とはいうものの、不正というのは具体的に何なのだろう。どういった行動が本能的に不正だとみなされるのだろうか? 正直なところ、我々が何を不正と感じ、何を不正でないと感じるかということは、かなりの程度文化的な尺度で測っているらしい。
例えば、借りたものを返さないことがひどい不正だとされる社会もあれば、大抵のものは社会の共有物だと考えられている社会もある。つまり不正という感覚自体は生得的(親に教えられて不正を憎む心が生まれるのではない)だが、何を不正と見なすかは教育による部分が大きい。
倫理の基本構造はこのように、基本原則とその原則を運用するためのパラメータで成り立っているのではないかという説がある。基本原則は生得的なものであって、人間は生まれつき持っているとされる。そしてその原則を運用するためのパラメータというのは、文化的・歴史的に定まってきたものなのだ。例えば、【直観1】「より大きな幸福をもたらすための、予見しうる相対的に小さな副作用は許される。」というのは基本原則である。しかし、どの程度の副作用を「小さい」と見なすかは文化的・歴史的に決まるパラメータである。
例えば、現代の日本では、たとえ5人を救うためであれ、無実の1人を犠牲にすることはなかなか認められるものではない(トロッコ問題のような限界的な状況では認められうるが)。しかし、公害問題を思い出していただければ分かるように、つい数十年前は社会の発展のために数多くの犠牲を出すことを何とも思っていなかった時代もあった。
そういうわけで、何を不正と見なすかということはパラメータによるものなので生得的ではないが、不正を罰するというのは生得的な基本原則であろうというわけだ。
さて、ではなぜ不正を罰するという生得的な機構が進化したのであろうか? これは一見すると不思議である。なぜなら、不正を罰するにもコストがかかるからだ。不正を犯した相手から恨まれるかもしれないし、そもそも罰を与えること自体にかなりのコストがかかる。しかも、不正を罰するというのは仕返しではない。不利益を蒙った仕返しであれば、進化する理由は明白だ。仕返しをしない個体がいたとしたら、その個体は他の個体から「食い物」にされてしまう。自己の利益を防衛するのは生物として当然の反応機構なのだ。しかし、不正を罰するというのは違う。それは、第三者的な行動なのだ。
「第三者」という概念が、人間以外の生物でも成立しているのか、不勉強で知らないのだが、おそらく「第三者」という感覚を明確に持っているのは人間だけではないだろうか。他の生物だと、おそらく当事者以外のメンバーは、傍観者であるか、当事者との関係者(親類など)であるかであり、無関係でも事案に関わる(あるいは評論する)というような「第三者」は存在し得ないのではないかと思う。
基本的に、罰というものは第三者しか下すことができない。当事者だったらそれは単なる仕返しだからだ。もちろん、私的制裁としての罰はあり得るが、多くの近代社会では私的制裁自体が不公正であると見なされる。
だから、不正に対する罰というのは、第三者がコストを負担して実行しなければならないものなのだ。しかも、それで第三者が直接に得るものはない。こんな不思議な行動が進化したのはどういうわけだろう?
