前節では、進化ゲーム型のタカ-ハトゲームにおいては、タカ戦略が唯一の進化的安定戦略(ESS)になることを説明した。本節の目的は、そのようなゲームが行われている集団でどのような倫理、行動規範が進化しうるかを考察することである。
さて、その前提として、まずは前節で考察した進化ゲーム型タカ-ハトゲームを存立させている条件のうち2つが妥当なものであるか吟味する。その2つとは、第1に「利得は相対的な適応度とし、(個体は一定割合で自然死するため、)全体の個体数は一定であるとする」ということと、第2に「プレイヤーはランダムに出会ってゲームを行う」ということである。
まずは、「利得は相対的な適応度とし、全体の個体数は一定であるとする」という第1の条件は妥当なものかどうか考えてみよう。
このモデルは、限られた資源(例えば縄張り)を争う生物がどのように進化していくかをある程度うまく記述する。例えば、好戦的な個体と協力的な個体が生存競争を行う場合、このモデルでは好戦的な個体が繁栄することを予測するので、いずれは元の種とは別種の好戦的な種が確立するであろうことが想像される。しかし、こんな状況は人類進化において一般的だっただろうか?
私は、個体数が一定という条件は、本モデルを人類に応用する場合には慎重に扱うべきであろうと思う。それは、人類の人口が一定ではなかったからではない。むしろ、人口が一定の期間の方が長かったのは確実だが、それによって、人類は他の生物とは違った行動を取るのではないかと考えられるからだ。
というのも、先ほどの条件の内「利得は相対的な適応度とし」というのは、人類においては妥当ではないのではないか。適応度は次世代に残せる子孫の数(正確には、自らの遺伝子セットを持つ次世代の人数)であるから、この条件では、利得は子孫の数にしか影響しない。しかし、人間の場合は他の生物とは違い、生活水準向上や文化活動にも利得を使うのが普通である。
これは、人間と他の動物との重要な相違点である。他の動物であれば、一般的には個体が得る利益はその子供の数に直結するのが普通だ。しかし人間の場合、個人の「生活の質」を高めることにも利得は使われる。
ちなみに「生活の質」のような、生物界においてはあまり重要性を持たないであろう事柄になぜ人間は資源を浪費するようになったのか? ということは、それはそれで非常に重要かつ面白い問題であるが、ここではその理由を考究することは本筋と離れるので、それについては改めて書きたい。
結論を言えば、「人口が一定」という条件と「利得は相対的な適応度」であるという条件は、両立しないのではないかというのが私の意見である。「人口が一定」という条件は、すなわち自然から与えられる資源が有限であるということから帰結されるものであるが、これはすなわち、人口が一定以上に増える(出生率が上がる)と、飢餓や(人口密度の上昇による)疫病の発生などにより死亡率が上がり、人口が均衡することを示している。
つまり、人口が一定という条件の下では多産であることは資源の無駄になってしまう。だから獲得した利得は、子孫の数を増大させることよりもむしろ、個人の生活の質を向上させることに使われるだろう。よって、「利得は相対的な適応度とし、全体の個体数は一定であるとする」という条件は妥当とは言えない。個体数が一定であるとすれば、利得は適応度に直結しない、ということになるだろう。
では次に、「プレイヤーはランダムに出会ってゲームを行う」という条件について考えてみよう。これも、個体数(人口)が一定という条件の下であれば、非現実的な条件である。人口が一定ということはある程度社会が安定していることが前提となるが、こういうとき、社会は一般的には固定的である。すなわち、人間関係や身分が固定的で、ゲームを行う際にランダムに他人と出会うことはあり得ない。つまり、このような場合、自分の周りのプレイヤーとしかゲームを行わないという状況になるであろう。
ただし、ここで考えているのは進化ゲームなので、正確を期せば「周りのプレイヤーの”子孫”同士しかゲームを行わない」と理解しなくてはならない(ゲームは、1世代事に1回しか行われないとしているため)。しかし、ここでの考察では、こういうことをあまり厳密に考える必要はない。
ちなみに、プレイヤー同士がランダムに出会うのではなく、位置情報を持つプレイヤーが周りのプレイヤーとゲームをする場合にどういった戦略が安定的かということは、既にいろいろと研究されているので結論だけ簡単に紹介する。主には次の3つのケースがある。
第1にハトプレイヤーの集まるところとタカプレイヤーの集まるところができる(つまり棲み分けが行われる)場合。第2に全部タカプレイヤーになってしまう場合。第3に安定状態が存在せずハトとタカが交互に繁栄する場合。ちなみに、この3つのケースのどれになるかは、利得表の細かい数字と、集団の初期状態、プレイヤーの位置構造などに依存する。
さて、ようやく前提条件の吟味ができた。まとめると、次のようになる。
(1)個体数が一定であるとすれば、利得は適応度に直結しない。
(2)個体数が一定であるとすれば、プレイヤー同士はランダムに出会うことはなく、近くのプレイヤー(の子孫)同士が繰り返しゲームを行う。
この2つの帰結から何が言えるだろうか?
まず(1)であるが、もはやこのような状況においてプレイヤーは適応度(子孫の数)を大きくしようとしないのであるから、利得の大小によって次世代の戦略を予測することができなくなる。すなわち、元々の進化ゲーム型タカ-ハトゲームにおいては、期待利得が高いタカ戦略の個体の割合が増え続けたのであるが、この場合はそういう社会動態は示さないだろう。つまり、残念ながらもはやこれは進化ゲームとは呼べない。
次は(2)についてだが、これは局所的には無限回繰り返し型タカ-ハトゲームが行われることを示唆する。この場合、既に述べたようにプレイヤーは利得(1, 1)以上を実現するあらゆる戦略を採りうるということだ。
さて、これはもはやゲーム理論の範疇の考察ではないが、このような状態でどのような戦略が繁栄するだろうか。これを考察するために、迂遠なようだが、まずはこの集団でどのような倫理なり、行動規範なりが進化しうるかを考えてみよう。
少し考えれば分かる通り、この集団で進化する唯一の倫理は、「ハト戦略を実行せよ」である。なぜなら、既に述べたように倫理は第三者的・評論家的なものなので、自己の行動論理ではなく「他人にどのような行動を期待するか」によって構成される。この集団においては、自分の戦略はハトであろうとタカであろうと、他人の戦略はハトである方が自分の期待利得は高い。だから、他人にはハト戦略を期待するのだ。全ての個体が他人にハト戦略を期待するのであるから、この世界で存在する唯一の倫理は「ハト戦略を実行せよ」となる。
この点はとても示唆に富む。カントの定言命法、すなわち「あなたの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」においては、個人の採用する戦略(行動)が普遍的になりうる時、それは道徳的であると言われるのだが、この例はこれと似ているようで少し違う。この原理をカント風に言えば、「どんな他人も同様に期待するような格率が倫理である」となるだろう。
では、他人に対してはハト戦略を期待するプレイヤーたち自身はどのような戦略を採用するのだろうか?
まず、近くのプレイヤーとは長期的関係が存在するので、ハト戦略を採用することが合理的だ。局所的には、同じプレイヤー同士の繰り返し型タカ-ハトゲームと同じだからだ。この結論はながながと考察してきた割には平凡で、つまらないものに思える。
だが、前提条件を丁寧に吟味したおかげで、このような集団において、どんなときにタカ戦略を採用するかを予測することができる。
それは、個体数が一定でなくなった時、特に増加していく局面である。平たく言えば、人口が増えていく時は集団を倫理的に保つのは難しいということだ。一回限りのゲームが多くなるため、プレイヤーはタカ戦略を採用することが予想されるからだ。
この予測は、実際の社会動態とよく合致するであろう。都市に人口が流入していく局面では、田舎にあるような隣人愛的な倫理は存在しにくいことは実感として分かる。非常におおざっぱな言い方をしてしまえば、自然発生的な倫理は、田舎あるいは人口流入を終えた静的な都市に生じるものであって、発展途上の都市には生じにくいのである。
2011年6月7日火曜日
2011年4月2日土曜日
【善と悪】タカ-ハトゲーム(3) 進化ゲーム
前節までで、タカ−ハトゲームについては1回限りの場合と無限回の繰り返しが行われる場合を説明した。結論としては、合理的なプレイヤーは、1回限りのゲームではタカ戦略を、無限回繰り返しゲームでは利得(1 ,1)以上を実現するあらゆる(ハト・タカ両方の)戦略を採りうるということだった。
しかし、実際に人類が進化してきた途上において、人類は最初から合理的な存在ではなかったし、もしかすると今でも合理的な存在ではないかもしれない。だから、ゲーム理論は実際の人類の行動をうまく説明するものではないかもしれない。また、人類以外の生物の行動原理も説明したいという欲求もある。
そこで、登場するのが「進化ゲーム理論(Evolutionary Game Theory)」である。
進化ゲーム理論は、基本的にはゲーム理論の考え方を援用しながら、生物においてどのような生き残り戦略が進化しうるかを説明する理論である。ゲーム理論との重要な相違点は3つ。第1に、当然のことだがプレイヤーは世代交代していくということ。そして、次世代の個体数は、前世代の得た利得に比例する(すなわち、利得は相対的な適応度を表す)。第2に、プレイヤーは合理的存在ではなく、前世代から遺伝した戦略を自動的に採る存在だということ。ただし、次世代への遺伝は完全ではなく、小さな割合で前世代と異なる戦略を採る突然変異体が生まれるものとする。第3に、ゲーム理論ではプレイヤーの数は普通少数であったのだが、進化ゲーム理論ではプレイヤーの数は十分に多いとする。
さて、ゲーム理論においては「合理的なプレイヤーならどう行動するか?」ということを記述する「ナッシュ均衡」を求めることが一つの目的だった訳だが、進化ゲーム理論においては、プレイヤーは合理的ではないので、「どのような戦略の個体が繁栄するか」ということを求めることが目的になる。つまり、世代交代ごとにある戦略を採る個体は減り、ある戦略を採る個体は増える、というようなダイナミズムが起こっていくわけだが、その中で、どのような戦略が群れの中で繁栄するかということを調べるわけだ。
このように、群れの中で繁栄する戦略のことを「進化的安定戦略(Evolutionary Stable Strategy)」略してESSという。もっと正確には、少数の突然変異体が侵入しても個体の割合が変わらない安定的な戦略のことをいう。
さて、進化ゲーム理論の枠組みで、タカ−ハトゲームを考えてみよう。
【表3】タカ-ハトゲームの利得表
(左の数字が’行’のプレイヤーの利得、右の数字が’列’のプレイヤーの利得と読む)
利得はこれまでと同じであるとする。また、利得は相対的な適応度とし、個体は一定割合で自然死するため、全体の個体数は一定であるとする。さて、タカ、ハトどちらの個体が繁栄するだろうか。
以下、進化ゲーム理論の雰囲気を感じてもらうために、簡単な計算をしてタカ、ハトのどちらが繁栄するか調べる。ただし、結論だけ知れば十分という方は読み飛ばすことが可能である。
さて、この集団において、タカ個体の割合がpであるとする(0 < p < 1、すなわちハト個体の割合は1-p)。とすると、タカ個体は確率pでタカに出会い、確率1-pでハトに出会うので、タカの適応度の期待値Whは、それぞれに出会った際の利得を確率に掛けて
Wh = p + 4(1 - p) = 4 - 3p
である。同様にハト個体は、確率pでタカに出会い、確率1-pでハトに出会うので、その適応度の期待値Wdは、
Wd = 0 + 2(1 - p) = 2 - 2p
である。ここで、WhとWdの大小関係を調べるためにWh - Wdの正負を評価してみると、
Wh - Wd = 4 -3p - (2 - 2p) = 2 - p < 0 (なぜなら、0 < p < 1なので)
であるので、Wh < Wdである。すなわち、常にタカ個体の適応度の方が大きいので、この集団の初期状態(タカとハトの割合)がどんなものであっても、最終的にはタカ個体だらけの集団への収斂することが分かる。つまり、タカ戦略が進化的安定戦略(ESS)なのである。逆に言うと、このゲームではハト戦略は繁栄することはできないのだ。
しかしながら、この結果は【表3】の利得表を持つゲームの吟味でしかないのではないだろうか? 【表3】の利得表がちょっと違っていたらどうなるだろう。例えば、ハト同士の対戦で双方が得られる利得が2ではなく3だったらどうなるだろう。あるいは、タカ同士の対戦での双方の利得が1ではなく1/2だったら?
実は、囚人のジレンマ型ゲームにおいては、タカ型戦略が常にESSになってしまう。もっと正確に言えば、【表4】の利得構造を持つゲームにおいては、常にタカ戦略がESS、しかも唯一のESSになる。
【表4】一般的なタカ-ハトゲームの利得表
ただし、b < d < a < c
まとめると、進化ゲームを考えた時、タカ-ハトゲームにおいては常にタカ戦略の個体が繁栄するということだ。
さて、合理的なプレイヤーによる無限回繰り返しタカ-ハトゲームでは期待利得(1, 1)以上を実現するあらゆる戦略を採りうるのであった。すなわち、(ハト, ハト)という最も効率的な戦略の組を実現することができたのだ。しかし、進化的に変化していく集団においては、このような効率的な戦略は繁栄することはできない。(タカ, タカ)という、最も非効率的な戦略の組が進化的安定戦略になってしまうのだ。
この結果の違いは、一見するとプレイヤーが合理的かどうかによっているように見えるが、実はそうではない。二つのゲームの本質的な違いは、特定のプレイヤーとの継続的な関係が存在しているかということなのである。
すなわち、無限回繰り返しタカ-ハトゲームにおいては、同じプレイヤーがゲームを繰り返すのに比べ、進化ゲームにおいては、大量のプレイヤーがランダムに出会うことによってゲームを行うということが最も重要な差異である。
たとえば、様々な戦略を採る大量の合理的なプレイヤーがランダムに出会いながら(つまり、特定のプレイヤーとだけゲームを繰り返すことは出来ない状況で)ゲームを繰り返す場合、その集団はやはり最後にはタカ戦略だらけの集団になってしまうのである。
なぜなら、タカ戦略を採るプレイヤーの期待利得Whとハト戦略を採るプレイヤーの期待利得Wdを比べれば、先ほどと同様に常にWh > Wdであるので、合理的プレイヤーならばタカ戦略を採用することとなり、結局全てのプレイヤーがタカ戦略を採用してしまうからだ。
さて、この事実は倫理学にどのような示唆を与えるだろうか?
前節で述べたように、近代社会以前の村のような固定的人間関係が続く場合、無限回繰り返しタカ-ハトゲームは道徳的関係構築のモデルとして機能する。しかし、人間社会はムラ的な社会構造だけで成立しているわけではない。だから、進化ゲーム型のモデルも道徳を考える上では勘案する必要があると思う。
私見を述べれば、ゲーム理論と倫理を考える際、この点がいままであまり顧みられていなかった感がある。進化ゲーム型タカ-ハトゲーム(より一般的には、多くの個体がランダムに出会うタカ-ハトゲーム)を行う集団内において、どういう道徳、行動規範が進化しうるだろうか? 次節にてその点を考察しよう。
しかし、実際に人類が進化してきた途上において、人類は最初から合理的な存在ではなかったし、もしかすると今でも合理的な存在ではないかもしれない。だから、ゲーム理論は実際の人類の行動をうまく説明するものではないかもしれない。また、人類以外の生物の行動原理も説明したいという欲求もある。
そこで、登場するのが「進化ゲーム理論(Evolutionary Game Theory)」である。
進化ゲーム理論は、基本的にはゲーム理論の考え方を援用しながら、生物においてどのような生き残り戦略が進化しうるかを説明する理論である。ゲーム理論との重要な相違点は3つ。第1に、当然のことだがプレイヤーは世代交代していくということ。そして、次世代の個体数は、前世代の得た利得に比例する(すなわち、利得は相対的な適応度を表す)。第2に、プレイヤーは合理的存在ではなく、前世代から遺伝した戦略を自動的に採る存在だということ。ただし、次世代への遺伝は完全ではなく、小さな割合で前世代と異なる戦略を採る突然変異体が生まれるものとする。第3に、ゲーム理論ではプレイヤーの数は普通少数であったのだが、進化ゲーム理論ではプレイヤーの数は十分に多いとする。
さて、ゲーム理論においては「合理的なプレイヤーならどう行動するか?」ということを記述する「ナッシュ均衡」を求めることが一つの目的だった訳だが、進化ゲーム理論においては、プレイヤーは合理的ではないので、「どのような戦略の個体が繁栄するか」ということを求めることが目的になる。つまり、世代交代ごとにある戦略を採る個体は減り、ある戦略を採る個体は増える、というようなダイナミズムが起こっていくわけだが、その中で、どのような戦略が群れの中で繁栄するかということを調べるわけだ。
このように、群れの中で繁栄する戦略のことを「進化的安定戦略(Evolutionary Stable Strategy)」略してESSという。もっと正確には、少数の突然変異体が侵入しても個体の割合が変わらない安定的な戦略のことをいう。
さて、進化ゲーム理論の枠組みで、タカ−ハトゲームを考えてみよう。
ハト | タカ | |
ハト | (2,2) | (0,4) |
タカ | (4,0) | (1,1) |
(左の数字が’行’のプレイヤーの利得、右の数字が’列’のプレイヤーの利得と読む)
利得はこれまでと同じであるとする。また、利得は相対的な適応度とし、個体は一定割合で自然死するため、全体の個体数は一定であるとする。さて、タカ、ハトどちらの個体が繁栄するだろうか。
以下、進化ゲーム理論の雰囲気を感じてもらうために、簡単な計算をしてタカ、ハトのどちらが繁栄するか調べる。ただし、結論だけ知れば十分という方は読み飛ばすことが可能である。
さて、この集団において、タカ個体の割合がpであるとする(0 < p < 1、すなわちハト個体の割合は1-p)。とすると、タカ個体は確率pでタカに出会い、確率1-pでハトに出会うので、タカの適応度の期待値Whは、それぞれに出会った際の利得を確率に掛けて
Wh = p + 4(1 - p) = 4 - 3p
である。同様にハト個体は、確率pでタカに出会い、確率1-pでハトに出会うので、その適応度の期待値Wdは、
Wd = 0 + 2(1 - p) = 2 - 2p
である。ここで、WhとWdの大小関係を調べるためにWh - Wdの正負を評価してみると、
Wh - Wd = 4 -3p - (2 - 2p) = 2 - p < 0 (なぜなら、0 < p < 1なので)
であるので、Wh < Wdである。すなわち、常にタカ個体の適応度の方が大きいので、この集団の初期状態(タカとハトの割合)がどんなものであっても、最終的にはタカ個体だらけの集団への収斂することが分かる。つまり、タカ戦略が進化的安定戦略(ESS)なのである。逆に言うと、このゲームではハト戦略は繁栄することはできないのだ。
しかしながら、この結果は【表3】の利得表を持つゲームの吟味でしかないのではないだろうか? 【表3】の利得表がちょっと違っていたらどうなるだろう。例えば、ハト同士の対戦で双方が得られる利得が2ではなく3だったらどうなるだろう。あるいは、タカ同士の対戦での双方の利得が1ではなく1/2だったら?
実は、囚人のジレンマ型ゲームにおいては、タカ型戦略が常にESSになってしまう。もっと正確に言えば、【表4】の利得構造を持つゲームにおいては、常にタカ戦略がESS、しかも唯一のESSになる。
ハト | タカ | |
ハト | (a,a) | (b,c) |
タカ | (c,b) | (d,d) |
ただし、b < d < a < c
まとめると、進化ゲームを考えた時、タカ-ハトゲームにおいては常にタカ戦略の個体が繁栄するということだ。
さて、合理的なプレイヤーによる無限回繰り返しタカ-ハトゲームでは期待利得(1, 1)以上を実現するあらゆる戦略を採りうるのであった。すなわち、(ハト, ハト)という最も効率的な戦略の組を実現することができたのだ。しかし、進化的に変化していく集団においては、このような効率的な戦略は繁栄することはできない。(タカ, タカ)という、最も非効率的な戦略の組が進化的安定戦略になってしまうのだ。
この結果の違いは、一見するとプレイヤーが合理的かどうかによっているように見えるが、実はそうではない。二つのゲームの本質的な違いは、特定のプレイヤーとの継続的な関係が存在しているかということなのである。
すなわち、無限回繰り返しタカ-ハトゲームにおいては、同じプレイヤーがゲームを繰り返すのに比べ、進化ゲームにおいては、大量のプレイヤーがランダムに出会うことによってゲームを行うということが最も重要な差異である。
たとえば、様々な戦略を採る大量の合理的なプレイヤーがランダムに出会いながら(つまり、特定のプレイヤーとだけゲームを繰り返すことは出来ない状況で)ゲームを繰り返す場合、その集団はやはり最後にはタカ戦略だらけの集団になってしまうのである。
なぜなら、タカ戦略を採るプレイヤーの期待利得Whとハト戦略を採るプレイヤーの期待利得Wdを比べれば、先ほどと同様に常にWh > Wdであるので、合理的プレイヤーならばタカ戦略を採用することとなり、結局全てのプレイヤーがタカ戦略を採用してしまうからだ。
さて、この事実は倫理学にどのような示唆を与えるだろうか?
