2010年4月30日金曜日

「群れ」の論理(4)「怒り」を抱える居心地の悪さ

【要約】
  1. ライオン、オオカミなどの肉食動物は、同種間の争いが殺し合いに発展しないように、それが出たら戦いは終わり、という「降参」のサインを発達させている。
  2. ヒトは、「狩りをするサル」(肉食動物)であるが、「降参」した相手を許す、という行為は(残念ながら)ヒトの本能に組み込まれていない。つまり、人間は本能的には、「仲間を許す仕組み」を持っていない。
  3. この原因は、ヒトが狩猟生活に完全に適応しきれなかったことにあるのではないか。ヒトが狩猟生活を行うようになり、より攻撃性が増した際、「降参」のポーズなどを進化させてもおかしくなかったが、人間が実際に進化させたものは、「言語」であり「文化」だった。
  4. しかし、本能による謝罪と違い、言葉による謝罪には、それが行われると直ちに互いが友好的になるというような完成度はない。なぜなら、言葉は後天的に獲得するものだからだ。
  5. しかも、何が謝罪になるか、その謝罪で十分なのかということは、文化によって違う。そして、それはある程度、個人の性格にもよる。「謝罪」にも「許し」にも本能的定型スタイルは存在せず、「文化」と「個人」に任されている。
  6. 一方で、ヒトには仲間と仲良くするのが心地いいという本能があるため、「怒り」を抱えたままでいることは心地よくない。しかし、それを治める(本能的)方法が確立していないため、宙ぶらりんの気持ちに苦しむことになる。
  7. ただし、ここでの説明は少し極端で、人間が発達 させた「言語」・「文化」は、多くのケースで、「怒り」をコントロールし、サルの「毛づくろい」と同じように「群れ」を友好的に保つことに役立っている。

前回に引き続き、「人間は怒りをどうやってコントロールするのか」という問題について書く。

さて、これまで「怒り」などという感情的な言葉を使ってきたが、「怒り」というのは、主観的な用語であり、どれくらい怒っているのかということは本人しかわからないし、他人の感情と直接比較することはできない。さらに、「動物も怒るのかどうか」という問題は、(動物の脳波計測などで明らかになるかもしれないが)基本的には人間にはわからない。

そこで、「怒り」と意味するところは違うけれども、その現れの一つである「攻撃性」という用語を使うことにする。もちろん、「攻撃」が観察されたからといって、その個体が「怒って」いるとは限らないし、その逆もまたしかりである。しかし、人間のレベルでは、この二つを表面的に等質的なものと見なすのは許されるであろう。

さて、前回は、大型類人猿の世界で、群れを仲良く友好的に保つために「毛づくろい」がコミュニケーションの手段として使われているということを述べた。しかし、人間の場合に、「群れ」を仲良く友好的に保つ手段がどうなっているのかということについては、「毛づくろい」の代わりに「言語」がその役割を果たしているだろうとだけ指摘するに留めた。実は、人間のことについて語るためには、他のサル(apes)とヒトとの違いについて注目しなければならない。

それは、ヒトは大型類人猿の中で唯一、「狩りをするサル」であるということだ。他のサルは、基本的には採集型の生活をしており、主な食料は果実、草木、昆虫である。ヒトがなぜ「狩りをするサル」になったかという話は別の機会に詳細に述べたいと思うが、ヒトの主食はまずは、肉である。とすれば、大型類人猿の群れとヒトの群れとの比較は、それだけでは十分でない。むしろ比較すべきは、ライオン、オオカミなどの狩りをする動物の群れと比較してみなくてはならないだろう。

狩りをする動物には、大きな牙や鋭い爪などの武器を備えている。彼らは、もちろんそれを狩猟のために使うのだけれど、身体的に備わっている以上、同種間の争いにも使うことになる。同種間の争いとは、例えば、メスを巡る争いであったり、なわばりを巡る争いである。そうすると、彼らの争いは、その攻撃力が強いため、非常に危険なものになりがちだ。しばしば、彼らは同種間の争いで命を落とす。

しかし、一方が死に至ってしまう場合はそんなに多くはない。なぜなら、そうなる前に、「降参」するからだ。「降参」のサインを見せた相手には、もう攻撃は加えられない。それまでいかに激しく争っていようとも、一方が「降参」すれば、それで戦いは終わりである。おそらく、彼らの本能には、「降参」のサインを見ると攻撃のスイッチが切れるようなプログラムが組み込まれているようである。なお、具体的な「降参」のサインは、例えば、「腹側を見せて寝ころぶ」というような仕草である。

これは、彼らがその攻撃性をコントロールする手段を進化させたことを物語っている。もし、そういう手段を発達させなかったとしたらどうだろう。争いが起こった時、どちらかが死ぬまで戦い続けることになってしまうのではないか。一方が負けを認めたとしても、他方がそれにかまわず攻撃を加え続けることにならないか。

もしかすると、そこまで酷い話にはならないかもしれない。しかし、彼らにとっての「攻撃性」とは、半ば本能のシステムである。狩りや同種間の争いのため攻撃態勢にならなければならないときは、瞳孔が開き、血流が増し、多少の怪我にも動じなくなる。戦いのためのスイッチが入っているからだ。そのスイッチは、どこかで切れなくてはいけない。その合図が必要であり、それが「降参」のサインである。そのサインでしっかり矛を収めることができれば、勝負が決した後に余計な危険を冒さずに済む。

つまり、まとめると、狩りをする生物は、狩りのために発達させた攻撃性(爪や牙)を、必要以上に同種間に対して使うことがないように、その攻撃性を抑制する仕組みを発達させたということだ。

では、人間はどうだろう。人間をライオンやオオカミと比べるのは、いかにも不適切のように思えるけれど、「攻撃性」に関しては人間も同じ面がある。例えば、戦闘態勢になると、血中にアドレナリンが駆けめぐり、瞳孔が開き、血流が増し、手足が汗で湿り、緊張する。そして、戦いの最中には怪我の痛みをあまり感じなくなる。こういう特徴を持っているのは、人間が「狩り」をする生物だからだろう。オランウータンのような生物であれば、こういうシステムは必要ない。

では、「腹側を見せて寝そべる」サインのような、争いを収める「降参」の本能的サインは人間にもあるのか。

残念ながら、人間の場合、そういう本能的サインはないようだ。別の言葉で言えば、「降参」した相手を許す、という行為はヒトの本能に組み込まれたものではない。このことは、私にとってはかなり陰鬱なものである。

人類が社会的生物として進化した以上、同種間の争いをどう調停するかということは大問題だったはずである。同種間の争いを上手く調停できなければ、結局は集団全体の利益を失うことになるため、調停のための「本能的な」方法が進化したはずだ、と思いたくなる。もちろん、そういう方法に見えるものはある。例えば、我々は反省している時、許しを請いたい時、相手が勝ったと認めた時に、文化や宗教にかかわらずにする表情がある。うなだれ、目を伏せ、肩をすくめる。これは、人類が本能的に行う「降参」のサインとも言えなくはないしかし、それで「敵」が攻撃の矛を収めてくれるとは限らない。場合によっては、その攻撃性をなお一層高めることすらある。だから、そういう行為は、ライオンやオオカミでいう「降参」のサインではない。先述したように、彼らの「降参」とは、「その行為をすると、相手は強制的に攻撃をやめなくてはならない」ような、双方にとって本能的な仕組みだからだ。

このことが、私を陰鬱にさせる理由だ。前回、「多くの宗教が「人を許す」ことの重要性を説いているけれども、敢えて神や仏にいわれるまでもなく、「許し」が重要なことは誰しもわかっている。」と述べたが、それは、「理性的に考えれば、許しは重要だ」ということであって、人間は「本能的に許し合う動物」ではないということだからだ

また、前回は、人間は本能的に協力するのが好き、仲間と仲良くするのが好きだ、と書いた。しかし、上の議論を踏まえれば、同時に、人間は本能的には、「仲間を許す仕組み」を持っていないということだ。このことは非常に重要だ。

例えば、あなたがAさんと問題を抱えたとしよう。具体的には、異性関係のもつれでも何でもよいのだが、何かもめ事があって、結局Aさんから謝罪があったとする。もし、その謝罪が十分なものであれば、こういう時、「過去は水に流しましょう」とさっぱり争いを終える方が、互いの利益にかなっているように見える。しかし、実際はそうならないかもしれない。あなたはAさんに対して汚い言葉で罵るかもしれないし、(あまりないことだと信じたいが)気が済むまでAさんを殴るかもしれない。まだ、あなたがかなり陰湿な人なら、Aさんの持つ高級外車にキズをつけるかもしれない。そんなことをして何になるのだろう。答えは、何にもならない。あなたがAさんを「許す」ためには、そういう行為が必要だったということだけなのだ。(もしかしたら、それでもあなたはAさんを許さないかもしれないが。)

ここで言っている「許し」とは、もうそのことはいいよ、と放免することだけではない。気持ちの上でその争いを過去のものだと片づけることをも含む。もしこれが、ライオンやオオカミであれば、相手が「降参」のサインを出した瞬間、自らの攻撃性はスッと治まるだろう。感情的なわだかまりなどは、おそらく存在しない。しかし、あなたは、形式的にAさんを許すことになったとしても、あなたはいつまでもAさんのことを恨み続けるかもしれない。そういう恨みが続くなら、生物のレベルでいえばおそらく「許し」たことにはならないだろう。これは、人間が本能的に「仲間を許す仕組み」を持っていないからこそ起きる問題である。もしそういう仕組みがあれば、何かのサインをきっかけにその仕組みが発動し、あなたはきれいさっぱりAさんを許すことができるはずだ。

つまり、人間の「怒り」、「攻撃性」は本能的な終わりが設定されていないため、半永続的だ。たとえ一方からの謝罪があったとしても、ささいないざこざがずっと続いていく可能性があるということだ。おそらく、こんな生物はいないのではないか。 私は、この原因は、ヒトが狩猟生活に完全に適応しきれなかった、ということにあるのではないかと思っている

サルの場合を考えてみよう、彼らは、争いがあっても「毛づくろい」で仲直りできる。それは、形式的に仲良しを演じるということではなくて、「毛づくろい」している方もされている方も本当に慰安を感じ、仲良しの状態に戻るということだ。(しつこいようだが、本当の感情はサル本人(本猿?)にしかわからないが。)

おそらく、人間も最初はそういうやり方をしていたに違いない。それが、狩猟生活を行うようになって、より攻撃性が増し、「毛づくろい」のように時間がかかる相互の慰安では役に立たない場面も増えてきたはずだ。具体的には、例えば、突発的な争いで仲間を殺してしまうような場合があっただろう。そのため、本来は、一瞬でできる「降参」のポーズなどを進化させてもおかしくなかったし、普通の肉食動物ならばそういう仕組みを備えたはずだ。しかし、人間はそうならなかった。人間が実際に進化させたものは、前回も述べたように、「言語」であった。

「言語」は、「毛づくろい」に比べれば時間は掛からず、「降参」のポーズに比べても場合によっては短時間で済む。「ごめん。僕が悪かった」と言うだけなら、2秒かからない。相手が怒りに我を忘れて攻撃してきたとき、これなら和睦に役立ちそうだ。が、そうはならなかった。本来「降参」のポーズは、それを出されると、攻撃する側は、攻撃する気も失せてしまう、というもののはずだ。しかし、言葉による謝罪には、そんな完成度はない。なぜなら、言葉は後天的に獲得するものであり、個別の言葉、単語は本能に埋め込まれたものではないからだ(「文法」は、ある程度先天的だけれど)。

しかも、何が謝罪になるか、その謝罪で十分なのかということは、文化によって違う。辱めを受ければ、相手を殺すまで許さない、というような武士的な文化も存在する一方、汝の敵を愛せ、というような文化もある。 そして、それは文化のみならず、ある程度、個人の性格(寛容なタイプか、峻厳なタイプか、など)にもよることは許容されている。言葉を換えて言えば、「謝罪」にも「許し」にも本能的定型スタイルは存在せず、「文化」と「個人」に任されているということだ。

だから、前回も述べたように、おそらく他の動物ではありそうにない悩みを持つことになる。それは、先ほどの例でいえば、Aさんに対してあなたが怨恨を抱く一方、そういう自分自身を心地よく感じることができない、というような苦しみだ。先述したように、ヒトは「身近な人と信頼し合い、友好的な雰囲気を保ち、互いの利益を尊重している時の方が、居心地がよく、リラックスできる」ようにできている。これは本能である。しかし、 一度争いが起こったとき、どうしたら友好的な状態に戻れるかという方法は本能に組み込まれていないため、我々は、宙ぶらりんの気持ちを抱えることになるのである。「本当は、みんなと友好的にした方が自分にとっても心地いいのは分かっている。こんな気持ちを抱えながら生きていくのは面白くない。でも、あのことは許すことはできない。あんなやつらとは仲良くできない」という苦しみだ。

とはいえ、ここでの説明は少し極端すぎるかもしれない。実際の社会で起こるいざこざのほとんどはちゃんとした謝罪があれば、心の上でも解決してしまうような場合が多い。人間の場合は、本能的に定型化された「降参」のポーズはないのは確かだが、文化的に定型化された「謝罪の方法」なり「謝罪の礼儀」なりは多くの文化で存在し、そこに則って行われる「謝罪」は、それを受ける側にとっても十分なものと認識されている場合が多い。だから、人間が発達させた「言語」そして「文化」は、多くのケースで、「怒り」をコントロールし、サルの「毛づくろい」と同じように「群れ」を友好的に保つことに役立っている

しかし、それが本能的行動ではない、ということが私が主張したかったことである。つまり、「怒り」をコントロールする本能はない。それは、あくまで「文化」なのだ

なお、補足だが、本項で扱った争いについては、基本的に「群れ」の「中」での争いであることに留意することが必要である。「群れ」と「群れ」の争い、人間社会でいうところの「戦争」については、また別の論理が存在するので、それは別の機会に述べたいと思う。