それを説明するために、一つのゲームを例に出したい。これは最後通牒ゲーム(ultimatum game)と呼ばれているものである。
慈善家からAさんへの100ドルの寄付の申し出があった。ただし、それはある条件の下で100ドルをBさんと分け合うことが条件になっている。その条件とは、Aさんが提案するBさんの取り分をBさんが承認することである。Aさんの提案は一回限りとし、もしBさんがその配分案を受け入れなければ、二人とも寄付はもらえない。こういう状況で、ゲーム理論が予測する合理的プレイヤーはどのように行動するだろうか。
例えば、Aさんが10ドルをBさんに提案したとしよう。100ドル中の10ドルは少ないが、もらえないよりはマシなので、Bさんが合理的であれば承認するに違いない。よって、Aさん90ドル、Bさん10ドルの利得を手にすることになる。
「もらえないよりはマシ」というのは、10ドルでなくとも1ドル以上の任意の配分についていえるはずだ。だからBさんは1ドル以上の任意の配分でAさんの提案を承認するはずである。よって、Aさんが合理的であれば、自分の利得を最大化するために、Aさん99ドル、Bさん1ドルという配分を提案するはずである(自分の利得を最大化するというのは、ゲーム理論が前提とするプレイヤーの性質である)。
ちなみに、このように時間をおいて各プレイヤーがその戦略を選択するゲームを表すには、【図1】のような樹形図を用いることが多い。各プレイヤーの利得は右端に表示されているが、Aが0ドルを提案してきた時以外は、Bは承認した方が利得が大きいので承認するに違いなく、Bが承認するならばAは最低限の提案(1ドル)をするであろうということが、この図を右側から左側へ遡っていくことで分かる。
【図1】最後通牒ゲームの展開形
しかし、実際にこのようなゲームを人にやってもらうという実験をすると、必ずしも結果はこのようにならない。実際には、少なすぎる(と思われる)配分が提案された場合はその配分を承認しないことがあるのだ。配分を承認しなければ、二人とも寄付をもらえないので損してしまうのだが、なぜこんなことになるのだろうか。
その理由として、少なすぎる配分を「不正」だと見なして、BさんがAさんを罰しているのではないかという説がある。この場合、罰のコストはAさんが提案したBさんの配分になる。Aさんが10ドルを提示したとし、それをBさんが承認しなければ、Bさんは10ドル損する(つまりコストを払う)ことになる。10ドルのコストを掛けて、Aさんの不正を罰しているというわけだ。
実際にこの実験をいろんな国や文化のところでやってみると、Aさんの提案の平均は50ドルに近い地域もあれば、30ドル未満になる地域もあり、先ほど述べたように、どの程度を不正と見なすかという問題は文化的なものであることを示している。しかし、少なすぎる配分では受け入れないということは普遍的に観察される事象なのだ。
さて、なぜわざわざコストを掛けて少ない配分を罰する必要があるのだろうか? 人間は合理的なゲームプレイヤーではないのだろうか?
その答えは、現実社会においてはゲームが一回限りのことはほとんどないということを考えれば分かる。現実社会においては、資源を持つと言う幸運に恵まれることはある程度ランダムであるため、あなたはあるときはAさんの立場に立てるかもしれないが、Bさんの立場になることもある。つまり、現実にはAさんとBさんの立場は固定的ではないのだ。
だから、最後通牒ゲームを何回も、しかも立場がある程度ランダムに入れ替わるという条件でゲームした時にどんな戦略が合理的(利得を最大化するか)ということを考える必要がある。かなりランダムに入れ替わる社会であれば、おそらく平等的な配分を取ることが合理的だろうし、ほとんどランダムさがない社会であれば(AとBの立場がほとんど入れ替わらない社会)、おそらくかなり不平等な配分を取ることが合理的になるだろう。
つまり、やはり不正(この場合、不公平な配分)をコストを掛けて罰するという行動は合理的なものであり、よって進化的に獲得されたものであると考えられるのだ。
しかし、先ほど罰は第三者が下すものだと述べたが、最後通牒ゲームの場合は当事者によるものではないのだろうか。つまり、これは罰ではなくて仕返しではないのか。
最後通牒ゲームにおいては、確かにBさんは当事者と思えるので、このゲームを第三者による罰の発生の根拠として使うのはいささか飛躍があるかもしれない。しかし、次の点でBさんは第三者的な性質を持っている。つまり、配分の提案権はAさんのみにあり、Bさんとは協議できないということである。「当事者」をどう定義するかにもよるが、配分の利害を共有しているだけでなく、当事者が意志決定にも関わる必要があるとしたら、Bさんは当事者とは言えないのではないか。