前節で述べたように、近代社会以前の村のような固定的人間関係が続く場合、無限回繰り返しタカ-ハトゲームは道徳的関係構築のモデルとして機能する。しかし、人間社会はムラ的な社会構造だけで成立しているわけではない。だから、進化ゲーム型のモデルも道徳を考える上では勘案する必要があると思う。
私見を述べれば、ゲーム理論と倫理を考える際、この点がいままであまり顧みられていなかった感がある。進化ゲーム型タカ-ハトゲーム(より一般的には、多くの個体がランダムに出会うタカ-ハトゲーム)を行う集団内において、どういう道徳、行動規範が進化しうるだろうか? 次節にてその点を考察しよう。
2011年2月16日水曜日
【善と悪】タカ-ハトゲーム(2)長期的関係と道徳
前節では、タカ-ハトゲームにおいては、互いにタカ戦略を採ることが合理的であり、結果として、合理的なプレイヤーは利得(1, 1)しか得られない非効率的な均衡に陥ってしまうということを述べた。
【表3】タカ-ハトゲームの利得表(再掲)
(左の数字が’行’のプレイヤーの利得、右の数字が’列’のプレイヤーの利得と読む)
では、タカ-ハトゲームを(同一のプレイヤーが)繰り返し行う場合、どのような戦略が合理的だろうか? やはりタカ戦略が合理的なのだろうか?
結論を先に述べると、このゲームを繰り返し行う場合は、利得(1, 1)以上を実現する、混合戦略まで含めたあらゆる戦略がナッシュ均衡になる。すなわち、互いにハト戦略を採り、利得(2, 2)を得る戦略の組もナッシュ均衡(=合理的プレイヤーが採用する戦略の組)になる。
もう少し正確に述べよう。まず「繰り返し」行うという意味は、「無限回の繰り返し」を意味することとする。有限回の繰り返しを行う場合は、依然として互いにタカ戦略を採ることがナッシュ均衡である。
なぜなら、有限回の繰り返しなので、最後のゲームがあるわけだが、最後のゲームは1回限りのゲームと同じなので、互いにタカ戦略を採ることがナッシュ均衡だ。つまり、最終回は双方がタカを採ることを合理的プレイヤーは予想する。
次に、最後から2番目のゲームだが、最後のゲームは互いにタカ戦略を採ることが予想されている(結果が分かっている)ので、これも1回限りのゲームと同じく、互いにタカ戦略を採ることが合理的だ。
同様に、全ての回において以上のことが成り立ち、最後の回から遡る形で(タカ, タカ)戦略が全ての回のゲームにおける合理的な戦略になるのである。
逆に、無限回ゲームを続ける場合は、「最後の回」というのがないので、以上の論理は成り立たない。そして、合理的プレイヤーが将来得られる利益を最大化しようとするならば、例えば、「相手がハト戦略を採り続ける限り、自分もハト戦略を採る」というような双方の戦略がナッシュ均衡になることは容易に想像できる(先述の通り、ナッシュ均衡を実現する戦略の組は混合戦略を含めれば無限にあることに注意。双方がタカ戦略を採る組もナッシュ均衡になる)。
このことから示唆されるのは、多少飛躍するように見えるだろうが、「道徳とは長期的関係を前提にしなければ成立しえない」ということだろう。
どういうことかというと、タカ-ハトゲームが表しているのは、一種の道徳的葛藤の状況であるとも考えられる。互いにハト戦略で「協力」すれば、それなりに大きな利得を得ることが出来るが、相手がハトであればタカ戦略で「裏切り」をするとより大きな利得を得ることができる。一方で、互いがタカで争い合うと小さな利得しか得られない。これは、我々がよく経験する状況である。
例えば、約束を破ることで大きな利益を得られる場合も、互いが約束を破りあえば小さな利益しか得られない、と言うように。
つまり、互いが「そこそこの利益」で満足すればその利得が確保できるのに、より大きな利益を目指してしまうと、互いがひどい状況に陥ってしまうというジレンマなのだ。そして、これが1回限りの場合は、奇妙なことに「ひどい状況」に陥ることが合理的なのだが、無限回ゲームが繰り返される場合は「協力」することも合理的になるのだ。
これは、互いが「そこそこの利益」で満足するためには、プレイヤー間に長期的な(正確には「無限回ゲームが続く」)関係がなければ実現できないということを意味する。
しかし、現実世界において「無限回の」ゲームが行われるということはないのではないか? という疑問があるだろう。実は、繰り返し型タカ-ハトゲームで(ハト, ハト)戦略がナッシュ均衡になるためには、無限回のゲームが行われる必要はない。
必要なのは、「終わりのないゲーム」なのだ。つまり、実際は無限回でなくても、プレイヤー自身にも、いつが最終回のゲームなのかわからないという条件を満たせば十分なのだ。「今回が最終回だ」ということが認識できないとすれば、ハト戦略からタカ戦略に転換するポイントもなく、「協力」が持続できる。
すなわち、人々が道徳的関係を築くための条件は、いつが関係の終わりなのか分からない、という意味での長期的関係が必要になるのである。
これは、当たり前のようだけれども、大変重要なことである。なぜなら、過去の日本のように人間関係が固定されている場合には道徳的関係が構築される可能性は高いのだが、現代社会のように、多くの関係が一回限りである場合には、自然発生的には道徳的関係が構築されえないということを示唆するからだ。
事実、近代以降の資本主義社会において重要なのは、公正な取引を行うという「信用」でああったが、法制度が完備されていなかった近代社会において、「信用」の源泉としてのキリスト教への「信仰」は極めて重要だったと見られている。
すなわち、一回限りの取引を行う場合は、その取引で不正をすることが合理的になってしまうため自然状態だと取引ができないが、信仰心によって公正な取引が担保されることで市場経済が発展するのだ。
取引の場合は、不正を行った際のペナルティを高めることで公正な取引を実現することができるが、この世界は法で規制できるような関係ばかりではない。資本主義社会がより拡大し、1回限りの関係が増えていった時、世界全体が道徳的な関係でつながることができるのかは疑わしい。しかし、緩やかであっても道徳的な関係が構築されないかぎり、世界から紛争がなくなることはないだろう。
ハト | タカ | |
ハト | (2,2) | (0,4) |
タカ | (4,0) | (1,1) |
(左の数字が’行’のプレイヤーの利得、右の数字が’列’のプレイヤーの利得と読む)
では、タカ-ハトゲームを(同一のプレイヤーが)繰り返し行う場合、どのような戦略が合理的だろうか? やはりタカ戦略が合理的なのだろうか?
結論を先に述べると、このゲームを繰り返し行う場合は、利得(1, 1)以上を実現する、混合戦略まで含めたあらゆる戦略がナッシュ均衡になる。すなわち、互いにハト戦略を採り、利得(2, 2)を得る戦略の組もナッシュ均衡(=合理的プレイヤーが採用する戦略の組)になる。
もう少し正確に述べよう。まず「繰り返し」行うという意味は、「無限回の繰り返し」を意味することとする。有限回の繰り返しを行う場合は、依然として互いにタカ戦略を採ることがナッシュ均衡である。
なぜなら、有限回の繰り返しなので、最後のゲームがあるわけだが、最後のゲームは1回限りのゲームと同じなので、互いにタカ戦略を採ることがナッシュ均衡だ。つまり、最終回は双方がタカを採ることを合理的プレイヤーは予想する。
次に、最後から2番目のゲームだが、最後のゲームは互いにタカ戦略を採ることが予想されている(結果が分かっている)ので、これも1回限りのゲームと同じく、互いにタカ戦略を採ることが合理的だ。
同様に、全ての回において以上のことが成り立ち、最後の回から遡る形で(タカ, タカ)戦略が全ての回のゲームにおける合理的な戦略になるのである。
逆に、無限回ゲームを続ける場合は、「最後の回」というのがないので、以上の論理は成り立たない。そして、合理的プレイヤーが将来得られる利益を最大化しようとするならば、例えば、「相手がハト戦略を採り続ける限り、自分もハト戦略を採る」というような双方の戦略がナッシュ均衡になることは容易に想像できる(先述の通り、ナッシュ均衡を実現する戦略の組は混合戦略を含めれば無限にあることに注意。双方がタカ戦略を採る組もナッシュ均衡になる)。
このことから示唆されるのは、多少飛躍するように見えるだろうが、「道徳とは長期的関係を前提にしなければ成立しえない」ということだろう。
どういうことかというと、タカ-ハトゲームが表しているのは、一種の道徳的葛藤の状況であるとも考えられる。互いにハト戦略で「協力」すれば、それなりに大きな利得を得ることが出来るが、相手がハトであればタカ戦略で「裏切り」をするとより大きな利得を得ることができる。一方で、互いがタカで争い合うと小さな利得しか得られない。これは、我々がよく経験する状況である。
例えば、約束を破ることで大きな利益を得られる場合も、互いが約束を破りあえば小さな利益しか得られない、と言うように。
つまり、互いが「そこそこの利益」で満足すればその利得が確保できるのに、より大きな利益を目指してしまうと、互いがひどい状況に陥ってしまうというジレンマなのだ。そして、これが1回限りの場合は、奇妙なことに「ひどい状況」に陥ることが合理的なのだが、無限回ゲームが繰り返される場合は「協力」することも合理的になるのだ。
これは、互いが「そこそこの利益」で満足するためには、プレイヤー間に長期的な(正確には「無限回ゲームが続く」)関係がなければ実現できないということを意味する。
しかし、現実世界において「無限回の」ゲームが行われるということはないのではないか? という疑問があるだろう。実は、繰り返し型タカ-ハトゲームで(ハト, ハト)戦略がナッシュ均衡になるためには、無限回のゲームが行われる必要はない。
必要なのは、「終わりのないゲーム」なのだ。つまり、実際は無限回でなくても、プレイヤー自身にも、いつが最終回のゲームなのかわからないという条件を満たせば十分なのだ。「今回が最終回だ」ということが認識できないとすれば、ハト戦略からタカ戦略に転換するポイントもなく、「協力」が持続できる。
すなわち、人々が道徳的関係を築くための条件は、いつが関係の終わりなのか分からない、という意味での長期的関係が必要になるのである。
これは、当たり前のようだけれども、大変重要なことである。なぜなら、過去の日本のように人間関係が固定されている場合には道徳的関係が構築される可能性は高いのだが、現代社会のように、多くの関係が一回限りである場合には、自然発生的には道徳的関係が構築されえないということを示唆するからだ。
事実、近代以降の資本主義社会において重要なのは、公正な取引を行うという「信用」でああったが、法制度が完備されていなかった近代社会において、「信用」の源泉としてのキリスト教への「信仰」は極めて重要だったと見られている。
すなわち、一回限りの取引を行う場合は、その取引で不正をすることが合理的になってしまうため自然状態だと取引ができないが、信仰心によって公正な取引が担保されることで市場経済が発展するのだ。
取引の場合は、不正を行った際のペナルティを高めることで公正な取引を実現することができるが、この世界は法で規制できるような関係ばかりではない。資本主義社会がより拡大し、1回限りの関係が増えていった時、世界全体が道徳的な関係でつながることができるのかは疑わしい。しかし、緩やかであっても道徳的な関係が構築されないかぎり、世界から紛争がなくなることはないだろう。
2011年2月5日土曜日
【善と悪】タカ-ハトゲーム(1) 囚人のジレンマ
倫理を考えるための深い示唆を与えるゲームが「タカ-ハトゲーム(Hawk-Dove Game)」だ。このゲームは、人間行動ではなく動物行動の分析のために考案されたもので、次のような利得構造を持つ(本当はいろんなバージョンがあるが、ここではこれだけ紹介する)。
【表3】タカ-ハトゲームの利得表
(左の数字が’行’のプレイヤーの利得、右の数字が’列’のプレイヤーの利得と読む)
この利得行列の意味は次の通りである。
まず、このゲームが想定している状況は、縄張り争いや獲物を巡る争いだと想像してもらいたい。そし、「ハト戦略」の個体は縄張り争いの際、威嚇はするが実際に争うことはせず、戦いが始まりそうになると逃げ、ハト戦略の個体同士ならば(互いに威嚇だけしつづければ)資源を分け合う。「タカ戦略」の個体は、縄張りを巡って実際に争い、勝った方が資源の全てを独占する。
そして、利得表で表されている「利得」は「適応度」とする。すなわち、残せる子孫の数である。
以上の想定の下で利得表を吟味するとこうなる。まず、「ハト戦略」の個体(というのは面倒なので、以下「ハト」という)同士が出会った場合、資源を分け合うので、それぞれ2の利得を得る。次に、ハトとタカが出会った場合、互いに威嚇はするものの、タカだけが実際に攻撃してハトは逃げるため、資源をタカが独占する。ハト同士が分け合った時の利得がそれぞれ2なので、それを独占するタカは合計の利得4を得る。一方、戦いに負けたハトはより劣悪な環境のもとに追いやられるので、利得は0なる。最後に、タカ同士が出会った場合、勝った方は資源を独占できるので4、負けた方は劣悪な環境に追いやられるだけでなく、戦いに負けて利得2分のダメージを受けるとして、0−2=−2の利得を得る。双方は等確率で勝ったり負けたりすると仮定すれば、タカ同士の戦いにおける期待利得は、4×1/2 + (-2)×1/2 = 1 となる。
ところで、タカ同士の戦いで負ける方が受けるダメージが−2であると想定するのは、理に適っているだろうか? 例えば、互いに死ぬまで戦うような激しい戦いにはならないのだろうか?
もちろん、そういう行動を取る方が合理的な場合もあると思うが、とりあえず今は、利得4を50%の確率でとれるということにしているので、(ダメージを考えない)期待利得は2。よって、期待利得以上にダメージを受ける戦いをするのは損だ、という想定をすれば、ダメージを−2に止めて逃げるのは、ある程度合理的な引き際だと考えられる。
さて、このようなゲームにおいて、どのように行動するのが合理的だろうか?
まず、相手がタカ戦略をとると仮定しよう、もし自分がハトを取ると利得は0で、タカを取れば利得は1なので、自分もタカ戦略をとることが合理的だ。次に、相手がハト戦略をとると仮定すれば、自分もハト戦略なら利得は2だが、タカ戦略をとれば利得は4になるので、タカ戦略をとることが合理的だ。よって、対戦相手の戦略が何であれ、タカ戦略をとることが合理的であるとなる。
利得の構造は対称(相手も同じ)なので、双方がタカ戦略を採用することとなり、結果的にはタカ対タカの争いなので、双方の期待利得は(1,1)になる。
しかし、この結果は一見不合理だ。なぜなら、双方がハト戦略を採用すれば(2,2)の利得を得ることができるのに、双方が「合理的」に行動した結果、それよりも悪い状態である(1,1)を選択してしまうからだ。
このように、プレイヤーが合理的に行動することで、非効率的な(利得が低い)状態に陥る問題のことを「囚人のジレンマ(Prisoner's Dilemma)」という。
事実、(タカ, タカ)という戦略の組はナッシュ均衡になっているが、(ハト, ハト)という戦略の組はナッシュ均衡ではない。より利得が高いはずの戦略の組がナッシュ均衡にならないということは、ゲーム理論(正確にはナッシュの理論)に欠陥があるのではないだろうか?
と、直観的には思うものの、その批判は的外れである。そもそも、ナッシュ均衡は利得を最大化する戦略の組を求めるための概念ではない。ナッシュ均衡は、互いに最適戦略になる戦略の組(つまり、相手が戦略を変えない限り、自分も戦略を変える必要がないという状態)を表す概念だ。ナッシュ均衡で利得が最大化される、とは誰も言っていないのだ。
そして、もう一つの勘違いは、「双方のプレイヤーが合理的に行動すれば、互いの利得が最大化されるはずだ」という思い込みだ。合理性は必ずしも我々を最適な状態に導くとは限らない。我々は、「合理的」という言葉の響きに騙されて、それがあたかも個体の状態をよくするツールであるかのように考えてしまうが、合理的に行動することで最適の状態を達成できる保証はないのだ。
古くからの迷信のような道徳は、一見すると不合理だ。しかし、そういった伝統的な道徳の下でうまくいく社会もあるのであり、そういった道徳を「程度の低い」ものとして退けるのは素朴すぎる考え方だ。我々は時に、全員が不合理な行動をすることによって最善の状態を達成することもあるのだ。
ハト | タカ | |
ハト | (2,2) | (0,4) |
タカ | (4,0) | (1,1) |
(左の数字が’行’のプレイヤーの利得、右の数字が’列’のプレイヤーの利得と読む)
この利得行列の意味は次の通りである。
まず、このゲームが想定している状況は、縄張り争いや獲物を巡る争いだと想像してもらいたい。そし、「ハト戦略」の個体は縄張り争いの際、威嚇はするが実際に争うことはせず、戦いが始まりそうになると逃げ、ハト戦略の個体同士ならば(互いに威嚇だけしつづければ)資源を分け合う。「タカ戦略」の個体は、縄張りを巡って実際に争い、勝った方が資源の全てを独占する。
そして、利得表で表されている「利得」は「適応度」とする。すなわち、残せる子孫の数である。
以上の想定の下で利得表を吟味するとこうなる。まず、「ハト戦略」の個体(というのは面倒なので、以下「ハト」という)同士が出会った場合、資源を分け合うので、それぞれ2の利得を得る。次に、ハトとタカが出会った場合、互いに威嚇はするものの、タカだけが実際に攻撃してハトは逃げるため、資源をタカが独占する。ハト同士が分け合った時の利得がそれぞれ2なので、それを独占するタカは合計の利得4を得る。一方、戦いに負けたハトはより劣悪な環境のもとに追いやられるので、利得は0なる。最後に、タカ同士が出会った場合、勝った方は資源を独占できるので4、負けた方は劣悪な環境に追いやられるだけでなく、戦いに負けて利得2分のダメージを受けるとして、0−2=−2の利得を得る。双方は等確率で勝ったり負けたりすると仮定すれば、タカ同士の戦いにおける期待利得は、4×1/2 + (-2)×1/2 = 1 となる。
ところで、タカ同士の戦いで負ける方が受けるダメージが−2であると想定するのは、理に適っているだろうか? 例えば、互いに死ぬまで戦うような激しい戦いにはならないのだろうか?
もちろん、そういう行動を取る方が合理的な場合もあると思うが、とりあえず今は、利得4を50%の確率でとれるということにしているので、(ダメージを考えない)期待利得は2。よって、期待利得以上にダメージを受ける戦いをするのは損だ、という想定をすれば、ダメージを−2に止めて逃げるのは、ある程度合理的な引き際だと考えられる。
さて、このようなゲームにおいて、どのように行動するのが合理的だろうか?
まず、相手がタカ戦略をとると仮定しよう、もし自分がハトを取ると利得は0で、タカを取れば利得は1なので、自分もタカ戦略をとることが合理的だ。次に、相手がハト戦略をとると仮定すれば、自分もハト戦略なら利得は2だが、タカ戦略をとれば利得は4になるので、タカ戦略をとることが合理的だ。よって、対戦相手の戦略が何であれ、タカ戦略をとることが合理的であるとなる。
利得の構造は対称(相手も同じ)なので、双方がタカ戦略を採用することとなり、結果的にはタカ対タカの争いなので、双方の期待利得は(1,1)になる。
しかし、この結果は一見不合理だ。なぜなら、双方がハト戦略を採用すれば(2,2)の利得を得ることができるのに、双方が「合理的」に行動した結果、それよりも悪い状態である(1,1)を選択してしまうからだ。
このように、プレイヤーが合理的に行動することで、非効率的な(利得が低い)状態に陥る問題のことを「囚人のジレンマ(Prisoner's Dilemma)」という。
事実、(タカ, タカ)という戦略の組はナッシュ均衡になっているが、(ハト, ハト)という戦略の組はナッシュ均衡ではない。より利得が高いはずの戦略の組がナッシュ均衡にならないということは、ゲーム理論(正確にはナッシュの理論)に欠陥があるのではないだろうか?