2010年4月26日月曜日

「群れ」の論理(3)協力は打算ではない

【要約】
  1. 大型類人猿は、「群れ」を協力的に保つため、「毛づくろい」や「疑似交尾」をコミュニケーションの手段として使っており、「群れ」を協力的に保つことは、彼らの文化ではなく本能である。
  2. 人間も、「群れ」を協力的に保つことは、文化ではなくて本能であると考えられる。つまり、人間は生まれながらにして「協力するのが好き、仲間と仲良くするのが好き」なのだ。
  3. ちなみに、人間の場合は、「群れ」を協力的に保ち、仲間と仲良くするために、「毛づくろい」ではなく「言語」を使っている。
  4. 人間が本能的に「群れ」のメンバーと仲良くするのが好きならば、「許し」は打算的に行われるものではなく、どういう時に「許す」のかという判断は損得計算に依ることは出来ない。
  5. 「許し」のみならず、そもそも協力行動自体が打算的でなく、仮に長期的に得になる見通しがなかったとしても「友人」は続く。強い者、役立つ者、魅力的な者だけが友人になるのではなく、役に立たない者、弱い者も「友人」として扱われうるのだ。
  6. つまり、あまり見返りが期待できない状況でも、人間は「群れ」のメンバーには協力的に仲良く行動しようとする本能があると考えられる。
  7. この本能は聞こえは良いけれど、文明化により「群れ」での協力の形態が複雑化し、個体間の関係が多様化するにつれて、我々の悩みの種にもなってきたのかもしれない。文明化された社会では、「群れ」=社会のメンバーの利害が常に一致するわけではないので、どうしても本能が求める「仲良し」状態に我々は留まることができないからだ。

前回は、「悪」や「不正」に対する「怒り」は、個人的な利益の観点からは非合理的だが、社会=「群れ」を協力的に保つためには必要なものだから、社会的価値があるのだ、ということを述べた。 しかし、同時に、そういう「怒り」をコントロールする手段も人間の本能に備わっているだろうということを付け加えておいたが、今回はこれを考えてみたい。

さて、あなたは人を許せるタイプだろうか?それとも、一度覚えた怒りはなかなか治まらないタイプだろうか?前回の議論の出発点は、「我々はなぜなかなか人を許せないのか。そして、かくも執念深く、非合理的なのか」ということだった。しかし、普通の大人であれば、時々は怒りに我を忘れることはあっても、そういう自分の感情を大体はうまくコントロールできているし、人それぞれのやり方でそういう感情との「つきあい方」を身につけているものである。多くの宗教が「人を許す」ことの重要性を説いているけれども、敢えて神や仏にいわれるまでもなく、「許し」が重要なことは誰しもわかっている。

では、なぜ「許し」が重要なのだろうか?それに対する答えは百人百様だろうが、大きな理由の一つは、「人は許し合うことで、より大きな利益を得ることができるから」、あるいは逆に言えば、「許し合わなければ、人間社会が争いだらけになってしまうから」ということだろう。だが、この見方に賛同できない人もいるかもしれない。「許し」とは、そんなに打算的だろうか?前回、「怒り」とは個人にとっては非合理な(得にならないかもしれない)感情であると説明したが、「許し」のメカニズムはどうなっているのだろうか?言い換えれば、「怒り」をコントロールする仕組みは、ヒトという動物に、どう組み込まれているのだろうか?

それに答えるため、まずは動物の社会について説明したい。動物には、人間のように多様な情動はないと思われるが、大型類人猿などは、かなり高度な感情を発達させており、怒りや喜びはもちろん、同情や落胆など、豊かな感情を持っているようだ。それだけでなく、かなり高度な感情といえる「雰囲気」とか「空気」とかいわれるものすら感じているらしい。例えば、ちょっとしたいざこざ(食物の分配とか)で「気まずい雰囲気」になってしまうこともある。そういう時、ゴリラやチンパンジー、そしてボノボはどうするか。(「ボノボ」は、一般にはあまり知られていないサル(ape)だが、チンパンジーよりも人間に近い(部分もある)サルとして近年研究が盛んである。)

ゴリラ、チンパンジー、ボノボなど、それぞれの種によりこういった場合の行動は特徴があるが、大型類人猿に共通してみられる行為として、「毛づくろい」がある。最初、反目していた二匹のサルが、仲直りする雰囲気になると、何かのきっかけで一方のサルがもう一方のサルに近づき、おもむろに毛づくろいが始まる。そうすると、先ほどまでの緊張感が融けていき、また二匹は仲直りする、というような行動だ。

猫でさえも、「毛づくろい」にはある程度社会的なつきあいの要素があるようだが、大型類人猿にとっては、「毛づくろい」は毛皮の手入れよりもコミュニケーションとしての意味の方が大きいように見える。彼らが毛づくろいに費やす時間はかなり長いらしい。挨拶代わりに毛づくろいし、仲直りに毛づくろいする。そして、「群れ」の序列の確認のためにも毛づくろいする。それは、実際そこまで毛づくろいしなくてもいいのではないかと思うほどである。

実をいえば、毛皮を清潔に保つだけなら、そんなに毛づくろいは必要ないのだと思う。なぜなら、先ほど挙げた大型類人猿は、定期的にねぐらを移動しながら生活している。こういう非定住型の動物には、例えば虱(シラミ)はつかない。人間に虱がつくようになったのも、定住生活を始めた頃からだろうといわれている。虱は、宿主のねぐらが一定していないと繁殖できないからである。これは、移動性の動物は、体を清潔に保つのにそんなに苦労しない、という一例である。

というわけで、そこまで手を掛ける必要のない「毛づくろい」に、多大な時間を要しているのは、「毛づくろい」で群れの仲間と仲良くやっていくために、「お互い仲良くしましょうね」とか、「私はあなたより下の立場だから優しくしてね」、「さっきは怒ってごめんね」といったコミュニケーションをしているためだと考えられている。

もちろん、仲直りの方法は、「毛づくろい」だけに留まらない。例えば、疑似交尾なんかもある。これは、交尾(つまりペニスの挿入)ではないのだけれど、一匹が後ろ向きにお尻を突き出し、もう一匹がその上に乗る(マウント)、そしてしばしば腰を振るという行為である。これは、雄と雌の間で起きるとは限らず、雄同士のこともある。疑似交尾は、「仲直り」というよりは「順位の確認」の要素の方も強い(もちろん、お尻を突き出している方が劣位になる)ようだが、これも大型類人猿のコミュニケーションの一つである。ただ、ここでサルの仲直りの方法を詳細に述べてもしょうがないので、この話の要点としては、サルは「群れ」の中で仲良くやっていくために、「毛づくろい」などの行動をコミュニケーションの手段として使っているということだ。

とはいえ、「毛づくろいはコミュニケーションなんかじゃなく、やはり何らかの理由で毛皮の手入れには時間がかかるんじゃないか」と思う方もいるかもしれない。確かに、実際のところはサル本人でないと毛皮がどれだけ重要かはわからないが、これをコミュニケーションとみなす根拠の一つとして、毛づくろいに費やす時間について述べたい。実は、「群れ」のサイズが大きくなるほど、一匹のサルが毛づくろいに費やす時間は多くなることがわかっている。これは、コミュニケーションを取るべき相手が増えるからだと考えられないか。

もう一つ、ゴリラの事例を出しておく。ゴリラの群れを観察すると、食べたり寝たりすることに加えて、特に何もしていない時間がかなり多いことに気づく。そういう時、ゴリラは仲間の顔をじっと見たり、仲間の行動を観察したりする。何のためにそうしているのかという答えがはっきりしているわけではないが、有力な仮説としては、ゴリラは人間関係ならぬ「ゴリラ間関係」を良好に保つために、他のゴリラの観察やアイコンタクトをしているのではないかといわれている。つまり、ゴリラは仲間の心を読んでいるというわけだ。そして、彼らは「群れ」の中で自分の振る舞いを制御しているらしい。

この二つの事例は、「群れ」を協力的に保つためにサルが発達させた行動について物語っている。「毛づくろい」は仲直りのための方法を提供し、互いの観察はそれぞれの信頼性を確かめるのに役立つ。既に述べたように、協力した方が長期的には大きな利益が得られる場合でも、短期的には自分の損になってしまうことも多い。だから、近視眼的な行動を取りすぎないように、協力することがいいことだ、という倫理観がヒトには発達したと考えられている。

しかし、「倫理観」という言葉は少し大げさかもしれない。もっと親しみやすい言葉を使うならば、人間は「協力するのが好き」なのである。 これはどこまで大型類人猿に当てはまるか不明だけれども、少なくとも、彼らの場合は「仲良くするのが好き」なのは間違いない。そもそも、彼らの場合は「群れ」のメンバーは血縁関係があるか、(潜在的なものも含めて)つがい関係にあるかである。だから、仲良くするのがいいのは当たり前のことなのだが、「仲良くする」ということは、彼らの持つ文化ではなくて、本能がそうさせているのだということは重要な点である

人間の場合も全く同様で、「協力するのが好き、仲間と仲良くするのが好き」というのは、文化ではなく、本能がそうさせているのではないだろうか。我々は、身近な人と信頼し合い、友好的な雰囲気を保ち、互いの利益を尊重している時の方が、反目し合い、敵対的な雰囲気の中で、己の利益のみを主張しているときよりも、遙かに居心地がよく、リラックスできる。これは当たり前のことのようだけれども、人間が、そういう環境を心地よく感じるということは、その文化により「教育」されたことではなくて、やはり人間はそういう環境に適応している、本能的にそういう環境を好む、と考えるのが妥当だ。時々、元々人間は争い合う本能を持っているなどと言われるけれども、もしそうであるならば、人間は争いの中が心地よい、という風に進化したはずだ。そんな人も時にはいるかもしれないが、普通の人間は争いを居心地悪く感じるものだ。だから、仲間と仲良くするのは人間の本能とみて間違いないだろう。

しかも、人間の場合は既に述べたように、血縁関係による「群れ」ではなく、利害関係者による「群れ」を作る生物である。そもそも「利害関係者」は協力行動を取らなければ、多くの場合利害関係は生まれない。だから、「群れ」のメンバーと仲良くすることというのは、それらの個体と「群れ」を作っている元々の理由ですらある。(「仲良くしない」=「互いの利益にならない」のであれば、「群れ」を解体すればいいだけである。)

しかし、人間の場合はサルと違って「毛づくろい」のような本能的行動はないので、 それが本能なのかどうか訝しむ人もいるだろう。確かに、これを証明することは、なかなか難しい。しかし、科学的に証明されているのか私は承知していないが、おそらくこれは間違いないと思う。そして、人間の場合に「毛づくろい」に当たるのは、おそらく「言語」だろう。

人間は、頭と体のごく一部にしか稠密な体毛はない。だから、仮に毛づくろいをしたくても殆ど出来ない。これは、我々にとってはどうでもいいようなことだが、おそらく類人猿の視点から考えるととんでもないことで、コミュニケーションの手段が奪われていることに等しい。例えば、チンパンジーの全身の毛を剃ってみるとどうなるのか、私は知らないが、相当困惑するのではないか。人類は、その体毛を失った時、「群れ」を協力的に保つにはどうするべきかという課題に直面したに違いない。(こういう場面が実際にあったかどうかはわからないが、仮想的にこう問題提起したい。)

一つの解決策は、先ほども少しだけ触れたように、「疑似交尾」を発達させることだろう。ボノボは、「疑似交尾」(ボノボの場合は、「ホカホカ」と呼ばれる)を上下関係の確認だけでなくて、もっと広い意味(例えば、挨拶)でも使っているし、こういう方向に人類が進化することもあり得たのかもしれない。

ただ、実際の進化の歴史はそうならなかった。我々が「毛づくろい」の代替として獲得したものは「言語」であった。もっと正確に言えば、なぜ我々が「言語」を獲得したのか、その理由は未だ不明だが、「言語」は「毛づくろい」の代わりを立派に果たすことができた。いや、「立派に果たす」どころか、「毛づくろい」に比べて格段に優れた手段だった。先ほど、「群れ」のサイズが大きくなると「毛づくろい」に掛かる時間も長くなる、と述べたが、「言語」はコミュニケーション可能な範囲を格段に広げたため、「群れ」のサイズもかなり大きくすることができた。(なお、「「群れ」のサイズが大きくなったから、コミュニケーション手段として「言語」が発達した」というように、逆の考え方をする人もいる。)

「言語の起源」はかなり難しい問題で、この議論を深めると本題から逸れてしまうので、先ほどの議論に戻ると、「人間は群れを協力的に保つ本能がある」ということだった。さて、こういう認識の下に冒頭に掲げた次の問題提起を考えてみよう。「許し」とは、そんなに打算的だろうか?「怒り」をコントロールする仕組みは、ヒトという動物に、どう組み込まれているのだろうか?