そう考えると、Aさんを個人、Bさんを社会全体の代表(第三者)と考えたゲームだと見なすことも不可能ではない。つまり、Aさんと寄付者が取引する時に、どの程度の税金を社会に差し出すかという問題だとみなすことも出来るのである。
ちなみに、そんな迂遠な考え方をしなくても、最後通牒ゲームに少し変更を加えて第三者による罰の普遍性を示すことが実験によりなされている。
この「修正版最後通牒ゲーム」では、AさんはBさんに配分案を示すところまでは最後通牒ゲームと同じだが、Bさんに拒否権はない。つまり、Aさんがどんな提案をしてきても、Bさんは受け入れざるを得ない。しかし、ここに第三者のCさんがいて、Aさんの配分案が不正だと思われる場合は、手持ちの利得(つまり所持金)を使ってAさんを罰することができるのだ。
この場合は、Cさんは完全な傍観者だ。Aさんを罰することはコストがかかるだけで、自分に得になることは何もない。それでも実験によると少なすぎる配分案には罰が下されることが分かっている。やはり、立場をランダムに入れ替えて何回も修正版最後通牒ゲームを繰り返すと、不公平な配分よりも公平な配分を実現する方が利得のバラツキを小さくし、利得が安定するという意味で合理的だからだ(生物は、ある利得以下になると死んでしまうので、利得が安定していることに価値がある。修正版でも元の最後通牒ゲームでも、罰を行わない方がプレイヤーの平均利得自体は高くなるのだが、利得の分散(バラツキ)は大きくなってしまうのだ)。
不正を罰するのは第三者の役割だ、ということは倫理を考える際に非常に重要な視点であると思われる。長い間、道徳は個人の「良心」の問題、つまり個人の内的な問題であると考えられてきた。しかし、道徳は、むしろ第三者による評価・評論なのではないだろうか。
人は当事者になったとき、自分の利益のみを最大化する方が自らの適応度を高めることは当然である。事実、修正版最後通牒ゲームの実証実験においても、人はCさんの役割になったときは不正な配分に罰を与える一方で、Aさんの役割になったときには、Cさんに罰されない範囲でなるべく多くの利得を得られる提案をするという行動を(平均的には)とる。
個体の成功は、結局自らの子孫の繁栄で測られるものであり、社会全体の繁栄で測られるものではない。だから、自分が当事者になったときは出来るだけ多くの利得を得ようとするのは生物として当然なのだ。だから、自分が当事者の時は道徳などにとらわれず、最も利得が高い選択肢を冷徹に選択する個体が繁栄するだろう。
しかし、社会(第三者)には、そのような個人の冷徹な行動を抑制するインセンティブ(理由)がある。なぜなら、個人が利得を最大化するような冷徹な行動を取ると、それに不利益を蒙るメンバーがいるかもしれず、そして、あるとき第三者であったとしても、自分がいつ不利益を蒙る立場に置かれるか分からないからだ。
だから、個人の利益を最大化する冷徹な行動を抑制するために、第三者的、評論家的な感覚として倫理は発達しただろう。そして、個人は当事者になったとき、「自分の行動を第三者・評論家が見たとき、どう評価するだろうか?」というシミュレーションをする必要が生じただろう(利己的な行為を考えなしにやってしまうと、罰されるかもしれないから)。
つまり倫理は内的な「良心」などではなく、まずもって第三者的・評論家的な感覚であり、その第三者的なるものを自己の心の内で「再現」し、自己の行動を第三者・評論家的に評価する感覚であろうと思われるのだ。
第三者的なものとして倫理を捉えなければならないということも、これからの倫理を構想する上で重要な視点であろうと思われる。つまり、当事者間にはどこにも正義はありえないのだ。全ては、それと独立に評論する第三者の手の中にしかないのである。それを、正義といえるかどうかはわからないにしても。
【参考文献】
ゲームの展開形表現については先日紹介したビンモアの教科書には出てこないので、もう一つゲーム理論の教科書を紹介しておく。武藤滋夫の「ゲーム理論入門」はゲーム理論を専門に勉強したいわけではないが、数学的なところもちょっと分かっておきたいという方に最適な本。証明などは書いていないが、雰囲気はつかめる。
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