と、直観的には思うものの、その批判は的外れである。そもそも、ナッシュ均衡は利得を最大化する戦略の組を求めるための概念ではない。ナッシュ均衡は、互いに最適戦略になる戦略の組(つまり、相手が戦略を変えない限り、自分も戦略を変える必要がないという状態)を表す概念だ。ナッシュ均衡で利得が最大化される、とは誰も言っていないのだ。
そして、もう一つの勘違いは、「双方のプレイヤーが合理的に行動すれば、互いの利得が最大化されるはずだ」という思い込みだ。合理性は必ずしも我々を最適な状態に導くとは限らない。我々は、「合理的」という言葉の響きに騙されて、それがあたかも個体の状態をよくするツールであるかのように考えてしまうが、合理的に行動することで最適の状態を達成できる保証はないのだ。
古くからの迷信のような道徳は、一見すると不合理だ。しかし、そういった伝統的な道徳の下でうまくいく社会もあるのであり、そういった道徳を「程度の低い」ものとして退けるのは素朴すぎる考え方だ。我々は時に、全員が不合理な行動をすることによって最善の状態を達成することもあるのだ。
2011年1月28日金曜日
【善と悪】社会から独立した普遍的倫理など存在しない
倫理感覚は第三者的なものであるということについて、もう少し述べておきたい。
倫理感覚が第三者的であるということは、「正義は第三者が決める」ということではない。もちろん、対立する人間の調停は第三者でないと困難なので、例えば裁判官のような第三者に裁いてもらうというのが法治国家の正義のあり方だが、ここでいいたいことはそのことではない。
むしろ、倫理感覚は「自分の中にいる第三者の目」であるということだ。つまり、「社会の他の人であればこのことをどう考えるだろう?」という、他者の心をシミュレートする感覚なのだ。他者の心をシミュレートする能力は、ごく一部の大型霊長類を除けば、あらゆる生物の中で人間しか持っていない能力だし、人間のように洗練された高度なシミュレート能力を持っている生物は、大型霊長類にもいない。
他者の心を自らの心の中にシミュレート(再現)するとはどういうことだろうか。例えばこんな実験がある。被験者は、まず次のような様子を見せられる。ある人(Aさんとする)が現れて、お菓子を棚の中に隠す。Aさんが退場した後、別の人がやってきて、棚の中に入ったお菓子を見つけて箱の中に隠してしまう。そして、被験者に「Aさんがお菓子を取りに戻ってきたら、どこを探しますか?」と聞く、というものだ。
当然、正しい答えは「棚の中」である。しかし、認知能力が発達していない子供(2歳児)は、「箱の中!」と答えてしまう。お菓子が箱の中にあるという「事実」と、Aさんが心の中で思っている「信念(belief)」を混同してしまうのだ。(なお、この「信念」という言葉は倫理学/哲学用語で、一般に「あの人は信念がある人だ」というように使う信念のことではない。「人がもっているある考え」くらいに理解してもらえればよい。)
この実験は、他人の心を自分の心の中に再現するという、我々がごく当たり前にやっていることをわかりやすく示すものだ。さて、「Aさんはお菓子が棚の中にあると思っている」のように他人の心をシミュレートすることを、ここでは「第1段階のシミュレート」と呼ぶことにしよう。
次に、「「Aさんはお菓子が棚の中にあると思っている」とBさんは信じている」のように、他人の心をシミュレートする人の心をシミュレートすることを「第2段階のシミュレート」と呼ぶことにしよう。同様に、第3段階、第4段階のシミュレートを定義することができる。
さて、人間はどれくらいの段階のシミュレートまで出来るだろうか。これまでの研究によれば、だいたい5段階くらいまでが限界だそうだ。5段階というと、「Aさんはお菓子が棚の中にあると思っている、とBさんは信じている、とCさんは考えていることを、Bさんは予想している、ということをAさんは知っている」というような状態を人間は理解することができるというわけだ。
私は正直、上の文で表されている状況を頭に思い描くことは難しいのだが、平均的に3段階くらいまでなら容易に思い描くことができるのではないかと思う。
さて、なぜ人間はこのような他人の心を何段階にもわたってシミュレートする能力を獲得したのだろうか?
答えはおそらく単純だ。群れ(社会)を構築して生きなければならなかった人類においては、群れの他のメンバーが何を考えているのかということは重要な戦略的な情報だったのだ。他人の心を読むことに長けた個体はより成功しただろうし、他人の心を読むことがヘタだった個体は繁栄できなかっただろう。
これは、既に触れた運転ゲーム的状況を考えるだけでも分かる。運転ゲームにおいては、各プレイヤーが「共有知」を持っていることでナッシュ均衡を実現する戦略を容易に選択することができた訳だが、その「共有知」をもう一度正確に述べるとこうなる。
「ゲームが過去にある戦略で均衡を実現してきたことをプレイヤーが知っていて、また双方のプレイヤーがそのことを知っている、ということを双方が知っていて、かつそのこと(双方がそのことを知っているということを双方が知っているということ)を双方が知っている場合、それを「共有知」という。」
かなりややこしく、一読しただけでは文意がつかみにくいが、要は互いに相手の手の内を知っている、ということを双方が知っているという場合に「共有知」が存在するといえるのだ。ちなみにこれは、3段階のシミュレートにあたる情報である。
そして、運転ゲームならずとも、他者がどういう行動を取るか予想することの出来る人間は、あらゆるゲームにおいてより大きな利得を得ることができることは容易に分かる。
さて、近代西洋哲学においては、デカルト(1596-1650)の「我思う、ゆえに我あり」という言葉に代表されるように、「合理的個人」を全ての出発点としてきたが、少なくとも倫理に関する限り、やはりこれは幻想だったということだ。
世界にたった一人しか存在しないとしたら、いかなる倫理も生じ得ないことはすぐにわかるだろう。現実の個人は社会(コミュニティ)の中で生きているのであり、コミュニティの価値観(共有知)を基軸にして行動しなくては、コミュニティの利益を毀損するのみならず、自己の利益の最大化をすることも出来ない。これが自由主義を批判するところのコミュニタリアリズム(communitarianism、共同体主義)の要諦である。
倫理感覚は、基本的に自らの適応度を高めるための装置であると考えられているが、より具体的に言えば、「社会の中での自他の行動の規矩(許容範囲)を定める」ものである。すなわち、倫理を考える際には、カントが想定するような「合理的個人」ではなく、個人が埋め込まれているところの「社会」に目を向けなくてはならない。
倫理感覚は第三者的なものである、ということは、その第三者がどういう人間であるかが重要なのだ。すなわち、第三者(もちろん当事者も)が所属する社会がどういうものであるかが重要であるということだ。従来の倫理学において、この視点があまりにも軽視されてきたと私は考える。
遊牧生活をする社会には「遊牧の倫理」があるし、工業化社会には「工業化社会の倫理」がある。長子相続の社会には「長子相続の倫理」があるし、貧しい社会には「貧しい社会の倫理」があるはずなのだ。
これからの倫理を構想するためには、どのような社会における倫理なのか、ということをまずは考えなくてはならない。社会から独立した、普遍的倫理の体系など存在しない。もちろん、人を理由なく殺してはならない、というような道徳的直観的は普遍的である。しかし、道徳的直観のみで倫理の体系全体を導出できると考えるのはナイーブすぎるだろう。
ところで、コミュニタリアリズムなどといっても、日本人にはなかなかピンと来ない。何しろ、日本人には独立自尊の「合理的個人」などというものがほとんど成立せず、普通の人は常に共同体の一部であったため、「コミュニタリアリズムなどと、今更何を偉そうに言っているのだろう」という印象を持つからだ。これは極めて当然であり、私自身、コミュニタリアリズムにあまり魅力を感じない。コミュニタリアリズムは、出発点としての視座に過ぎないのではないか。
倫理感覚が第三者的であるということは、「正義は第三者が決める」ということではない。もちろん、対立する人間の調停は第三者でないと困難なので、例えば裁判官のような第三者に裁いてもらうというのが法治国家の正義のあり方だが、ここでいいたいことはそのことではない。
むしろ、倫理感覚は「自分の中にいる第三者の目」であるということだ。つまり、「社会の他の人であればこのことをどう考えるだろう?」という、他者の心をシミュレートする感覚なのだ。他者の心をシミュレートする能力は、ごく一部の大型霊長類を除けば、あらゆる生物の中で人間しか持っていない能力だし、人間のように洗練された高度なシミュレート能力を持っている生物は、大型霊長類にもいない。
他者の心を自らの心の中にシミュレート(再現)するとはどういうことだろうか。例えばこんな実験がある。被験者は、まず次のような様子を見せられる。ある人(Aさんとする)が現れて、お菓子を棚の中に隠す。Aさんが退場した後、別の人がやってきて、棚の中に入ったお菓子を見つけて箱の中に隠してしまう。そして、被験者に「Aさんがお菓子を取りに戻ってきたら、どこを探しますか?」と聞く、というものだ。
当然、正しい答えは「棚の中」である。しかし、認知能力が発達していない子供(2歳児)は、「箱の中!」と答えてしまう。お菓子が箱の中にあるという「事実」と、Aさんが心の中で思っている「信念(belief)」を混同してしまうのだ。(なお、この「信念」という言葉は倫理学/哲学用語で、一般に「あの人は信念がある人だ」というように使う信念のことではない。「人がもっているある考え」くらいに理解してもらえればよい。)
この実験は、他人の心を自分の心の中に再現するという、我々がごく当たり前にやっていることをわかりやすく示すものだ。さて、「Aさんはお菓子が棚の中にあると思っている」のように他人の心をシミュレートすることを、ここでは「第1段階のシミュレート」と呼ぶことにしよう。
次に、「「Aさんはお菓子が棚の中にあると思っている」とBさんは信じている」のように、他人の心をシミュレートする人の心をシミュレートすることを「第2段階のシミュレート」と呼ぶことにしよう。同様に、第3段階、第4段階のシミュレートを定義することができる。
さて、人間はどれくらいの段階のシミュレートまで出来るだろうか。これまでの研究によれば、だいたい5段階くらいまでが限界だそうだ。5段階というと、「Aさんはお菓子が棚の中にあると思っている、とBさんは信じている、とCさんは考えていることを、Bさんは予想している、ということをAさんは知っている」というような状態を人間は理解することができるというわけだ。
私は正直、上の文で表されている状況を頭に思い描くことは難しいのだが、平均的に3段階くらいまでなら容易に思い描くことができるのではないかと思う。
さて、なぜ人間はこのような他人の心を何段階にもわたってシミュレートする能力を獲得したのだろうか?
答えはおそらく単純だ。群れ(社会)を構築して生きなければならなかった人類においては、群れの他のメンバーが何を考えているのかということは重要な戦略的な情報だったのだ。他人の心を読むことに長けた個体はより成功しただろうし、他人の心を読むことがヘタだった個体は繁栄できなかっただろう。
これは、既に触れた運転ゲーム的状況を考えるだけでも分かる。運転ゲームにおいては、各プレイヤーが「共有知」を持っていることでナッシュ均衡を実現する戦略を容易に選択することができた訳だが、その「共有知」をもう一度正確に述べるとこうなる。
「ゲームが過去にある戦略で均衡を実現してきたことをプレイヤーが知っていて、また双方のプレイヤーがそのことを知っている、ということを双方が知っていて、かつそのこと(双方がそのことを知っているということを双方が知っているということ)を双方が知っている場合、それを「共有知」という。」
かなりややこしく、一読しただけでは文意がつかみにくいが、要は互いに相手の手の内を知っている、ということを双方が知っているという場合に「共有知」が存在するといえるのだ。ちなみにこれは、3段階のシミュレートにあたる情報である。
そして、運転ゲームならずとも、他者がどういう行動を取るか予想することの出来る人間は、あらゆるゲームにおいてより大きな利得を得ることができることは容易に分かる。
さて、近代西洋哲学においては、デカルト(1596-1650)の「我思う、ゆえに我あり」という言葉に代表されるように、「合理的個人」を全ての出発点としてきたが、少なくとも倫理に関する限り、やはりこれは幻想だったということだ。
世界にたった一人しか存在しないとしたら、いかなる倫理も生じ得ないことはすぐにわかるだろう。現実の個人は社会(コミュニティ)の中で生きているのであり、コミュニティの価値観(共有知)を基軸にして行動しなくては、コミュニティの利益を毀損するのみならず、自己の利益の最大化をすることも出来ない。これが自由主義を批判するところのコミュニタリアリズム(communitarianism、共同体主義)の要諦である。
倫理感覚は、基本的に自らの適応度を高めるための装置であると考えられているが、より具体的に言えば、「社会の中での自他の行動の規矩(許容範囲)を定める」ものである。すなわち、倫理を考える際には、カントが想定するような「合理的個人」ではなく、個人が埋め込まれているところの「社会」に目を向けなくてはならない。
倫理感覚は第三者的なものである、ということは、その第三者がどういう人間であるかが重要なのだ。すなわち、第三者(もちろん当事者も)が所属する社会がどういうものであるかが重要であるということだ。従来の倫理学において、この視点があまりにも軽視されてきたと私は考える。
遊牧生活をする社会には「遊牧の倫理」があるし、工業化社会には「工業化社会の倫理」がある。長子相続の社会には「長子相続の倫理」があるし、貧しい社会には「貧しい社会の倫理」があるはずなのだ。
これからの倫理を構想するためには、どのような社会における倫理なのか、ということをまずは考えなくてはならない。社会から独立した、普遍的倫理の体系など存在しない。もちろん、人を理由なく殺してはならない、というような道徳的直観的は普遍的である。しかし、道徳的直観のみで倫理の体系全体を導出できると考えるのはナイーブすぎるだろう。
ところで、コミュニタリアリズムなどといっても、日本人にはなかなかピンと来ない。何しろ、日本人には独立自尊の「合理的個人」などというものがほとんど成立せず、普通の人は常に共同体の一部であったため、「コミュニタリアリズムなどと、今更何を偉そうに言っているのだろう」という印象を持つからだ。これは極めて当然であり、私自身、コミュニタリアリズムにあまり魅力を感じない。コミュニタリアリズムは、出発点としての視座に過ぎないのではないか。
2011年1月23日日曜日
【善と悪】第三者的なものとしての倫理
我々人間は、不正を罰するという本能的な機構を持っている。公正とか不正とかいうことは随分と「近代的な」概念に思われがちだが、その根源は人間が進化的に獲得した概念なのだ。
とはいうものの、不正というのは具体的に何なのだろう。どういった行動が本能的に不正だとみなされるのだろうか? 正直なところ、我々が何を不正と感じ、何を不正でないと感じるかということは、かなりの程度文化的な尺度で測っているらしい。
例えば、借りたものを返さないことがひどい不正だとされる社会もあれば、大抵のものは社会の共有物だと考えられている社会もある。つまり不正という感覚自体は生得的(親に教えられて不正を憎む心が生まれるのではない)だが、何を不正と見なすかは教育による部分が大きい。
倫理の基本構造はこのように、基本原則とその原則を運用するためのパラメータで成り立っているのではないかという説がある。基本原則は生得的なものであって、人間は生まれつき持っているとされる。そしてその原則を運用するためのパラメータというのは、文化的・歴史的に定まってきたものなのだ。例えば、【直観1】「より大きな幸福をもたらすための、予見しうる相対的に小さな副作用は許される。」というのは基本原則である。しかし、どの程度の副作用を「小さい」と見なすかは文化的・歴史的に決まるパラメータである。
例えば、現代の日本では、たとえ5人を救うためであれ、無実の1人を犠牲にすることはなかなか認められるものではない(トロッコ問題のような限界的な状況では認められうるが)。しかし、公害問題を思い出していただければ分かるように、つい数十年前は社会の発展のために数多くの犠牲を出すことを何とも思っていなかった時代もあった。
そういうわけで、何を不正と見なすかということはパラメータによるものなので生得的ではないが、不正を罰するというのは生得的な基本原則であろうというわけだ。
さて、ではなぜ不正を罰するという生得的な機構が進化したのであろうか? これは一見すると不思議である。なぜなら、不正を罰するにもコストがかかるからだ。不正を犯した相手から恨まれるかもしれないし、そもそも罰を与えること自体にかなりのコストがかかる。しかも、不正を罰するというのは仕返しではない。不利益を蒙った仕返しであれば、進化する理由は明白だ。仕返しをしない個体がいたとしたら、その個体は他の個体から「食い物」にされてしまう。自己の利益を防衛するのは生物として当然の反応機構なのだ。しかし、不正を罰するというのは違う。それは、第三者的な行動なのだ。
「第三者」という概念が、人間以外の生物でも成立しているのか、不勉強で知らないのだが、おそらく「第三者」という感覚を明確に持っているのは人間だけではないだろうか。他の生物だと、おそらく当事者以外のメンバーは、傍観者であるか、当事者との関係者(親類など)であるかであり、無関係でも事案に関わる(あるいは評論する)というような「第三者」は存在し得ないのではないかと思う。
基本的に、罰というものは第三者しか下すことができない。当事者だったらそれは単なる仕返しだからだ。もちろん、私的制裁としての罰はあり得るが、多くの近代社会では私的制裁自体が不公正であると見なされる。
だから、不正に対する罰というのは、第三者がコストを負担して実行しなければならないものなのだ。しかも、それで第三者が直接に得るものはない。こんな不思議な行動が進化したのはどういうわけだろう?
それを説明するために、一つのゲームを例に出したい。これは最後通牒ゲーム(ultimatum game)と呼ばれているものである。
慈善家からAさんへの100ドルの寄付の申し出があった。ただし、それはある条件の下で100ドルをBさんと分け合うことが条件になっている。その条件とは、Aさんが提案するBさんの取り分をBさんが承認することである。Aさんの提案は一回限りとし、もしBさんがその配分案を受け入れなければ、二人とも寄付はもらえない。こういう状況で、ゲーム理論が予測する合理的プレイヤーはどのように行動するだろうか。
例えば、Aさんが10ドルをBさんに提案したとしよう。100ドル中の10ドルは少ないが、もらえないよりはマシなので、Bさんが合理的であれば承認するに違いない。よって、Aさん90ドル、Bさん10ドルの利得を手にすることになる。
「もらえないよりはマシ」というのは、10ドルでなくとも1ドル以上の任意の配分についていえるはずだ。だからBさんは1ドル以上の任意の配分でAさんの提案を承認するはずである。よって、Aさんが合理的であれば、自分の利得を最大化するために、Aさん99ドル、Bさん1ドルという配分を提案するはずである(自分の利得を最大化するというのは、ゲーム理論が前提とするプレイヤーの性質である)。
ちなみに、このように時間をおいて各プレイヤーがその戦略を選択するゲームを表すには、【図1】のような樹形図を用いることが多い。各プレイヤーの利得は右端に表示されているが、Aが0ドルを提案してきた時以外は、Bは承認した方が利得が大きいので承認するに違いなく、Bが承認するならばAは最低限の提案(1ドル)をするであろうということが、この図を右側から左側へ遡っていくことで分かる。
【図1】最後通牒ゲームの展開形
しかし、実際にこのようなゲームを人にやってもらうという実験をすると、必ずしも結果はこのようにならない。実際には、少なすぎる(と思われる)配分が提案された場合はその配分を承認しないことがあるのだ。配分を承認しなければ、二人とも寄付をもらえないので損してしまうのだが、なぜこんなことになるのだろうか。
その理由として、少なすぎる配分を「不正」だと見なして、BさんがAさんを罰しているのではないかという説がある。この場合、罰のコストはAさんが提案したBさんの配分になる。Aさんが10ドルを提示したとし、それをBさんが承認しなければ、Bさんは10ドル損する(つまりコストを払う)ことになる。10ドルのコストを掛けて、Aさんの不正を罰しているというわけだ。
実際にこの実験をいろんな国や文化のところでやってみると、Aさんの提案の平均は50ドルに近い地域もあれば、30ドル未満になる地域もあり、先ほど述べたように、どの程度を不正と見なすかという問題は文化的なものであることを示している。しかし、少なすぎる配分では受け入れないということは普遍的に観察される事象なのだ。
さて、なぜわざわざコストを掛けて少ない配分を罰する必要があるのだろうか? 人間は合理的なゲームプレイヤーではないのだろうか?
