大きいと分かっていたとしても、日本ではこの社会慣習のゲームの均衡を(氏, 氏)から(名, 名)に移すことは難しいだろう。初対面では氏で呼ぶという共有知を一度破棄して、初対面でも名で呼ぶという共有知をゼロから構築することはほとんど不可能のように見える。

つまり、共有知があるために、社会慣習のゲームで人々は容易にナッシュ均衡の戦略の組を選ぶことができるが、逆にそのためにより効率的な均衡(社会の状態)を選ぶことができないという事態が生じるのだ。すなわち、社会慣習に従うということは、局所的(ミクロ的)に見れば合理的な選択だが、大局的(マクロ的)に見たときにそれが合理的(個人の利得を最大化する)かどうかは分からないということになる。

ところで、社会慣習に従うということは、果たして倫理的な問題なのだろうか? 例えば、知り合いに挨拶をするとか、道路交通法を守るとか、電車の中では携帯電話を使わないといったことは、倫理的な問題なのだろうか? これまでの話の流れからすると、社会慣習に従うということは別段倫理的問題ではないように思える。社会慣習自体が善や悪と関係ない次元で成立している共有知に基づいているものだからだ。

しかし実際は、社会慣習への違反は、倫理的問題として捉えられることが多い。例えば、初対面の人を名で呼べば眉を顰められるし、極めて共同体としてのつながりが強いコミュニティなどでは、家の前を十分に掃除しなかったとか、ゴミの分別をきちんとしなかったというようなことで強い非難を受けることがある。さらに極端な例でいうと、宝くじが当たったのに、それを独り占めしたことでコミュニティにおける信用を失う場合だってあるのだ(臨時的・偶然的な利得をコミュニティでシェアするという共有知からの乖離)。

なぜ、このような社会慣習への違反が厳しく罰せられる必要があるのだろうか? 社会慣習への違反を厳しく罰する根拠は何なのだろうか? 例えば、右側通行なのか左側通行なのかという問題でいえば、この規約に違反するものがいれば周囲が大変な迷惑を蒙るので、道路交通法に違反するものを罰する意味は分かる。しかし、宝くじの賞金を独り占めする人の何が悪いのだろうか。

もちろん、宝くじの場合は資源の一人占めを許してしまうと、社会的不平等が助長されるという事情があるだろう。しかし、私が思うにそれよりも大きな理由がある。それは、社会慣習の違反を犯す者は、「(社会の他のメンバーが共有している)共有知を共有していない」可能性が高いということである。共有知を共有していない者が含まれている場合、運転ゲームにおける期待利得は低くなってしまう。そのために、我々は社会慣習に従わない者は、社会慣習を理解していないと見なして、社会から排除するという行動を進化させたのかもしれない。

もちろん、それは進化的には(つまり「適応度」を増やすと言う意味では)合理的な行動であるだろう。しかし、社会慣習に従うという行動が、いつの間にか倫理的な問題として認識されてしまうに至ったのではないかという認識は重要だと思う。

さらに、運転ゲーム的状況は社会慣習のみならず、社会的ルールについても同様に適応しうる。ここで社会的ルールというのは、平たく言えば「法」のことである。

人間は、社会的ルールを構築するほぼ唯一の生物である。大型霊長類の社会には、社会的ルールと呼べるものがあるのかもしれないが、それはまだ明確になっていない。今のところ、社会的ルールを持つ生物は人間だけだと言ってもいいだろう。

我々は、社会が一定のルールに基づいて運営されていることを当然のように感じているが、これは生物としては大変異例である。群れ(社会)を作る生物の世界では、基本的には本能に組み込まれたプログラムにより群れが運営されている。一方で、人間の場合は、そうしようと思えば任意の社会的ルールを作ることが可能だ。例えば、「大人」になるためには体中に傷をつけることに耐えなければならないとか、何かを創作したら著作権は創作者に帰属し他の人は創作物を勝手に使ってはいけない、というようなルールを任意に設定することが可能なのだ。

どうして、我々はこんなにも自由に社会的ルールを構築することができたのだろうか? 換言すれば、どうして、任意に設定した社会的ルールを群れ(社会)の構成メンバーに遵守させることができたのだろうか? つまり、社会的ルールを遵守するという人間の機能はどうして進化したのだろうか?