まず第一の点。「許し」は打算的かどうかということについては、おそらく答えは否である。「群れ」の仲間に損害を与える行為をした個体を許すかどうか、については、私は打算はないと思う。つまり、「そいつを許した時に得られる利益」と「そいつを許さなかった時に得られる利益」を計算し、「許した時に得られる利益が大きいぞ」という時だけ許す、といったようには人間は行動しない。その個体が仮に全くの役立たずだったとしても、やはりある程度「群れ」にとって許容できる行為の場合は、許すのではないだろうか

なお、この認識は、もう少し深めることができる。つまり、許す許さないということが打算ではないということは、既に指摘したように、そもそも協力行動自体が打算的でないということだ。協力行動を行う個体を「群れ」のメンバーであると説明してきたけれども、もう少し現代的な感覚でいうと、それは「友人」と呼べるだろう。「友人」という言葉を使って先ほどの命題を言い換えると、友人同士の協力は打算的ではないということになる。経済的合理性の観点のみで考えれば、長期的に得をするという見通しがないと協力行動は取られない。「友人」であり続けることが長期的に得だという見通しは、普通の場合だと当てはまることも多いだろうが、先ほどの認識を敷衍すれば、仮に長期的に得だという見通しがなかったとしても「友人」は続くだろうということが示唆される。つまり、強い者、役に立つ者、魅力的な者だけが友人になるのではない役に立たない者も「友人」=「群れのメンバー」として長期的な協力関係に組み込まれるだろうということだ。

障害を負った者や年老いた者を「群れ」のメンバーとして相互扶助的なシステムの中に置くのは、一見すると非合理的である。「群れ」の繁栄のみを考えれば、そういう個体は速やかに排除していく方が合理的だ。事実、食料の乏しい社会などでは、そういう人間が必ずしも保護されていない場合もある。しかし、普通は、人間は(通常の意味で)あまり役にたたない個体でも、「群れ」の中に留め、むしろ手厚く保護する。これまで説明したことを前提にすれば、これは「群れ」を協力的に保つための副産物であると考えることができるように思う。つまりこういうことだ。人間は、「群れ」を協力的に保つ必要があるが、近視眼的な損得しか考えていないと、結果的に損してしまう場合があるので、長期的な協力関係を維持するため、「本能的に仲良くするのが好き」であるように進化した。「本能的に仲良くするのが好き」になる対象は、打算的=合理的に選考されるのではなくて(「本能」なので当然だが)、「群れ」のメンバーは自動的にその対象になるように組み込まれていると考えられる。そのため、保護しても直接の価値はない障害を負った者や年老いた者に対しても、「本能的に」協力関係を維持することになる。(「保護しても価値はない」というと、障害者の方や高齢者の方に怒られそうだけれども、ここでは人類の原初状態における話であるので、誤解なきように。)すなわち、弱い者への協力は、あまり見返りは期待できなくても、本能的に存在するのである。

弱い者へ協力する(心暖かい)生物と、見返りが期待できない個体には協力しない(シビアな)生物が生存競争した時に、どちらが繁栄するか思考実験してみるのは面白い。まず考えられるのは、シビアな生物の方が、短期的には繁栄しそうだということだ。会社などでもそうで、無能な社員を容赦なくリストラし、不採算部門を躊躇なく売却・撤退するような会社は、短期的には利益を上げるだろう。しかし、80年代に日本企業が賞賛されたように、心暖かい会社には長期的で安定的な社員との関係が構築でき、長期的な視野での経営が可能になるという場合もある。日本企業の場合は、年功序列と終身雇用というモデルは80年代こそ賞賛されたけれども、バブル後には停滞の象徴であるかのようにも言われているので、一部にはシビアな戦略の方が決定的に勝れていると考えられがちだ。しかし、少なくとも理論的にはどちらのシステムが長期的に繁栄するのかは結論がついていない。なぜなら、心暖かい会社が繁栄する環境もあるし、シビアな会社が繁栄する環境もあるわけで、最適な戦略は環境(所与の条件)によって変わるからだ。

生物の場合も同じことで、「心暖かい生物」は利益が明確でない場合でも協力行動を取ることができるので、損することもあるが、もしかしたら大災害や環境変化などで将来の見通しが全く立たない場合でも協力して難局を乗り切ることができるかもしれない。一方で環境変化などで食糧難になったとき、弱い個体を見捨てる「シビアな生物」の方が生き残るかもしれない。これは、環境という所与の条件によっていずれの生き方が適しているのか変わるため、どちらが勝れているとは言えない。ただし、我々自身が辿った進化的歴史から示唆されることは、おそらく我々人間は「心暖かい生物」であろうということだ。多くの現代社会の倫理は、我々に「心暖かい生物」であるように求めているが(例外もたくさんある。功利主義的倫理とか)、それは我々がそうであると信じるほうが本能的に落ちつくからだと考えるのが妥当であろう。

もちろん、人間が「心暖かい生物」だと言っても、それは人間が悪をなさない、という意味ではない。 あくまで、人間は「群れ」のメンバーに対しては、利益があろうとなかろうと協力的に振る舞う、ということを意味しているに過ぎない。しかし、先ほど述べたように、人間は「協力するのが好き、仲間と仲良くするのが好き」なのだし、しかもそれが(短期的な)利益の有無とは関係がないのだから、これだけ聞くと、よほど人間という生物は「群れ」のメンバーが仲良しなのだろうと思ってしまう。

しかし、そういう本能は、文明化により「群れ」での協力の形態が複雑化し、個体間の関係が多様化するにつれて、我々の悩みの種になってきたようにも思える。なぜなら、狩猟採集段階の社会に比べて、文明化以降で「群れ」のメンバー間での利害が一致しにくくなり、合理的には盲目的な(本能的な)協力行動が明らかに個人にとっても有益なことでなくなった場合ですら、依然として我々は協力(仲良くする)に高い価値をおいてしまうからだ。

具体的な例としては、あなたはAさんと何らかの問題を抱えたことがあるとしよう。そして、あなたはAさんの顔も見たくないと思っているとする。さらに、今後の人生において、Aさんと顔を合わせることもなければ、関わることもないとする。さて、この状況で、あなたはリラックスし、気持ちよくなれるだろうか。おそらく、普通の人はなれない。たとえAさんとの縁が切れている場合でも、なんだか後味の悪い、思い出したくもない、いやな気持ちを抱えるはずだ。でも、そういう感情は、合理的に考えればおかしい。なぜなら、Aさんとの共通の利害はもはや存在しないし、Aさんと協力する必要もない。これからAさんとの関係もないのだから、なぜいやな気持ちになる必要があるのだろうか。それは、きっと、あなたが「心暖かい生き物」だからなのだ。つまり、Aさんと仲良くできればよかった、もっとこうしたらよかったかもしれない、というように、仲良くする方に絶対的な価値があると思いこんでしまっているからなのだ。実際は、利害が衝突していたのであれば、(少なくとも短期的には)協力する必要はない。もう一つの感じ方は、「あいつなんかとつき合わなきゃよかった」というものだが、これも同じ本能から出てくる感情だ。つまり、「最初からあいつを「群れ」に入れなきゃよかった」ということなのだ。「群れ」の仲間とは協力する必要があるという前提があるために、こういう「群れ」と「群れ以外」を峻別する考え方が出てくる。これについては、また別の機会に詳しく述べたいと思う。

まとめると、「群れ」の中での盲目的・本能的な協力は、人類の原初状態においては有効な戦略であったと考えられるけれども、文明化された社会では、「群れ」=社会のメンバーの利害が常に一致するわけではないので、どうしても本能が求める「仲良し」状態に我々は留まることができない。その状態では、本能的な要求が満たされていないため、我々は必要以上に居心地が悪くなってしまうと考えられる。もちろん、こういう本能は、人間の「群れ」が利害関係を越えて拡大することに役だっただろう。しかし、我々の本能は、かなり小さな「群れ」でこそ本領を発揮するものということも認識すべきだ。現代のように巨大化した社会では、我々の「心暖かな」本能が機能不全を起こしても不思議ではない。

さて、冒頭の問題提起から大分話が逸れてしまった。話を元に戻して、次は第二の問題提起である「怒り」をコントロールする仕組みについて議論したいと思う。これについては、「許し」が打算的ではないということから難しい問題が提起される。なぜなら、仮に「許し」が打算的(経済的、合理的といってもいい)であるのなら、我々が人を許したり許さなかったりするのは、損得計算をして判断することができる。許すことで得られる利益が何もないなら許す必要はないし、許すことが得になるなら喜んで許すべきだ。だが、人間はそういう風には行動しない。では、どういう時に許して、どういう時に許さないのか。別の言葉でいえば、どうやって「怒り」をコントロールするのか。

ようやく主題にたどり着いたが、長くなってしまったので、以下次回に書くことにする。

2010年4月21日水曜日

「群れ」の論理(2)怒りの意味

【要約】
  1. 囚人のジレンマ型ゲームを繰り返すと、常に相手に協力する「お人好し」なプレイヤーばかりがいる場合、裏切ることが合理的な選択肢になってしまい、人の善意を踏みにじる悪人プレイヤーが繁栄する。
  2. その結果、ゲームのプレイヤーが悪人だらけになってしまい、結果的に協力のない、最も悪い状態に陥ってしまう。そうならない有効な戦略の一つが、協力には協力で、裏切りには裏切りで対処する「しっぺ返し戦略」である。
  3. おそらく、「しっぺ返し戦略」は、「人類生来の倫理」の基本構造の一つだろう。
  4. より現実の状況に近づけるため、裏切りに対する「罰」と、「罰」を行う「第3者」という要素を追加すると、より裏切りがやりにくくなり、協力的な戦略が合理的になる。
  5. そこで示唆されるのは、「人類生来の倫理」の一つは、「協力的に行動せよ。しかし、他人が非協力的な行動をしている場合は、罰せよ」ということである。
  6. しかし、他人を罰するには通常大きなコストを伴うことも考慮に入れる必要がある。「第3者」が「罰」を下す場合、大きなコストを負担しなければならない一方で、自分自身には何の利益もない。それでも、ヒトは進んでこういう行動をとるよう進化した。
  7. これは、一見すると経済的でなく、非合理に見える。しかし、もし適切に「罰」が下されないと、「悪」が繁栄するおそれがあるから、たとえ自分が損することになっても、「罰」を下すことは必要なことなのだ。
  8. つまり、「悪への報復」の執念は、個人にとってはそもそも割に合わない非合理的なものだが、「群れ」には必要なものであるからこそ、ヒトはそういう感情を抱くように進化したと考えられる。
  9. そういう感情は、そもそも経済的な損得計算とは別次元のところで生じており、非合理的に見えるのは当然だ。
  10. 宗教は、こういった感情をしばしば人が未熟な証だとするが、そうではなく、人間社会を協力的に保つために非常に価値のある感情なのだと私は評価したい。
  11. しかし、警察機構や司法の存在を考慮にいれると、単純にはそう言い切れない部分もある。
  12. 人類は、「罰」を当事者に任せないという文明(警察、司法)を発達させた。これは、悪を犯した者が罰されないことも、罰されすぎることもなくし、社会的に悪を制裁することができる安定的なシステムである。
  13. しかし、このシステムは、我々が悪に抱く怒りや憎しみの感情を、ある程度無用なものに変えてしまった。なぜなら、もはや我々には個人的に報復しなければならない理由はないからだ。
  14. 警察や司法を備えた社会の人間にとっては、どこまでも敵を懲らしめたいという個人的な怒りや憎しみは抑え、社会的に受容できる量刑で納得できる淡白さこそ必要である。しかし、我々の感情は、そういう淡白な社会にはまだ適応できていない。
  15. この議論には、留意点が3つある。(1)我々が通常遭遇する事案は、普通は警察や司法は登場しない些末なものであり、その中で感じる怒りは、依然として社会的価値があるだろう。(2)とはいえ、そういう怒りのままに報復してしまうと、やりすぎてしまう危険性がある。そういう「やりすぎ」を防ぐ本能もあるはずだ。(3)また、「悪」や「不正」という言葉を軽々しく使ってきたが、それはそもそも相対的概念だし、「悪」への協力行動もあるので、本当はそういう情緒的な言葉を使わずに、「非協力的な行動」とでもすべきものだ。


今回は、前回からの続きである。前回は、人間の悩みの原因の一つには、「人類生来の倫理」と現代社会の求める倫理(正義)との矛盾があるのだ、という仮説を提示し、「人間生来の倫理」というものが確かにあるらしい、ということまでを述べた。しかし、なぜそういう矛盾が存在するのかという点まで説明することが出来なかったので、今回はその説明を試みたい。そして、なぜ我々はなぜなかなか人を許せないのか、かくも執念深く、非合理的な怒りや憎しみを抱くのかという点について一つの見方を提供しよう。

まずは、前回に引き続き「囚人のジレンマ型ゲーム」について考えてみる。前回は、こういうゲームが1回切りであるということを暗に前提としていた。その場合、個人にとって裏切ることが合理的であり、結果的に裏切り合ってしまうため、二人とも最悪の状態になってしまう、と述べた。しかし、こういったゲームを繰り返し同じプレイヤーが行うとするとどうだろうか(この場合、自白とか懲役とかを繰り返すのはちょっと現実的でないが、文字通りゲームとして考えてもらいたい)。

1回ごとのゲームの利得は繰り返しがあろうとなかろうと変わらないので、1回切りの場合と同様に、お互いに黙秘する(協力する)のが最善の状態である。つまり、二人が黙秘すると懲役4年なので、このゲームを続けると毎回懲役4年を繰り返すことになる。逆に、二人が合理的な選択として自白(裏切る)を続けると、毎回懲役15年を食らうことになり、最悪の状態が続くことになる。

よって、前回と結論は同じで、このゲームが繰り返されようとも、やはり相手を信頼した方がいいということになる。なんだ、繰り返しても同じじゃないか、というなかれ。話はここからである。

こういう「繰り返し型囚人のジレンマ」に十分に適応した個体は、常に相手に協力する、裏切らない個体なのだろうか。少し考えれば、そうではないことがわかる。なぜなら、常に相手に協力するプレイヤーばかりの状況を想像すると、そこでの最も合理的な戦略は、協力ではなくて裏切りだからだ。つまり、相手が「お人好し」で裏切らないことがわかっているならば、相手を警察に売り、自分は懲役2年、相手に懲役15年を課すことが合理的だ。

よって、人を裏切らない、というお人好し集団の中では、相手を裏切る個体が繁栄することになる。こういう、他の個体の協力行動を自分の利益のために利用しつつ、自分は他の個体に協力しない、というプレイヤーのことを、タダ乗り(free-rider)という。お人好し集団の中では、タダ乗りが一番合理的な戦略(専門用語では、「最適戦略」という)になってしまうが、タダ乗りプレイヤーが繁栄し数が増えてしまうと、お人好しがいなくなってしまい、結局裏切りだらけになってしまうので、みんなが懲役15年に服することになり、得をするプレイヤーがいなくなる。つまり、悪ばかりが繁栄すると、全体として悪い状態になってしまい、裏切りは最適戦略でなくなる。