その答えは、現実社会においてはゲームが一回限りのことはほとんどないということを考えれば分かる。現実社会においては、資源を持つと言う幸運に恵まれることはある程度ランダムであるため、あなたはあるときはAさんの立場に立てるかもしれないが、Bさんの立場になることもある。つまり、現実にはAさんとBさんの立場は固定的ではないのだ。
だから、最後通牒ゲームを何回も、しかも立場がある程度ランダムに入れ替わるという条件でゲームした時にどんな戦略が合理的(利得を最大化するか)ということを考える必要がある。かなりランダムに入れ替わる社会であれば、おそらく平等的な配分を取ることが合理的だろうし、ほとんどランダムさがない社会であれば(AとBの立場がほとんど入れ替わらない社会)、おそらくかなり不平等な配分を取ることが合理的になるだろう。
つまり、やはり不正(この場合、不公平な配分)をコストを掛けて罰するという行動は合理的なものであり、よって進化的に獲得されたものであると考えられるのだ。
しかし、先ほど罰は第三者が下すものだと述べたが、最後通牒ゲームの場合は当事者によるものではないのだろうか。つまり、これは罰ではなくて仕返しではないのか。
最後通牒ゲームにおいては、確かにBさんは当事者と思えるので、このゲームを第三者による罰の発生の根拠として使うのはいささか飛躍があるかもしれない。しかし、次の点でBさんは第三者的な性質を持っている。つまり、配分の提案権はAさんのみにあり、Bさんとは協議できないということである。「当事者」をどう定義するかにもよるが、配分の利害を共有しているだけでなく、当事者が意志決定にも関わる必要があるとしたら、Bさんは当事者とは言えないのではないか。
そう考えると、Aさんを個人、Bさんを社会全体の代表(第三者)と考えたゲームだと見なすことも不可能ではない。つまり、Aさんと寄付者が取引する時に、どの程度の税金を社会に差し出すかという問題だとみなすことも出来るのである。
ちなみに、そんな迂遠な考え方をしなくても、最後通牒ゲームに少し変更を加えて第三者による罰の普遍性を示すことが実験によりなされている。
この「修正版最後通牒ゲーム」では、AさんはBさんに配分案を示すところまでは最後通牒ゲームと同じだが、Bさんに拒否権はない。つまり、Aさんがどんな提案をしてきても、Bさんは受け入れざるを得ない。しかし、ここに第三者のCさんがいて、Aさんの配分案が不正だと思われる場合は、手持ちの利得(つまり所持金)を使ってAさんを罰することができるのだ。
この場合は、Cさんは完全な傍観者だ。Aさんを罰することはコストがかかるだけで、自分に得になることは何もない。それでも実験によると少なすぎる配分案には罰が下されることが分かっている。やはり、立場をランダムに入れ替えて何回も修正版最後通牒ゲームを繰り返すと、不公平な配分よりも公平な配分を実現する方が利得のバラツキを小さくし、利得が安定するという意味で合理的だからだ(生物は、ある利得以下になると死んでしまうので、利得が安定していることに価値がある。修正版でも元の最後通牒ゲームでも、罰を行わない方がプレイヤーの平均利得自体は高くなるのだが、利得の分散(バラツキ)は大きくなってしまうのだ)。
不正を罰するのは第三者の役割だ、ということは倫理を考える際に非常に重要な視点であると思われる。長い間、道徳は個人の「良心」の問題、つまり個人の内的な問題であると考えられてきた。しかし、道徳は、むしろ第三者による評価・評論なのではないだろうか。
人は当事者になったとき、自分の利益のみを最大化する方が自らの適応度を高めることは当然である。事実、修正版最後通牒ゲームの実証実験においても、人はCさんの役割になったときは不正な配分に罰を与える一方で、Aさんの役割になったときには、Cさんに罰されない範囲でなるべく多くの利得を得られる提案をするという行動を(平均的には)とる。
個体の成功は、結局自らの子孫の繁栄で測られるものであり、社会全体の繁栄で測られるものではない。だから、自分が当事者になったときは出来るだけ多くの利得を得ようとするのは生物として当然なのだ。だから、自分が当事者の時は道徳などにとらわれず、最も利得が高い選択肢を冷徹に選択する個体が繁栄するだろう。
しかし、社会(第三者)には、そのような個人の冷徹な行動を抑制するインセンティブ(理由)がある。なぜなら、個人が利得を最大化するような冷徹な行動を取ると、それに不利益を蒙るメンバーがいるかもしれず、そして、あるとき第三者であったとしても、自分がいつ不利益を蒙る立場に置かれるか分からないからだ。
だから、個人の利益を最大化する冷徹な行動を抑制するために、第三者的、評論家的な感覚として倫理は発達しただろう。そして、個人は当事者になったとき、「自分の行動を第三者・評論家が見たとき、どう評価するだろうか?」というシミュレーションをする必要が生じただろう(利己的な行為を考えなしにやってしまうと、罰されるかもしれないから)。
つまり倫理は内的な「良心」などではなく、まずもって第三者的・評論家的な感覚であり、その第三者的なるものを自己の心の内で「再現」し、自己の行動を第三者・評論家的に評価する感覚であろうと思われるのだ。
第三者的なものとして倫理を捉えなければならないということも、これからの倫理を構想する上で重要な視点であろうと思われる。つまり、当事者間にはどこにも正義はありえないのだ。全ては、それと独立に評論する第三者の手の中にしかないのである。それを、正義といえるかどうかはわからないにしても。
とはいうものの、不正というのは具体的に何なのだろう。どういった行動が本能的に不正だとみなされるのだろうか? 正直なところ、我々が何を不正と感じ、何を不正でないと感じるかということは、かなりの程度文化的な尺度で測っているらしい。
例えば、借りたものを返さないことがひどい不正だとされる社会もあれば、大抵のものは社会の共有物だと考えられている社会もある。つまり不正という感覚自体は生得的(親に教えられて不正を憎む心が生まれるのではない)だが、何を不正と見なすかは教育による部分が大きい。
倫理の基本構造はこのように、基本原則とその原則を運用するためのパラメータで成り立っているのではないかという説がある。基本原則は生得的なものであって、人間は生まれつき持っているとされる。そしてその原則を運用するためのパラメータというのは、文化的・歴史的に定まってきたものなのだ。例えば、【直観1】「より大きな幸福をもたらすための、予見しうる相対的に小さな副作用は許される。」というのは基本原則である。しかし、どの程度の副作用を「小さい」と見なすかは文化的・歴史的に決まるパラメータである。
例えば、現代の日本では、たとえ5人を救うためであれ、無実の1人を犠牲にすることはなかなか認められるものではない(トロッコ問題のような限界的な状況では認められうるが)。しかし、公害問題を思い出していただければ分かるように、つい数十年前は社会の発展のために数多くの犠牲を出すことを何とも思っていなかった時代もあった。
そういうわけで、何を不正と見なすかということはパラメータによるものなので生得的ではないが、不正を罰するというのは生得的な基本原則であろうというわけだ。
さて、ではなぜ不正を罰するという生得的な機構が進化したのであろうか? これは一見すると不思議である。なぜなら、不正を罰するにもコストがかかるからだ。不正を犯した相手から恨まれるかもしれないし、そもそも罰を与えること自体にかなりのコストがかかる。しかも、不正を罰するというのは仕返しではない。不利益を蒙った仕返しであれば、進化する理由は明白だ。仕返しをしない個体がいたとしたら、その個体は他の個体から「食い物」にされてしまう。自己の利益を防衛するのは生物として当然の反応機構なのだ。しかし、不正を罰するというのは違う。それは、第三者的な行動なのだ。
「第三者」という概念が、人間以外の生物でも成立しているのか、不勉強で知らないのだが、おそらく「第三者」という感覚を明確に持っているのは人間だけではないだろうか。他の生物だと、おそらく当事者以外のメンバーは、傍観者であるか、当事者との関係者(親類など)であるかであり、無関係でも事案に関わる(あるいは評論する)というような「第三者」は存在し得ないのではないかと思う。
基本的に、罰というものは第三者しか下すことができない。当事者だったらそれは単なる仕返しだからだ。もちろん、私的制裁としての罰はあり得るが、多くの近代社会では私的制裁自体が不公正であると見なされる。
だから、不正に対する罰というのは、第三者がコストを負担して実行しなければならないものなのだ。しかも、それで第三者が直接に得るものはない。こんな不思議な行動が進化したのはどういうわけだろう?
それを説明するために、一つのゲームを例に出したい。これは最後通牒ゲーム(ultimatum game)と呼ばれているものである。
慈善家からAさんへの100ドルの寄付の申し出があった。ただし、それはある条件の下で100ドルをBさんと分け合うことが条件になっている。その条件とは、Aさんが提案するBさんの取り分をBさんが承認することである。Aさんの提案は一回限りとし、もしBさんがその配分案を受け入れなければ、二人とも寄付はもらえない。こういう状況で、ゲーム理論が予測する合理的プレイヤーはどのように行動するだろうか。
例えば、Aさんが10ドルをBさんに提案したとしよう。100ドル中の10ドルは少ないが、もらえないよりはマシなので、Bさんが合理的であれば承認するに違いない。よって、Aさん90ドル、Bさん10ドルの利得を手にすることになる。
「もらえないよりはマシ」というのは、10ドルでなくとも1ドル以上の任意の配分についていえるはずだ。だからBさんは1ドル以上の任意の配分でAさんの提案を承認するはずである。よって、Aさんが合理的であれば、自分の利得を最大化するために、Aさん99ドル、Bさん1ドルという配分を提案するはずである(自分の利得を最大化するというのは、ゲーム理論が前提とするプレイヤーの性質である)。
ちなみに、このように時間をおいて各プレイヤーがその戦略を選択するゲームを表すには、【図1】のような樹形図を用いることが多い。各プレイヤーの利得は右端に表示されているが、Aが0ドルを提案してきた時以外は、Bは承認した方が利得が大きいので承認するに違いなく、Bが承認するならばAは最低限の提案(1ドル)をするであろうということが、この図を右側から左側へ遡っていくことで分かる。
【図1】最後通牒ゲームの展開形
しかし、実際にこのようなゲームを人にやってもらうという実験をすると、必ずしも結果はこのようにならない。実際には、少なすぎる(と思われる)配分が提案された場合はその配分を承認しないことがあるのだ。配分を承認しなければ、二人とも寄付をもらえないので損してしまうのだが、なぜこんなことになるのだろうか。
その理由として、少なすぎる配分を「不正」だと見なして、BさんがAさんを罰しているのではないかという説がある。この場合、罰のコストはAさんが提案したBさんの配分になる。Aさんが10ドルを提示したとし、それをBさんが承認しなければ、Bさんは10ドル損する(つまりコストを払う)ことになる。10ドルのコストを掛けて、Aさんの不正を罰しているというわけだ。
実際にこの実験をいろんな国や文化のところでやってみると、Aさんの提案の平均は50ドルに近い地域もあれば、30ドル未満になる地域もあり、先ほど述べたように、どの程度を不正と見なすかという問題は文化的なものであることを示している。しかし、少なすぎる配分では受け入れないということは普遍的に観察される事象なのだ。
さて、なぜわざわざコストを掛けて少ない配分を罰する必要があるのだろうか? 人間は合理的なゲームプレイヤーではないのだろうか?
その答えは、現実社会においてはゲームが一回限りのことはほとんどないということを考えれば分かる。現実社会においては、資源を持つと言う幸運に恵まれることはある程度ランダムであるため、あなたはあるときはAさんの立場に立てるかもしれないが、Bさんの立場になることもある。つまり、現実にはAさんとBさんの立場は固定的ではないのだ。
だから、最後通牒ゲームを何回も、しかも立場がある程度ランダムに入れ替わるという条件でゲームした時にどんな戦略が合理的(利得を最大化するか)ということを考える必要がある。かなりランダムに入れ替わる社会であれば、おそらく平等的な配分を取ることが合理的だろうし、ほとんどランダムさがない社会であれば(AとBの立場がほとんど入れ替わらない社会)、おそらくかなり不平等な配分を取ることが合理的になるだろう。
つまり、やはり不正(この場合、不公平な配分)をコストを掛けて罰するという行動は合理的なものであり、よって進化的に獲得されたものであると考えられるのだ。
しかし、先ほど罰は第三者が下すものだと述べたが、最後通牒ゲームの場合は当事者によるものではないのだろうか。つまり、これは罰ではなくて仕返しではないのか。
最後通牒ゲームにおいては、確かにBさんは当事者と思えるので、このゲームを第三者による罰の発生の根拠として使うのはいささか飛躍があるかもしれない。しかし、次の点でBさんは第三者的な性質を持っている。つまり、配分の提案権はAさんのみにあり、Bさんとは協議できないということである。「当事者」をどう定義するかにもよるが、配分の利害を共有しているだけでなく、当事者が意志決定にも関わる必要があるとしたら、Bさんは当事者とは言えないのではないか。
そう考えると、Aさんを個人、Bさんを社会全体の代表(第三者)と考えたゲームだと見なすことも不可能ではない。つまり、Aさんと寄付者が取引する時に、どの程度の税金を社会に差し出すかという問題だとみなすことも出来るのである。
ちなみに、そんな迂遠な考え方をしなくても、最後通牒ゲームに少し変更を加えて第三者による罰の普遍性を示すことが実験によりなされている。
この「修正版最後通牒ゲーム」では、AさんはBさんに配分案を示すところまでは最後通牒ゲームと同じだが、Bさんに拒否権はない。つまり、Aさんがどんな提案をしてきても、Bさんは受け入れざるを得ない。しかし、ここに第三者のCさんがいて、Aさんの配分案が不正だと思われる場合は、手持ちの利得(つまり所持金)を使ってAさんを罰することができるのだ。
この場合は、Cさんは完全な傍観者だ。Aさんを罰することはコストがかかるだけで、自分に得になることは何もない。それでも実験によると少なすぎる配分案には罰が下されることが分かっている。やはり、立場をランダムに入れ替えて何回も修正版最後通牒ゲームを繰り返すと、不公平な配分よりも公平な配分を実現する方が利得のバラツキを小さくし、利得が安定するという意味で合理的だからだ(生物は、ある利得以下になると死んでしまうので、利得が安定していることに価値がある。修正版でも元の最後通牒ゲームでも、罰を行わない方がプレイヤーの平均利得自体は高くなるのだが、利得の分散(バラツキ)は大きくなってしまうのだ)。
不正を罰するのは第三者の役割だ、ということは倫理を考える際に非常に重要な視点であると思われる。長い間、道徳は個人の「良心」の問題、つまり個人の内的な問題であると考えられてきた。しかし、道徳は、むしろ第三者による評価・評論なのではないだろうか。
人は当事者になったとき、自分の利益のみを最大化する方が自らの適応度を高めることは当然である。事実、修正版最後通牒ゲームの実証実験においても、人はCさんの役割になったときは不正な配分に罰を与える一方で、Aさんの役割になったときには、Cさんに罰されない範囲でなるべく多くの利得を得られる提案をするという行動を(平均的には)とる。
個体の成功は、結局自らの子孫の繁栄で測られるものであり、社会全体の繁栄で測られるものではない。だから、自分が当事者になったときは出来るだけ多くの利得を得ようとするのは生物として当然なのだ。だから、自分が当事者の時は道徳などにとらわれず、最も利得が高い選択肢を冷徹に選択する個体が繁栄するだろう。
しかし、社会(第三者)には、そのような個人の冷徹な行動を抑制するインセンティブ(理由)がある。なぜなら、個人が利得を最大化するような冷徹な行動を取ると、それに不利益を蒙るメンバーがいるかもしれず、そして、あるとき第三者であったとしても、自分がいつ不利益を蒙る立場に置かれるか分からないからだ。
だから、個人の利益を最大化する冷徹な行動を抑制するために、第三者的、評論家的な感覚として倫理は発達しただろう。そして、個人は当事者になったとき、「自分の行動を第三者・評論家が見たとき、どう評価するだろうか?」というシミュレーションをする必要が生じただろう(利己的な行為を考えなしにやってしまうと、罰されるかもしれないから)。
つまり倫理は内的な「良心」などではなく、まずもって第三者的・評論家的な感覚であり、その第三者的なるものを自己の心の内で「再現」し、自己の行動を第三者・評論家的に評価する感覚であろうと思われるのだ。
第三者的なものとして倫理を捉えなければならないということも、これからの倫理を構想する上で重要な視点であろうと思われる。つまり、当事者間にはどこにも正義はありえないのだ。全ては、それと独立に評論する第三者の手の中にしかないのである。それを、正義といえるかどうかはわからないにしても。
【参考文献】
ゲームの展開形表現については先日紹介したビンモアの教科書には出てこないので、もう一つゲーム理論の教科書を紹介しておく。武藤滋夫の「ゲーム理論入門」はゲーム理論を専門に勉強したいわけではないが、数学的なところもちょっと分かっておきたいという方に最適な本。証明などは書いていないが、雰囲気はつかめる。
2011年1月20日木曜日
【善と悪】社会慣習のゲーム
ごく簡単に、ゲーム理論とは何かを一通り説明しておきたい。
まず、ゲーム理論の対象はもちろん「ゲーム」であるわけだが、ここでいうゲームは当然ビデオゲームのようなものではなく、チェスやポーカーのようなゲーム、あるいは外交や日常生活における行動選択なども含む幅広い概念である。
具体的には、ゲーム理論でいうゲームは3つの要素から構成されているものをいう。第Ⅰにゲームを行うプレイヤー、第2にプレイヤーが取り得る戦略(戦略というと大げさだが、選択肢くらいに考えてもらった方がよい)、第3にプレイヤーがそれぞれの戦略に従って行動したときに得られる利得、である。
次に、重要な前提があって、それは各プレイヤーは合理的に行動するということと、それぞれのプレイヤーは他のプレイヤーが合理的に行動するということも知っている、ということである。
おおざっぱに言えば、これらの要素から構成されたゲームにおいて、プレイヤーが自分の利得を最大化するためにどういう戦略を取るかということを分析するのがゲーム理論である。少し注意してもらいたいのは、ゲーム理論はゲームの必勝法を考える学問ではないということだ。もちろん、その草創期ではゲーム理論の研究はゲームの必勝法を考察することも重要であったが、今ではそれはゲーム理論の主たる目的ではない。
さて、具体的に簡単なゲームを考察してみよう。【表1】をご覧いただきたい。これは俗に運転ゲーム(Driving Game)と呼ばれるものの利得表である。先ほど、ゲームは3つの要素から構成されると述べたが、各プレイヤーの選択が独立に行われる(つまり、同時であったり相談したりしない)場合は、このように利得表だけを示せばゲームの内容は分かるので、このような利得表がよくゲームを表すことに使われる。
【表1】運転ゲームの利得表
このゲームがどういう状況を表しているかというと、自動車で道路の右側を走るか左側を走るかという選択を2人のプレイヤーがしていると理解してもらいたい。2人とも右を走れば、2人とも快適に走ることができる(世界には、2人のプレイヤーしかいないということにする)。だが、1人が右、1人が左を走ると、対向した時に正面衝突してしまうので、利得はない。この状況を、プレイヤーAの利得を右側、プレイヤーBの利得を左側にして(a, b)という行列の形に表し、それぞれのプレイヤーの戦略をAは行で、Bは列で表したのが【表1】である。
さて、合理的なプレイヤーなら、この状況でどのような選択を行うであろうか? つまり、右を走るだろうか、それとも左を走るだろうか?
2人の取る戦略も簡略化のために、(A, B)というように行列で表すのだが、この状況で合理的なプレイヤーが希望するのは(右, 右)あるいは(左, 左)という戦略のペアである。つまり、両方が右か、両方が左を選ぶ場合である。相手が右を走ると分かっていたら自分も右を走った方がいいし、相手が左を走ると分かっていたら自分も左を走った方がよい。
このように、互いが互いの戦略に対する最適な戦略をとる組み合わせを、ナッシュ均衡(Nash Equilibrium)という。これは、ナッシュ均衡等のゲーム理論の精緻化に大きく貢献した数学者のジョン・ナッシュ(1928-)の研究に基づいてそう呼ばれている。
さて、両方が右か左のどちらかを走るのが合理的だというのは当然だが、事前に相手が右を走るのか左を走るのか全く情報がない場合はどうすればよいのだろうか? 言い換えると、相手が右と左を等確率で走ると想定される場合は、どうすればよいのだろうか?