この問題に対する答えは、運転ゲーム的状況に限定すれば明らかだ。右側通行にするか、それとも左側通行にするか、という社会的ルールは、任意にどちらでも設定しうる。右である必然性はないし、左である必然性もない。しかし、社会的な権威がどちらかに設定し、社会の構成メンバーがそれを遵守すれば、その社会の構成メンバーはみんな利益を得ることができる。

逆に、社会的ルールに従うという性質を進化させなかった人類がいたとすれば、運転ゲーム的状況において右と左を等確率で走るという非効率なナッシュ均衡に落ち着かざるを得ず、ルールに従う人類との生存競争に負けてしまっただろう。

だから、人類は社会的ルールに従うと言う性質を進化的課程において身につけたに違いない。そして、先ほども述べたように、それは必ずしもルール化されていない社会慣習についても同じである。要は、社会慣習であれ、社会的ルールであれ、「社会の決まりごと」に従うことは得だったのだ(なお、この問題を分析したルイスは社会慣習や社会的ルールなどをまとめて、「社会規約(social convention)」という用語を使った)。

であるとすれば、社会の決まりを遵守するということは、自分と社会の利益のためであるということになる。逆に言えば、社会の決まりに違反することは、自分だけでなく社会の利益も損なうということだ。だから、社会の決まりに違反することは、多くの社会で悪だと見なされる。法律を破るのは悪人だし、決まりを守らない子供は「悪い子」なのだ。

しかし、社会の決まりを守るとか守らないということは、本当に倫理的な問題なのであろうか? もちろん、社会の利益に合致しないことは悪なのだ、という素朴な功利主義の下ではこれは倫理的な問題として捉えられる。しかし、私の考えでは、社会の決まりごとを遵守するという能力は、進化的にはかなり最近に獲得されたものなのではないかと思う。

なぜなら、任意に設定可能な社会的ルールを守るなどという行動は相当な認知能力を必要とするからだ(そもそも、ルールを任意に設定するというところからしてかなり高度だ)。本来、生得的な倫理機構は、移ろいやすい社会的ルールを遵守するための機能ではなくて、生物としての人間が群れ(社会)を営むための普遍的な原理を遵守するためのものであったはずだ。

例えば、既に紹介した次のような生得的直観を見てみよう。
【直観1】より大きな幸福をもたらすための、予見しうる相対的に小さな副作用は許される。
【直観2】仮に、より大きな幸福をもたらすためであれ、信念や欲望を持つ存在(人間や動物)を単なる「手段」として使うことは許されない。
倫理とはもともと、このような直観を生み出す機構として発達したものではないだろうか。【直観1】も【直観2】も、人間が営むあらゆる社会にある程度共有されている感覚であり、右側通行と左側通行のような任意に設定しうる社会的ルールとは異なる。

にもかかわらず、例えば人間や動物を単なる「手段」として使うことと、道路交通法違反を同様に倫理的問題として扱ってもよいのだろうか? 私の考えでは、本来の倫理機構はまずは普遍的な感覚として発達したのではないかと思っている。そしてその機構を「借用」して、社会の決まりごとを遵守するというような感覚が発達したのではないだろうか。

そのために、人間社会では普遍的な正義と文化的な正義が同じ「正義」という言葉の下に語られるようになってしまった。しかし、先ほど述べたように、運転ゲーム的状況を考えると、文化的正義には何の正当性もないのだ。このように、本来倫理的でなかったはずの課題を、倫理の応用問題として考えがちな我々人間の思考回路には問題があるのではないだろうか。そして、本来的な倫理の領域と、単なる社会の決まりごとの領域を峻別して考えることは、これからのあるべき倫理を構想する上で重要なことであろうと私は思う。

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