では、こういう状況では、どういう戦略が長期的に安定して繁栄できる戦略なのだろうか。実は、この問いに対する答えはまだ厳密には出ていないが、これまでの研究で概ね認められているところでば、その候補の一つは「しっぺ返し戦略」というものである。

「しっぺ返し戦略」はその名の通り、相手が協力するなら次回も協力し、相手が裏切ったら次回も裏切り返す、という戦略である(なお、初回のゲームでは無条件に協力する)。これなら、相手がお人好しの場合は協力を続けることができるし、相手が悪の場合は(最初の1回は損するが)裏切り返すので相手だけに得をさせることはない。 さらに、相手が心を入れ替えて(?)協力することにすれば、こちらも直ちに協力し返すことができ、協力のチャンスを逸することもない。さらに、「しっぺ返し」のプレイヤー同士だと常に協力することができ、繁栄を続けることができる。

さて、「繰り返し型囚人のジレンマ」において「しっぺ返し」が有効な戦略であるならば、人類も進化の過程でこういった戦略を身につけたことだろう。この「しっぺ返し戦略」は、善には善で報いるが、悪には報復するという戦略であると見ることができ、これはまさしく「人類生来の倫理」の基本構造であるように私は思う。

「囚人のジレンマ」について思いがけず紙幅を費やしてしまったので、ここからはいちいちゲーム理論の説明をせずに概略だけ述べることとしたいが、「善には善で報いるが、悪には報復する」ということは、簡単なようでいて実は大変複雑なシステムである。「囚人のジレンマ」の場合は前提が単純なので結論も単純だが、より複雑な前提の下に考えるとどうなるか。

例えば、ゲームの中に「罰」という要素を加えるとどうだろう。すなわち、「裏切り」をしたプレイヤーを事後的に罰することができることとするのである。当然、「罰」を伴えば「裏切り」行為をする動機が弱められることになる。特に、「罰」が裏切ることによって得られる利益よりも大きいと予想される場合は、(「罰」のない場合は合理的な行為であった)「裏切り」はコストが高くつきすぎ、「協力」が最適戦略となるだろう。

さらに、ゲームの中に「第3者」という要素も加えるとどうだろう。「第3者」は他のプレイヤーの行動を観察しており、正義に悖る行為、つまり非協力的な行為があった場合、事後的にそのプレイヤーに「罰」を下せることとしてみよう。こうすると、だいぶ現実世界に近づいてくる。

なお、ここでは例として「繰り返し型囚人のジレンマ」を暗に仮定しつつ要素を加えているが、本当は「罰」や「第3者」を導入するには、もっと適切な事例に切り替える必要がある。しかし、煩瑣な説明をしだすとそれだけで紙幅が埋まってしまうため、ここでは結論だけを述べよう。

結論としては、非協力的行動に対する「罰」と、そういう「罰」を当事者だけでなく「第3者」が下せるという要素を加味すると、協力することで大きな利益を得ることができるようなゲームでは、協力的行動が最適戦略になる。つまり、そういう状況のもとでは、「協力的な行動をし、非協力的な行動に対しては「罰」をもって臨む戦略」が進化する。(専門用語を用いれば、そういう戦略が進化的に安定な戦略(evolutionary stable strategy)である、という。)

つまり、ここから得られる示唆は、「人類生来の倫理」が求めることの一つは、「協力的に行動せよ。しかし、他人が非協力的な行動をしている場合は、罰せよ」ということではないかということである。こうすることで、タダ乗りを防ぐことができ、かつ協力行動により大きな利益を得ることができるのだ。

しかし、ちょっと待ってほしい。先ほど加えた要素のうち、「罰」というのは、いったいどのようなものだろうか。具体例で考えると、罰金、体罰、精神的苦痛による罰などいろいろあるが、そもそも罰を加えることは、罰を加えようとする人間にとっても、通常は大きなコストを伴う

想像してみてほしい。あなたはジャングルの奥地に住み、今なお物質文明に触れていない部族の人間だとしよう。村一番の力持ちのAが、あなたの家から大切な釣竿を盗んだとする。さて、憤激したあなたは、Aにどうやって罰を加えるのだろうか。最も単純な「罰」は個人的報復行為だろう。例えばあなたは、夜道でAを待ち伏せし、頭に一撃食らわせようとするかもしれない。しかし、Aは村一番の力持ちである。あなたは返り討ちに遭ってしまう可能性がある。だから、そういう直接的行為は取れないかもしれない。その場合は、あなたは仲のよい友人であるBに相談し、一緒に報復してくれるように頼むかもしれない。いくら力持ちのAでも、二人がかりならなんとかなろうというものである。しかし、これはBにとってはどういう状況だろうか。

Bは、この例では完全に「第3者」である。あなたの釣竿がなくなっても、少しも困っていない。あなたが個人的報復をして失敗して大怪我しても、痛くも痒くもない。むしろ、自分には無関係な報復に巻き込まれ怪我するかもしれないし、よしんば報復自体は成功しても、この先Aに睨まれながら過ごさなければならない。これが「罰」に伴うコストの一例である。通常、「罰」に必要なコストはかなり大きく、「第3者」がそれに直接的な利益を得ることは(そもそも「第3者」なので)ない。

さらに仮定を一歩進めて、すでにAはあなたの釣竿を壊してしまった後だとしてみよう。この場合、あなたはAに報復しても、元の釣竿を取り返すことすらできない。だから、Aに挑む危険というコストを払っても、見返りは一切ない。つまり、罰するという行為は、Bはもちろん、あなたにとっても何の得にもならない行為なのである。

ここが重要な点だが、それでも、人はそういう報復行為を進化させたことがわかっている。つまり、正義に悖る行動であるならば、自分には全く利益がない場合でも、進んでコストを負担し、悪を罰する。これがあらゆる進化ゲームの最適戦略なのかどうかはよくわからないが、少なくともヒトはこういう戦略を進化させた。

これは一見すると不思議である。なぜなら、何の得にもならない、危険な行為である「罰」を好んで行おうとするとは、およそ経済的でない。あなたは、危険を冒してAに報復する代わりに、別の釣竿を新たに作るという建設的行為を行うこともできたはずである。そして、その方が、一見するとよほど理にかなっているように見える。

しかし、そうとも言い切れないのだ。なぜなら、あなたがAに報復しなかった場合、調子に乗ったAは、村の他のメンバーの持ち物もほしいままにするかもしれない。誰もAを罰することができなければ、村はめちゃくちゃになるだろう。つまり、Aは村の善意(?)にタダ乗りする人間になる。そう考えると、長期的にな利益を見込んで、Aを罰することは村全体にとって合理的だ。

これを、もう一度「あなた」からの視点で説明すると、あなたは、自分自身の利益のためにAに報復をするのではなく、(まだAから被害を受けていないが、潜在的に被害を受ける可能性のある)村の他のメンバーのためにAを懲らしめている、ということだ。「罰」を下す行為は、本質的に他人(群れ)のための行為であるため、個人的利益だけを見る限り、「罰」という行為は(ミクロ経済的に)合理的でない。

ここは重要な点なので繰り返すが、「罰」を下すという行為は、個人的利益だけを考えると、経済的ではなく、非合理的な行為なのである。コストはかかるし、利益はない。この「非合理的な行為」であるという点が非常に重要である。つまり、「悪への報復」の執念はそもそも非合理的なものだということだ。

さて、ようやく前回の問題提起、「我々はなぜ、なかなか人を許すことができないのか、かくも執念深く、非合理的な怒りや憎しみを抱くのか」という点に答えることができる。その答えは、「その怒りや憎しみは個人的に考えれば非合理的なものに見えるが、集団全体を協力的に保つために必要なものなので、ヒトはそういう感情を抱くように進化したからだ」というものだ。

先ほどの例に戻って考えてみよう。あなたがもし、合理的に損得計算をして行動する人間なら、Aから釣竿を盗まれた時にどのように行動するだろうか。きっと、Aから釣竿を取り戻すのに必要なコスト(返り討ちに遭うリスクがどれだけあるか、必要な武器は何か、など)と、新しく釣竿を製作するコスト(適当な木を伐採したり、糸や針を手に入れるコスト)を比べるだろう。そして、新しく釣竿を作るコストの方が小さければ、そうするだろう。そこには、怒りや憎しみの入る余地はない。これが純粋なホモ・エコノミクスだ。

しかし、実際の人間はそう行動しない。まず、怒り、憎しみを覚える。そして、どんなことがあってもAに少しでも仕返ししたいと思う。これは、全く合理的な行動ではないのだ。しかし、そういう感情が湧き、Aに報復をしなければ、先ほど述べたように、Aは盗みを繰り返すかもしれない。それは、結局集団全体の利益を損なうことになる。だから、あなたは、たとえAへ報復することに個人的な利益が全くない場合でも、Aに対して報復する強い感情を持つべきなのだ。

その強い感情は、そもそも経済的な損得計算とは別次元のところで生じているものだ。だから、非合理的なのは当然なのだ。こういう感情が、そうやすやすと治まってしまっては、人間社会に悪がはびこってしまう。だから、我々は容易に人を許すことができず、執念深い怒りや憎しみを抱くようになっているのだ。

宗教は、こういった感情を、しばしば人が未熟な証だとする。そして、そういった感情を乗り越えることこそ目標であるという。キリスト教は、汝の敵を愛せ、という(実際に彼らがそうしていないのは周知の事実だけれども)。それは、後述する意味でとても意味のある主張なのだが、そう否定する前に、私はそういう感情の価値を認めたい。つまり、あなたが敵や悪に対して抱く、強い怒り、執念深い報復の念などは、未熟の証などではなく、人間社会を協力的に保つために非常に価値のある感情なのだといいたい。「汝の敵を愛」し、悪を犯した人間を罰すことがなかったなら、人間社会にはすぐに悪がはびこってしまうだろう。だから、あなたは、その激しい怒りを恥じる必要はないのだ。その怒りはもっともなことであるだけでなく、社会にとって価値あるものなのだ

しかし、である。これは、あくまでも原始社会の話だ。つまり、先ほどの例に警察機構や司法は出てこなかった。この点は極めて重要である。ここに、前回予告したように、「人類生来の倫理」と現代社会が求める倫理(正義)が乖離していることが、人間の悩みの淵源なのではないか、という点が関係してくる理由がある。以下、それを説明しよう。

先ほども述べたように、「罰」にはかなりのコストがかかる。しかも、「罰」を、当事者本人が下すことが基本ならば、まず社会的弱者は「罰」を下すことができず、いい食い物にされるだろう。社会的弱者でなかろうとも、「罰」を下すことにコストがかかりすぎ、適切に悪が制裁されないおそれがある。しかしそれよりも大きな懸念は、報復者があまりに大きな罰を与えてしまう可能性である。釣竿を盗まれたあなたは、闇夜にAを待ち伏せ、後ろから殴り倒した。結果、Aは死んでしまった。非合理な怒りに身を任せた結果、Aを殺してしまったことは、果たして集団全体の利益にかなっているといえるだろうか。

おそらく、いえないだろう。こういう行為が許されるのであれば、あなたの村は報復合戦になってしまう。つまり、最初は小さな諍いだったのが、報復を繰り返すうちにエスカレートし、非常な戦闘状態になってしまうおそれが高い。そこで、人類は、「罰」を当事者に任せないという文明(あえて、「文明」と言わせていただく)を発達させた。「罰」を当事者に任せないことで、悪を犯した者が罰されないことも、罰されすぎることもなくしたのである。

刑法発展の歴史からすると、「罰されないこと」を防ぐのが古代~中世刑法の目的で、「罰されすぎ」を防ぐことが目的になるのは近代刑法からだ、と主張する人もいるが、古代バビロニアの有名なハンムラビ法典では、「目には目を、歯には歯を」というように、明確に「罰されすぎ」を防いでいる(「目には目を」というと、現代的な倫理観からは随分と報復的に感じるが、「辱めを受けたら相手の命を取る」というような復讐合戦を防ぐ意義があると現代刑法学でも評価されている)。一方で、瑣末な罪ですぐに死罪になってしまうような古代法(「慣習」と言った方がいいかもしれないが)が存在したのも確かなので、一概には言えないところがあるが、少なくとも報復を当事者に任せないことで、「社会的に認められた量刑を行う」という点は全ての刑法に共通するところである。

こういうシステムを実現するための方策が、警察であり司法である。警察や司法の発明は、場当たり的で感情的で不確実だった当事者による報復を、社会がコストを負担してより安定的に行うシステムに変えた。これは、人類の歴史にとって、紛れもなくよいことだったに違いない。

しかし、このシステムは、我々が悪に抱く怒りを、敵に対する憎しみを、ある程度無用なものに変えてしまった。なぜなら、我々は個人がコストを負担して悪を罰せなければ、悪が跳梁跋扈するような社会に住んでいるわけではないのだ。現代社会に住む我々は、もはやそういう非合理的な怒りや憎しみを抱き、個人的に報復しなければならない理由を失っている。それは、警察であり司法に任されているのだから。

もちろん、警察や司法が存在するその究極的な淵源の一つは、たとえ自分自身の得にならず、コストを負担することになろうとも、悪を罰さなければならないという我々の感情にあることは確かだ。だから、警察や司法は通常税金でまかなわれている。しかし、原始社会で生きる人間に比べると、我々がそういう強い感情を抱く意味合いはかなり減じていることも確かだろう。