結論を先に言うと、自分も50%の確率で右と左を走るという戦略をとることが合理的であり、しかもこれもナッシュ均衡になることが分かっている。50%の確率で右、50%の確率で左を走る、というような戦略は確率的に自分の行動を変えるということであり不思議な気がするが、例えばサイコロを振って、偶数が出たら右を走る、というような戦略を想定してもらいたい。
このような確率的な挙動を行う戦略は、右を走るとか左を走るといった純粋な戦略の組み合わせで出来ているので、「混合戦略」という。ちなみに、単一の行動を取る戦略(右を走る、など)は、混合戦略と区別して使いたいときは「純粋戦略」という。
ジョン・ナッシュが証明したのは、混合戦略まで含めれば、【表1】で表されるようなゲーム(プレイヤーが有限のゲーム)には少なくとも一つのナッシュ均衡がある、ということだった(正確には、プレイヤー同士が話しあいなどをしない(非協力)という条件の下で、プレイヤーの利得の和が【表1】のように常に同じとは限らない、という状況においてそれを示した)。
さて、数学的に証明することは割愛するが、運転ゲームには3つのナッシュ均衡がある。そのうち2つは、(右, 右)、(左, 左)という純粋戦略の組み合わせ、そしてもう1つは、互いが右と左を等確率で走るという混合戦略の組み合わせである。前者の均衡の場合は、プレイヤーはそれぞれ1の利得を得ることができるが、後者の均衡の場合は、確率1/2で(右, 左)か(左, 右)になってしまうので、期待利得は(1/2, 1/2)である。
だから、前者の均衡は効率的だが、後者の均衡は非効率的である(あるいは、「病的な」均衡ともいう)。誰も、道路の右か左を走ることを確率的に選びたい人はいない。いくら自由主義的で政府は個人の選択に関与すべきでないと考える人も、やはり、道路はどちらを走るべきかちゃんと決まっている社会の方が好ましいと思うだろう。
道路のどちらを走るかということは、一見倫理とは関係がないように思えるが、人間社会はこのようなマッチングに関する選択に溢れている。例えば、日本では玄関で靴を脱ぐが、欧米では脱がない。もし、日本式の家に来た人が靴を脱がなかったら亭主は不愉快だし、欧米式の家を訪問した人が玄関で靴を脱いだら亭主は面食らうだろう。こういう、「社会慣習に従う」というゲームは、【表1】のような利得表として表せるはずだ。
すなわち、双方が社会の慣習に従うと双方が利益を得、どちらかが慣習に従わないと双方が利益を得られないのだ。そのため、人間は社会慣習に従うという本能を持ったのであろう。つまり、長いものに巻かれるという行動は、社会の利益になるため進化したと考えられるのだ。
このような、社会慣習がゲーム的状況でどのように成立するかという問題は米国の哲学者デイヴィド・ルイス(1941-2001)によって哲学的意味合いが分析された。先ほどは「相手が右を走ると分かっていたら自分も右を走った方がいいし、相手が左を走ると分かっていたら自分も左を走った方がよい」と述べたが、これについてルイスの分析のさわりだけを紹介しておこう。
先ほど「相手が右を走ると分かっていたら自分も右を走った方がよい」と書いたが、「相手が右を走ると分かっている」という状況はどういう場合だろうか。例えば、相手はあなたが左を走るかもしれないと思っているとしよう。その場合、相手は左を選ぶだろう(右を選ぶと利得は得られないので)。だから、相手が右を確実に選択するためには、相手はあなたが右を選ぶだろうということを想定している必要がある。
つまり、相手が右を選ぶということをあなたは知っていて、それを相手も知っている、という状態でなくてはならない。しかも、互いにそういう状態でなくてはならない。社会慣習のようなこういった共有された知識をルイスは「共有知(common knowledge)」と呼んだ。共有知がある状況だと、運転ゲーム型のゲームにおいてプレイヤーは容易にナッシュ均衡を選ぶことができるのだ。
しかし、ルイスの知見で重要なことは、「共有知があるとみんなの利得が高まるんです」ということではない。共有知により選ばれる均衡は任意のものであり、どこかの均衡に正当性があるということではない、ということを示したということにあるだろう。例えば、道路の右を走るか左を走るかということは、どちらが優れているとか、どちらに正当性があるとかいうことはできない。ただ、文化的あるいは歴史的に共有知が形成されたからにすぎない。
つまり、運転ゲーム的状況を考えると、社会慣習の多くには根源的正当性は存在しないということなのだ。例えば、先ほどの運転ゲームは利得が対象(右側通行でも左側通行でも同じ)だったが、非対称だとどうだろうか。【表2】の利得表をご覧いただきたい。
【表2】非対象な運転ゲームの利得表
この利得表が表すのは、右側通行の方が互いにとって利得が大きいということである。例えば、スウェーデンではかつて日本と同じように左側通行だったが、右側通行の他の欧州圏との相互乗り入れの利便性を考え、一夜にして右側通行に変わったことがある。この場合、右側通行にする方が、社会が得る利得が高かったということだろう。
しかし、左側通行という「共有知」が存在している限り、右側通行の均衡に移ることはできない。(右, 右)という戦略の組も(左, 左)という戦略の組も同様にナッシュ均衡だが、(左, 左)については効率的ではないにもかかわらず、その組が「共有知」になっているとき、人々はより効率的な均衡を選ぶことができないのだ。
例えば、初対面の人の名前を氏(ファミリーネーム)で呼ぶか、名(ファーストネーム)で呼ぶかということは一つの社会慣習のゲームである。米国のように名で呼ぶところでは、氏で呼ぶと距離を取られているように感じるし、日本では初対面で名で呼ぶことは非常識である。仮に、(社会の親近感が増すということで)名で呼ぶことによる利益の方が大きいと分かっていたとしても、日本ではこの社会慣習のゲームの均衡を(氏, 氏)から(名, 名)に移すことは難しいだろう。初対面では氏で呼ぶという共有知を一度破棄して、初対面でも名で呼ぶという共有知をゼロから構築することはほとんど不可能のように見える。
つまり、共有知があるために、社会慣習のゲームで人々は容易にナッシュ均衡の戦略の組を選ぶことができるが、逆にそのためにより効率的な均衡(社会の状態)を選ぶことができないという事態が生じるのだ。すなわち、社会慣習に従うということは、局所的(ミクロ的)に見れば合理的な選択だが、大局的(マクロ的)に見たときにそれが合理的(個人の利得を最大化する)かどうかは分からないということになる。
ところで、社会慣習に従うということは、果たして倫理的な問題なのだろうか? 例えば、知り合いに挨拶をするとか、道路交通法を守るとか、電車の中では携帯電話を使わないといったことは、倫理的な問題なのだろうか? これまでの話の流れからすると、社会慣習に従うということは別段倫理的問題ではないように思える。社会慣習自体が善や悪と関係ない次元で成立している共有知に基づいているものだからだ。
しかし実際は、社会慣習への違反は、倫理的問題として捉えられることが多い。例えば、初対面の人を名で呼べば眉を顰められるし、極めて共同体としてのつながりが強いコミュニティなどでは、家の前を十分に掃除しなかったとか、ゴミの分別をきちんとしなかったというようなことで強い非難を受けることがある。さらに極端な例でいうと、宝くじが当たったのに、それを独り占めしたことでコミュニティにおける信用を失う場合だってあるのだ(臨時的・偶然的な利得をコミュニティでシェアするという共有知からの乖離)。
なぜ、このような社会慣習への違反が厳しく罰せられる必要があるのだろうか? 社会慣習への違反を厳しく罰する根拠は何なのだろうか? 例えば、右側通行なのか左側通行なのかという問題でいえば、この規約に違反するものがいれば周囲が大変な迷惑を蒙るので、道路交通法に違反するものを罰する意味は分かる。しかし、宝くじの賞金を独り占めする人の何が悪いのだろうか。
もちろん、宝くじの場合は資源の一人占めを許してしまうと、社会的不平等が助長されるという事情があるだろう。しかし、私が思うにそれよりも大きな理由がある。それは、社会慣習の違反を犯す者は、「(社会の他のメンバーが共有している)共有知を共有していない」可能性が高いということである。共有知を共有していない者が含まれている場合、運転ゲームにおける期待利得は低くなってしまう。そのために、我々は社会慣習に従わない者は、社会慣習を理解していないと見なして、社会から排除するという行動を進化させたのかもしれない。
もちろん、それは進化的には(つまり「適応度」を増やすと言う意味では)合理的な行動であるだろう。しかし、社会慣習に従うという行動が、いつの間にか倫理的な問題として認識されてしまうに至ったのではないかという認識は重要だと思う。
さらに、運転ゲーム的状況は社会慣習のみならず、社会的ルールについても同様に適応しうる。ここで社会的ルールというのは、平たく言えば「法」のことである。
人間は、社会的ルールを構築するほぼ唯一の生物である。大型霊長類の社会には、社会的ルールと呼べるものがあるのかもしれないが、それはまだ明確になっていない。今のところ、社会的ルールを持つ生物は人間だけだと言ってもいいだろう。
我々は、社会が一定のルールに基づいて運営されていることを当然のように感じているが、これは生物としては大変異例である。群れ(社会)を作る生物の世界では、基本的には本能に組み込まれたプログラムにより群れが運営されている。一方で、人間の場合は、そうしようと思えば任意の社会的ルールを作ることが可能だ。例えば、「大人」になるためには体中に傷をつけることに耐えなければならないとか、何かを創作したら著作権は創作者に帰属し他の人は創作物を勝手に使ってはいけない、というようなルールを任意に設定することが可能なのだ。
どうして、我々はこんなにも自由に社会的ルールを構築することができたのだろうか? 換言すれば、どうして、任意に設定した社会的ルールを群れ(社会)の構成メンバーに遵守させることができたのだろうか? つまり、社会的ルールを遵守するという人間の機能はどうして進化したのだろうか?
この問題に対する答えは、運転ゲーム的状況に限定すれば明らかだ。右側通行にするか、それとも左側通行にするか、という社会的ルールは、任意にどちらでも設定しうる。右である必然性はないし、左である必然性もない。しかし、社会的な権威がどちらかに設定し、社会の構成メンバーがそれを遵守すれば、その社会の構成メンバーはみんな利益を得ることができる。
逆に、社会的ルールに従うという性質を進化させなかった人類がいたとすれば、運転ゲーム的状況において右と左を等確率で走るという非効率なナッシュ均衡に落ち着かざるを得ず、ルールに従う人類との生存競争に負けてしまっただろう。
だから、人類は社会的ルールに従うと言う性質を進化的課程において身につけたに違いない。そして、先ほども述べたように、それは必ずしもルール化されていない社会慣習についても同じである。要は、社会慣習であれ、社会的ルールであれ、「社会の決まりごと」に従うことは得だったのだ(なお、この問題を分析したルイスは社会慣習や社会的ルールなどをまとめて、「社会規約(social convention)」という用語を使った)。
であるとすれば、社会の決まりを遵守するということは、自分と社会の利益のためであるということになる。逆に言えば、社会の決まりに違反することは、自分だけでなく社会の利益も損なうということだ。だから、社会の決まりに違反することは、多くの社会で悪だと見なされる。法律を破るのは悪人だし、決まりを守らない子供は「悪い子」なのだ。
しかし、社会の決まりを守るとか守らないということは、本当に倫理的な問題なのであろうか? もちろん、社会の利益に合致しないことは悪なのだ、という素朴な功利主義の下ではこれは倫理的な問題として捉えられる。しかし、私の考えでは、社会の決まりごとを遵守するという能力は、進化的にはかなり最近に獲得されたものなのではないかと思う。
なぜなら、任意に設定可能な社会的ルールを守るなどという行動は相当な認知能力を必要とするからだ(そもそも、ルールを任意に設定するというところからしてかなり高度だ)。本来、生得的な倫理機構は、移ろいやすい社会的ルールを遵守するための機能ではなくて、生物としての人間が群れ(社会)を営むための普遍的な原理を遵守するためのものであったはずだ。
例えば、既に紹介した次のような生得的直観を見てみよう。
にもかかわらず、例えば人間や動物を単なる「手段」として使うことと、道路交通法違反を同様に倫理的問題として扱ってもよいのだろうか? 私の考えでは、本来の倫理機構はまずは普遍的な感覚として発達したのではないかと思っている。そしてその機構を「借用」して、社会の決まりごとを遵守するというような感覚が発達したのではないだろうか。
そのために、人間社会では普遍的な正義と文化的な正義が同じ「正義」という言葉の下に語られるようになってしまった。しかし、先ほど述べたように、運転ゲーム的状況を考えると、文化的正義には何の正当性もないのだ。このように、本来倫理的でなかったはずの課題を、倫理の応用問題として考えがちな我々人間の思考回路には問題があるのではないだろうか。そして、本来的な倫理の領域と、単なる社会の決まりごとの領域を峻別して考えることは、これからのあるべき倫理を構想する上で重要なことであろうと私は思う。
まず、ゲーム理論の対象はもちろん「ゲーム」であるわけだが、ここでいうゲームは当然ビデオゲームのようなものではなく、チェスやポーカーのようなゲーム、あるいは外交や日常生活における行動選択なども含む幅広い概念である。
具体的には、ゲーム理論でいうゲームは3つの要素から構成されているものをいう。第Ⅰにゲームを行うプレイヤー、第2にプレイヤーが取り得る戦略(戦略というと大げさだが、選択肢くらいに考えてもらった方がよい)、第3にプレイヤーがそれぞれの戦略に従って行動したときに得られる利得、である。
次に、重要な前提があって、それは各プレイヤーは合理的に行動するということと、それぞれのプレイヤーは他のプレイヤーが合理的に行動するということも知っている、ということである。
おおざっぱに言えば、これらの要素から構成されたゲームにおいて、プレイヤーが自分の利得を最大化するためにどういう戦略を取るかということを分析するのがゲーム理論である。少し注意してもらいたいのは、ゲーム理論はゲームの必勝法を考える学問ではないということだ。もちろん、その草創期ではゲーム理論の研究はゲームの必勝法を考察することも重要であったが、今ではそれはゲーム理論の主たる目的ではない。
さて、具体的に簡単なゲームを考察してみよう。【表1】をご覧いただきたい。これは俗に運転ゲーム(Driving Game)と呼ばれるものの利得表である。先ほど、ゲームは3つの要素から構成されると述べたが、各プレイヤーの選択が独立に行われる(つまり、同時であったり相談したりしない)場合は、このように利得表だけを示せばゲームの内容は分かるので、このような利得表がよくゲームを表すことに使われる。
右 | 左 | |
右 | (1,1) | (0,0) |
左 | (0,0) | (1,1) |
このゲームがどういう状況を表しているかというと、自動車で道路の右側を走るか左側を走るかという選択を2人のプレイヤーがしていると理解してもらいたい。2人とも右を走れば、2人とも快適に走ることができる(世界には、2人のプレイヤーしかいないということにする)。だが、1人が右、1人が左を走ると、対向した時に正面衝突してしまうので、利得はない。この状況を、プレイヤーAの利得を右側、プレイヤーBの利得を左側にして(a, b)という行列の形に表し、それぞれのプレイヤーの戦略をAは行で、Bは列で表したのが【表1】である。
さて、合理的なプレイヤーなら、この状況でどのような選択を行うであろうか? つまり、右を走るだろうか、それとも左を走るだろうか?
2人の取る戦略も簡略化のために、(A, B)というように行列で表すのだが、この状況で合理的なプレイヤーが希望するのは(右, 右)あるいは(左, 左)という戦略のペアである。つまり、両方が右か、両方が左を選ぶ場合である。相手が右を走ると分かっていたら自分も右を走った方がいいし、相手が左を走ると分かっていたら自分も左を走った方がよい。
このように、互いが互いの戦略に対する最適な戦略をとる組み合わせを、ナッシュ均衡(Nash Equilibrium)という。これは、ナッシュ均衡等のゲーム理論の精緻化に大きく貢献した数学者のジョン・ナッシュ(1928-)の研究に基づいてそう呼ばれている。
さて、両方が右か左のどちらかを走るのが合理的だというのは当然だが、事前に相手が右を走るのか左を走るのか全く情報がない場合はどうすればよいのだろうか? 言い換えると、相手が右と左を等確率で走ると想定される場合は、どうすればよいのだろうか?
結論を先に言うと、自分も50%の確率で右と左を走るという戦略をとることが合理的であり、しかもこれもナッシュ均衡になることが分かっている。50%の確率で右、50%の確率で左を走る、というような戦略は確率的に自分の行動を変えるということであり不思議な気がするが、例えばサイコロを振って、偶数が出たら右を走る、というような戦略を想定してもらいたい。
このような確率的な挙動を行う戦略は、右を走るとか左を走るといった純粋な戦略の組み合わせで出来ているので、「混合戦略」という。ちなみに、単一の行動を取る戦略(右を走る、など)は、混合戦略と区別して使いたいときは「純粋戦略」という。
ジョン・ナッシュが証明したのは、混合戦略まで含めれば、【表1】で表されるようなゲーム(プレイヤーが有限のゲーム)には少なくとも一つのナッシュ均衡がある、ということだった(正確には、プレイヤー同士が話しあいなどをしない(非協力)という条件の下で、プレイヤーの利得の和が【表1】のように常に同じとは限らない、という状況においてそれを示した)。
さて、数学的に証明することは割愛するが、運転ゲームには3つのナッシュ均衡がある。そのうち2つは、(右, 右)、(左, 左)という純粋戦略の組み合わせ、そしてもう1つは、互いが右と左を等確率で走るという混合戦略の組み合わせである。前者の均衡の場合は、プレイヤーはそれぞれ1の利得を得ることができるが、後者の均衡の場合は、確率1/2で(右, 左)か(左, 右)になってしまうので、期待利得は(1/2, 1/2)である。
だから、前者の均衡は効率的だが、後者の均衡は非効率的である(あるいは、「病的な」均衡ともいう)。誰も、道路の右か左を走ることを確率的に選びたい人はいない。いくら自由主義的で政府は個人の選択に関与すべきでないと考える人も、やはり、道路はどちらを走るべきかちゃんと決まっている社会の方が好ましいと思うだろう。
道路のどちらを走るかということは、一見倫理とは関係がないように思えるが、人間社会はこのようなマッチングに関する選択に溢れている。例えば、日本では玄関で靴を脱ぐが、欧米では脱がない。もし、日本式の家に来た人が靴を脱がなかったら亭主は不愉快だし、欧米式の家を訪問した人が玄関で靴を脱いだら亭主は面食らうだろう。こういう、「社会慣習に従う」というゲームは、【表1】のような利得表として表せるはずだ。
すなわち、双方が社会の慣習に従うと双方が利益を得、どちらかが慣習に従わないと双方が利益を得られないのだ。そのため、人間は社会慣習に従うという本能を持ったのであろう。つまり、長いものに巻かれるという行動は、社会の利益になるため進化したと考えられるのだ。
このような、社会慣習がゲーム的状況でどのように成立するかという問題は米国の哲学者デイヴィド・ルイス(1941-2001)によって哲学的意味合いが分析された。先ほどは「相手が右を走ると分かっていたら自分も右を走った方がいいし、相手が左を走ると分かっていたら自分も左を走った方がよい」と述べたが、これについてルイスの分析のさわりだけを紹介しておこう。
先ほど「相手が右を走ると分かっていたら自分も右を走った方がよい」と書いたが、「相手が右を走ると分かっている」という状況はどういう場合だろうか。例えば、相手はあなたが左を走るかもしれないと思っているとしよう。その場合、相手は左を選ぶだろう(右を選ぶと利得は得られないので)。だから、相手が右を確実に選択するためには、相手はあなたが右を選ぶだろうということを想定している必要がある。
つまり、相手が右を選ぶということをあなたは知っていて、それを相手も知っている、という状態でなくてはならない。しかも、互いにそういう状態でなくてはならない。社会慣習のようなこういった共有された知識をルイスは「共有知(common knowledge)」と呼んだ。共有知がある状況だと、運転ゲーム型のゲームにおいてプレイヤーは容易にナッシュ均衡を選ぶことができるのだ。
しかし、ルイスの知見で重要なことは、「共有知があるとみんなの利得が高まるんです」ということではない。共有知により選ばれる均衡は任意のものであり、どこかの均衡に正当性があるということではない、ということを示したということにあるだろう。例えば、道路の右を走るか左を走るかということは、どちらが優れているとか、どちらに正当性があるとかいうことはできない。ただ、文化的あるいは歴史的に共有知が形成されたからにすぎない。
つまり、運転ゲーム的状況を考えると、社会慣習の多くには根源的正当性は存在しないということなのだ。例えば、先ほどの運転ゲームは利得が対象(右側通行でも左側通行でも同じ)だったが、非対称だとどうだろうか。【表2】の利得表をご覧いただきたい。
右 | 左 | |
右 | (2,2) | (0, 0) |
左 | (0,0) | (1,1) |
この利得表が表すのは、右側通行の方が互いにとって利得が大きいということである。例えば、スウェーデンではかつて日本と同じように左側通行だったが、右側通行の他の欧州圏との相互乗り入れの利便性を考え、一夜にして右側通行に変わったことがある。この場合、右側通行にする方が、社会が得る利得が高かったということだろう。
しかし、左側通行という「共有知」が存在している限り、右側通行の均衡に移ることはできない。(右, 右)という戦略の組も(左, 左)という戦略の組も同様にナッシュ均衡だが、(左, 左)については効率的ではないにもかかわらず、その組が「共有知」になっているとき、人々はより効率的な均衡を選ぶことができないのだ。
例えば、初対面の人の名前を氏(ファミリーネーム)で呼ぶか、名(ファーストネーム)で呼ぶかということは一つの社会慣習のゲームである。米国のように名で呼ぶところでは、氏で呼ぶと距離を取られているように感じるし、日本では初対面で名で呼ぶことは非常識である。仮に、(社会の親近感が増すということで)名で呼ぶことによる利益の方が大きいと分かっていたとしても、日本ではこの社会慣習のゲームの均衡を(氏, 氏)から(名, 名)に移すことは難しいだろう。初対面では氏で呼ぶという共有知を一度破棄して、初対面でも名で呼ぶという共有知をゼロから構築することはほとんど不可能のように見える。
つまり、共有知があるために、社会慣習のゲームで人々は容易にナッシュ均衡の戦略の組を選ぶことができるが、逆にそのためにより効率的な均衡(社会の状態)を選ぶことができないという事態が生じるのだ。すなわち、社会慣習に従うということは、局所的(ミクロ的)に見れば合理的な選択だが、大局的(マクロ的)に見たときにそれが合理的(個人の利得を最大化する)かどうかは分からないということになる。
ところで、社会慣習に従うということは、果たして倫理的な問題なのだろうか? 例えば、知り合いに挨拶をするとか、道路交通法を守るとか、電車の中では携帯電話を使わないといったことは、倫理的な問題なのだろうか? これまでの話の流れからすると、社会慣習に従うということは別段倫理的問題ではないように思える。社会慣習自体が善や悪と関係ない次元で成立している共有知に基づいているものだからだ。
しかし実際は、社会慣習への違反は、倫理的問題として捉えられることが多い。例えば、初対面の人を名で呼べば眉を顰められるし、極めて共同体としてのつながりが強いコミュニティなどでは、家の前を十分に掃除しなかったとか、ゴミの分別をきちんとしなかったというようなことで強い非難を受けることがある。さらに極端な例でいうと、宝くじが当たったのに、それを独り占めしたことでコミュニティにおける信用を失う場合だってあるのだ(臨時的・偶然的な利得をコミュニティでシェアするという共有知からの乖離)。
なぜ、このような社会慣習への違反が厳しく罰せられる必要があるのだろうか? 社会慣習への違反を厳しく罰する根拠は何なのだろうか? 例えば、右側通行なのか左側通行なのかという問題でいえば、この規約に違反するものがいれば周囲が大変な迷惑を蒙るので、道路交通法に違反するものを罰する意味は分かる。しかし、宝くじの賞金を独り占めする人の何が悪いのだろうか。
もちろん、宝くじの場合は資源の一人占めを許してしまうと、社会的不平等が助長されるという事情があるだろう。しかし、私が思うにそれよりも大きな理由がある。それは、社会慣習の違反を犯す者は、「(社会の他のメンバーが共有している)共有知を共有していない」可能性が高いということである。共有知を共有していない者が含まれている場合、運転ゲームにおける期待利得は低くなってしまう。そのために、我々は社会慣習に従わない者は、社会慣習を理解していないと見なして、社会から排除するという行動を進化させたのかもしれない。
もちろん、それは進化的には(つまり「適応度」を増やすと言う意味では)合理的な行動であるだろう。しかし、社会慣習に従うという行動が、いつの間にか倫理的な問題として認識されてしまうに至ったのではないかという認識は重要だと思う。
さらに、運転ゲーム的状況は社会慣習のみならず、社会的ルールについても同様に適応しうる。ここで社会的ルールというのは、平たく言えば「法」のことである。
人間は、社会的ルールを構築するほぼ唯一の生物である。大型霊長類の社会には、社会的ルールと呼べるものがあるのかもしれないが、それはまだ明確になっていない。今のところ、社会的ルールを持つ生物は人間だけだと言ってもいいだろう。
我々は、社会が一定のルールに基づいて運営されていることを当然のように感じているが、これは生物としては大変異例である。群れ(社会)を作る生物の世界では、基本的には本能に組み込まれたプログラムにより群れが運営されている。一方で、人間の場合は、そうしようと思えば任意の社会的ルールを作ることが可能だ。例えば、「大人」になるためには体中に傷をつけることに耐えなければならないとか、何かを創作したら著作権は創作者に帰属し他の人は創作物を勝手に使ってはいけない、というようなルールを任意に設定することが可能なのだ。
どうして、我々はこんなにも自由に社会的ルールを構築することができたのだろうか? 換言すれば、どうして、任意に設定した社会的ルールを群れ(社会)の構成メンバーに遵守させることができたのだろうか? つまり、社会的ルールを遵守するという人間の機能はどうして進化したのだろうか?