そう、我々が、人が人をなかなか許せず、執念深い怒りや憎しみを抱くのは、我々の感情が、もはや現代の社会システムにマッチしていないからなのだ。警察や司法がうまく働くなら(実は、これはかなり難しい仮定だが)、我々はもっと恬淡としていてかまわないのである。実際、キリスト教や仏教などが、人を簡単に許すことを勧めているのは、報復を社会的に行う制度が整ってきていたからである。(キリスト教では、「悪を犯した人間は神が罰する」ことになっていて、この世での罰は軽視されているが、当時のエルサレムでは(それ自体が不正だったという話はあるけれども)ちゃんと裁判による量刑が行われていたのである。)

それが、先ほど述べたように、怒りや憎しみは乗り越えるべきものだ、汝の敵を愛すべきだ、という主張にも価値があるとした理由である。警察や司法を備えた社会にとっては、当事者による個人的な復讐などはむしろ風紀を紊乱する行為であり、百害あって一利なしである。むしろ、どこまでも敵を懲らしめたいという個人的な怒りや憎しみは抑え、社会的に受容できる量刑により納得できる淡白さこそ必要である。

しかし、「人類生来の倫理」は、そんなに物分りよくできていない。やはり、悪に対しては、経済学的には非合理なほど厳しい報復を要求するし、そうした感情は、原始社会においては社会全体として価値あるものである。それなのに、現代社会が我々に求める倫理(正義)は、「あなたの怒りはもっともですが、悪に対する制裁はコチラにお任せください」という社会システムを受け入れろということなのだ。そうしなければ、先ほども述べたように、「罰されなすぎ」や「罰しすぎ」の状態が発生するおそれが大きいので、それは合理的な要求だ。ただ、我々の感情は、そういう淡白な社会には、まだ適応していないのである。

ただ、最後に3点だけ留意点を挙げておきたい。

一つ目は、人間社会で行われる悪や不正というのが、警察や司法によって処理される類のものばかりではないということ。むしろ、我々が通常遭遇することの殆どは、そういった社会的システムに乗らないものばかりである。例えば、約束の時間に遅れるとか、手柄を横取りされるとかいったことは、普通は裁判沙汰になることはない。そういう時に怒りを覚えるのは当然のことであり、むしろ、先述のとおり、そういう感情こそが人間社会を協力的に保つために一役買っているのであるから、その怒りには社会的価値があるのである。

二つ目は、とはいえ、その怒りのままに報復することは、やはり、警察や司法の存在がなかったとしても慎むべきだ。なぜなら、そもそも怒りは非合理的なものであり、報復を「やりすぎる」危険性が高いからだ。先述の事例で、怒りのままに復讐し合えば、どんどん報復がエスカレートしていくだろうと述べた。だから、人間が「怒り」をコントロールできなかったとしたら、これほどには繁栄しえなかっただろう。人間には、警察や司法という発明がなかったとしても、「怒り」をコントロールする本能(これも、文化的な所産ではない!)があるはずだ。これについては、改めて深く議論したいと思うので、ここでは、「怒り」が社会的に価値があるといっても、感情にまかせて報復することを私が勧めているわけではないことを述べるに留める。

三つ目は、本稿においては、協力的でない行動を「悪」とか「不正」とか決めつけてきたが、これは実は公正な表現ではない。なぜなら、協力行動の中には、(世間でいう)「悪」に対する協力もあるのであって、「協力」が常に社会の福祉を増大させるわけではない。また、「悪」とか「善」とかいうのは相対的な観念であって、社会の福祉を増大することが「善」として定義出来るわけでもない。だから、より正確に表現するなら、「悪」とか「不正」とかいう情緒的な言葉ではなくて、「非協力的な行動」とか、もっと親しみやすくするなら「信頼に背く行為」とかすべきであろう。だた、いちいちそういう表現をしていては煩瑣になるので、「悪」とか「不正」とかいう言葉を濫用してしまったが、その点は割り引いて読んで頂きたい。

【参考文献】
プレイヤーが世代交代し、かつ戦略が遺伝するゲームを「進化ゲーム」というが、動物行動の進化を進化ゲームで理解する理論的な基礎は「進化とゲーム理論-闘争の論理」(ジョン・メイナード=スミス著)が古典的教科書であり、お勧めである。数式が若干出てくるので、大学学部生程度の学力が必要だが、基礎から学ぶことができる。
また、「人類生来の倫理」のゲーム理論による説明については、(実は、私自身未読だが)「Natural Justice」(ケン・ビンモア著)が意欲的な著作である(らしい)。(叢書「制度を考える」で邦訳予定なので、邦訳を待って目を通したい)

 



2010年4月20日火曜日

「群れ」の論理(1)人類生来の倫理

【要約】
  1. 人間は、「群れ」と「家族」に引き裂かれているが、それだけが悩みの原因ではなく、「群れ」「家族」それぞれに内在する矛盾が存在する。まずは「群れ」的な論理の説明を試みよう。
  2. 人を許すことが容易でないのはなぜか、執念深く、非合理的なのかという理由は、「人類生来の倫理」と現代社会が求める倫理(正義)が乖離しているからであると私は考える。
  3. 倫理は文化的・宗教的なものであると考えられているが、文化や宗教によって何を倫理的と感じるかの差はなく、むしろ、「囚人のジレンマ的」状況に対処するために進化した生得的なものだと考えた方がよい。それが「人類生来の倫理」である。
  4. なお、「囚人のジレンマ型ゲーム」は、個人が合理的に行動すると、結果として最も悪い状況を選択してしまうゲームであり、これに最適解を出すためには、ある意味非合理的ともいえる「倫理」を持つことが一つの方法である。

前回は、他の動物には見られない、「利害関係者による群れ」を作るという人間の特異性が、人を「群れ」と「家族」に引き裂いた、ということを述べた。しかし、実は「群れ」と「家族」の相克がなくても、それぞれの論理の中に苦悩の種は内在している。もっと正確に言えば、「群れ」的な論理、「家族」的な論理それぞれの中に、現代の社会と相容れない部分があり、二つの論理が対立しない場面でも、我々は自然が要求する行動と自分が正しいと思う行動とのギャップに苦しむことになる。

これから、「群れ」と「家族」の双方について、「現代の社会と相容れない部分」を説明していこうと思うが、まずは、「群れ」の方から始めよう。

最初に具体例を掲げる。あなたは、人が約束を守らなかったとき、あるいは期待通りの行動をとってくれなかったとき、激しい怒りを感じたことはないだろうか。後で冷静になって考えてみると、「なんであんなに怒っちゃったんだろう」というというくらいに頭にくることがしばしばあるが、ああいう怒りをなぜ覚えるのだろう。

また別の例として、あまり一般的な状況ではないが、犯罪被害者が加害者に抱く復讐心というのも、当然のようではあるが、よく考えると合理的ではない。例えば、子供を殺された親が、犯人をなんとしてでも探し出し裁きを受けさせたい、と何年にも亘って個人的な捜査を続けることがあるが、そういう行動は経済学的には合理的ではない。なぜなら、仮に犯人が見つかって死刑が執行されたとしても、失った子供が戻ってくるわけでもない。むしろ、個人的幸福の最大化を図る功利主義的な立場に立てば、残された子供に資源を重点配分したり、子供がいないのなら、自らの快楽を増大させることにお金や時間を使うべきで、経済学的には浪費にすぎない復讐に一生を費やすのは馬鹿げている。(ここで「経済学的に」といっているのは、「こういう復讐は、経済学でいうサンクコストを取り戻そうとする行為と似ている」という意味である。)

もっと単純に言えば、我々はなぜなかなか人を許せないのだろうかそして、かくも執念深く、非合理的なのだろうか

その答えの一部は、「人類生来の倫理」と現代社会が求める倫理(正義)が乖離していることにある、と私は考える。
「人類生来の倫理」?そんなものがあるのか?と思った方もいるだろう。倫理とは文化的なものであり、遺伝子に刻み込まれたものではないとお考えかもしれない。しかし、人間は本来的にある種の「倫理」を備えていることが今ではほぼ明らかになっている。今でも、倫理は後天的なものであると主張している研究者もいるけれども、だいたいはある程度人間は生まれつきの倫理観を持っていると考えられている。(これは、乳幼児が倫理を持っているということではなく、正常に成長した健全な大人は、文化や宗教に左右されない、普遍的な倫理を自然に身につける、ということを意味している。)

なぜ、生まれつきの倫理があるのだろうか。それは、人が「利害関係者による群れ」で生きることと関係している。本論からすると横道に逸れる部分もあるが、まずは、生まれつきの倫理、「人類生来の倫理」とは何かを明らかにしたい。

詳細な説明に入る前に、概略を述べておこう。集団かで何かをやろうとする時、それぞれが自分のことだけ考えて行動するよりも、みんなが利益になることをする方が、結局は個人にとっても得になる状況は多い。そこで、みんなが利益になる行為をする方がいいんだ、という価値観を持つ生物は、それを持たない生物よりも繁栄することになるだろう。こういう道筋で、人間は倫理観を発達させたに違いない。とすれば、人間が倫理観なるものを持っているのは、文化的なものではなくて、生得的、先天的なものであるということになる。

さて、この状況をもう少し詳しく説明しよう。そのために、よく知られた「囚人のジレンマ型ゲーム」を考える。「囚人のジレンマ型ゲーム」あるいは単に「囚人のジレンマ」と呼ばれるゲームは、ゲーム理論を少しでも齧ったことがある方にはおなじみのものだが、ここでは改めて簡単に説明する。

こういう状況を考えてもらいたい。二人組が警察に捕まり、別々に取り調べを受けている。二人はあまり重要でない罪で別件逮捕されており、警察が本当に追っている大事件の方は証拠がなく立件できない。このまま二人が黙っていれば、懲役4年程度の服役で済む。しかし、捜査に協力して自白すれば、司法取引で懲役2年に減刑される。しかし、自白しなかった方は、大事件の犯人として懲役15年は堅い。一方で、両方が自白すれば、司法取引の効果は帳消しになり、二人とも懲役15年を服役することになる。(ちなみに、海外では捜査に協力する代わりに減刑される「司法取引」制度があるが、日本には基本的にはないので、このような状況は日本の司法には当てはまらない。)

こんな状況で、あなたならどうするだろうか。自白するか、黙っているか、どうするだろうか?もちろん、あなたが組んだペアがどういう人間かにも拠るだろう。簡単に仲間を売ってしまう口の軽い人間か、それとも口が堅い信頼できる人間かということに。では、相手が簡単に仲間を売るような、口の軽い人間だったとしよう。すると、相手が自白してしまうのなら、自分が自白するしないにかかわらず自分は懲役15年を食らうことになる。一方、相手が万が一自白しない場合は、、自分が自白すれば懲役2年に減刑されるが自白しなければ懲役4年である。つまり、相手がどういう行動をしようとも、自白した方が少なくとも損にならない。これは、相手が口の堅い人間の場合でも、議論の順番が逆になるだけで同じである。
要は、相手が自白しようとしまいと、自分は自白した方が得だ、ということだ。

しかし、相手も同じように考えているはずである。よって、二人とも自白することになり、二人ともめでたく懲役15年を食らうことになる。二人とも黙っていれば、二人とも懲役4年で済んだはずなのに、それぞれが合理的に行動したために、結果として最悪な状況を選択してしまう。これが、「囚人のジレンマ」である。
これが「ジレンマ」といわれる所以は、個人が合理的に行動すると全体として利得の少ない状態を結果的に選択してしまう、という個人の合理性の限界を示しているからである。言うまでもなく、このゲームでの最高の状態は、自分は自白して相手は黙秘を続け、結果自分は懲役2年、相手は懲役15年という状態だが、これでは二人ともがこうなるわけにはいかない。そこで、合理的に考えて現実的なもっともよい状態は、二人とも黙秘し、懲役4年ずつ服役する、という状況である。

二人とも黙秘する、という状態は、それぞれが相手に協力しているので、このケースでの「協力行動」と呼ばれる。自白してしまうのは、協力の逆ということで「裏切り」と呼ばれる。「囚人のジレンマ型ゲーム」をこの言葉を使ってもう一度説明すると、互いに協力すればより大きな利益が得られるのに、個人の利害だけを考えると裏切ることが合理的であるため、結果として裏切りあってしまい、最も悪い状態になってしまう、ということだ。

人類はその進化の過程において、「囚人のジレンマ型ゲーム」的な状況をかなり体験してきたはずだ。例えば、狩は大型の動物と戦うことにリスクがあるので、個人としてはできるだけ参加しない方がいい。しかし狩をしないと大きな動物を捕らえることはできず、果物で我慢しなくてはいけなくなる。ただし、これは単なる協力ゲームであり、正確には「ジレンマ」ではない。

だから、人類がもし目先の利益だけでなく、長期的な利益まで考えることができたら、狩へ参加することは合理的な選択となっただろう。しかし、「囚人のジレンマ」の状況は、そういうことではなく合理的に考えると正しい選択ができないということを示している。そういうときに役立つのはなんだろうか。考えるまでもなく、時に非合理的である「信頼」であり、「絆」というものだろう。つまり、人を裏切らない、という倫理観である。

そういう倫理観を持っている生物は、そういう状況に置かれた時により大きい利益を得ることが出来るため、それを持たない生物よりも全体として繁栄することができる。だから、人はそういう倫理観を発達させたはずである。ただ、倫理観が遺伝子(ゲノム)によって規定されているかどうかはわからない。おそらく、そういう遺伝子がありそうだとは考えられているが、まだ特定はされていない(おそらく複数の遺伝子が関係していると思われる)。

事実、倫理観というのは、文化や宗教に大きく左右されてしまうものと考えられがちだが、いろいろな地域、文化、宗教の人間集団を観察すると、実際には「何を倫理的だと思うか」ということはほとんど差はないという。むしろ、宗教は「人類生来の倫理」に寄生している存在であると考えられている。すなわち、宗教は、「人間生来の倫理」がなぜそうであるのかを説明する理論を構築しているだけなのである。

さて、そういうわけで、人間には生まれつきの倫理、「人類生来の倫理」というものが備わっているのである。それは、結構なことだ、と思うだろう。しかし、話はそう単純ではない。この倫理、なかなかのクセモノなのだ。それを説明するのが本稿の主題だが、かなり長くなってしまったので、次回に書くことにしよう。


【参考文献】
人間には生まれつきの倫理があるという点に関しては、その基本構造を丁寧に説明する「Moral Mind」(マーク・ハウザー著)がお勧めである。我々の持つ倫理がいかに微妙(で、かつ理性ではなかなか説明できないもの)かわかる。

2010年4月14日水曜日

「群れ」と「家族」に引き裂かれた人間

【要約】
  1. 動物には群れのタイプが2種類ある。ひとつは、群れの他のメンバーなんか知ったことではない、という完全に他人同士の群れ。もうひとつは、群れの他のメンバーの利益は(長期的に)自分の利益にもなるという、家族の群れである。
  2. 動物の場合は、自分を優先するか、群れの他のメンバーを優先するかは、その群れがどちらのタイプなのかによって決まっている。
  3. 人間の作る群れ=人間社会は、どちらのタイプにも当てはまらず、非血縁者と家族が混在している。これは、社会=群れの利益と家族の利益が時に一致し時に背反する、奇形的な形態の群れである。
  4. 生物として見れば、「群れ」よりも「家族」を優先するのが当然なのに、社会=「群れ」の維持こそ真に価値あるという幻想があるせいで、人間は「群れ」と「家族」の間で揺れ動く存在となった。

前回は「悩む」ということは、他の動物には出来ない、人間の特権なのだということを確認した。しかし、そんなことは何も生態学や進化学を持ち出すまでもなく、常識的な人間ならば誰しも気づいていることであろう。それを前提として、人間の悩みの深淵はどこにあるのかをこれから探求していきたい。

そこでまずは、「群れ」と「家族」について考えてみたい。人間は、社会(共同体、コミュニティ)と家族との間で常に引き裂かれてきた。戦争を持ち出すまでもなく、社会の構成員としての義務を優先すべきか、家族を優先すべきかという問題は、古くから人を悩ませてきたのである。卑近な例でいうと、「仕事と家庭、どっちが大事なの?」という問いにもそれは現れている。また、社会と家族との相克は、これまで多くの文学を生んできたし、多くの悲劇を生んできた。そして、この問題について、誰にでも適用可能な解決方法は、おそらく今後も見つからないだろう。

しかし、人が社会と家族の間で苦しむのはなぜだろうか。社会と家族の利害が対立することもあるので、そんなことは当たり前かもしれないが、立ち止まって考えてみたい。例えば、動物はそういう対立に苦しむことがあるのだろうか。

まず、動物にも社会は存在する、ということを確認しておこう(「会社」は存在しないけれど)。1960年代くらいまでは、動物にも社会が存在するなどとは考えられておらず、(おおざっぱに言って)動物界は弱肉強食という言葉が表すような、力が支配する無秩序な世界だと思われていた。それが、1960年代くらいから、今西錦司のサル社会の研究などがメジャーになるなど、動物界にも社会が存在することが認知されてきた。また、社会性昆虫と呼ばれる蟻や蜂の研究も盛んになり、1970年代にはエドワード・O・ウィルソンが大著「社会生物学」をまとめ、生物界における「社会」という概念は常識となった。

では、動物における社会とはどんなものか。端的に言って、それは「群れ」と言われる単位の中の構造を表している。では、「群れ」とは何か。「群れ」は複数の個体の恒常的集合であるが、大きく分けて二つのパターンがある。

(1)血縁のない個体が、集団を作っている場合(selfish herdという)
(2)血縁のある個体が、家族としてまとまっている場合

(1)の例としては、鰯の大群とか、ヌーの群れ、鳥の集団繁殖地などである。彼らがなぜ集団を作るのかというと、大群になると捕食者から狙われる確率が(特に集団の内側の方は)低くなるからである。つまり、他の個体の陰に隠れて、自分だけ助かればいいという個体がまとまっているのである。一例として、ある一匹の鰯の視点で考えてみると、他の鰯が一網打尽に喰われてしまっても、自分さえ助かっていれば何の問題もない。むしろ、自分が他の鰯の犠牲の上に助かったのであるなら、それこそが集団で行動する利益なのであり、満足すべき結果である。つまり、このタイプの集団は、群れの他の個体の利益・不利益は知ったことではなく、自分が一番大事、という社会なのである(ただし、この集団を「社会」と呼んでもいいかどうかは立場によって異なるだろうが)。

(2)の例としては、蟻、ライオンの群れ、チンパンジーの群れなどである。これらの群れは、いかに個体数が多かろうとも、家族のみで構成されている集団である。もっと正確に言えば血縁関係のある集団であるが、ここではわかりやすく「家族」と呼ぼう。彼らは、家族全体の利害が一致しているために集団で過ごしている。だから、群れの他の個体の利益・不利益は大変重要であり、群れの他の個体の利益のために、時として我が身を犠牲にする個体すら存在する。例えば、働き蟻について考えてみよう。働き蟻の一生は、子守や巣の造営のような労働で終わってしまい、自分自身の子孫を残すことすらできない。生物学の基本原理のひとつは、「生物は自らの子孫を残すために生きている」ということだから、働き蟻の存在は、この原理と矛盾しているように見える。しかし、遺伝子のレベルで考えると、自分自身の子供はいなくとも、自分の遺伝子が残っていけば、生物は環境に適応的であると言えるのであり、自分自身の直系子孫の数のみで適応度(生物としてどれくらい繁栄するか)を計るべきでない。例えば、実子を持たなくても、甥や姪がたくさんいるのであれば、自分の遺伝子の一部は次の世代に伝わっているということであるので、それをもって子孫繁栄といってもおかしくはない。(なお、甥や姪が自分とある遺伝子を共有している確率は1/4であり、自分の子供だと1/2であるので、実子が1人いて甥や姪はいない場合と、実子はいなくとも甥と姪が合わせて3人以上いる場合を比較すれば、遺伝子のレベルで見ると後者の方が「子孫繁栄」しているといえる。)

専門的に言えば、これは包括適応度という概念で説明できるが、ここでは深く立ち入らない。ただ、「家族の利益になるのであれば、仮に自分自身の得にならない行為でも、次の世代に自分の遺伝子を伝えることに役立つ(ことにつながる)ので、生物は不利益を受け入れることがある」という事実だけ押さえておこう。

働き蟻の例は、その極端な場合である。ひとつの群れにいる働き蟻は、皆一匹の女王蟻から生まれた姉妹なのだが、遺伝的な共通性は人間のきょうだいよりも実は大きい。働き蟻はもとから生殖能力を持っておらず、単に群れの維持のために生きている存在だが、女王蟻の産む生殖能力のある個体(これも、彼女らのきょうだいにあたる)が生き残れば、次の世代へ自分の遺伝子を伝えることができる。だから、働き蟻は喜んで全体の犠牲者になる。つまり、蟻の社会は根っからの全体主義である。

ライオンやチンパンジーではここまで鮮明な事例を示すことができないが、自分自身には得にならない(むしろ損する)行為でも、群れのメンバーに得になる行動をすることは多い。例えば、食料を分ける(自分の食べる分が減る)とか、迫る危険を知らせる(大声を出すことで捕食者に狙われやすくなる)といった行動である。

ここまでのことをまとめておこう。動物の世界では、2つのタイプの群れがある。ひとつは、群れの他のメンバーなんか知ったことではない、という完全な他人同士の群れ。もうひとつは、群れの他のメンバーの利益は(長期的に)自分の利益にもなるという、家族の群れである。

さて、ヒトはどちらの群れのタイプの生物だろうか。そう、答えはどちらでもない。ヒトの作る群れは、家族を単位とするが、通常血縁のないものも含まれる、どっちつかずの群れである。原始社会では血縁集団が社会の基本だっただろうと考えられるけれども、やはり血縁の濃い家族だけの社会ではなく、相当遠縁のものも含まれる、所謂「部族」社会のようなものだっただろう。

ようやく本稿の主題にたどり着いた。ヒト以外の動物には、「社会か家族か」という悩みは存在しえない。なぜなら、社会=群れの他のメンバーは自分と無関係な存在であるか、社会=群れの他のメンバーはまさしく家族であるかのどちらかだからである。ヒトのように、自分と血縁上は無関係なのにもかかわらず、利害を共有するメンバーで構成された群れは、他の動物にはみあたらないのである。

つまり、ヒトの構成する群れ、つまり「人間社会」は、動物の基準から言って、かなり奇形的であるということだ。本来、生物学的視点、つまり遺伝子をいかに次の世代に残すか、という視点でいえば、血縁関係のあるなしは最も基本的な価値基準である。しかし、人間社会において、自分の血縁関係者だけをひいきする者がいたらどうだろうか。たいていの社会で、そういう人間はよく思われない。それは、人間社会は血縁者のみならず、非血縁者も血縁者と同じように利害を共有しているという前提の下に構成されているからで、それが人間社会の大原則だからである。

よって、本来生物にとっては当然なはずの「家族を優先する行為」が、(程度の差こそあれ)社会によって抑制されることになる。なぜなら、このような行為が大手を振って許されてしまうと、血縁者と非血縁者の混在によってなりたつ社会そのものの存在基盤を揺るがしてしまうからである。よって、社会を維持していくため、「自分には得にならない(むしろ損する)が、社会全体にとっては利益になる行為」が推奨される。その行為が生物学的に正当化されるのは、あくまでも自分の遺伝子が次の世代に残る可能性を増大させる(包括適応度を高める)行為の時のみのはずであるが、人間社会においては、例えば神風特攻隊、奴隷制、生け贄のように、単に自分が損する行為にまでエスカレートしてしまう。(なお、特攻隊と生け贄については、家族の名誉を高める効果があるために包括適応度が高まる、と主張する人もいる。)

人間社会の基本構造は、本来的にそういう不自然さを抱えている。自然が追求する利己性(自分の遺伝子を次世代に残したい、という欲求)を発揮できないようになっている。生物は、本来的に利己的である。これは、生物全般が他の個体のことを何も考えない無慈悲な存在だ、ということではない。むしろ、行動自体は利他的な行動もとることがある。ただし、それは長期的には自分の利益になるという「情けは人のためならず」的な部分が勘定に入っており、その行動の究極的な動機は自分の遺伝子を次世代に残すことにつながっている、ということである。(これを、簡単に「利己的な遺伝子」という言葉を使って説明することもできるが、この言葉はあまりに人口に膾炙しすぎて、誤解している人も多いので、あえて冗長に説明した)。

人間も、生物である以上、究極的には利己的な存在であるはずである。だから、家族と社会のどちらを優先すべきかという状況になれば、普通の生物なら家族を優先するのが当たり前である。そこに悩みは存在し得ない。しかし、先述のとおり、人間社会は自分と血縁関係のない人とも利害を共有しているはずだ、という前提の下に構築された奇形的な「群れ」であるため、群れの他のメンバーの利害をどれだけ尊重するのかという点が、他の動物と比べて非常に曖昧である。

すなわち先述のように、人間社会では、個人が利己的(家族を優先させる)に振舞うことは制限されている一方で、自分の利益にならない(かもしれない)社会全体への利益を重視するよう、常に推奨されている。例えば、単純に「家族思いの行動」をすると、逆に群れから排除され、長期的にその家族の利益にならない。こういう構造が、人間を「群れ」と「家族」に引き裂いたのである。昔から、偉人といわれている人は、自分や家族のためだけに行動した人間ではなく、社会=共同体のために働いた人が多い。つまり、文化的に「群れ」の論理を推奨する役目を負っているのである。「群れ」の論理は社会維持には役立つが、本来、生物としてより重要なのは「家族」の論理であり、我々が生物として拠って立つのは「家族」の論理であるはずである。それなのに、文化的には「家族」は「群れ」よりも一段低く位置づけられており、「群れ」への貢献こそ本質的に価値のあるものなのだという幻想が撒き散らされている。そのために、人間は「群れ」と「家族」の間でいつも揺れ動くことになった。

しかも、社会維持に積極的に貢献する、従順で正直で無垢な人は、やはり損をする(もしかしたら、「偉人」には当てはまらないかもしれないが)。そして、何食わぬ顔で自分のことだけ考える輩が、得をする。こういう輩をタダ乗り(free rider)という。タダ乗りばかりが増えると社会を維持することができないので、人間社会には、タダ乗りを許さないために様々な仕掛けが設けられており、そのため複雑で面倒、非効率的なシステムになっている。しかし、その原因も、もとはといえば、血縁関係のないメンバーを家族同然に扱わなければならないという矛盾があるからである。

こんな矛盾が生じてしまう根元的な原因は何なのか。この問いに答えるには、「協力行動の進化」というテーマを深めなくてはならず、今日のところはこれは問題提起として保留しておく。この場では、人間の悩みの起源の一つは、非血縁者と家族の混在したこの奇形的な群れの形態もあるのだということを指摘するに留めたい。

過小評価されている生来の多様性

【要約】
  1. 人間には「生来の生き残り戦略」というものはないが、個人のレベルで見れば、そうとは言えない。生まれつきの性格は、そういう戦略と言えるのではないか。人間の性格は生まれつきではなく、環境に依るという考え方もあるが、ある程度生まれつきの部分はある。人格は可変部分(パラメータ)を持った基本的な「型」を土台にして形成されるものかもしれない。
  2. なぜ、こんなにもいろいろな性格があるのか。人が魅力的な性格の持ち主ばかりではないのはなぜか。その理由は、魅力的な性格が、常に生存競争で有利とは限らないからだ。
  3. 未来が本質的に不確定であるために、人間は多様な考え方を持っていることが必要だ。なぜなら、画一的な考え方の下に行動してしまうと、それが事後的に不適切な行動だったとき、群れが全滅してしまう危険があるからだ。だから、人は生まれつき多様な性格を持っており、群れを効率的に運営していくためには、多様な価値観と能力により創りだされた秩序が必要なのだ。この見方は、ゲーム理論の知見によっても支持される。
  4. しかし、(現代的な意味での)宗教では、特定の人格や生き方を理想化しているように見える。これは、全滅の危険があるという意味でリスキーだ。せめて、人間が生まれつき持っている特質に合った生き方ができるような幅を持たせることが必要ではないか。未だ、多様性の重要性を明確に主張した宗教がないのはおかしなことだ。