この問題に対する答えは、運転ゲーム的状況に限定すれば明らかだ。右側通行にするか、それとも左側通行にするか、という社会的ルールは、任意にどちらでも設定しうる。右である必然性はないし、左である必然性もない。しかし、社会的な権威がどちらかに設定し、社会の構成メンバーがそれを遵守すれば、その社会の構成メンバーはみんな利益を得ることができる。
逆に、社会的ルールに従うという性質を進化させなかった人類がいたとすれば、運転ゲーム的状況において右と左を等確率で走るという非効率なナッシュ均衡に落ち着かざるを得ず、ルールに従う人類との生存競争に負けてしまっただろう。
だから、人類は社会的ルールに従うと言う性質を進化的課程において身につけたに違いない。そして、先ほども述べたように、それは必ずしもルール化されていない社会慣習についても同じである。要は、社会慣習であれ、社会的ルールであれ、「社会の決まりごと」に従うことは得だったのだ(なお、この問題を分析したルイスは社会慣習や社会的ルールなどをまとめて、「社会規約(social convention)」という用語を使った)。
であるとすれば、社会の決まりを遵守するということは、自分と社会の利益のためであるということになる。逆に言えば、社会の決まりに違反することは、自分だけでなく社会の利益も損なうということだ。だから、社会の決まりに違反することは、多くの社会で悪だと見なされる。法律を破るのは悪人だし、決まりを守らない子供は「悪い子」なのだ。
しかし、社会の決まりを守るとか守らないということは、本当に倫理的な問題なのであろうか? もちろん、社会の利益に合致しないことは悪なのだ、という素朴な功利主義の下ではこれは倫理的な問題として捉えられる。しかし、私の考えでは、社会の決まりごとを遵守するという能力は、進化的にはかなり最近に獲得されたものなのではないかと思う。
なぜなら、任意に設定可能な社会的ルールを守るなどという行動は相当な認知能力を必要とするからだ(そもそも、ルールを任意に設定するというところからしてかなり高度だ)。本来、生得的な倫理機構は、移ろいやすい社会的ルールを遵守するための機能ではなくて、生物としての人間が群れ(社会)を営むための普遍的な原理を遵守するためのものであったはずだ。
例えば、既に紹介した次のような生得的直観を見てみよう。
【直観1】より大きな幸福をもたらすための、予見しうる相対的に小さな副作用は許される。倫理とはもともと、このような直観を生み出す機構として発達したものではないだろうか。【直観1】も【直観2】も、人間が営むあらゆる社会にある程度共有されている感覚であり、右側通行と左側通行のような任意に設定しうる社会的ルールとは異なる。
【直観2】仮に、より大きな幸福をもたらすためであれ、信念や欲望を持つ存在(人間や動物)を単なる「手段」として使うことは許されない。
にもかかわらず、例えば人間や動物を単なる「手段」として使うことと、道路交通法違反を同様に倫理的問題として扱ってもよいのだろうか? 私の考えでは、本来の倫理機構はまずは普遍的な感覚として発達したのではないかと思っている。そしてその機構を「借用」して、社会の決まりごとを遵守するというような感覚が発達したのではないだろうか。
そのために、人間社会では普遍的な正義と文化的な正義が同じ「正義」という言葉の下に語られるようになってしまった。しかし、先ほど述べたように、運転ゲーム的状況を考えると、文化的正義には何の正当性もないのだ。このように、本来倫理的でなかったはずの課題を、倫理の応用問題として考えがちな我々人間の思考回路には問題があるのではないだろうか。そして、本来的な倫理の領域と、単なる社会の決まりごとの領域を峻別して考えることは、これからのあるべき倫理を構想する上で重要なことであろうと私は思う。
2011年1月17日月曜日
【善と悪】倫理システムのメカニズム解明の糸口
前節までで、道徳的であることは自らの包括適応度を高める(ことがある)ため、人間には進化的に獲得された本能的な道徳感覚が存在するのだ、ということを主張した。しかし、ある意味ではこの主張は別段深いことを言っているわけではない。平たく言えば、道徳的であることは自分の利益になったから進化した、というだけだからだ。それがわかったからといって、一体何が解明されたことになるのか?
私の考えでは、この言明の意義は、「人間の倫理システムのメカニズムを解明する糸口になること」だと思う。人間には生まれつきの道徳感覚があるということも、何も進化生物学を持ち出さなくとも、既に孟子が主張していたことである。しかし、これまで人類は、「なぜ人類がそのような道徳感覚を持っているのか?」という理由についてはほとんど無知だった。我々は、倫理システムが包括適応度の最大化のために発達したのではないかという認識を得ることで、「なぜ人類がそのような道徳感覚を持っているのか?」という理由を問うことができるのである。
なぜなら、包括適応度という指標を利得として用いることで、利得を最大化する行動はどんなものか? という問題設定で倫理を分析することができるからだ。利得を最大化する行動を数学的に求める理論を「ゲーム理論(game theory)」といい、ゲームの主体が進化し世代交代していくゲームを分析する理論を「進化ゲーム理論(evolutionary game theory)」という。進化ゲーム理論の考え方を使うことで、道徳感覚の発達の仕方だけでなく、社会のあり方までさまざまなことを解明することができる。そして、進化ゲーム理論など進化生物学の考え方を用いて人間心理を研究する一分野を「進化心理学(evolutionary psychology)」という。
これらは、もちろん発展途上の学問だし、その理論の妥当性が吟味されるのはこれからという部分もある。しかし、私の個人的な感覚ではその理論はかなり納得的なものになっていると思われる。それに、進化ゲーム理論など知らなかったダーウィンの人間本性の考察と、進化ゲーム理論による帰結が多く一致していることも、少なくともこの理論が有用であることを示していると思われる。そこで、これから進化ゲーム理論について少し深く触れることにしたい。
当面の目標は、「我々の生まれつきの道徳感覚は、ゲーム理論における「均衡」を維持する力として進化した」という主張を理解することにする。この主張が正しいか間違いかはまだ分からないが、この前提に立つことで倫理学はかなり面白い展開を見せるはずだ。この主張に含まれる「均衡」という概念はちょっと説明を要するもので、さしあたりこの概念を理解することが第1ステップになる。というわけで、次節からはゲーム理論に取り組む。
私の考えでは、この言明の意義は、「人間の倫理システムのメカニズムを解明する糸口になること」だと思う。人間には生まれつきの道徳感覚があるということも、何も進化生物学を持ち出さなくとも、既に孟子が主張していたことである。しかし、これまで人類は、「なぜ人類がそのような道徳感覚を持っているのか?」という理由についてはほとんど無知だった。我々は、倫理システムが包括適応度の最大化のために発達したのではないかという認識を得ることで、「なぜ人類がそのような道徳感覚を持っているのか?」という理由を問うことができるのである。
なぜなら、包括適応度という指標を利得として用いることで、利得を最大化する行動はどんなものか? という問題設定で倫理を分析することができるからだ。利得を最大化する行動を数学的に求める理論を「ゲーム理論(game theory)」といい、ゲームの主体が進化し世代交代していくゲームを分析する理論を「進化ゲーム理論(evolutionary game theory)」という。進化ゲーム理論の考え方を使うことで、道徳感覚の発達の仕方だけでなく、社会のあり方までさまざまなことを解明することができる。そして、進化ゲーム理論など進化生物学の考え方を用いて人間心理を研究する一分野を「進化心理学(evolutionary psychology)」という。
これらは、もちろん発展途上の学問だし、その理論の妥当性が吟味されるのはこれからという部分もある。しかし、私の個人的な感覚ではその理論はかなり納得的なものになっていると思われる。それに、進化ゲーム理論など知らなかったダーウィンの人間本性の考察と、進化ゲーム理論による帰結が多く一致していることも、少なくともこの理論が有用であることを示していると思われる。そこで、これから進化ゲーム理論について少し深く触れることにしたい。
当面の目標は、「我々の生まれつきの道徳感覚は、ゲーム理論における「均衡」を維持する力として進化した」という主張を理解することにする。この主張が正しいか間違いかはまだ分からないが、この前提に立つことで倫理学はかなり面白い展開を見せるはずだ。この主張に含まれる「均衡」という概念はちょっと説明を要するもので、さしあたりこの概念を理解することが第1ステップになる。というわけで、次節からはゲーム理論に取り組む。
【参考文献】
「我々の生まれつきの道徳感覚は、ゲーム理論における「均衡」を維持する力として進化した」と言う主張は、多くの進化心理学者に支持されていると思うが、ゲーム理論の側からも同様の主張がされている。ケン・ビンモアの「Natural Justice」はまさにこの主張を吟味した佳作。なお、本格的に取り組みたい向きには、「Game Theory and the Social Contract」という大冊(Ⅰ,Ⅱ)がまとめられている。ゲーム理論を手軽に理解されたい場合は、やはりビンモアの「ゲーム理論(〈1冊でわかる〉シリーズ)」などがいいだろう(わかったような雰囲気を味わえる)。
2011年1月16日日曜日
【善と悪】協力的で息苦しい社会
血縁者の間では、自己犠牲的な利他行動も進化しうるが、非血縁者の間ではどうだろうか? 実際の人間社会においては、非血縁者の方が血縁者よりも多いが、これはアリやハチなどの社会性昆虫のコロニーとの大きな違いである。非血縁者間において、道徳的行為は進化しうるだろうか?
先に結論を言えば、非血縁者間においても道徳的行為は進化しうる。 なぜならば、どんな行為であれ、包括適応度を高める行為は進化しうるからであり、非血縁者間における道徳的行為も、包括適応度を高めるような行為がたくさんあるからだ。
例えば、他の個体の背中を掻いてあげるという行為が類人猿において見られるが、これは一種の「親切」であるとも言える(正確には「協力(cooperation)」という用語を使うが、わかりやすく以下「親切」とする)。他人(他猿?)の背中を掻くことで得られる直接的な利益はないからだ。しかし、他人の背中を掻いてあげていれば、自分の背中が痒いとき、普段親切をしている個体から「お返し」に背中を掻いてもらえるかもしれない。こういう、そのときには直接的な利益はもたらさなくても、長期的には見返りがある利他行動を「互恵的利他行動(reciprocal altruism)」という。
つまり、「持ちつ持たれつ」の利他的行動は進化しうるということだ。しかし、そのためにはいくつかの条件がある。
第1に、利他行動の対象になる相手とは継続的関係である必要がある。二度と会わないような相手であれば、「お返し」をしてくれる可能性がないので利他行動をする理由がない。
第2に、個体を識別する認知能力が必要である。「親切」をしてくれた個体や「お返し」をしなかった個体などを覚えておく必要があるからだ。みんなが「親切」をする群れの中で、「お返し」をしない一匹の猿がいれば、その猿は群れのみんなの善意に「タダ乗り(free-ride)」して、大きな利益を得ることができる。「タダ乗り」ができればその方が得なので、みんなが「タダ乗り」してしまい、結局協力的な関係は進化しない。
第3に、 「親切」への「お返し」をしなかった個体や、「お返し」をしない個体へ「親切」をする個体を罰する能力も必要だ。先ほど掲げたように、「タダ乗り」をする個体を許してしまうと協力的な関係が進化しないのであるが、「タダ乗り」する個体を認識したとしても、それを罰する能力がなければそのような個体を排除することができない。
ただし、ここで言う「罰」は「タダ乗り者(free-rider)」の不利益になる行動ならばよく、普通言うような意味での罰である必要はない。たとえば、「二度と親切しない」という行動も罰になりうるのであり、罰を行うために司法機構が必要なわけではないのだ。
以上3つの条件を鑑みると、人間社会においては、小規模な集団においては互恵的利他行動が進化しうる条件が整っていると言える。具体的には、小さな村を想像してもらいたい。村人の構成が固定的で、村人同士が顔見知り、そして、「お返し」をしない人間を村八分にして罰することができる。「仲間内における道徳的行為」は進化しうるのだ。
では、3つの条件を満たさない場合には利他行動は進化しえないのだろうか? 我々は、今後会わないであろう他人であっても親切に道を教えることがあるが、このような一回限りの「親切」は「互恵的」な利他行動とは呼べない。親切を受ける側からの「お返し」は想定されないからだ。血縁者でもなく、仲間内でもない他人への親切は、本能に基づくものではないのだろうか?
実は、こういう一回限りの「親切」も進化しうることが分かっている。このような「親切」は一見すると一種の純粋な贈与であり、親切な者(利他主義者)には何の利益もないように思えるが、長期的には利益になりうるからだ。具体的には、親切な者の「評判」を高めて、将来の仲間内からの協力行動(親切)を引き出すという利益があるのである。
将来得にならないような「親切」をすることは、「自分は道徳的な人で、(見知らぬ相手にも「親切」をするのだから)仲間内への「親切」や「お返し」は必ずする」というシグナルになるのである(こういうシグナルを「cue(合図)」という)。例えば、あなたは困っている人を助けてあげた、というような噂が村に広まると、あなたは人格者だという(cueを出す)ことになり、今後の村の活動において有利な立場に立つということになったりするのである。
このように、見返りを求めない(互恵的でない)利他行動が進化しうるためには、「親切」をしたということが(互恵的利他行動の対象になる)仲間内に知られるようなシステムがなければならない。例えば、小さな村においては、そのシステムに当たるのは「噂(gossip)」である。
人間は、ゴシップが好きである。現代的な感覚からは、ゴシップに興じることはあまりいい趣味であるとは言えない。しかし、進化的には、ゴシップは集団内を協力的(道徳的)に保つのに役立った。誰が親切をしたか、誰が親切をしなかったか、誰がお返しをしたか、そのお返しは十分なものだったのか、といったことを仲間内で共有することは、集団内が互恵的であるように保つシステムだったのである。
e-bayやyahoo! オークションのような個人対個人の取引において、ちゃんとした品物が送られてくるか、ちゃんとお金を払ってくれるかということは取引者の双方の懸念事項である。こういう、決済と納品の時期がずれる取引は信用取引の一種で、互いが信用で結ばれている必要があるが、このような取引では多くが一回限りであるためにそういう信用は構築し得ないからだ。
そこで重要になるのが「評判」である。インターネットの画面には、これまでの取引における「評判」が表示されており、その「評判」を落とさないように出品者も落札者も誠実な取引を行う。「評判」が落ちるとその後の取引に差し支え、村八分ならぬ「オークション八分」を食らうからである。
インターネット取引のような現代の仕組みが、ゴシップのように伝統的な手法を用いて成立しているというのは興味深い。我々は、現代においても進化的に獲得した機構から逃れることはできないし、それに進化的に獲得された仕組みはそれなりに合理的で効率的である。
人間社会を協力的(道徳的)に保つためには、相互の行動監視と非協力的な人間に対する制裁、そしてゴシップによる情報の共有という、前近代的で息苦しい環境を構築しなくてはならないという諦めも、我々には時として必要なのかもしれない。
先に結論を言えば、非血縁者間においても道徳的行為は進化しうる。 なぜならば、どんな行為であれ、包括適応度を高める行為は進化しうるからであり、非血縁者間における道徳的行為も、包括適応度を高めるような行為がたくさんあるからだ。
例えば、他の個体の背中を掻いてあげるという行為が類人猿において見られるが、これは一種の「親切」であるとも言える(正確には「協力(cooperation)」という用語を使うが、わかりやすく以下「親切」とする)。他人(他猿?)の背中を掻くことで得られる直接的な利益はないからだ。しかし、他人の背中を掻いてあげていれば、自分の背中が痒いとき、普段親切をしている個体から「お返し」に背中を掻いてもらえるかもしれない。こういう、そのときには直接的な利益はもたらさなくても、長期的には見返りがある利他行動を「互恵的利他行動(reciprocal altruism)」という。
つまり、「持ちつ持たれつ」の利他的行動は進化しうるということだ。しかし、そのためにはいくつかの条件がある。
第1に、利他行動の対象になる相手とは継続的関係である必要がある。二度と会わないような相手であれば、「お返し」をしてくれる可能性がないので利他行動をする理由がない。
第2に、個体を識別する認知能力が必要である。「親切」をしてくれた個体や「お返し」をしなかった個体などを覚えておく必要があるからだ。みんなが「親切」をする群れの中で、「お返し」をしない一匹の猿がいれば、その猿は群れのみんなの善意に「タダ乗り(free-ride)」して、大きな利益を得ることができる。「タダ乗り」ができればその方が得なので、みんなが「タダ乗り」してしまい、結局協力的な関係は進化しない。
第3に、 「親切」への「お返し」をしなかった個体や、「お返し」をしない個体へ「親切」をする個体を罰する能力も必要だ。先ほど掲げたように、「タダ乗り」をする個体を許してしまうと協力的な関係が進化しないのであるが、「タダ乗り」する個体を認識したとしても、それを罰する能力がなければそのような個体を排除することができない。
ただし、ここで言う「罰」は「タダ乗り者(free-rider)」の不利益になる行動ならばよく、普通言うような意味での罰である必要はない。たとえば、「二度と親切しない」という行動も罰になりうるのであり、罰を行うために司法機構が必要なわけではないのだ。
以上3つの条件を鑑みると、人間社会においては、小規模な集団においては互恵的利他行動が進化しうる条件が整っていると言える。具体的には、小さな村を想像してもらいたい。村人の構成が固定的で、村人同士が顔見知り、そして、「お返し」をしない人間を村八分にして罰することができる。「仲間内における道徳的行為」は進化しうるのだ。
では、3つの条件を満たさない場合には利他行動は進化しえないのだろうか? 我々は、今後会わないであろう他人であっても親切に道を教えることがあるが、このような一回限りの「親切」は「互恵的」な利他行動とは呼べない。親切を受ける側からの「お返し」は想定されないからだ。血縁者でもなく、仲間内でもない他人への親切は、本能に基づくものではないのだろうか?
実は、こういう一回限りの「親切」も進化しうることが分かっている。このような「親切」は一見すると一種の純粋な贈与であり、親切な者(利他主義者)には何の利益もないように思えるが、長期的には利益になりうるからだ。具体的には、親切な者の「評判」を高めて、将来の仲間内からの協力行動(親切)を引き出すという利益があるのである。
将来得にならないような「親切」をすることは、「自分は道徳的な人で、(見知らぬ相手にも「親切」をするのだから)仲間内への「親切」や「お返し」は必ずする」というシグナルになるのである(こういうシグナルを「cue(合図)」という)。例えば、あなたは困っている人を助けてあげた、というような噂が村に広まると、あなたは人格者だという(cueを出す)ことになり、今後の村の活動において有利な立場に立つということになったりするのである。
このように、見返りを求めない(互恵的でない)利他行動が進化しうるためには、「親切」をしたということが(互恵的利他行動の対象になる)仲間内に知られるようなシステムがなければならない。例えば、小さな村においては、そのシステムに当たるのは「噂(gossip)」である。
人間は、ゴシップが好きである。現代的な感覚からは、ゴシップに興じることはあまりいい趣味であるとは言えない。しかし、進化的には、ゴシップは集団内を協力的(道徳的)に保つのに役立った。誰が親切をしたか、誰が親切をしなかったか、誰がお返しをしたか、そのお返しは十分なものだったのか、といったことを仲間内で共有することは、集団内が互恵的であるように保つシステムだったのである。
e-bayやyahoo! オークションのような個人対個人の取引において、ちゃんとした品物が送られてくるか、ちゃんとお金を払ってくれるかということは取引者の双方の懸念事項である。こういう、決済と納品の時期がずれる取引は信用取引の一種で、互いが信用で結ばれている必要があるが、このような取引では多くが一回限りであるためにそういう信用は構築し得ないからだ。
そこで重要になるのが「評判」である。インターネットの画面には、これまでの取引における「評判」が表示されており、その「評判」を落とさないように出品者も落札者も誠実な取引を行う。「評判」が落ちるとその後の取引に差し支え、村八分ならぬ「オークション八分」を食らうからである。
インターネット取引のような現代の仕組みが、ゴシップのように伝統的な手法を用いて成立しているというのは興味深い。我々は、現代においても進化的に獲得した機構から逃れることはできないし、それに進化的に獲得された仕組みはそれなりに合理的で効率的である。
人間社会を協力的(道徳的)に保つためには、相互の行動監視と非協力的な人間に対する制裁、そしてゴシップによる情報の共有という、前近代的で息苦しい環境を構築しなくてはならないという諦めも、我々には時として必要なのかもしれない。
2011年1月11日火曜日
【善と悪】身内の利益は自分の利益
なぜ、人間には生まれつきの道徳的直観、つまり「本能的な道徳」が備わっているのであろうか? この問いに対しては、人間はなぜ二足歩行をするのだろうか? ということと同様に、進化生物学を使って答えられるだろうと現在では考えられている。そしてこれは、既にチャールズ・ダーウィン(1809-1882)が示唆していたことでもある。道徳的直観の由来は、進化生物学によってその一端を解明できるのである。
人間が「本能的な道徳」を持っていた理由、それは端的に言って、倫理的であることに利益があったからに他ならない。何らかの利益がない行動や形質は、進化的には発展しないからである(必ずしも淘汰されるとは限らないが)。
では、ここでいう利益とはどういうものだろうか?