私は前回、人間には「生来の生き残り戦略」というものはない、と述べた。しかし、これには多少の注釈が必要である。というのも、人間全体というマクロで見る場合、人間には生来の生き残り戦略と呼べるものはないが、個人のレベルで見れば、そういった戦略がないわけではないと考えられるからだ。もっと正確に述べると、ヒトは生物として決定的な生存の様式を持っておらず、どのように生き延びるかということに柔軟性があるが、個体のレベルでは、ある程度の行動の方向性を持っていると考えられる。

具体的に、個人のレベルでの戦略とは何を指しているのかというと、それは「生まれつきの性格」である。もちろん、性格が全て生まれつきのものだとは言わない。育った環境に左右される部分も大きい。ひところ、タブラ・ラサ仮説というものがまことしやかに説かれたことがあった。人間は、生まれたときは「空白の石版」(=タブラ・ラサ)であり、環境次第でどんな人格にも育つことができるというものだ。これは、特に進歩的でリベラルな知識人に人気のある説だった。当然、人間には人種や階級、血統といったもので乗り越えられない壁があるという因習的な見方への反発として、この説には時代的な価値があった。

しかし、今ではタブラ・ラサ仮説は人気がない。例えば、倫理観のようなものは、生得的なものとして人間に備わっており、その生得的なものに反する倫理観を植えつけることはかなり困難であろうといわれている(ただし、そういう非人道的な実験はされていないので、厳密な証明はできない)。要は、ある程度人間としての原則は生まれつき埋め込まれており、環境を操作することによってどんな人間にも育て上げることができるというほど単純なものではないことが明らかになってきている。

人間としての基本的な原則は生得的であるにしても、性格のような可変性の大きな部分は環境でいかようにも変わるのではないかという考え方もあるが、これもある程度までの話である。これは、例えば、双子の研究でも裏付けられる。幼い頃に離れて育てられた一卵性双生児は、大人になってから性格を含めたいろいろな側面でそっくりであることが多い。ことによると、結婚相手の名前やペットの名前まで同じだったというような神秘的な一致が見られる時もあるが、これは今の議論では重要ではない。単に、「人の性格は、生まれつきの部分もある」ということを述べておきたい。

このことは、猫や犬などのペットの子育てを観察したことがある人はすぐさま納得するだろう。子猫や子犬にすら、生まれつきの性格があるのは明白だからだ。あるものは生まれつき大胆で、あるものは臆病だ。あるものは活発で、あるものはおとなしい。これは、同じ父母から生まれたきょうだいの性格でもかなりの程度のばらつきがあるように思われる。

では、人間の性格はどの程度が生まれつきで、どの程度が環境に依るのか。これは未だ答えの出ていない問題だが、一つの仮説として、生まれつき定まっているものは基本的な原則や方向性であり、環境で変わりうる部分はそれに付随するパラメータであるという考え方がある。つまり、人格の形成は何%が遺伝で、何%が環境だ、というように単純な割合に帰着できない問題であり、人格は可変部分(パラメータ)を持った基本的な「型」を土台にして形成されるものかもしれないということである。

さて、人の性格の基本的な部分が生まれつきだとすると、なぜ、こんなにもいろいろな性格があるのかという疑問が湧く。なぜなら、一般的には、寛容で、誠実で、開放的で、勇敢で、ユーモアがあって、知的で、協調性がある人が異性に人気がある。とすれば、よりモテた人間の子孫が繁栄するという性淘汰が働いたとすれば、人は皆こういった「望ましい」性格になったのではないかと考えられるのだ

しかし、実際には、このような性格の持ち主だらけではありえない。もちろん、その理由の一つは、既に述べたように人が文明や都市といった環境に抑圧されているために、本来の自然な性格が表出していないということもあるだろう。それでも、生まれつきこのような性格ばかりで全ての人間が生まれてくるとは思えない。

とはいえ、これは疑問でも何でもないのだ。寛容で、誠実で、開放的で、勇敢で、ユーモアがあって、知的で、協調性がある、そういう人間が常に生存競争において得をするとは限らないからだ。時と場合によっては、狭量で、不誠実で、閉鎖的で、臆病で、ユーモアがなくて、反知性的で、孤立的であることも有益な戦略になりえるのである。どちらがより有利かは、その場の環境に依存するのだ。分かりやすい例として、勇敢なのは、敵が見込みより強かった場合、死んでしまう可能性を高める性格である。うまく敵を倒すことが出来れば大きな利得が期待できるが、死んでしまうと元も子もない。

しかし、このように考えると、性格は生まれつきに決まっているよりも、その場の状況に応じて最も得な性格を選択するということが合理的ではないかと思える。もちろん、現実的に人間はそんな芸当ができないことは明らかだが、こういう戦略が適応的であれば、人類はこのように進化してもおかしくなかったのではないだろうか。それとも、そう進化しなかったということは、このような柔軟性の高い戦略は適応的でなかかったということだろうか。

私の考えは、このような柔軟な戦略は必ずしも適応的でなかったというものだ。その理由は、その場の状況に応じて最適な行動を選択することは、一見効率的に見えて、長期的にはリスクがある戦略だからだ。その理由は、本質的に未来が不確定であるためで、どのような行動が最適であるかは事後的にしかわからないからである。そして、人間は群れで生きる生物であり、狩猟採集社会における群れの運営には多様な考え方が必要だということである。

例えば、あなたが狩猟採集社会を営む群れの一員だったとして、ある時旱魃が起こり、食料や水が不足したとする。この時、あなたの最適な行動はどういうものだろうか。一つは、新たな水場まで移動するというものだろうし、一つは、雨が降るまで現在の場所に留まるというものだろう。また、群れの半分は移動し半分は残るという分離もありうるかもしれない。これらのうち、どれが最適な行動であるかはその時点ではわからない。いつどのくらいの雨がどこに降るかは予測できないからだ。これらは、保守的か、全員一致を重視するか、リスク回避的かといったあなたの性格に依存して決断される問題なのだ。

仮にその場の状況を全て勘案して「理性的に」出した答えに従うという行動を群れの全員が取るならば、その答えが間違っていたときに、その群れは全滅してしまう可能性があり大変危険である。そのため、群れ全体で考えた時に合理的なのは、不確定要素が大きい時は、群れを敢えて分裂させ、群れの一部は水を求めて移動し、一部は現在の場所に留まるというものかもしれない。とすると、そもそもこういう状態になった時、群れが自然に「新しい場所に移動する」派と、「今の場所に留まる」派に分かれるメカニズムを人間は備えていなくてはいけない

これこそ、 ある程度生まれつきの性格が必要とされた理由であろう。すなわち、あらゆる不確定要素を織り込んで最適な判断をしていくことが不可能である以上、長期的に群れが存続していくために合理的なのは、群れの内部で多様な考え方を許し、様々な行動を取らせることにより、群れの全滅を避けることではなかっただろうか

これは、何も「群れの全滅」といった生きるか死ぬかの話の場合だけではない。群れを効率的に運営していくためには、多様な価値観と能力が必要なのだ。例えば、どういったものが「多様な価値観と能力」であると言えるか具体的に列挙すると、合意形成のために周旋する仲介センス、積極的に新しいものを取り入れる力、暗鬱な局面で場を盛り上げる気楽さ、安易な満場一致に冷水を浴びせるクールな批評性、意見が合わなかった時には一人で行動する勇気、などが挙げられるであろう。

これらは、全員が備えるべき価値観とは言えない。合意形成をみんなが重視すれば、安易な満場一致に陥って最適な判断ができなくなる。みんなが新しもの好きだと、効率的な旧い仕組みが残っていかないかもしれない。また、暗鬱な局面で気楽な人間ばかりだと、真の危機に対応できないかもしれない。みんながクールな批評家だと、決まるものも決まらずに右往左往することになるかもしれない。そして、意見が合わない時に一人で行動する人間ばかりだと、群れはどんどん分裂していってしまう。要は、これらの性質は群れ=コミュニティにおけるバランスの中でこそうまく働くものであり、いくら必要だからといって、群れのみんなが画一的に備えるべき性質ではないのだ。

つまり、人間には生来の生き残り戦略はないかもしれないが、群れ、そして究極的には個人の生き残りのために、その生き残り戦略や能力を多様化してそのバランスを取ることで、群れの維持・運営が成功する蓋然性を高めているのかもしれない。そして、これはゲーム理論の知見からも支持されうるのではないかと思う。あるゲームにおける均衡(=安定的な戦略の組み合わせ)は、一般的にはある一つの戦略の独占状態ではなく、複数の戦略の共存である。これは、ある一つの戦略が極めて強力である場合ですらそういった均衡が存在している場合が多い。

例えば、大腸菌をある環境の中で培養することを考える。大腸菌Aは非常に効率性が高く、少ない栄養で大量に繁殖する。大腸菌Bは効率性が低く、多くの栄養を使う上に繁殖のペースが遅い。このような状況で、大腸菌AとBを混ぜて培養するとどうなるだろうか。これは、限られた栄養を大腸菌AとBで奪い合う一種のゲームだと見なすことができ、十分長い時間た経つと、ゲームの均衡に到達すると思われる。直感的に予想されるのは、栄養の奪い合いゲームにおいては常に大腸菌Aが有利なので、最終的には大腸菌Bは競争に負けていなくなってしまうのではないかというものだが、実際にはそうならない。本当は少し丁寧な議論が必要だが、結論としては、ある割合で大腸菌AとBが混在するというのが答えなのだ。Bは繁殖において絶対的に不利なのにも関わらず、絶滅することはないのだ。

この現象は、ゲーム理論が発達するまで謎とされていた。自然界は弱肉強食の世界であり、最適者しか生き残らないと思われていたからだ。実際には、自然界は弱肉強食だけの論理で動いているのではなかった。ゲーム理論による「均衡」という概念を少し普通の言葉に直せば、自然界は「秩序」ある状態に落ち着いていくということなのだ。だから、大腸菌AとBはある秩序の割合に落ち着く。この秩序という言葉を、先程の文脈で解釈すると、人間の群れでは多様な価値観や能力というものの組み合わせが、一つの秩序を構築しているということになる。つまり、多様性により生み出される秩序が生き残りには本質的に重要なのだ。

しかし、(現代的な意味での)宗教を考えるとき、どうもある一つの人格や生き方を理想化しているように見えるのだ。これは、私が宗教にリアリティを感じることができない理由の一つだ。本当に人間社会がある一つの人格や生き方で統一されてしまったら、その生き残り戦略がその場の環境にマッチしなくなった時、人間は全員が同時に滅びてしまうかもしれない。画一的になることはリスクなのである。では、なぜそのようなリスキーな思想が人間社会にはびこったのかという理由について、私は後に議論するつもりだ。

さて、これまで述べたように、私は人間の生き残り戦略は、多様性にあったのではないかと思っている。もちろん、多様性といってもデタラメに変わり者が多いというわけではない。群れの維持・運営に役立つ価値観や能力の多様性が重要だったということだ。それなのに、特に世界宗教と呼ばれる倫理重視の宗教が、特に始祖の性格に由来する特定の人格や生き方を、人の生きる道であると理想化することは有害ではないだろうか。もちろん、多様性を賛美するだけで理想の人格や生き方を示すことができなければ、思想的な価値はないとも言えるわけなので、ある人格の理想化のようなことが必要であることは認める。しかし、本質的に多様であるはずの人間に対して、ある類型を理想として押し付けることは、人間の救済を標榜する宗教がやるべきことなのだろうか。せめて、人間が生まれつき持っている特質に合った生き方ができるような幅を持たせることが必要ではないかと思う。とはいえ、宗教が理想とする人格は時代的に変遷してきたし、また受け取る側の捉え方次第でかなり変わりうるものである。だから、私が敢えてそれに意義を唱える必要などないのかもしれない。しかし、強調したい点は、人間社会の維持には人格や価値観の多様性が重要であると考えられるにも関わらず、未だ、そういうことを明確に主張した宗教はないのではないかということである。そして、有史以来、宗教が多様性を認めないことで愚かな排斥を受けた人間が少なからずいたことは厳然たる事実である。

2010年4月13日火曜日

「悩み」という人間の特権

【要約】
  1. 人間以外の動物には、何を選択すればよいのか、というタイプの悩みは基本的にはない。なぜなら、それぞれの生物には生来の生き残り戦略が本能として埋め込まれており、本能が行動の優先順位をつけるからである。
  2. 人間には生来の生き残り戦略と呼べるものはなく、あるとすれば「いかなる状況にも柔軟に対処する」という戦略である。つまり、人間は他の動物に比べて非常に幅の広い選択をすることが出来、そのため、動物には(おそらく)存在しない「悩み」を抱く。
  3. 「悩み」は宗教的には人間の不完全さや人格の不完成を表し、未熟な証とも見なされるが、「悩める」ということは人間の特権であり、それはむしろ「高貴なる者の義務」なのではないか。


動物には人間のような悩みはあるのだろうか。未だ動物の心理を読み解く方法が確立していないのでなんとも言えないが、類人猿のような動物には多少の悩みがあるのかもしれない。しかし、多くの動物には、おそらく人間の抱えるような悩みはないだろう。

ここで言う「人間の抱えるような悩み」とは、「Aにしようか、それともBにしようか」という選択の悩みだと狭く定義しておく。例えば、家業を継ごうか、それとも会社勤めのままでいようか、とか、ダイエットのために毎朝ジョギングしようか、それとも1分でも長く寝ていようか、といった類の悩みである。

勿論、人間が抱える悩みはこういった類の悩みだけではない。他にも、子を失った悲しみから立ち直れない、とか、老いの悩みなど、「どうしようもない悩み」はたくさんある。しかし、ここでは、選択の悩みだけに、より正確に言うと「行動に優先順位をつける悩み」に限定して考えよう。

結論を言えば、多くの動物には、おそらくそういった悩みは存在しない。なぜなら、生きる上で何を優先するかは本能(あるいは、個体の生来の性格)の中に埋め込まれているからである。これはより単純な生物では明白で、非脊椎動物などは殆ど自動化されたプログラムに基づいて生きている。

例えば、ゴキブリは空気の揺れを感じると、文字通り何も考えずに一目散に逃げる。「今逃げるべきときか、留まるべきか」とは考えないのである。このようなプログラムは無駄が多い(つまり、逃げなくてもいい時に逃げてしまうこともある)が、危機に対して確実に対処できるという意味で、生き残り戦略としては勝れている。

哺乳類の例としては、大型類人猿(チンパンジーやゴリラなど)を考えてみたい。大型類人猿は、なわばりの中を周期的に移動しなが生活している。ある拠点で得られる食料(例えば果物)が少なくなると、なわばり内の他の拠点に群れごと移動していく。ここで問題になるのは、どのタイミングで移動するかである。サルは、そういうことに悩むだろうか?答えはサル(apes)の頭の中を覗いてみなければわからないが、おそらくそういう悩みはなさそうである。なぜなら、まず群れの行動の決定権は群れのボスにあるので、ボス以外のサルは悩むことはない。ボスにとっては、それは自らの性格(移動好きか、食料がなくなるまで留まるタイプかなど)の赴くままに決めればよいことであり、やはり悩みはないと思われる。少なくとも、大型類人猿が移動していくのは本能に埋め込まれた生き残り戦略である。ボスは、いつ移動するかを自分の感覚に基づいて決定すればいいだけのことであり、「移動すべきか、移動しないべきか」といった二項対立的な選択をしているわけではない。

一方、人間はどうだろうか。人間には、動物が持っているような、生まれつきの生き残り戦略はないように見える。キリスト教では、そのことをしばしば「人間には自由意志がある」と表現する。人間に本当に自由意志があるかどうかということについては、哲学及び神学において数百年も論争されてきたテーマであり、突き詰めて考えると難しい問題であるが、動物にあるような「生まれつきの生き残り戦略」は人間にはないという意味で、私は人間には自由意志があると思う。

先ほどのゴキブリの例に対比し、危機が迫った時に人間はどうするか考えてみよう。選択肢は逃げるだけではない。戦うことも考えられるし、本当に危機が迫っているのかどうか疑うことも出来るだろう。あるいは、危機をやり過ごす別の方法(例えば敵を買収する)も状況によっていろいろと考えることができるし、日和見主義的に無視することも可能だ。

また、大型類人猿の例に対比して、食料不足に陥った時を考えると、例えば旱魃で飢饉に陥っているのなら雨が降るまでひたすら待つという方法もあろうし、どこかからか水を運んでくるということも考えられる。もちろん河の近くに移動することもできるし、極端な例としては、隣村を襲撃して食料を奪うこともできる。

こういう発想は、人間以外の動物では、今のところできないだろうと言われている(繰り返すが、未だ動物心理は完全には解析できていないので、「今のところ」とつけておく)。動物が本能に縛られ、まるで自動人形のように行動している、という見方は、ちょっと時代遅れで、今ではもう少し動物も高度な行動戦略を持っていることが知られている。特に、チンパンジーは人間顔負けの駆け引き(もはや「政治」と呼びたいほど高度な行動)をする。しかし、それでも私は人間以外の動物は、「生きるための基本戦略」は本能に埋め込まれていると思う。

逆に言えば、人間は、哲学的な表現で言えば「いかに生きるべきか」ということが個人に任されている。神というものがいるとするなら、他の動物にはそれぞれ細かい指令を与えた一方で、人間に与えた指令は「いかなる状況にも柔軟に対処すること」だけだっただろう。勿論、これはフィクションである。進化の歴史から言えば、人間も限られた行動しかできないサルだった時期があった。しかし、脳の高度化により徐々に選択の幅が広くなっていったとうことに過ぎない。

なお、正確を期するために付け加えれば、人は完全に自由な発想でいかなる行動をも選択できるわけではない。我々は通常意識できないが、やはり生物としての制約はなくなってしまったわけではなく、我々も、生物としてのヒトの基本原理に沿った行動しか取れない。しかしそれでも、「いかなる状況にも柔軟に対処する」という戦略を持つ生物は、おそらくヒト以外にはなく、「柔軟に対処出来る」幅の広さも、生物界の中で桁違いに大きいことは疑いない。

そして、選択の幅の広さこそが人間の悩みの原因のひとつであろう。人間は、動物として見れば無戦略と言えるほど、様々な選択肢を考えることができ、そして選ぶことが出来る。そのために、悩みが生じる。どうすることが一番いいのか。そもそも「一番いい」とは何がよければいいのか。そういうことで人間は悩む。いちいち悩んでいたら、動物は自然界では生き残れない。生まれつきの戦略を持たない人間という種は、不完全なのだろうか。

宗教は、それを原罪のせいにしたり、無明(悟っていない)のせいにしたりする。そして、悩む人間に対して、「それはお前が未熟な証だ」としばしば非情な断定をする。しかし、そういう負の評価と逆に、私は悩みを積極的にもとらえたい。つまり、「悩める」ということは人間の特権なのである。極論を言えば、悩みなき生物は自動人形と同じである。確かに、「悩み」は、人間に生来の「生き残りの基本戦略」がないために背負わされた「十字架」とも言えよう。キリスト教の言うように、自由意志の代償と見ることもできよう。しかし、「悩める」ということは、人間以外の動物の水準から言って、相当高度なことなのであり、それはむしろ「高貴なる者の義務」とも言えるのではないだろうか

ただし、全ての「悩み」の原因を人間の「生き残り戦略のなさ」に帰着できるわけではない。冒頭にも述べたように、ここでいう「悩み」とは全ての「悩み」ではないし、行動の優先順位に関する悩みに限定しても、「生き残り戦略のなさ」という一言だけで済むものではない。しかし、それは追って述べることとしたい。

2010年4月11日日曜日

生物としてのヒトは、3万年くらい前から進化していない

【要約】
  1. ヒトは狩猟採集生活をしていた頃から進化していない。未だに、3万年前の生活に適応した生物である。
  2. 動物園の動物は、人に特有と思われている、自傷行為、育児放棄、我が子への虐待、自慰行為、同性愛、(同種間での)大量虐殺、自殺などという「罪深い行動」をする。
  3. 人間が「罪深い行動」をするのは、本来ヒトが適応していた環境から引き離され、「文明/都市」という檻に入れられたからであり、人間が元々「罪深い」のではない。

人はなぜ苦しむのか。それに関し、進化学が示唆する一つの視点を紹介してみたい。

生物としてのヒトは、3万年くらい前から進化(環境への適応)をしていない。勿論、学説によって2万年であったり5万年であったりするが、文明以前の状態から進化していないという見解は、殆どの研究者の一致するところだと思われる。

これは何を意味するか。端的に言ってしまえば、ヒトという生物は、3万年前にそうであったように、現在でも依然として
  • 温暖で開けた、サバンナや疎林といった土地に住み、
  • 狩猟採集によって栄養を摂り、
  • 血縁を中心とした小さい集団で生活し、
  • 広い行動範囲を探索しながら生きる
ことに適応した生物だ、ということだ(ここでは上記の性質を「ヒトの生物学的基本様態」と呼ぼう)。つまり、現在の人類の多くが望むと望まざるとに関わらずそうなっている、
  • 寒暖乾湿の著しい全世界のあらゆる土地に住み、
  • 労働によって得た富で、肉食と穀物中心の食物を購入して栄養を摂り、
  • 過密状態で、多くの知らない個体に囲まれて過ごし、
  • 特定の狭い拠点のみで生活する
という、都市型のライフスタイルとは正反対の環境に我々は適応しているのである。

しかし、それの何が問題なのだろうか。多くの人は、仮にヒトという生物の基本的設計が3万年前の生活に基づいていたとしても、現在のヒトは、既に都市型の生活スタイルに「文化的に」適応しているのであるから、今さら「ヒトの生物学的基本様態」など何の意味もない、と考えているのではないだろうか。

しかし、本当にそうだろうか。ここで動物園の動物に目を転じてみよう。動物園の動物も、その基本的な生息環境から大きく引き離されて生きる生物である。具体的には、
  • 生息環境よりも暑すぎたり寒すぎたりする気候の下で、
  • 定期的でバランスの取れた餌により栄養を取り、
  • 過密状態か、または極端な孤独の状態で過ごし、
  • 狭い檻の中で退屈に一生を過ごす
生物だ。驚くべきことに、こういった動物園の動物たちは、それぞれの自然状態では殆ど観察されない、自傷行為、育児放棄、我が子への虐待、自慰行為、同性愛、(同種間での)大量虐殺、自殺などという、人間だけが行うと思われている「罪深い行動」をするようになっているのである。さらに、これらほどセンセーショナルではないが、太りすぎ、脱毛、胃潰瘍など、人間特有と思われている症状も見せる。 (なお、こういう行動を見せるのは全ての動物ではなくて、哺乳類や鳥類だけである。爬虫類や両生類にとっては、動物園という環境も結構快適なのかもしれない。)

動物園の動物たちは、まさしく抑圧されているのであり、そのために本来彼らが持っている性質を変質させられているのである。例えば、動物園にいるゴリラを見たことがある人は、檻の中をぐるぐると回り続ける行動も目撃したことがあるかもしれない。ああいう行動は、ゴリラは本来行わない行動である。自然状態のゴリラはもっとゆったりしており、一つひとつの行動に意味があり、好奇心旺盛である。動物園のゴリラは、まるで人間のように殺伐とし、無目的でいる。

一方で、動物園の動物たちは、その抑圧された環境下において、安全、安定した食糧供給、配偶者(特殊な動物でない限り)などが自動的に与えられる。だから、自然環境下よりもだいたいにおいて長生きする(勿論、例外も多い。例えば、オルカ(シャチ)などは相当短命になる)。一生を生きにくい環境で過ごす代わり、長生きできるのである。

こういう動物園の動物を見ると、人間は、まさしく動物園に入れられた動物ではないかと思えてくる。人間には檻はないけれども、「文明/都市」という檻が我々を取り囲んでいるのだ。我々は、自然状態では決して行うことのないはずの「罪深い行動」を、都市という檻の中に入れられたために、否応なしに演じさせられる動物なのかもしれない。

このように見ることは、キリスト教がそうするように、人間の「罪深い行動」は我々に与えられた(ことになっている)「自由意志」や「原罪」が原因だと考えるより、少なくとも科学的であると私は思う。そして私は、その方が、人間に対する見方が暖かいと考える。なぜならば、こういう見方をすれば、「罪深い行動」をする人間が本質的に「罪深い」からではなく、環境がそうさせたのだという立場を取れるからである。

しかし、追々述べようと思うが、実際はそれほど単純ではなく、実は「罪深い行動」の原因全てを「文明/都市」という抑圧に帰することはできない。しかし、それについての話はまた別の機会に譲ることとする。

蛇足だが、多くの人が指摘しているように、仏教、キリスト教、イスラム教という世界宗教の成立が、都市の成立と深く関連して生まれているのは示唆的である。これらの宗教は、本来人間の生きる場所でない「都市」という環境で、どうやって人は生きるべきかという教えであるように私には思えるのである。


【参考文献】
本稿は、その記述の多くを「人間動物園」(デズモンド・モリス著、矢島剛一訳(新潮選書))に負っている。デズモンド・モリスは、動物行動学の立場から現代文明に対して非常に示唆的な言説をわかりやすく説いてくれる。一読して損のない本である。また、モリスの「裸のサル」(日高敏隆訳)も人間の本質を概観できる快著。あわせて目を通したい。


2010年4月10日土曜日

前書き:このブログの趣旨

科学が全てを解決するとは思えないが、例えば2000年前に比べて多くのことが明らかになってきたのは事実だ。しかし、宗教は科学の視点からは未だ数百年は遅れているように思う。現代の常識ある大人にとって、神が6日間で世界を創ったとか、西方浄土とかいうことをまじめに信じることは、不可能でないにしてもかなり困難だ。

特に、人はなぜ苦しむのかという根源的な問いに対して、イヴが禁じられた実を食べたことが全人類の苦しみの元(楽園追放)になっているなどといわれても、正常な人は納得できないのではないか(実際には、ここまで単純な説明でないにしても)。仏教では、人間の苦しみの原因を無明(むみょう)に帰したりするが、こちらはキリスト教に比べて理知的な説明ではあるけれども、観念論的すぎるきらいがある。

一方、1980年代以降の進化学の発展で、進化心理学や認知考古学といった分野が勃興しており、これまでは宗教の領域だと思われていた人間に関する根源的な問いに科学が答える準備が整ってきている。個人的な予測では、あと20年くらいすればそういった研究成果が一般の人が参照しやすいような形に普及すると思われるが、今は研究者以外ではごく一部の好事家の興味の対象となっているだけであり、これは非常にもったいないことだ。

そこで、私自身は研究者でもなんでもなく、そういう好事家の一人にすぎないけれども、そういった科学的成果をつまみ食いで編集し、進化心理学などに興味のない人にもわかりやすくまとめてみたい。特に、現代の生活に疲れているひと、人間関係に悩んでいる人、宗教に救いを求める人に対して、このような考え方もできるんだ、という視点に気づいていただき、少しでもお役に立てればと思っている。

そのため、単に研究成果をまとめるということではなく、あえて「人はなぜ苦しむのか」というテーマを立て、「反宗教」の旗印をつけたブログにすることにした。こういうバカなマネは、研究者には無理で、単なる一好事家だからできることであろう。