それは、単純に言えば、「その行動をすることによって、そうでない個体よりもより多くの子孫を残すことができた」ということである。つまり、倫理的な個体は多産だった、ということだ。
さらに正確に説明すれば、ここでいう「多くの子孫」というのは、自分自身の子供や孫(つまり直系子孫)である必要はなく、きょうだいやいとこの子孫であってもよい。それは、きょうだいは1/2、いとこは1/8の遺伝子を共有しており、その子孫が繁栄することにより、自分の遺伝子を残すことができるからだ。ある行動や形質が繁栄するかどうかということは、その行動や形質をもたらす遺伝子を持つ個体が増えるか減るかということであるから、自らの子供の数という限定された指標ではなく、自らの遺伝子が次世代にどれだけ継承されるかという指標に注目するほうが、より直接的で正確に遺伝の様子を記述できるのである。
なお、自らの子供の数という指標を進化生物学では「適応度(fitness)」といい、自らの遺伝子が次世代にどれだけ継承されるかという指標を「包括適応度(inclusive fitness)」という。
この用語を使って、「倫理的であることに利益があった」ということを言い直すと、「倫理的であることは、その個体の包括適応度は高くなったのだ」ということになる。
具体的にはこういう状況を思い浮かべていただきたい。
答えは、自らを犠牲にしてきょうだい3人を助けるべきである、ということだ。なぜならば、あなたときょうだいは1/2の確率で遺伝子を共有しており、3人のきょうだいが持つ遺伝子の総量は1/2 × 3 = 3/2 なので、自分自身の遺伝子の総量(すなわち1)よりも多い。よって、自分一人が生き残るよりも、きょうだい3人が生き残った方が、あなたの遺伝子がより多く残るのである。
普通の感覚では、自分の命を犠牲にして他の人の命を救うことは、それが家族や親戚であっても「徳の高い」行為と見なされる。つまり利己的な人間にはできない行為であると考えられがちだ。しかし遺伝学的に考えると、仮に自分自身に不利益をもたらす行為であっても、家族や親戚の適応度を高める行為は、究極的には自分の利益に適う行為なのであり、その意味で利己的な人間でも行いうる行為なのだ。
では、【事例5】で、きょうだいの数が2人だったらどうだろうか? 答えは、救っても救わなくてもよい、つまり包括適応度は変わらない、である。なぜなら、きょうだい2人だと自分と共有する遺伝子の総量は1/2 × 2 = 1なので、自分自身の遺伝子の総量と変わらないからだ。もちろん、きょうだいの数が1人なら、自分が生き残った方がよい。
さて、ここで一つ補足しておきたい。これまで、きょうだいと自分が遺伝子を共有している確率が1/2、つまり50%であるとしてきたが、これはどういう意味だろうか。よく、チンパンジーは人間と約99%の遺伝子を共有していると言われるが、きょうだいよりチンパンジーの方が遺伝的に近いわけではないだろう。
というわけで、包括適応度の概念を理解する際に重要な「血縁度(relatedness)」の説明をしておきたい。先ほど「きょうだいと自分が遺伝子を共有している確率」が50%であると書いたが、まさしくこれはきょうだいと自分の血縁度が50%であるということにほかならないのだ。さて、血縁度とは何か?
血縁度とは、2つの個体間に定義される確率で、一方が有するある特定の遺伝子に注目したとき、その遺伝子をもう一方の個体が共通の由来から受け継いでいる確率のことである。
つまり、遺伝子自体が同じかどうかということよりも、ある特定の(より正確に言えば「任意の」)遺伝子が共通の由来を持っているかどうか、ということに注目するのである。先ほどの説明では、「遺伝子を共有している確率」と述べたが、正確には「共通の由来を持つ遺伝子を共有している確率」と言わなくてはならなかったのだ。
しかし、この説明だと何のことかよく分からないかもしれないので、具体例で説明しよう。
第1に、自分と親の血縁度は50%である(人間の場合。以下同じ)。なぜなら、自分のもつ任意の遺伝子に着目したとき、人間は減数分裂による生殖を行うので、それは父か母かのどちらかから等確率で受け継いでいるのであり、すなわちその確率が50%だからである。
第2に、自分ときょうだいとの血縁度も50%である。なぜなら、自分の全ての遺伝子は両親のどちらかから受け継いだものであり、両親ときょうだいとの血縁度は50%なので、1/2 × 1/2 + 1/2 × 1/2 =1/2 となる(自分の特定の遺伝子が父由来である確率×両親ときょうだいの血縁度+母由来である確率×両親ときょうだいの血縁度)。
第3に、自分といとこの血縁度は25%(1/8)である。なぜなら、たとえば母のきょうだいの子供のいとこだとすると、母と自分の血縁度(1/2)×母と母のきょうだいの血縁度(1/2)×母のきょうだいとその子供の血縁度(1/2)= 1/8 となるのだ。
ちなみに、包括適応度という概念は、アリやハチのような社会性昆虫の社会において、自らは子孫を残さない不妊性のワーカー(働きアリや働きバチ)が姉妹を育てる役割に特化しているのはなぜか? という問題に答えるために考案されたものである。
アリやハチは、大きな群れ(コロニー)を作るけれども、実はそのほとんどは不妊性のワーカーで、自分自身の子孫は残さない。こういう他の個体の利益になるが自分の利益にならない行動を協力行動の中でも特に「利他行動」というが、子孫を残さない利他行動がどうして進化しうるのか? ということは進化生物学上の謎だった。
それに対するウィリアム・ドナルド・ハミルトン(1936-2000)の答えが、「不妊性ワーカー確かに自分自身の子孫は残さないけれど、(不妊でない)きょうだいを育てることで、自分の遺伝子を残している」ということだった。、アリやハチは人間とは違い、生殖において半倍数性という性決定方式をとっており、きょうだいと自分の血縁度が3/4なのである。よって、人間におけるきょうだいよりも協力行動によって高まる包括適応度が大きいのだ。なお、包括適応度という言葉は、ハミルトンの論文を紹介したジョン・メイナード=スミス(1920-2004)が名付けたものである。
このように、自らの適応度を高める(=子孫を増やす)ことによってではなく、包括適応度を高める(=親戚を増やす)ことによって利他行動が進化することを説明する理論を、血縁選択説(kin selection)という。
先ほども触れたが、こういった理論が出てきた背景には、人間のみならず動物においても、自分を不利にして他の個体に協力する利他行動が観察されるが、そのような行動はどうやって進化したのかという問題意識があった。まさしくこれは、倫理の起源にも関わる問題である。
ことわざに「情けは人のためならず」とあるが、包括適応度の観点からはこのことわざは正しい。利他行動は人のためではなく、自分の包括適応度を高めるために発達したものであり、その意味で自分にも利益があるからだ。「本能的な道徳」の起源を解き明かすには、道徳的行為がどのように包括適応度を高めたのか、という考察が必要なのだ。
人間が「本能的な道徳」を持っていた理由、それは端的に言って、倫理的であることに利益があったからに他ならない。何らかの利益がない行動や形質は、進化的には発展しないからである(必ずしも淘汰されるとは限らないが)。
では、ここでいう利益とはどういうものだろうか?
それは、単純に言えば、「その行動をすることによって、そうでない個体よりもより多くの子孫を残すことができた」ということである。つまり、倫理的な個体は多産だった、ということだ。
さらに正確に説明すれば、ここでいう「多くの子孫」というのは、自分自身の子供や孫(つまり直系子孫)である必要はなく、きょうだいやいとこの子孫であってもよい。それは、きょうだいは1/2、いとこは1/8の遺伝子を共有しており、その子孫が繁栄することにより、自分の遺伝子を残すことができるからだ。ある行動や形質が繁栄するかどうかということは、その行動や形質をもたらす遺伝子を持つ個体が増えるか減るかということであるから、自らの子供の数という限定された指標ではなく、自らの遺伝子が次世代にどれだけ継承されるかという指標に注目するほうが、より直接的で正確に遺伝の様子を記述できるのである。
なお、自らの子供の数という指標を進化生物学では「適応度(fitness)」といい、自らの遺伝子が次世代にどれだけ継承されるかという指標を「包括適応度(inclusive fitness)」という。
この用語を使って、「倫理的であることに利益があった」ということを言い直すと、「倫理的であることは、その個体の包括適応度は高くなったのだ」ということになる。
具体的にはこういう状況を思い浮かべていただきたい。
【事例5】あなたは3人のきょうだいとともに事故に遭遇した。きょうだい3人を助けることができるが、そうすると自分は死んでしまう。逆に、あなたが助けなければ、きょうだい3人全員が死んでしまう。あなたはきょうだい3人を助けるべきだろうか(あなたときょうだいは子供であるとする)。これは、道徳的な問題ではなく、生物学的な問題だと捉えて欲しい。つまり、どういう行動が包括適応度を高めるのかということを考えてみよう。
答えは、自らを犠牲にしてきょうだい3人を助けるべきである、ということだ。なぜならば、あなたときょうだいは1/2の確率で遺伝子を共有しており、3人のきょうだいが持つ遺伝子の総量は1/2 × 3 = 3/2 なので、自分自身の遺伝子の総量(すなわち1)よりも多い。よって、自分一人が生き残るよりも、きょうだい3人が生き残った方が、あなたの遺伝子がより多く残るのである。
普通の感覚では、自分の命を犠牲にして他の人の命を救うことは、それが家族や親戚であっても「徳の高い」行為と見なされる。つまり利己的な人間にはできない行為であると考えられがちだ。しかし遺伝学的に考えると、仮に自分自身に不利益をもたらす行為であっても、家族や親戚の適応度を高める行為は、究極的には自分の利益に適う行為なのであり、その意味で利己的な人間でも行いうる行為なのだ。
では、【事例5】で、きょうだいの数が2人だったらどうだろうか? 答えは、救っても救わなくてもよい、つまり包括適応度は変わらない、である。なぜなら、きょうだい2人だと自分と共有する遺伝子の総量は1/2 × 2 = 1なので、自分自身の遺伝子の総量と変わらないからだ。もちろん、きょうだいの数が1人なら、自分が生き残った方がよい。
さて、ここで一つ補足しておきたい。これまで、きょうだいと自分が遺伝子を共有している確率が1/2、つまり50%であるとしてきたが、これはどういう意味だろうか。よく、チンパンジーは人間と約99%の遺伝子を共有していると言われるが、きょうだいよりチンパンジーの方が遺伝的に近いわけではないだろう。
というわけで、包括適応度の概念を理解する際に重要な「血縁度(relatedness)」の説明をしておきたい。先ほど「きょうだいと自分が遺伝子を共有している確率」が50%であると書いたが、まさしくこれはきょうだいと自分の血縁度が50%であるということにほかならないのだ。さて、血縁度とは何か?
血縁度とは、2つの個体間に定義される確率で、一方が有するある特定の遺伝子に注目したとき、その遺伝子をもう一方の個体が共通の由来から受け継いでいる確率のことである。
つまり、遺伝子自体が同じかどうかということよりも、ある特定の(より正確に言えば「任意の」)遺伝子が共通の由来を持っているかどうか、ということに注目するのである。先ほどの説明では、「遺伝子を共有している確率」と述べたが、正確には「共通の由来を持つ遺伝子を共有している確率」と言わなくてはならなかったのだ。
しかし、この説明だと何のことかよく分からないかもしれないので、具体例で説明しよう。
第1に、自分と親の血縁度は50%である(人間の場合。以下同じ)。なぜなら、自分のもつ任意の遺伝子に着目したとき、人間は減数分裂による生殖を行うので、それは父か母かのどちらかから等確率で受け継いでいるのであり、すなわちその確率が50%だからである。
第2に、自分ときょうだいとの血縁度も50%である。なぜなら、自分の全ての遺伝子は両親のどちらかから受け継いだものであり、両親ときょうだいとの血縁度は50%なので、1/2 × 1/2 + 1/2 × 1/2 =1/2 となる(自分の特定の遺伝子が父由来である確率×両親ときょうだいの血縁度+母由来である確率×両親ときょうだいの血縁度)。
第3に、自分といとこの血縁度は25%(1/8)である。なぜなら、たとえば母のきょうだいの子供のいとこだとすると、母と自分の血縁度(1/2)×母と母のきょうだいの血縁度(1/2)×母のきょうだいとその子供の血縁度(1/2)= 1/8 となるのだ。
ちなみに、包括適応度という概念は、アリやハチのような社会性昆虫の社会において、自らは子孫を残さない不妊性のワーカー(働きアリや働きバチ)が姉妹を育てる役割に特化しているのはなぜか? という問題に答えるために考案されたものである。
アリやハチは、大きな群れ(コロニー)を作るけれども、実はそのほとんどは不妊性のワーカーで、自分自身の子孫は残さない。こういう他の個体の利益になるが自分の利益にならない行動を協力行動の中でも特に「利他行動」というが、子孫を残さない利他行動がどうして進化しうるのか? ということは進化生物学上の謎だった。
それに対するウィリアム・ドナルド・ハミルトン(1936-2000)の答えが、「不妊性ワーカー確かに自分自身の子孫は残さないけれど、(不妊でない)きょうだいを育てることで、自分の遺伝子を残している」ということだった。、アリやハチは人間とは違い、生殖において半倍数性という性決定方式をとっており、きょうだいと自分の血縁度が3/4なのである。よって、人間におけるきょうだいよりも協力行動によって高まる包括適応度が大きいのだ。なお、包括適応度という言葉は、ハミルトンの論文を紹介したジョン・メイナード=スミス(1920-2004)が名付けたものである。
このように、自らの適応度を高める(=子孫を増やす)ことによってではなく、包括適応度を高める(=親戚を増やす)ことによって利他行動が進化することを説明する理論を、血縁選択説(kin selection)という。
先ほども触れたが、こういった理論が出てきた背景には、人間のみならず動物においても、自分を不利にして他の個体に協力する利他行動が観察されるが、そのような行動はどうやって進化したのかという問題意識があった。まさしくこれは、倫理の起源にも関わる問題である。
ことわざに「情けは人のためならず」とあるが、包括適応度の観点からはこのことわざは正しい。利他行動は人のためではなく、自分の包括適応度を高めるために発達したものであり、その意味で自分にも利益があるからだ。「本能的な道徳」の起源を解き明かすには、道徳的行為がどのように包括適応度を高めたのか、という考察が必要なのだ。
【参考文献】
協力行動の進化の理論は、本節で説明したよりもずっと奥深い内容があり、本節はその一部についての簡単なスケッチに過ぎない。より正確に深く知りたい場合には、長谷川真理子先生他による「シリーズ進化学 6 行動・生態の進化」をご覧いただくとよいであろう。
【善と悪】これからの社会正義としての倫理に向けて
前節においては、人間には生まれつきの道徳的直観が備わっているが、それは数万年前までの社会で身につけたものであるため、時代遅れの部分があると指摘した。倫理は時代や地域によって様々であるように見えるが、人間社会の倫理とは、全て基本的には小集団での狩猟採集生活における倫理が基盤になっているのである。都市では数百万人が暮らし、1日あれば世界のほとんどの国に行くことができ、地球の裏側の出来事がインターネットで個人中継されるような現代世界の倫理が、基本的には狩猟採集生活におけるそれだというのは、驚きではないか?
もちろん、人類という存在自体が、時代遅れのデバイスを使った最新機器のようなものだ。我々の脳は、コンピュータを使うために進化したのではないし、我々の耳は眼鏡を掛けるためにあるのではない。我々は、狩猟採集生活をしていた頃から基本的に体の機構を変えていないのであり、文明社会は、実は我々にとってなじみのない環境なのだ。この認識は、これからの倫理を考える上でも非常に重要なものである。
倫理について考える以上、我々はいかに生きるべきか、社会はどうあるべきか、ということを考えざるを得ない。これは、単なる個人や社会の抱負としてだけではなく、人間のクローンや捕鯨といった新たな社会的課題に対して何らかの答えを出すという現実的な課題として重要である。つまり、我々は「これからの社会正義としての倫理」を考える必要があるのであり、ヒュームがいうように、その際には人間性を深く理解しなくてはならないのである。
私は、これから人間本性(human nature)としての「倫理」を、出来る範囲でスケッチしていこうと思う。それにより、倫理とはどういうものなのかをまずは明確にしたい。そしてその上で、「これからの社会正義としての倫理」について私なりに提案してみたいと思う。それは、時代遅れのデバイスを使った最新機器である人間が、どうやってその時代遅れの部分と現代社会との矛盾を調停するかという問題への解答でもあるはずだ。
もちろん、人類という存在自体が、時代遅れのデバイスを使った最新機器のようなものだ。我々の脳は、コンピュータを使うために進化したのではないし、我々の耳は眼鏡を掛けるためにあるのではない。我々は、狩猟採集生活をしていた頃から基本的に体の機構を変えていないのであり、文明社会は、実は我々にとってなじみのない環境なのだ。この認識は、これからの倫理を考える上でも非常に重要なものである。
倫理について考える以上、我々はいかに生きるべきか、社会はどうあるべきか、ということを考えざるを得ない。これは、単なる個人や社会の抱負としてだけではなく、人間のクローンや捕鯨といった新たな社会的課題に対して何らかの答えを出すという現実的な課題として重要である。つまり、我々は「これからの社会正義としての倫理」を考える必要があるのであり、ヒュームがいうように、その際には人間性を深く理解しなくてはならないのである。
私は、これから人間本性(human nature)としての「倫理」を、出来る範囲でスケッチしていこうと思う。それにより、倫理とはどういうものなのかをまずは明確にしたい。そしてその上で、「これからの社会正義としての倫理」について私なりに提案してみたいと思う。それは、時代遅れのデバイスを使った最新機器である人間が、どうやってその時代遅れの部分と現代社会との矛盾を調停するかという問題への解答でもあるはずだ。
2011年1月8日土曜日
【善と悪】時代遅れの道徳的直観
我々には、生まれつきの道徳的直観が備わっている。では、我々はその道徳的直観に従って生きていればよいのであり、ことさらに倫理や道徳を考える必要はないのだろうか。
私は、そうではないと考える。既に前節では、道徳的直観(=「市民感覚」)を追認するだけの倫理理論には価値がないと書いておいた。では、それはなぜだろうか。
それは、我々の道徳的直観は、我々の祖先が狩猟採集生活をしていた時に進化的に獲得したものであり、現代社会にマッチしていないからである、ということにつきる。もし、我々の道徳的直観が現代社会にマッチしたものであるとすれば、倫理学にはなすべきことはない、といっても過言ではない。しかし、実際には、我々の道徳的直観はあまりにも時代遅れであり、文明社会には適応できていないことが明らかだ。
例えば、次の例を見てみよう。
素朴な功利主義で考えれば、【事例4】において救える命は50人であり、【事例3】においては1人なのだから、【事例4】の方こそ看過してはならない状況であるはずだ。なぜ、我々の道徳的直観は功利主義的な判断をしないのだろうか?
もちろん、アフリカの子供への寄付については、中間団体にほとんどが吸収されてしまう虞や現地で適切に使われない虞もあるので、50人の命が救えるというキャッチコピーが眉唾ものであるという信頼性の問題がある。しかし、仮にそのダイレクトメールを送付してきた慈善団体は非常に信頼度が高く、寄付金のほとんどが実際に子供の命を救う活動に使われるということが明白であったとしても、我々の道徳的直観による判断は変わらない。なぜだろうか?
それは、我々の祖先が道徳的直観を獲得した頃(おそらく数万年前)には、遙か遠いところで困っている人を助けるという手段も、遠いところの情報を素早く知るすべも持っていなかったため、「人助け」の道徳的直観は、ほとんど目の前の人に限定された感覚になってしまっているためである。
つまり、【事例3】における直観的判断は、我々の道徳的直観によるものだと考えられるが、【事例4】における判断は直観的なものではなく、実は「道徳的」なものですらない可能性がある。道徳的直観は数万年前には存在していなかったような状況では無力なのだ。
目の前の怪我人を助けるということは、あらゆる宗教が推奨していることだし、場合によってはそれが自分の敵であろうとも助けるべしという「市民感覚」を多くの人が持っている。一方で、世界の裏側で困っている人を助けるということは、現代まで想定されてこなかったことなので、それについて伝統的宗教は何も言わない。せいぜい、一般論としては助ける方がよい、とするくらいであろう。これは宗教ならずとも、伝統的な道徳の立場もほぼ同じであろう。
結局、「遠くの人を助ける」というような我々が進化的に経験してこなかったことは、そもそも道徳的に解釈することはできず、理性的にしか判断し得ないのだ。「理性的に判断」というと随分立派に聞こえるが、そうではない。既にヒュームが述べたように、「理性は感情の奴隷」にすぎない。カントは、理性によってしか我々は自由になれないと考えたが、近年の研究では、理性は、目的設定を行うというよりは、「目的を達成する手段を合理的に考えるための機構」であると見なされるようになってきている。
すなわち、目的は感情によって設定され、それを達成する手段が理性により選ばれるものである。この意味で、ヒュームの「理性は感情の奴隷」という言明は正しかったといえる。であるとすれば、「我々が進化的に経験してこなかったことは、そもそも道徳的に解釈されることはなく、理性的にしか判断し得ない」ということを言い換えると、「我々が進化的に経験してこなかったことは、感情次第でどんな判断もありうる」ということになるだろう。
例として、胚性幹細胞(ES細胞)の研究を考えてみよう。胚性幹細胞は様々な研究や治療に役立つ細胞であるが、ヒトの受精卵から作られるために、倫理的な問題を抱えており、現在対立が生じている。研究者やこれにより治療が可能となるかもしれない難病を抱えている人はこの研究を推進している。彼らは、胚性幹細胞には倫理的問題があるかもしれないが、適切に規制すれば大きな問題にはならないし、それよりも胚性幹細胞を用いることによる利益の方が大きいと主張している。一方、ヒトの命を道具として使うことは許されないとする宗教者などは、このような主張を命の価値を軽視するものとして退けている。なぜこのような対立が起こるのであろうか?
その答えは、先ほどの考え方を援用すれば、胚性幹細胞のことなど人類は進化的にははほとんど経験してこなかったので、それに対する道徳的直観が存在しないからだ、ということになる。こういう場合に「理性的」に判断しようとすると、自分の利益の最大化を図る方向でロジックが組み立てられるので、結局、賛成派と反対派の議論は単なる利害の対立以上のものにならない。 感情次第でどんなロジックでも組み立てられるからだ。
我々が進化的に経験してきたこと(概ね数万年前までに存在した状況)においては、我々の道徳的判断はほぼ普遍的である。すなわち、小集団での食料の分配、傷病者の看病、命の危険が存在する状況における行動などは、国や文化が違っても、ほぼ同様の道徳的判断がなされる。しかし、(進化的な時間において)最近出現した、胚性幹細胞や中絶といった課題に対しては、国や文化どころか、それぞれの立場によって違う道徳的判断がなされ、場合によってはそれを「道徳的」と呼べないことも多い。それは、単に立場の違いを表しているだけのように私には思える。
私は、我々は進化的に経験してきたこと以外の道徳的判断はそもそも不可能である、という認識に立つことにより、これからの倫理学が成すべきことが見えてくる気がする。すなわち、倫理学がやるべきことは、我々の道徳的直観の修正ではなく、道徳的直観が働かない領域における対処法の構築ではないだろうか。
【事例3】と【事例4】をもう一度考えよう。困っている人を助ける、という我々の道徳的直観が目の前の人だけにしか及ばないというのは、現代社会においては既に不合理とも言える。そこで、もし我々が新しい倫理理論を作るとすれば、素朴には、【事例4】においても看過することは許されないとなるような理論を構築すべきと考えられる。しかし、そのような理論を現実感を持って多くの人が受け取れるかというと、私にはそうは思えない。
むしろ、現実的なのは、【事例3】と【事例4】を対比すること自体が間違いである、という答えを下す理論ではないだろうか。つまり、【事例3】は道徳的判断に関するものだが、【事例4】は道徳的判断に関するものでははない、と判断する理論の方が有用であるように思える。
つまり、【事例4】で寄付をすべきかどうかは、一見道徳的判断の範疇に属することのように思えるが、実は、「道徳」とは何の関係もない課題であると見なすのである。先ほど「道徳的直観が働かない領域における対処法」と書いたが、まさしく【事例4】は「道徳的直観が働かない領域」の課題であるというわけだ。こういった領域でどういう規矩を以て我々は判断すべきか、ということが問題になるわけだが、誤解しないでいただきたいのは、その「対処法」は決して「道徳的な」ものである必要はないということだ。むしろ、個人的には道徳的でない方が望ましいと思っている。
蓋し我々は、あまりにも多くのことを倫理的、道徳的に捉えることに慣れすぎている。そして、本来倫理的、道徳的な判断ではないものまで、そうであると誤解しすぎているのではないか。私は、これからの倫理学は、その扱う対象を厳密に定義し、扱う範囲を狭めるべきだと思っている。そしてそれ以外の領域で社会的に価値判断を行わなければならない場合は、それが「政治的判断」に過ぎないことを我々は明確に意識すべきだし、倫理理論はそう明言しなくてはならない。
胚性幹細胞にしろ、中絶の問題にしろ、それを何らかの形で法制度で規制することは、その問題に対して道徳的判断を下したわけではないし、その判断が社会全体の構成員で共有されているということでもない。ただ、政治的に決着しただけの話ではないだろうか。
しかしながら、「道徳的直観の及ばない範囲では、政治的判断に任せましょう」というだけでは何の解決にもならない。現代社会とマッチしない我々の道徳的直観を、我々自身がどう調停していくのか、という課題に何も答えていないのだ。だから、私は「道徳的直観が働かない領域における対処法の構築」が必要だと考えるのだ(私は本稿において、後にこの「対処法」について具体的な提案を行う予定である)。
私は、そうではないと考える。既に前節では、道徳的直観(=「市民感覚」)を追認するだけの倫理理論には価値がないと書いておいた。では、それはなぜだろうか。
それは、我々の道徳的直観は、我々の祖先が狩猟採集生活をしていた時に進化的に獲得したものであり、現代社会にマッチしていないからである、ということにつきる。もし、我々の道徳的直観が現代社会にマッチしたものであるとすれば、倫理学にはなすべきことはない、といっても過言ではない。しかし、実際には、我々の道徳的直観はあまりにも時代遅れであり、文明社会には適応できていないことが明らかだ。
例えば、次の例を見てみよう。
【事例3】あなたは新車のスポーツカーで高速道路を走っていた。ふと見ると、路肩に足に大けがを負った少年が見えた。少年をすぐに病院に連れて行くことが必要だが、新品の革張りシートが血で汚れてしまうために、クリーニング代が2万円かかる。あなたは少年を車に乗せるべきだろうか。
【事例4】あなたは寄付依頼のダイレクトメールを受け取った。2万円寄付すれば、アフリカの子供50人の命が助かりますと書いてある。あなたは寄付をするべきだろうか。(あなたは、新車のスポーツカーを買えるほどの裕福な人間であるとする。)多くの人の道徳的直観は、【事例3】では、「少年を車に乗せるべきであり、見て見ぬふりをすることは許されない」である。一方【事例4】では、「寄付はした方がよいが、しなくてもかまわない」である。なぜこういう違いが生まれるのだろうか。
素朴な功利主義で考えれば、【事例4】において救える命は50人であり、【事例3】においては1人なのだから、【事例4】の方こそ看過してはならない状況であるはずだ。なぜ、我々の道徳的直観は功利主義的な判断をしないのだろうか?
もちろん、アフリカの子供への寄付については、中間団体にほとんどが吸収されてしまう虞や現地で適切に使われない虞もあるので、50人の命が救えるというキャッチコピーが眉唾ものであるという信頼性の問題がある。しかし、仮にそのダイレクトメールを送付してきた慈善団体は非常に信頼度が高く、寄付金のほとんどが実際に子供の命を救う活動に使われるということが明白であったとしても、我々の道徳的直観による判断は変わらない。なぜだろうか?
それは、我々の祖先が道徳的直観を獲得した頃(おそらく数万年前)には、遙か遠いところで困っている人を助けるという手段も、遠いところの情報を素早く知るすべも持っていなかったため、「人助け」の道徳的直観は、ほとんど目の前の人に限定された感覚になってしまっているためである。
つまり、【事例3】における直観的判断は、我々の道徳的直観によるものだと考えられるが、【事例4】における判断は直観的なものではなく、実は「道徳的」なものですらない可能性がある。道徳的直観は数万年前には存在していなかったような状況では無力なのだ。
目の前の怪我人を助けるということは、あらゆる宗教が推奨していることだし、場合によってはそれが自分の敵であろうとも助けるべしという「市民感覚」を多くの人が持っている。一方で、世界の裏側で困っている人を助けるということは、現代まで想定されてこなかったことなので、それについて伝統的宗教は何も言わない。せいぜい、一般論としては助ける方がよい、とするくらいであろう。これは宗教ならずとも、伝統的な道徳の立場もほぼ同じであろう。
結局、「遠くの人を助ける」というような我々が進化的に経験してこなかったことは、そもそも道徳的に解釈することはできず、理性的にしか判断し得ないのだ。「理性的に判断」というと随分立派に聞こえるが、そうではない。既にヒュームが述べたように、「理性は感情の奴隷」にすぎない。カントは、理性によってしか我々は自由になれないと考えたが、近年の研究では、理性は、目的設定を行うというよりは、「目的を達成する手段を合理的に考えるための機構」であると見なされるようになってきている。
すなわち、目的は感情によって設定され、それを達成する手段が理性により選ばれるものである。この意味で、ヒュームの「理性は感情の奴隷」という言明は正しかったといえる。であるとすれば、「我々が進化的に経験してこなかったことは、そもそも道徳的に解釈されることはなく、理性的にしか判断し得ない」ということを言い換えると、「我々が進化的に経験してこなかったことは、感情次第でどんな判断もありうる」ということになるだろう。
例として、胚性幹細胞(ES細胞)の研究を考えてみよう。胚性幹細胞は様々な研究や治療に役立つ細胞であるが、ヒトの受精卵から作られるために、倫理的な問題を抱えており、現在対立が生じている。研究者やこれにより治療が可能となるかもしれない難病を抱えている人はこの研究を推進している。彼らは、胚性幹細胞には倫理的問題があるかもしれないが、適切に規制すれば大きな問題にはならないし、それよりも胚性幹細胞を用いることによる利益の方が大きいと主張している。一方、ヒトの命を道具として使うことは許されないとする宗教者などは、このような主張を命の価値を軽視するものとして退けている。なぜこのような対立が起こるのであろうか?
その答えは、先ほどの考え方を援用すれば、胚性幹細胞のことなど人類は進化的にははほとんど経験してこなかったので、それに対する道徳的直観が存在しないからだ、ということになる。こういう場合に「理性的」に判断しようとすると、自分の利益の最大化を図る方向でロジックが組み立てられるので、結局、賛成派と反対派の議論は単なる利害の対立以上のものにならない。 感情次第でどんなロジックでも組み立てられるからだ。
我々が進化的に経験してきたこと(概ね数万年前までに存在した状況)においては、我々の道徳的判断はほぼ普遍的である。すなわち、小集団での食料の分配、傷病者の看病、命の危険が存在する状況における行動などは、国や文化が違っても、ほぼ同様の道徳的判断がなされる。しかし、(進化的な時間において)最近出現した、胚性幹細胞や中絶といった課題に対しては、国や文化どころか、それぞれの立場によって違う道徳的判断がなされ、場合によってはそれを「道徳的」と呼べないことも多い。それは、単に立場の違いを表しているだけのように私には思える。
私は、我々は進化的に経験してきたこと以外の道徳的判断はそもそも不可能である、という認識に立つことにより、これからの倫理学が成すべきことが見えてくる気がする。すなわち、倫理学がやるべきことは、我々の道徳的直観の修正ではなく、道徳的直観が働かない領域における対処法の構築ではないだろうか。
【事例3】と【事例4】をもう一度考えよう。困っている人を助ける、という我々の道徳的直観が目の前の人だけにしか及ばないというのは、現代社会においては既に不合理とも言える。そこで、もし我々が新しい倫理理論を作るとすれば、素朴には、【事例4】においても看過することは許されないとなるような理論を構築すべきと考えられる。しかし、そのような理論を現実感を持って多くの人が受け取れるかというと、私にはそうは思えない。
むしろ、現実的なのは、【事例3】と【事例4】を対比すること自体が間違いである、という答えを下す理論ではないだろうか。つまり、【事例3】は道徳的判断に関するものだが、【事例4】は道徳的判断に関するものでははない、と判断する理論の方が有用であるように思える。
つまり、【事例4】で寄付をすべきかどうかは、一見道徳的判断の範疇に属することのように思えるが、実は、「道徳」とは何の関係もない課題であると見なすのである。先ほど「道徳的直観が働かない領域における対処法」と書いたが、まさしく【事例4】は「道徳的直観が働かない領域」の課題であるというわけだ。こういった領域でどういう規矩を以て我々は判断すべきか、ということが問題になるわけだが、誤解しないでいただきたいのは、その「対処法」は決して「道徳的な」ものである必要はないということだ。むしろ、個人的には道徳的でない方が望ましいと思っている。
蓋し我々は、あまりにも多くのことを倫理的、道徳的に捉えることに慣れすぎている。そして、本来倫理的、道徳的な判断ではないものまで、そうであると誤解しすぎているのではないか。私は、これからの倫理学は、その扱う対象を厳密に定義し、扱う範囲を狭めるべきだと思っている。そしてそれ以外の領域で社会的に価値判断を行わなければならない場合は、それが「政治的判断」に過ぎないことを我々は明確に意識すべきだし、倫理理論はそう明言しなくてはならない。
胚性幹細胞にしろ、中絶の問題にしろ、それを何らかの形で法制度で規制することは、その問題に対して道徳的判断を下したわけではないし、その判断が社会全体の構成員で共有されているということでもない。ただ、政治的に決着しただけの話ではないだろうか。
しかしながら、「道徳的直観の及ばない範囲では、政治的判断に任せましょう」というだけでは何の解決にもならない。現代社会とマッチしない我々の道徳的直観を、我々自身がどう調停していくのか、という課題に何も答えていないのだ。だから、私は「道徳的直観が働かない領域における対処法の構築」が必要だと考えるのだ(私は本稿において、後にこの「対処法」について具体的な提案を行う予定である)。
【参考資料】
このブログでは既出であるが、我々の道徳的直観が進化的産物であるということについての研究の現状が総花的に(?)まとめられているのが、マーク・D・ハウザーの「Moral Minds」である。この分野での研究が発展途上であることがいい意味でも悪い意味でも伝わってくる本である。
2011年1月6日木曜日
【善と悪】「市民感覚」と倫理理論
人間に道徳的直観が本能的に備わっているのならば、それは一体どういうものだろうか? これからの倫理を考えるに当たっては、人間の本能的機構の解明をしなくてはならないが、実はこの点はまだあまり研究が進んでいない。
1735年にヒュームが「人間本性論」で述べたように、「『人間性』という論究は人間についての唯一の学問である。しかし、これまで最も無視されてきた」。これは、残念ながら21世紀になっても依然として真実であるといえよう。我々は、「人間性」がどういうものなのか、まだ十分に知らない。どこまでが本能によるもので、どこからが文化的所産なのか、まだ十分に知らないのである。
ある意味では、我々の本来の(つまり生まれつきの)「人間性」というものが完全に解明されたとしたら、倫理学という学問はほぼ完成されてしまうと言えるだろう。というのも、倫理学というのは、ある意味では人間本性を知るための学問だからである。
例えば、既に述べた次の事例について考えてみよう。
そのため、「素朴な功利主義」に対する多くの人の感想は、「その理論はどこか間違っているのではないか、何かおかしい所があるのではないか」というものになる。そういう道徳的直観を、ここでは「人間性」というややこしい用語を避けて「市民感覚」と呼ぶことにしよう。
あらゆる倫理理論の最初の試金石は、そういう「市民感覚」である。
義務論では、仮に結果的に最悪の事態を招いたとしても、その意図が善なるものであれば、その行為は善であるとされる。しかし、本当に善なる意図を持った行為なら、どんな結果になっても善と呼びうるのだろうか? 卑近な例でいうと、「ありがた迷惑」なことをしてくれる人の行為を、本当に善と言い切れるのだろうか?
また、功利主義では、より大きな幸福のためであれば、小さな不幸は看過しうるというが、5人を生かすために無実の1人を殺すことが正当化されるのだろうか?
「市民感覚」は、これらの疑問に対して、「やっぱり何かおかしいんじゃないか」と答えてきた。だからこそ、素朴な義務論や功利主義は幾多の修正を経てきており、現在では「市民感覚」では簡単には反駁できない理論武装が施されている。
普通の科学ではこういうことはない。間違っているのは「市民感覚」で、正しいのは「科学」の方だった。「市民感覚」では、地球が太陽の周りを回っているのではなく、太陽が地球の周りを回っている。科学史を繙けば、直観的には正しくないと思われる理論が実は正しかったという事例を、いくらでも見つけることができる。
しかし、倫理学においては、理論的な完成度や無矛盾性よりも、「市民感覚」に合致する価値判断ができるかどうか、ということがまず重要である。誰にも正義とは思われないような行為を正義であると判断するような倫理理論に、何の価値があるだろうか?
とはいうものの、価値判断が「市民感覚」と全て合致するような倫理理論があったとして、その理論は倫理学の完成形なのかというと、そうともいえない。その理論は、単に「市民感覚」と呼びうるような多数派の倫理観を追認しているだけであり、その奥にいかに深い哲学的裏付けがあったとしても、知的な前進のあるような理論ではないのである。
一方で、先ほど述べたように、「市民感覚」と全くかけ離れた理論にもまた価値はない。であるとすれば、我々が希求する倫理理論(なるものがありうるとして)は、「市民感覚」と全て合致するわけではないが、全くかけ離れたものでもない、その中間の何かであるということになる。
そもそも、倫理学というものは、社会のあり方についての学問でもある。我々は現代社会に生きる人間としての倫理を構築する必要があり、本能的に備わっている道徳感覚を全て追認するだけで済むと考えるのはナイーブ過ぎるだろう。米国の哲学者ダニエル・C・デネット(1942-)が述べたように、「ほとんど誰にでもできることは1000倍にも増えたのだが、なすべきことについての道徳的理解は同じようには増えていない」のである。
1735年にヒュームが「人間本性論」で述べたように、「『人間性』という論究は人間についての唯一の学問である。しかし、これまで最も無視されてきた」。これは、残念ながら21世紀になっても依然として真実であるといえよう。我々は、「人間性」がどういうものなのか、まだ十分に知らない。どこまでが本能によるもので、どこからが文化的所産なのか、まだ十分に知らないのである。
ある意味では、我々の本来の(つまり生まれつきの)「人間性」というものが完全に解明されたとしたら、倫理学という学問はほぼ完成されてしまうと言えるだろう。というのも、倫理学というのは、ある意味では人間本性を知るための学問だからである。
例えば、既に述べた次の事例について考えてみよう。
【事例2】あなたは外科医である。今、電車事故で5人の重傷者が運び込まれた。5人は心臓や肝臓など、それぞれ違う臓器を一つずつ致命的に損傷している。しかし、その時血液検査に来ていた5人とは無関係な男の臓器を5人に移植すれば、その男は死んでしまうが、5人を助けられることが分かった。あなたは外科医として、1人を犠牲にして5人を助けるべきかどうか。さて、この事例を「素朴な功利主義」で考えると、5人を助けることができるのだから、1人を犠牲にすることは正しい、という価値判断が成立しうる。しかし、多くの人は、その価値判断に賛同しない。この状況では、無関係な1人を犠牲にすることは絶対に許されないと感じるのが普通である。
そのため、「素朴な功利主義」に対する多くの人の感想は、「その理論はどこか間違っているのではないか、何かおかしい所があるのではないか」というものになる。そういう道徳的直観を、ここでは「人間性」というややこしい用語を避けて「市民感覚」と呼ぶことにしよう。
あらゆる倫理理論の最初の試金石は、そういう「市民感覚」である。
義務論では、仮に結果的に最悪の事態を招いたとしても、その意図が善なるものであれば、その行為は善であるとされる。しかし、本当に善なる意図を持った行為なら、どんな結果になっても善と呼びうるのだろうか? 卑近な例でいうと、「ありがた迷惑」なことをしてくれる人の行為を、本当に善と言い切れるのだろうか?
また、功利主義では、より大きな幸福のためであれば、小さな不幸は看過しうるというが、5人を生かすために無実の1人を殺すことが正当化されるのだろうか?
「市民感覚」は、これらの疑問に対して、「やっぱり何かおかしいんじゃないか」と答えてきた。だからこそ、素朴な義務論や功利主義は幾多の修正を経てきており、現在では「市民感覚」では簡単には反駁できない理論武装が施されている。
普通の科学ではこういうことはない。間違っているのは「市民感覚」で、正しいのは「科学」の方だった。「市民感覚」では、地球が太陽の周りを回っているのではなく、太陽が地球の周りを回っている。科学史を繙けば、直観的には正しくないと思われる理論が実は正しかったという事例を、いくらでも見つけることができる。
しかし、倫理学においては、理論的な完成度や無矛盾性よりも、「市民感覚」に合致する価値判断ができるかどうか、ということがまず重要である。誰にも正義とは思われないような行為を正義であると判断するような倫理理論に、何の価値があるだろうか?
とはいうものの、価値判断が「市民感覚」と全て合致するような倫理理論があったとして、その理論は倫理学の完成形なのかというと、そうともいえない。その理論は、単に「市民感覚」と呼びうるような多数派の倫理観を追認しているだけであり、その奥にいかに深い哲学的裏付けがあったとしても、知的な前進のあるような理論ではないのである。
一方で、先ほど述べたように、「市民感覚」と全くかけ離れた理論にもまた価値はない。であるとすれば、我々が希求する倫理理論(なるものがありうるとして)は、「市民感覚」と全て合致するわけではないが、全くかけ離れたものでもない、その中間の何かであるということになる。
そもそも、倫理学というものは、社会のあり方についての学問でもある。我々は現代社会に生きる人間としての倫理を構築する必要があり、本能的に備わっている道徳感覚を全て追認するだけで済むと考えるのはナイーブ過ぎるだろう。米国の哲学者ダニエル・C・デネット(1942-)が述べたように、「ほとんど誰にでもできることは1000倍にも増えたのだが、なすべきことについての道徳的理解は同じようには増えていない」のである。
【参考文献】
デイヴィッド・ヒュームの「人性論」は、哲学を人間性から再構築するという哲学史上でも最大級の意欲作であり、個人的に哲学考究の出発点となる書であると思っている。しかし、発表当初はほぼ黙殺された。日本人もドイツ観念論はよく勉強するが、ヒュームにはあまり注目しない。哲学に興味を持つ人全てにお薦めしたい本である。英語では全てが公開されているが、日本語では現在は抄訳版しか手に入らないのは誠に残念である。
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